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藤木川のさざ波

作者: 吉田 逍児

 湯河原は寒椿の咲く季節が奥ゆかしくて素敵だ。藤木川に沿った湯河原の温泉町は温暖の地と言われているが、厳しい冬の日もあれば、灼熱の夏の日もある。そんな湯河原の温泉町に一番先に春を告げるのが寒椿である。その寒椿の色鮮やかな花弁が開くと、鶯や目白などといった小鳥たちが、こちょこちょと動き出す。特に寒椿の真紅の花は、あたりを動かす不思議な力を持っている。湯本美雪は、その寒椿の花枝を番頭の喜八から受け取り、自分たち夫婦が経営する『湯本荘』のあちこちの部屋や廊下や玄関に飾った。『湯本荘』は旅館としてはそれほど部屋数は多くは無いが、料理が美味いということで、そこそこの評判をいただいている小旅館だった。馴染みの利用客が結構多く、湯河原では歴史も古い家柄であった。美雪の夫、湯本公平は隣町、真鶴の磯村家の次男で、現在、『湯本荘』の社長をしている。町役場に勤めていたが、美雪の父、泰造が大病してから、親戚の勧めで、温泉旅館の婿に納まった。いわゆる婿養子である。婿入りしてしばらくすると、義父の泰造が亡くなり、公平が社長となった。美雪の母、房代はまだ健在であったが、泰造が亡くなると、茶道や書道をたしなみ、湯河原駅近くのマンションに移り住み、温泉旅館の方は、娘夫婦に一任していた。美雪と公平の間には、由香という一人娘がいるが、家にいることは少なかった。由香は駅近くの祖母のマンションから小田原の高校に通い、旅館には週に一、二度、顔を見せる程度であった。小遣いをせびりに来るのが主な目的だった。従って、美雪の日課は、娘に手がかからず、接客への心配り主体の毎日であった。単調といえば単調だった。とはいえ旅館の女将となれば、やることが多く、忙しい。部屋の予約受付、部屋の割り当て、食事の準備、大浴場や露天風呂の点検、お茶菓子等の仕入れ、布団の上げ下げ、部屋掃除、浴衣やタオルの準備、クリーニング、会計等々、ほとんど暇無し。だが美雪ひとりで、総てをやっているわけでは無い。食膳については板長の村上貫治が、その一切をまとめていてくれたし、宴会場や客室のことは、女中頭の喜代が取り仕切ってくれた。土産売り場とバーは、中学時代の同級生の英子に任せた。風呂や脱衣場やボイラーのことは政吉が熱心に行い、庭掃除と送迎バスなどの外周りのことは公平と喜八が担当した。また部屋に飾る生け花の材料は、竹屋の庄介が、季節季節に合わせて届けてくれた。従って美雪の仕事は忙しそうでいて、それ程、満杯で無かった。月に二度、第一水曜日と第三水曜日に宮下の生け花教室に通う余裕があった。その生け花教室は、結婚前の娘から六十過ぎの老婦人までの生徒が十五人程、通う教室であった。そこに通うと、湯河原のニュースが手に取るように跳び込んで来た。夫、公平の活躍ぶりも耳にすることが出来た。公平は温泉旅館『湯本荘』の社長であるばかりでなく、温泉組合の理事をしており、湯河原を〈相模の小京都〉にしようと、県や郡の観光協会に働きかけるなど、懸命に活動していた。オーナーズ・クラブのリーダー格に持ち上げられ、湯河原町の旅館、不動産会社、レストラン等の経営者、町内の医者、商店街の店主たちとボランティア活動に専念し、旅館のことは、ほとんど美雪に任せっきりだった。そんな公平が民生委員の仕事を任され、ある女性の面倒をみているということを、美雪は知っていた。その女性は数年前に夫と離婚して、湯河原に引っ越して来た三十代の美人で、彼女には可愛い五歳の娘がいた。ぐうたらな夫と別れ、湯河原に来たものの、働き先が無く、生活に困って役所に連絡したら、公平が相談員として訪問したというのが、そもそものきっかけだった。公平にはお人好しのところがあった。その女性の暮らすオンボロアパートに訪問し、ひどい旦那と離婚して、娘と二人、生活に困っている実状を、涙顔でこんこんと二時間もこぼされたものであるから、全く可哀想で暗い気持ちになってしまい、寄り添って生きる母と娘に、深く同情してしまった。華奢な母と幼い娘は、これからどのようにして生きて行くのだろうかと、憐憫の情が湧いて来て、その場で彼女、石崎友江の就職先探しの相談に乗ってしまった。公平はその場でオーナーズ・メンバーで最も親しい丸山栄一に電話して、強引に彼女の採用を要請した。栄一は高校時代からの親友である公平からの頼みとあって、見ず知らずの友江を、翌日から自分の経営する和菓子屋『丸山』の駅前店で働いてもらうことを承諾した。友江親子は、目の前にいる公平の口利きとその実行力に、びっくりした。

「心配事があったら、民生委員の私に何でも相談して下さい」

 公平は格好良かった。この地にやって来て、就職口が無くて悩んでいたが、何とか暮らせる環境を見つけ出すことが出来て、地獄で仏に出会ったようだと、石崎友江は目に涙をにじませて喜んだ。

「時々、やって来るから安心して下さい」

 公平は、そう言って、アパートを出ると、義母、房代のマンションに行き、民生委員をしていて困っている女性がいると、友江親子のことを房代に話した。



          〇

 湯本公平は婿養子なのに、妻の美雪に余り相談もせず、行動的だった。翌朝、美雪に民生委員の仕事があるからと言って、石崎友江のアパートに行き、それから友江と娘の晴美を連れて、義母、房代のマンションに行った。公平の娘、由香はもう高校に行って、マンションの部屋にいなかった。房代は昨日、公平から民生委員として困っている人の娘を預かって欲しいと言われたので、それ程、驚きはしなかった。公平は義母に二人を紹介し、自分が民生委員として、この親子の相談に乗って、これから町役場に掛け合うので、保育園が見つかるまで、晴美を預かって欲しいと房代に依頼した。

