静かな空間
休日、早朝の音楽室。
当然人が大勢いるようなものではなく、僕がぽつんと一人座っているだけの広い空間の静けさに、小部屋から漏れ聞こえてくる、くぐもった、それでいて艶やかともいえるような彼女の吹くフルートの音色が遠くの音のように小さく響くのみ。
吹奏楽部の活動のために、ほかの部員が来るまでの少しの間。この空間で静かに読書をするのが一番の安らぎの時間だった。
時折、僕の手元でページのめくられる音が鳴る。
それらの音は調和しているのか、相反するものなのか、なんともわからない。
……ただ一つ、言えるとしたら、僕は、この時間が大切で、守りたいものだと思っている。あわよくば、このまま、ずっと──
「おはよーございます」
当然、続くはずはなく、そんな不躾な挨拶に、いとも簡単に壊されしまう。
挨拶をしているのに不躾だとか、だいぶ理不尽なことを言っている自覚はあるのだ。いくらこの時間が好きだからといって、それを壊す奴に怒りをぶつけるのはお門違いも甚だしい。相手は『当たり前』をしているだけなのだから。
後輩の女子のよく通る挨拶が音楽室中に木霊すると、それを追うように静けさが音ならぬ音を鳴らすように、より顕著に感じられて、渋々静寂を破るように挨拶を返す。
「おはよう。早いな」
〝今日は〟付け加えそうになったのを辛うじて引っ込める。余計なことは言わないが吉なのを知っているから。
「……先輩。『今日は早い』って、顔に書いてありますよ」
「……」
何故バレたのだろうか。意外にも、僕は顔に出てしまうタイプらしい。
僕が何も返さずに下を向いたのを確認して、呆れたように自分の席、僕からみて右後ろに、背中を向けるように座る。
気づけば、先ほど中断されたフルートの音色が、再開されていた。
そうして、また同じような静かな時間。
しかし、それは似て非なるもの。僕はこの時間が来る日は、その一日を憂鬱に過ごさざるを得ない。それくらいにはこの時間が苦で、そんな沈黙だった。
はっきり言って気まずいのである。
──だが、今日この日は違ったようで。
「先輩」
突然自分の肩越しに現れた生首が横目に見えて、思わず声も上げずにビクリとする。そんな僕の様子に困ったような表情でこちらを見る顔。言わずもがな、先程の後輩だ。
僕はこんな反応をしてしまった恥ずかしさを隠すように本に栞をのせながら「何」と、自分でも冷たいなと思うくらい低めの声で問うた。
「いや、その本。何読んでるのかなって」
そんな声に後輩は実にあっけらかんとした様子でそう返すものだから、少しムッとしてしまい、思わず「見ればわかるだろ」と再び冷たくあしらおうとして、自分が本には必ずカバーをする人間だということを思い出した。
「……これ」
仕方なく、表紙につけていたカバーをゆっくりと外し、題名だけが見えるようにして、すぐに戻した。
そうやって若干冷めたような対応をし続けているのに、こいつは変わらずきょとんとした顔。それが素の、いわゆる真顔なのだろうが、申し訳ないが、なんだかマヌケだ。
すっかりカバーで見えなくなった本に顔を向けたまま、目だけで真横の顔をじっと見ていると、ふいに相手の瞳がきょろりとこちらに向いて目が合う。
慌てて視線を外す直前、キラキラと見開いた目と、好奇心でいっぱいだというような顔を見て、嫌な予感がした。
「題名、読めません。砂浜の……かい、なんたら?なんて読むんですか?」
さほど嫌な予感でもなかったようで安心したが、まだ話が続くのかと、少し辟易した。
「邂逅だよ、かいこう。確か、出会うとか落ち合うとかそういう意味だったと思う」
「へー」
自分で驚くくらいに、面倒な説明が口をついてすらすらと出ていった。意外とこういうことを聞かれるのは嫌いではないのかもしれない。そう、人知れず、自己認識を改める。
しかし、それに対する後輩の反応は本当に興味があるのか疑いたくなるもので、僕は不機嫌そうに「もういい?」とだけ聞いて、有無を言わせずに前を向き直って本を開く。
「どういう話なんですか?」