「それは大変だわね。でも安心して。私がお嬢ちゃんを預からせてもらいますから」

「有難う御座います。助かります。晴美をよろしくお願いします」

「晴美ちゃん、いらっしゃい。お母さんが帰るまで、お婆ちゃんとここで遊んでいましょうね」

「晴美。それじゃあ、お婆ちゃんと一緒に待っていてね。仕事が終わったら迎えに来るから」

「はあ~い」

「ではよろしく、お願いします」

 公平は友江と共に房代に深く頭を下げた。

「お役に立てれば嬉しいわ」

 房代は快く、晴美の面倒を引き受けてくれた。友江はほっとした。公平は義母の所に友江の娘を預けると、次に和菓子屋『丸山』の駅前店に友江を連れて行った。駅前に行くと既に丸山栄一が待ち構えていた。栄一は、友江を見るなり、ははあんと頷いた。『湯本荘』で彼女を使わない理由が理解出来た。朝の挨拶が終わると公平は先ず友江を紹介した。

「こちらが昨日、お願いした石崎友江さんだ。よろしく頼む」

「石崎友江です。よろしくお願いします」

 友江は、ひょろ長い和菓子屋『丸山』の社長、丸山栄一に深く頭を下げた。

「この店の社長の丸山です。よろしくお願いします。こちらは店長の菅原良子さんです。後のことは良子さんに教えてもらって下さい」

「はい、分かりました。よろしくお願いします」

 友江は再び頭を下げ、店長の菅原良子と店の奥に引っ込んだ。公平は昨日、友江に書かせた履歴書を栄一に渡し、彼女の身の上を説明し、何か問題あれば、自分が責任を持つと栄一に伝えた。そうこうしているうちに、店長の良子と友江が店に出て来た。良子に教えられ和菓子店の制服に着替えて店先に出て来た友江は実に目立った。それを見て公平は安心した。それから公平は栄一に言った。

「頼んだぞ」

 すると栄一は、うんと言って、立ち去る公平の尻をつねった。公平は友江を『丸山』に就職させると、その足で、町役場に行き、石崎友江親子の住む、町営住宅の申請と晴美の保育園の申請を行った。これらのことは、暫くの間、人に知られていなかったが、やがて人の噂となった。公平としては民生委員として当然の役目を果たしたまでのことであるが、その噂は美雪の耳にも入った。美雪はこの経緯を母の房代や娘の由香からあらかじめ聞いていたので、そのことを追求しようなどとは思わなかった。素知らぬ顔で日々を過ごした。女の嫉妬ほど見苦しいものはないと常々、思っていたからであった。



          〇

 湯河原宮上の温泉町には、昔ながらの温泉町の古い習慣が残っていた。立春の前日、山から下りて来る鬼を追い払う節分の行事は、温泉町に似合った雰囲気だった。『湯本荘』でも竹屋の庄介に手伝ってもらい、板長の貫治が焼いたイワシの頭を柊の枝に刺して、戸口戸口に飾って廻った。災禍をもたらす悪鬼を排除する為の昔からのまじないである。イワシには鬼の大嫌いな臭いがあり、柊はその嫌いなイワシを取り払われない為の棘のいっぱいついた魔除けであった。夕方になると、貫治が煎った節分の豆を一升桝に入れて、『湯本荘』の主人の公平が、旅館の屋敷のあちこちに撒いた。

「福は内!鬼は外!福は内!鬼は外!福は内!」

 声高く撒かれた豆を、従業員や家族の者が、それぞれ年齢の数だけ拾って食べた。豆の栄養によって病魔を追い払うのだという。その行事を終えると公平は美雪に、会合があるからと言って、宮下へ出かけた。美雪には夫が何処へ行くのか、行く先が分かっていた。公平が出かけたのは、石崎友江の住む町営住宅だった。訪れた公平を友江と娘が明るく迎えた。五歳の晴美が、節分の豆を持ち出して来て、公平に依頼した。

「おじちゃん、福は内して」

 可愛く笑って依頼する晴美に、豆の入った小さな桝を渡され、公平は『湯本荘』でしたと同様、町営住宅の玄関先で豆撒きをした。

「鬼は外!福は内!鬼は外!福は内!」

 公平の大声を聞き、晴美は手を叩いて喜んだ。今日の節分の日は晴美の誕生日でもあった。公平は部屋に入り、あらかじめ準備しておいたケーキと着せ替え人形とマフラーの入った誕生日プレゼントの袋を晴美に手渡した。

「これ、晴美ちゃんのへの誕生祝い」

「まあっ」

「おじちゃん、有難う」

 晴美はまるで父親からプレゼントをいただいたかの如く跳び上がって喜んだ。その笑顔を見て、公平は顔をほころばせた。晴美は着せ替え人形のプレゼントを開けていじくり出した。そうしているうちに友江が作った五目御飯や煮物、お刺身、野菜サラダなどのご馳走が、テーブルの上に並べられた。公平は客人として指定された席につき、シャンパンを開け、晴美の誕生日を祝った。

「晴美ちゃん。ハッピィ・バースディ!」

「有難う、おじちゃん。有難う、お母さん」

 晴美の感謝の言葉に大人たち二人は、今にも泣き出しそうな顔になった。公平は幸せを嚙み締める友江を見て見ない振りをしてビールを飲み、涙を堪えた。友江も一緒にビールを飲んだ。公平は食事をしながら、テーブルの下で、友江の足に手を伸ばし、そっと触れてみた。彼女は笑って公平の手を払い除けた。晴美がいるので、公平は、それ以上、何もすることが出来なかった。食事の後、イチゴとキューィを沢山載せたデコレーションケーキをいただくことにした。