……こいつもつくづくしつこい奴だ。言外にもう話したくないと言っているのがわからなかったのだろうか。そんな考えをもういっそのこと本人にぶつけてしまおうかとも考えるが、本当に無邪気な好奇心しかなさそうな目を向けられると、どうしてもこちらが悪いように思えてしまう。
「……子供の頃約束した砂浜で、主人公と友人が再会する、みたいな話だよ。タイトルの通り」
「へー。主人公って男ですか」
「そうだけど」
「友人は?」
「女だよ」
「へー……」
一通り疑問を投げた後に、何やら考え込むように若干間抜けな顔をして視線を宙に彷徨わせる後輩。
本当に何が知りたいんだろう。そんなことを聞いたって大して興味はないんじゃないだろうか。へー、しか言わないし。
コイツはいつも、人の話を聞いているのか分からない。
「じゃあ、恋愛小説ですね」
突然口から出てきたような、後輩の突拍子もない、そんな一段と明るい声音とその言葉にギョッとして振り返る。そうすれば、満面の笑みでとても楽しそうにしている後輩がいるので、嫌になってしまう。
「い、いきなりなんだ。恋愛小説が好きなのか」
「いや、先輩も『恋愛』って付くものを好き好んで読むんだなーって、なんか感心?しちゃって」
なんだか、無性に恥ずかしくなって、振り向いたかたちの体を正面に戻す。
なんだよ、感心って。お前は僕の親か教師か?それに、僕が恋愛小説を静かに読んでいるのはそんなにおかしいのか。それを言うなら、君みたいなぼけっとした人が本に興味を持ったことを、僕はおかしく感じるんだが。
そんなことを頭の中の自分が早口気味にまくしたてるが、それ以前に、だいたい、
「これが恋愛小説だとは限らないじゃないか」
「えっ、違うんですか」
いきなり餌を奪われた犬のような顔を向けてくる。
「いや、まだ読み始めだからわからないけど」
「謎とかがあるんですか?殺人事件が起こるとか。ミステリー系?」
「いや、違うけど──」
「じゃあ、恋愛小説じゃないですか」
こいつの小説の定義は謎と恋しかないのか?
「ほかにだってあるだろう」
「友情系とか、ですかね」
「そう、そういうの」
「でも、男女間の友情なんて成立しないって聞きますよ?その二人は好き同士だったり、もしくは片思いとか……。あ、付き合ったりとかしないんですか?」
「……いや、わかんないよ。読み始めだし」
「きっと、なりますって」
キラキラと輝く目を楽しそうに細めて、自信満々にそう断言してのけた。
その自信はどこから来るのだろうか。きっと脳からではないだろう。
僕は「じゃあ、そうかもね」と半分諦めるように力なくそう言って、いつの間にか後輩を向いていた身体を正面の机に戻し視線を落として、逃げるように本を開く──開こうとして、
「ねぇ──」
「うわあっ」
正面からいきなり声をかけられ、驚きのあまり声と体を跳ねさせる。
「……なにも、そんなに驚くことないじゃん」
声のした方向を動揺のこもった目で見ると、そこには、自分を困ったように見る知った顔があった。
「ご、ごめん……」
「いや、謝んないでよー。私がいじめてるみたいじゃん」
そう、笑いながらこれまた困ったように言ってくる彼女に、言葉が出ず、「あ、うん」とだけ言って、恥ずかしさに彼女の顔が見れずに浅く俯き、会話が途切れる。
机を一つはさんだ彼女の右手には銀色に光るフルートが握られていた。僕はそれを見て、先ほどまで奏でられていたはずの音が、すっかり聞こえなくなっているのを、今の今まで気づかないでいたことに歯噛みするのを必死に堪えていた。
僕の様子にますます困ったような様子になる彼女。
「まったく……」
そう呆れるように言った後、「あぁ、そういえば」と切り出して、話を続けた。
「さっきは何はなしてたの?練習してたら声聞こえてさ。二人が喋ってるところって殆ど見かけないからさ。あんまり珍しい声同士だったから、つい気になって訊きに来ちゃった」
「「……」」
彼女の質問に、すっかり黙りこくった僕と後輩。
後輩のほうは分からないが、僕はというと「げっ」と、そう思っていた。彼女がそんなことに興味を持つなんて思ってもいなかったのだ。それに、僕が後輩に対して存外冷たく接していたと分かれば、彼女になんて思われてしまうのか、そんなのは考えたくもなかった。