「わぁつ、凄い!」

 友江がケーキの入った紙ボックスを開けると、晴美が、手を叩いて喜んだ。デコレーションケーキに皆でローソクを立てた。公平がローソクにライターで火を点け、友江が部屋の電灯を消して座る時、公平はようやく友江のスカートの中に手を入れることが出来た。晴美は暗闇の中のロウソクの灯りを見て、またもや手を叩いて喜び、ローソクの火をゆっくりゆっくり一つ一つ消した。公平が手を伸ばし指を差し入れた友江の股間は、既に濡れていた。それは彼女の喜びを公平に証明していた。

「電気、つけて!」

 晴美の声に公平はギクリとした。しかし友江はたじろぐ事無く、立ち上がり部屋の灯りを点けた。

「そんなに早く食べたいの。晴美ったら、本当に食いしん坊なんだから」

 友江は悪戯っぽく笑った。晴美は舌を出して横にいる公平を見て笑った。

「だって、このケーキ、とても美味しそうなんだもの。お母さん、晴美にここの所を頂戴」

 友江は仕合せだった。一人より、二人、二人より三人が良かった。公平と出会えた湯河原は、過去を捨てて生きて行けそうな町に思えた。晴美は小皿に分けられたケーキに、おたんじょう日、おめでとうと書かれたチョコレートを飾り、頬にクリームをつける程、夢中になって、割り当てられたケーキを美味しそうにいただいた。公平はビールと余ったシャンパンを飲みながら、孫のような晴美を見て楽しんだ。やがて満腹になったのであろうか、突然、晴美がこっくり、こっくりし始めた。そして見てる間に公平に凭れかかり、寝息を立てて眠ってしまった。友江は晴美を抱き上げ、隣室の布団に運び、晴美を寝かせつけた。晴美の寝息が暗号のようであった。二人は待ってましたとばかり素早く抱き合った。

「地獄で仏に会った気持ちです。私はもう、貴男のものです」

 友江が甘くささやいた。公平は動揺した。様々な事が脳裏を駆け巡った。勇気を出せ。これが自然なのだ。公平は勇気を出して友江と一体化した。それから二人は互いに内包していた愛を溢れさせ、愛を交感し、満ち足りた気分で、頂点まで昇りつめた。



          〇

 二月の末になると、温泉町の東側の峰を越えた新崎川の上流にある幕山の裾で、紅梅白梅の花が敷き詰められたように咲いた。岩山を背景にした梅林の開花の様は、さながら屏風絵を見るような絢爛華麗な風景で、沢山の観光客を湯河原に集めてくれた。新聞記事でも読んだのであろうか、東京に住んでいる美雪の大学時代の友人、藤原悦子が、『湯本荘』に突然、訪ねて来た。

「まあ、懐かしい」

 十年ぶりの再会であった。悦子の明るさは女子大生時代と、ちっとも変っていなかった。

「幕山公園、素晴らしかったわよ。大正琴の演奏や、芸者さんの舞など、たっぷり楽しませていただいたわ」

 藤原悦子は一人で幕山の観梅を楽しんでから、美雪に会いに来たという。

「水臭いわね。知らせてくれれば、私が車で案内してあげたのに・・・」

「家業の邪魔をするといけないと思って、黙って来てしまったの。お仕事、お忙しいのでしょう。ごめんなさいね。直ぐにおいとまするわ」

「何、言ってんの。ゆっくりして行って。しばらくぶりじゃあないの」

 美雪は悦子の来訪を喜んだ。早速、応接室に案内して、互いの近況を語り合った。話すことは沢山あった。悦子は現在、都内の貿易会社に勤めていて、夫は北京に駐在しているという。悦子の夫の藤原達也のことは、大学時代のゼミの仲間だったので、美雪も良く知っていた。

「卒業当時、成績優秀な美雪が、何故、湯河原に引っ込んでしまうのかと、不思議に思ったんだけど、こうして十数年ぶりに美雪に会ってみると、美雪には矢張り湯河原が似合っているってことが分かったわ」

「有難う。あの頃は随分、悩んだけど、納まる所に納まったのね。勇気が無かったんだわ」

 美雪は学生時代を思い浮かべた。あの時代は学生運動が盛んで、大学の授業をそっちのけで、ベトナム戦争反対のデモや、成田空港建設反対運動、学園闘争のデモに参加しまくった。当時、美雪には杉田英雄というゼミ仲間の恋人がいたが、余りにも過激すぎて、ついて行けなかった。彼は田舎育ちの純真な青年で、異性として、とても好きだったが、世間から白眼視されるような爆弾造りやリンチ事件を繰り返し、挙句の果ては海外に逃亡しようなどと美雪を誘うので、絶好となった。彼がアラブへ行ってしまうと、何もかもが空しくなり、落胆の日々が続いた。大学を中退しようかとも思った。そんな時、悦子と京子が美雪を励ましてくれた。

「ところで京子はどうしているの?元気かしら」

「京子もいろいろなこと体験しているみたいよ」

「どういうこと?」

 悦子は美雪の質問を待っていたかのように、喋ってはならない友人の秘密を洩らした。

「内緒よ。彼女、不倫しているの」

「不倫。それって夫への背信行為よ。京子もやるわね」

「別れられなくて困っているみたい。心で別れようと思っても、身体が別れたくないていうらしいの。そういう気持ちって、他人には分かってもらえないことだって言っているわ」

 京子には税理士である井上史郎という立派な旦那がいるというのに、どうして妻子ある男と関係したりするのだろう。美雪には理解出来なかった。確か京子には二人の男の子がいた筈だ。子供の事は考えないのだろうか。京子の気持ちが分からない。不倫して何が得られるというのか。失うものが途方も無く大きいと分かっていながら、京子は何故、不倫を止めようとしないのだろう。子供たちの為に、自分の過失を一時も早く清算しようとは思わないのだろうか。悦子の話は、まるで京子の不倫を羨望しているかのような話し方だった。美雪は夫、公平の浮気相手も、そんな気持ちで公平と対峙しているのだろうかと想像した。そう思うと、美雪の心は千々に乱れた。悦子は京子の秘密を喋り終えると、帰り支度をした。美雪は土産コーナーから湯河原名物の『万葉の月』を取り寄せ、悦子に持たせた。

「突然、来てごめんね。近いうちに東京で、皆と会いたいわね。その時は京子と待っているから必ず来てよね」

 悦子はそう言うと、美雪が喜八に依頼した送迎バスに乗って、宮上の『湯本荘』から帰って行った。



          〇

 桜の季節になると、竹屋の庄介が枝ぶりの良い桜の老木を持って来た。青苔のへばり付いた桜の老木は、『湯本荘』の玄関にある大きな壺に活けるのにふさわしい五分咲きの開花具合だった。その桜の老木の枝を庄介が何処から採取して来たのか、美雪には分かっていた。あの湯河原の庚申桜に相違なかった。その桜は庄介の家の裏山にある樹齢何百年という彼岸桜だった。木の高さ二十メートル、根回り七メートルの大樹で、その根方に沢山の庚申塔が並んでいるのを見たことがあった。あの時、桜の木の側にいた白髪の老婆が語ってくれた。人間の身体の中には三尸という三匹の虫が棲んでいて、人が隠している悪行を知ると、その虫は六十日に一度巡って来る庚申の夜に、人の身体から抜け出し、その悪行を天帝に告げ、悪行を行った者に病気を招き、その人の命を短くするという。その為、長生きしたいと願う人は、庚申塔を立て、庚申の日に、三匹の虫が身体から抜け出さぬよう、眠らずに一夜を過ごすのだという。そんな白髪の老婆から聞いた話の記憶があってか、美雪は、庄介が準備してくれた庚申桜の花のついた老木に畏怖を覚えた。その花枝に触れると、その見事さに酔いしれ、何故か死を連想してしまう。桜の木の下には屍体が埋まっていると言った詩人の直感が、幽艶妖美な情念となって美雪を襲う。美雪は独り言を呟いた。

「あの人はどうしているのかしら。こんな花冷えの夜、不意に訪れた風に桜の花が散るように、あの人はもう亡くなってしまったのかしら・・・」

 何処からか忍び込んで来る風が、少し冷たく感じられる夜、美雪は玄関の壺に桜の花のついた老木を飾った。花の精は美雪に杉田英雄を思い出させた。

「姫様、何か考え事でも?」

「いいえ」

 美雪は花活けを手伝う庄介を横目だ睨みつけた。庄介には美雪が戸惑っているのが分かった。

「用意した物が悪かったですか?」

「いいえ、素晴らしい桜よ」

「有難う御座います」

 庄介は美雪に確認して、再び桜の枝に向かった。庄介は、美雪の花の活け込みに立ち会うのが好きだった。自分の準備した花材が、美雪の白いたおやかな手によって、優しく整えられ、その花に合った花器の中に見事に収まって行く様を見ていると、自分が花を活けているような気分になった。そして、その出来栄えによって自分の気分も左右された。今日の美雪は、どうも何時もと違っていた。庄介が気に入つている桜の枝の部分を不必要な枝として、どんどん鋏で切り落とした。

「勿体無いですね。枝振りの良いところを・・・」

「庄介。活けているのは私よ。切るも切らないも私の勝手。黙ってて」

「申し訳ありません」

 庄介は哀しくなった。懸命になって高いところに登り採って来た桜の花枝が、丸裸にされて行くのが辛かった。しかし、美雪の言う通りだった。庄介には活け方をあれこれ指示する権限は無かった。相談されれば答えるが、それ以上のことは言えなかった。美雪は桜の花を飾り終えると、庄介に後片付けを手伝わせ、それから庄介を自分の部屋に呼んだ。

「お願いしたいことがあるの」

「何をでしょうか?」

「公平の噂、知っているでしょう。公平と友江さんのこと、調べてほしいの。お願い」

 庄介は公平に女がいることを、噂で知っていた。だが美雪が、その相手の名前まで知っているとは思ってもいなかった。

「姫様は俺に旦那さんを見張れというのですか。そんなことして、何になるんです。くだらぬ悩みが増えるだけです」

「あんたは何も分かっていないのね。私がどんなに苦しんでいるのか」

「分かっていますよ。でも男の浮気の一つや二つ、笑って済ませられないようじゃあ、『湯本荘』の女将さんとは言えませんよ。気になさらないことです」

「庄介!」

 美雪からの依頼を庄介が軽く受け流そうとすると、美雪が突然、庄介の両の手を握り締めた。真剣な顔をして、庄介の顔をじっと下から覗き込んだ。姫様は美しい。庄介は、しどろもどろになった。美雪が庄介に身体を寄せると、庄介は戸惑った。包み隠している男の欲望が沸き上がって来た。美雪が耳元で囁いた。

「私のお願い事を聞いてくれたら、あんたの好きなようにしても良いのよ」

「姫様」

「遠慮なんかしなくて良いのよ」

「とんでもない。そんな大それたことを・・・」

 庄介は狼狽した。幼少の頃から美雪は『湯本荘』の姫様と崇められ、気高くて、こちらから容易に近づけるような人では無かった。美しく、とても眩しい存在であった。それが今、しなやかな身体を自分に預け、目を閉じている。わずかに開いた椿の花のような唇は、あまりにも無防備すぎる。甘い匂いが庄介をいっぱいにした。庄介は欲望を抑えきれない恐怖に襲われ、部屋から一目散に逃げ出した。