そうやって僕がじっと考えていると、意外にも口を開いたのは後輩だった。
「いえ、別に。ただ、先輩と世間話をしていただけですよ。今日は天気がいいですね、とか。その程度の会話です」
驚いた。
後輩が僕と話していた内容を意図的に隠すような、誤魔化しているような、言い訳しているようなことを言ったことに、激しい驚きを感じた。いや、世間話というのも本当といえば本当で、後輩にとっては、軽いジャブのような会話だったのかもしれない。
そんな後輩の返しに、彼女はなにやら納得が言っていない様子。確かに真実を知った僕からすると少し言い訳がましすぎるように感じたが、彼女はそんなに僕と後輩の『世間話』が気になるのだろうか。……悪い気はしないのは何故だろう。
「今日は曇りだけど」
「……さっきのは例え話ですよ。そんな感じの、私達も思い出せないような取るに足らない会話ってことです。あぁ、それと、昨日の金管セクションのことも話してたかな」
彼女の妙な突っかかり方に危なげなく返す後輩。僕は別に話していた内容自体を隠そうとは思っていないが、少しひやひやする。
それにしても、昨日のことなんて僕との間の話題にも上がっていない。これはまるきり嘘だ。
だが、この話に関しては、彼女が木管パートで金管には不可侵を貫いているのもあり、彼女もこれ以上は言及できない。そもそもしようともしないだろう。
その証拠に、彼女は「そう」とだけ答えて、先ほどまでいた音楽室の小部屋に戻ろうと踵を返す。
「あ、そうそう。これだけは言っとかないと」
僕の後輩に対する態度がバレずに済んだことに胸をなでおろしているときに声がかけられ、ギョッとして彼女に視線をもどす。そうして見えたのは、立ち止まって振り返った姿の彼女。
ニッと笑って僕のことを視界に納めると、彼女は、
「今日の帰り。ちゃんと約束守ってね?」
とだけ言って、すぐにまた前を向いて小部屋に入っていった。
暫くせずに響いてくる、先ほどと同じフレーズの、くぐもったフルートの音。
「なんだ、そのことか……」
何を言うのかと思えば。すっかり力が抜けた僕は、そのまま机に突っ伏した。今顔を誰にも見られたくないという思いもあった。きっと、すごく気味悪がられる。
「先輩。……先輩?」
真後ろで一回と真横で一回、僕を呼ぶ声が聞こえた。そのままの体勢でちらりと盗み見るように横を見れば、僕を覗き込むようにした後輩の姿がまた、見えた。
「……どうしたの」
力なくそう呟けば、意外にもしっかり聞こえたようで、心配するような目の前の顔が後ろへ引いていった。
「先輩って、安藤先輩と仲良かったんですか?ちょっと意外です」
安藤先輩。彼女のことだ。別に、彼女とは同じクラスでもあるというだけで、特段仲が良い訳ではない、と思う。本当は僕だってそう思いたいが。
「いや。どうして?」
「えっと。別にどうしてってことはないですけど……。ただ、さっきの安藤先輩の言葉的に、先輩達、なにか約束をしてたっぽいから。それに、一緒に帰るんだなーって」
案外と、ちゃんと人の言葉を聞いてるんだなと、何故か感心してしまった。いや、あんな言い方だったら印象には残るか。
顔を上げて、なんだかあらぬ邪推をされている気がして、顔が崩れるのを必死に抑えながら努めてなんでもないように返す。
「別に。ただ、この前のテストで点数が低かったほうが、高かったほうに奢るって賭けをしていただけ。いつもあっちが上で、結果は分かりきってるのに、ずるいよな」
「……なるほど」
そこまで自分で言って、動揺するように早口なのを自覚する。少しぎこちなかったか。
「で。〝一緒に帰る〟んですねっ」
「え?うん。奢るからね。今日はたまたま」
「へー……」
出た。お得意の『へー』だ。興味がないのなら聞かないでくれよ。
「もういい?」そういって、さっきと同じように身体を前に向きなおし、同じように本を開いて――
「ねぇ、先輩」
「……なに」
再び後輩に読書を阻まれる。
「先輩ってさ――安藤先輩のこと、好き、でしょ」