          〇

 五月末になると、アカシアの白い花が風に舞う。その季節に湯河原では毎年、湯かけ祭が開催された。その祭は実に盛大であった。東京、横浜、小田原、熱海や、近隣からも沢山の見物人が押し寄せ、温泉街は大賑わいになった。温泉街の両側に大きな樽を並べ、その中に温泉の湯をいっぱいに張って、やって来る神輿に向かって、お湯を一斉にかける祭である。温泉街の人たちは神輿がやって来ると神輿をかつぐ若者たちにお湯をかけた。神輿をかつぐ若者たちも、見物人に向かってお湯をかけた。すると見物人も神輿の若者にお湯をかけて、お湯のかけ合いとなった。お互いに湯かけを楽しみ、熱気の溢れる祭となった。夕暮れになると祭は一層、活気を増した。湯河原の綺麗どころが担ぐ芸者神輿と女性だけで担ぐ体験神輿が、地元の神輿ともみ合い、華麗に乱舞した。湯かけをするたびに見物人がどよめき、祭は最高潮に達した。

「女将さん、始まりますよ」

 女中頭の喜代の言葉に、美雪は急いで外に出た。石段を降り、坂道を下り、観光会館の前の広場に行くと、一年間、使い古した温泉旅館の割箸が、山のようにいっぱい積み重ねられていた。見物人が、その割箸の山に何時、火が点けられるのか今か今かと待ち構えていた。灯りに照らし出されたその広場の人混みの中に、美雪は夫、公平がいるのを発見した。傍らに石崎友江とその娘が一緒にいるのを見て驚いた。友江については、和菓子屋『丸山』の駅前店で働いているのを、見かけたことがあるので、知っていたが、娘の晴美を見たのは、今回が初めてであった。その晴美と公平が手をつないでいるので、美雪の心は動揺した。美雪がカッとなったと同時に、割箸の山に火が点けられた。割箸の山は見る見るうちに激しい炎となって燃え上がった。その炎に燃える割箸の曲がりくねる姿を見ると、美雪の公平への怒りは激しく燃え上がった。夜空を焦がす祭火以上に、美雪の胸の内の炎の火力は、真っ赤に燃焼した。見物人のどよめきも、歓声も、もう、どうでも良かった。全身が怒りでガタガタ震えた。何処の馬の骨とも分からない女に夢中になるなんて。公平は何を考えているのか。竹屋の庄介の純情と比較して、公平の放蕩ぶりは許せない。庄介は美雪が身体を投げかけても誘いに乗らず、真っ赤な顔をして逃げ去った。そんな男がいるというのに、公平ときたら、妻の美雪に対して余りにも無頓着過ぎた。父、泰造が亡くなり、母、房代が駅近くのマンションに移ってからは、旅館の仕事の総てを美雪に押し付け、組合、法人会、オーナーズ・クラブ、民生委員を理由にして、飲酒、麻雀、女性といった遊びの毎日を繰り返している。旅館経営の苦労など、ちっとも理解せず、温泉街の人たちに笑われる存在になっている。それなのに公平は人目もはばからず、友江と一緒に祭火を見ているなんて。美雪にとって、幼い時から見て来た楽しい筈の湯かけ祭が、不愉快極まりないものとなった。美雪はいたたまれなくなって、急いで『湯本荘』に駆け戻った。女中頭の喜代が驚いた。

「女将さん。もう、お帰りですか?」

「とっても混雑していて、前が良く見えないの。面白くないから、帰って来ちゃった」

「それはそれは残念でしたね。麦茶でも、お入れしましょう」

「有難う」

 喜代たちに優しく迎えられても、美雪の胸の怒りは直ぐに収まらなかった。頭の中が混乱して、自分のやるせない鬱憤を誰かに分かって欲しかった。そこで春先、湯河原に尋ねて来てくれた大学時代の友人、藤原悦子を思い出し、電話した。

「悦子。元気?」

「元気よ」

「あれから、もう三ヶ月ね。京子のその後、どうなったのか知ってる?」

「知ってどうするの?」

「知りたいの。不倫の真理を・・・」

「美雪。何かあったの?」

 悦子は美雪の心の変化を、電話の中で察知した。不倫は夫への背信行為であると、お堅いことを言っていた美雪が、不倫の真理を知りたいなどと口にするなんて、どういうことか。

「友人から不倫の相談を受けて困っているの。私にはそんな経験ないから、何てアドバイスをして上げたら良いのか、分からないの」

「私だって、そんなに経験がある訳じゃあないし、京子のこと、あれこれ喋っても参考にならないと思うわ」

「その通りよね」

「そうだわ。京子に話してみるわ。あなたに会って、相談に乗ってあげてって。京子ならきっと素晴らしいアドバイスをしてくれると思うわ」

 悦子は自分の思い付きに、自分で感心しているみたいだった。そんな悦子と話しているうちに、美雪の心は癒されて行った。



          〇

 初夏、かって美雪が少女時代、漁師町として栄えていた湯河原は、今や昔の雰囲気は無くなっていた。吉浜海岸には海浜公園の他、レストランやマンションが立ち並び、すっかり若者の町に変貌していた。相模湾にヨットが浮かび、浜辺はサーフィンや海水浴を楽しむ若者たちでいっぱいだった。ビーチパラソルの間を、ビキニ姿の女性が闊歩し、マリンスポーツを終えた男性が、アロハシャツに着替えるなど、浜辺はカラフルに彩られていた。美雪にとって、そんな海岸近くに行くのは暫くぶりだった。ホテル『キヤッスル』の駐車場に自家用車を停めて、二階のレストランに入って行くと、井上京子が立ち上がって手を振った。

「こっち、こっち」

 京子の明るい笑顔と黄色いワンピース姿が、目に跳び込んで来た。京子の小麦色の肌が健康的で、長いソバージュの髪が、人目を引いた。水色のブラウスに紺のフレアースカートをはいた色白の美雪の姿とは、全く対照的だった。

「ごめんなさい。待たせてしまって」

「良いのよ。早く座って」

 京子は微笑し、手招きして美雪を迎えた。懐かしい京子との再会だった。

「この間、悦子から美雪に会うよう電話もらったの。タイミング、良かったわ」

「申し訳ないわね。こんなに遠くまで来ていただいて」

「丁度、良かったの。今夜から伊豆高原の別荘で過ごすの。その途中だから、気にしなくて良いのよ」

「まあ、私の所に泊ってくれるのでは無かったの?」

「彼が待っているの」

 平然とそんなオノロケを言う京子は仕合せそうだった。彼女はオレンジジュースを飲みながら、美雪を上から下まで、じっと眺めた。その視線から目をそらすように美雪は大きな窓ガラスの向こうの風景に目をやった。青空には一つの雲も無く、青い海がずっと広がっていた。海水浴場の方は、大変な賑わいぶりだった。ゴーカート広場も若者や子供でいっぱいだった。窓の正面には初島が見え、その遥か遠くに大島が、まるで浮かんでいるかのように眺められた。入って来た時に注文したアイスコーヒーが美雪の前に運ばれて来た。

「悦子から、あなたに不倫の手ほどきを教えるように言われたんだけれど、美雪、不倫したことないの?」

「うん。全く縁が無かったの。だから不倫の真理を知りたくて」

「本当なの?」

「うん」

「信じられないわ。不倫て素敵よ。愚かしい世間との約束事から抜け出して、全く別の世界を楽しむことが出来るんだから。でも、どうして不倫について知りたいの。悦子から友人に不倫の相談をされて困っていると伺ったけど、本当は、あなたに彼氏でも出来たんじゃあないの?」

 京子のその言葉に、アイスコーヒーにガムシロップを入れようとする美雪の顔色がほんのりと赤くなった。京子に何と答えるべきか、美雪は戸惑った。悦子に話したように、友人から不倫の相談を受けていると押し通すか、それとも夫の不倫で悩んでいると話すべきかを考えた。美雪はアイスコーヒーをストローでかき混ぜながら思い切つて京子に言った。

「夫の不倫で困っているの。どうしたら夫の不倫を止めさせられるか、教えてほしいの」

「旦那さんの不倫ね。私には答えられないわ。ただ言えるのは、夫婦の愛は単純だけど、不倫の愛は複雑で、理屈では割り切れないものがあるの。それが止められない理由だわ」

 京子は自分が経験している不倫の本音を美雪に語った。それが美雪には理解出来なかった。

「私には理解出来ない世界だわ。人妻と知っていながら付き合う男の気持ちも、それに応える人妻の気持ちも・・」

「何故?」

「だって、そんなに付き合いをしたいなら、離婚してから付き合うべきじゃあないかしら」

「あなたって、相変わらず真面目なのね。結婚は世間と交わした約束事。だけど何もそんなものに拘束されたり、繋ぎ止められることなど無いのよ。恋愛は自由だわ。私は家庭では良き妻であり、良き母を演じているけど、自由だわ。夫は夫。私は私。彼に愛され、彼を愛し、彼と共に歩いているわ。妻という仮面をつけた恋女よ。美雪も不倫をしてみれば。そうすれば不倫が分かるわよ」

「私には自信が無いわ。夫の相手は若くて美人なの。私がどう化粧したって、彼女に勝てっこないわ。その彼女が同じ町に住んでいるのよ。私はそれを黙って見ているしかないの。悔しいわ」

 美雪は唇を噛み締め、目にいっぱい涙を浮かべた。自分が情無くて仕方無かった。そんな美雪を見て、京子は微笑した。

「元気出して。美雪だって、まだ若くて綺麗じゃあないの。冒険をするのよ。冒険。不倫と言う冒険を・・・」

 京子の答えは美雪にも不倫せよという不倫賛美だった。彼女は喋りたいだけ喋ると、レストランの片隅で待っていた彼に合図して、彼の車に乗って去って行った。美雪はレストランの二階から伊豆高原へ向かって走り去って行く、オープンカーを見送った。



          〇

 台風シーズンになった。台風が確実に伊豆半島から関東地方に上陸するという予報であった。その台風の接近で、藤木川の渓流に沿った湯河原の温泉街を取り囲んでいる山林が、ゴウゴウと唸り声を上げた。旅館の屋根や窓ガラスが激しく震えた。美雪は従業員に指示して、雨戸という雨戸を完全に閉じさせ、一部の者を除いて、午後の四時に早終いさせた。泊り客には不都合なこともあろうが、それは我慢してもらうことにした。安全第一主義を考慮して対処した。番頭の政吉と女中頭の喜代夫婦が住み込みでいるので、心強かった。美雪は、海に近い駅近くのマンションにいる母の房代と娘の由香のことが心配になり、電話してみた。由香が電話口に出た。

「ああ、お母さん。凄い風よ。空が真っ暗。海では高波が荒れ狂っているわ。電車も止まっているわ。早引けして良かった。私もおばあちゃんも大丈夫よ」

「おばあちゃんに変わって」

「ちょっと待ってね」

 由香の声が消え、暫くして母、房代が電話口に出た。マンションの窓から、吹き荒れる海辺の町を眺めていたという。

「美雪。そちらは大丈夫?今回の台風は相当、暴れそうよ。戸締めをしっかりしてね。ここはマンションだから、激しい雨が窓ガラスに当たる程度で平気。安心だよ。公平さんによろしくね」