「……はぁ?」
何を出だすと思えば。半ば確信がかった後輩のその言葉に、僕は一瞬自らの視界が揺れたのを無視して、呆れるような声で疑問符を投げつけた。
「なにが?いや、どこが?どこにそんな要素があったんだよ」
「いや、あははっ。なんとなくですよ。女の勘ってやつですかね」
「なんだよそれ」
何を笑っているんだ。なんだかいきなり回転の悪くなった気がする頭で、コイツの態度が無性に腹立たしく感じた。
「いえね。先輩って、なんだか恋心とか知らなそうだなーって思って。結構初心そうだし。それで恋愛小説読んでるのが意外って思ったんですけど。安藤先輩のこと、気になってるっぽかったから、だとしたら別におかしくもないなって思ったんです」
やっぱり僕が恋愛小説を読んでることをおかしいって思っていたのか。
ひたすら楽しそうに、可笑しそうに話す後輩に、気温が突然上がったように感じた。
「……初心で悪かったな」
「いえいえ。先輩の恋心という意外な一面が知れて、良かったです」
ガガッと音を立てて立ち上がると、僕の顔を覗き込むようにしてそう言った。
「僕は安藤のことが好きなんて一言も言ってないぞ」
「そうでしたっけ?まぁ、じゃあそこはもう別にいいです」
言い切ると、すっかりいつものぼけっとした後輩に戻っていた。そのまま、楽器庫のほうへ足を進める。
そうして、少ししたところで、僕に振り返る。奇しくも、安藤が振り返った場所と同じ位置だ。
「そうだ。先輩が読んでるそれ。読み終わったら貸してくださいよ」
後輩から出た言葉は意外過ぎるもので、本なんて読みたがるのかと驚くとともに、自分が今読んでいる物に興味を持ってもらえて少しうれしくもあった。
「読みたいの?読み始めたばっかりだから結構貸すのに時間かかるかも。何なら読む前に貸すよ?」
僕は読むのが遅いから。そういって、本から栞を抜き取って、後ろの机に置こうとすると、後輩はそんな僕を制止した。
「いえ。読み終わってから、貸してください。時間がかかっても大丈夫ですよ」
「そう」
眉を八の字にして、困るような表情でそういった。こんな顔は珍しい気がする。あまり僕がコイツのことを知らないだけだろうけど。
所在なさげに宙をさまよった手の上の本は、再び僕の前に戻った。
後輩はそのまま楽器を取りに行くかと思われたが、先ほどの言葉に付け足して、「そのかわり」
「何ヶ月先でもいいですから、絶対に忘れないでくださいね」
――先輩と私との〝約束〟です
そう言った後輩の笑顔は、今日の、今までのどれでもないようなもので、当然今までに見たことのない顔だった
思わず心臓が跳ね上がり、すっかりいつもの後輩になって楽器庫へ歩きなおした彼女を、何かに掻き立てられるように椅子を倒しながら立ち上がり、ピクリとも動いてくれない脚の代わりに手を彼女へと伸ばし、声を、出そうとした――
「おはようごさいまーすっ」
その元気な挨拶が聞こえると、伸ばされた手は力なく下ろされる他なかった。
それを火種にしたように、次々と挨拶が聞こえてくる。壁にかかっていた時計を見れば、時間は八時四十分をまわっていて、後二十分で部活開始というところだった。
先ほどまで自分と後輩の声、遠くから響くようなフルートの音色が聞こえるばかりだった音楽室は、今来た大勢の人たちでうるさいくらいに賑やかになっていた。
そうすると、不思議なもので、先ほどまで杭を打ったように動いてくれそうになかったこの足は、元からなんともなかったように動いてくれて、倒れた椅子を元に戻してゆっくりと大儀そうに座る僕の姿をつくった。
見れば、後輩はいつもの仲良し組の子達と楽しそうに話していて、何も無かったみたいだ。
――僕は、人が大勢来る前の、彼女が早めの練習の音をさせている音楽室が好きで、土日には、読書をしてそれを楽しんでいる。その安らげる静かな心の支えともいえた。
だけどもう、僕の心の中のどこにも、静かな空間なんてなかった。
初投稿です。
自分でも書いていてジャンルが分からなかったので、とりあえずそれっぽい『スクールラブ』と『青春』をキーワードに入れてみました。