 母の言葉に、美雪は緊張した。夫、公平のことを忘れていた。公平が帰って来ていない。何処で何をしているのだろう。もしかして、石崎友江の所へ行っているのでは・・・。美雪の感は当たっていた。その頃、公平は友江の住んでいるオンボロの町営住宅のことが気になって、宮下へ出かけていた。雨戸が吹き飛ばされないように、外から釘で板を打ち付けたり、庭の排水を良くしたり、勝手口にブルーシートを被せたり、雨の中を雨合羽に長靴姿で、良く動き回った。『湯本荘』では考えられない働きぶりであった。民生委員は、そこまでやらなければならないのだろうか。友江の家の点検が終わると、公平は義母と娘のいる駅近くのマンションに立ち寄った。部屋の入口ブザーを押すと、由香がキョトンとした顔で公平を迎えた。

「夕方、お母さんから電話があったので、大丈夫と言っておいたのに、心配になったの?」

 その由香の言葉に公平は一瞬、戸惑ったが、笑って誤魔化した。

「おばあちゃんとお前が心細いのではないかと思って、やって来たんだ。これ非常食だ」

「まあ、こんなに沢山のパン」

 公平が雨合羽を脱ぎ、テーブルの上に食料品の入った袋を置くのを見て、房代がとても嬉しそうな笑みを浮かべた。

「公平さん、有難う。美雪には、ここはマンションだから安心だと言っておいたんだけど、実のところ、とても不安だわ。公平さん。今夜はこちらに泊っていったら」

「でも」

「こんな嵐の中、車の運転、危険よ。私が美雪に電話するから・・・」

 房代は直ぐに美雪に電話した。房代から電話を受けた美雪は、夫が母の所にいるのを知って一安心した。と同時に、今夜、夫が帰って来ないということで、何故か拍子抜けした。宿泊客も五組だけで、暇であった。仕事も終わり、時間をもて余し、眠りに誘われかかった時のことだった。玄関の方で誰かの叫ぶ声が聞こえた。暴風雨の中からの叫び声だった。

「夜分、済みません。開けて下さい!夜分、済みません。開けて下さい!」

 こんな時刻に、誰かが玄関のドアを叩いているようだ。美雪が身だしなみを整えていると、女中頭の喜代がバタバタと廊下を駆けて来て、美雪に相談した。

「どうしましょう。こんな台風の夜。断りましょうか」

 美雪は喜代の問いに対し、女将として決断せねばならなかった。どうしたら良いのか。このような台風の中、バス通りから、かなり長い石段を登って、『湯本荘』にやって来たということは、もしかして馴染み客かも知れない。美雪は答えを待つ政吉と喜代に答えた。

「開けて上げて」

 美雪の言葉に政吉が、一旦、閉めた玄関の大扉を少し開けた。すると青葉や木の枝を吹き飛ばす激しい雨風と共に、黒シャツの男が、リュックサックを背負い、ボストンバックを手に、玄関に転がり込んで来た。傘もささず、びしょ濡れだった。

「どうも済みません」

「あらあら、全身、ずぶ濡れだわ。喜代ちゃん、タオルを・・」

 次の瞬間、美雪は、あっと声を上げそうになった。男の顔に見覚えがあった。

「ごめん」

「どう致しまして。お泊りでしょうか」

「こんな時、驚かせて済みません。よろしくお願い致します」

 突然の来客に、喜代と女中二人が走り回った。男の部屋は別館の『桐の間』にした。喜代が差し出した宿帳に、男は雨竜英雄と署名した。美雪はその宿帳に書かれた彼の名前を確かめた。雨竜英雄。住所、東京都文京区駒込千駄木町。その名前と筆跡を見て、美雪は小刻みに震えた。名前も住所も嘘だったが、本人の香りが、その署名の中に含有されていた。来客の世話を終えた喜代が去って、美雪の今日一日の仕事は終了した。一人になり、布団に入ると、いっぺんに昔の思い出が押し寄せて来た。美雪は豪雨の吹き荒れる音の中でいろいろなことを考え、一睡もすることが出来なかった。



          〇

 四十歳過ぎの雨竜英雄が書いた住所は大学生時代の住所で、現在は住所不定だった。中東から帰国して、学生時代の友人の所を転々として来たが、一ヶ所に長時間、逗留することは出来なかった。昔の仲間は現在、ほとんどが、就職して結婚したりしているが、元過激派のメンバーということで、時々、捜査員の監視があるらしく、うかうか出来なかった。そこで思いついたのが温泉町だった。温泉町なら、人の入れ替わりがあり、監視の目も薄い。長逗留しても何の不思議も無い。湯河原は温泉町。『湯本荘』の女将、湯本美雪は自分を知っている。雨竜秀雄にとって湯河原は絶好の隠れ家であり、居心地が良さそうに思えたに違いない。かって湯河原は島崎藤村、夏目漱石、国木田独歩、芥川龍之介といった文人たちが逗留して、名作を生んだ温泉地である。著述業という名目で長逗留するには絶好の場所である。自分の正体を知っているのは、湯本美雪だけだ。彼女が黙っていてくれさえすれば、自分が何者であるか分かりはしない。美雪はそんな考えで湯河原にやって来たであろう雨竜秀雄との接触を避けた。だが昔の恋人が『湯本荘』に泊っていると思うと、美雪の胸の悩みは日々、苦痛へと変化した。京子が語った《不倫という冒険心》に、美雪の心は揺れ動いた。英雄と二人っきりで話をしたかった。五日後の夕食の後、美雪は耐え切れず、人目を忍んで、『桐の間』を訪ねた。

「君か・・」

「何故、ここへやって来たの?」

「君に僕が元気なのを見てもらいたかった。また僕の苦労話を聞いてもらいたかった。このままじゃあ、死にきれないから」

 英雄は美雪をじっと見詰めた。目の前の美雪は昔の美しさを保っていた。色気も増した。旦那がいるものの、満たされていないような感じがした。突然、現れた自分に遠い過去の幻影を求めているのか。あの熱かった青春時代、学生運動、千駄木町の喫茶店、遣る瀬無い恋、辛い別れ、沢山の思い出が、今、蘇っているに違いないなかった。自分の出現により、美雪は興奮しているように思えた。美雪は美雪で英雄の双眸の中に男の情念の炎が熱く燃えているのを感じ取った。美雪には、その炎が遠い過去から燃え続けている炎のように思えた。

「でも無事で良かったわ」

「有難う」

「あれから二十年。随分、苦労されたのでしょうね」

「ああ、いろんなことがあった・・・」

 英雄は美雪と別れ、アラブへ向かった日から、現在に至るまでの苦闘の日々を語った。ベイルートの青い空、パレスチナ解放勢力との共同作戦、クアラルンプール闘争、幾つかのハイジャック事件、イラン・イラク戦争、ソ連の崩壊、イスラム原理主義との協調、世界人民革命軍構想、そんな中での殺人行為の繰り返しなどなど。美雪は英雄から数々の体験話を聞いて、恐ろしくなった。何という生き様であろうか。英雄は、あの頃以上に、人が変わってしまっていた。幾多の苦難が、彼を冷酷非情な男に仕立て上げてしまったようだ。大使館爆破から大量殺人までの常軌を逸した行為は、許されるものでは無い。英雄は二十年ぶりの日本をこう分析した。

「日本人は浮かれている。もっともっと徹底的に刻苦研鑽すべきだ。政治経済の総てが、アメリカに握られているにもかかわらず、アメリカの仮想敵国への恐怖心のお陰で、滅びることも無く、安閑としている。世界で沢山の難民が苦しんでいるにもかかわらず、日本人は享楽に耽り、堕落しきっている。僕は、そういった世界を知らぬ日本の若者たちを、世界人民革命軍に入隊させるべく、日本にやって来た。日本は変わらねばならぬ・・・」

 英雄の語る言葉には、犯罪者じみた陰湿さは全く無く、かって行動を共にした青春時代の情熱が、そのまま残っていた。美雪は英雄と長時間、話したことにより、心がすっきりした。不倫などという冒険心は何処かへ吹き飛んでしまい、純粋な心だけが蘇った。美雪が部屋から去ると、入れ替わるように、桃子という女中が『桐の間』に入って来た。

「今、女将さんが出て行ったようですが、何かあったのですか?」

「いや、部屋代のことでね」

「なら良いですが。布団でも敷きましょうか?」

「うん。そうしてくれ」

 英雄は原稿用紙を持って、部屋のテーブルから窓辺の小机に移動し、タバコに火を点けた。紫の煙が桃子を誘った。布団敷きながらの桃子の流し目に、英雄は笑った。

「先生って、女に慣れているのね」

「そう見えますか?」

「先生みたいな好い男を、女が放っておくわけ無いでしょう」

 布団を敷き終えた桃子が英雄の側に近寄った。英雄はタバコの火を灰皿でもみ消すと、桃子の手首を掴んで引き寄せた。桃子の白い肌、むっちりした肉付き、快い女の体温、女の匂い。近づいたその感触に英雄は戯れてみたくなった。桃子は待ってましたとばかり、英雄に身体をあずけたまま、自分で巧みに帯を解いた。そして布団の上に英雄を誘い、自ら横臥し、両脚を開いた。英雄は誘われるまま、その上に覆いかぶさり、囁いた。

「男泣かせの身体をしているな」

「先生こそ」

 桃子は熱い息を吹きかけ、英雄にしがみついた。身体を震わせ、乱れに乱れた。英雄は思わぬ肉の饗応に酔った。



          〇

 秋が深まり、湯河原の藤木川の上に乗り出した美しい紅葉の枝を眺めながら、雨竜英雄は、ゆったりとした気分で温泉風呂につかった。ちょっとぬるめの湯の中で、じっと動かずにいると、身も心も癒された。美雪は困り果てているに違いなかった。昔の恋人が訪ねて来て、そのまま居ついてしまうなどとは予想もしていなかったに違いない。ヒノキの香りにつつまれた湯舟につかり、中庭に目をやると、背の高い男と、美雪が話している。相手は従業員のようだ。胸に柿の実のついた枝や紫色のアケビの実のついた蔓を、いっぱいに抱えている。生け花の材料のようだ。美雪の夫、公平は、今日も出かけていない。オーナーズ・クラブか温泉組合の寄り合いに出かけているのであろう。帰りは遅いに決まっている。女中の桃子の話によれば、公平には石崎友江という女が外にいて、駅近くの町営住宅に住んでいるという。小説の材料にしてはどうかと、桃子が得意になって喋ってくれたが、自分は小説家では無い。公平は毎月十万円もの生活費を、その女に渡しているらしいが、美雪はそれを知っているのだろうか。そんな事とは知らず、美雪は旅館の総てを取り仕切り、忙しく走り回っているのだろうか。一番風呂を心行くまで楽しんで、英雄が『桐の間』に戻ると、美雪が部屋にやって来た。先程、見かけた柿の実の枝とアケビの実の蔓を手にしていた。英雄は、その紫色のアケビの実の割れ目を見て悩ましく思った。思わず余計なことを考えてしまった。

「これ、庄介が採って来た柿とアケビ。素敵でしょう」

「うん。中々、良い。あの男、庄介というのか?」

「青戸庄介。私の幼馴染み。独身で竹細工の仕事をしているの。時々、生け花の材料を届けてくれるの」

「四十過ぎで独身とは、僕と同じで気持ちが悪いな」

 確かに庄介は顎の張った四角い顔で、左頬には竹細工による深い傷跡があって、見慣れぬ人には気味悪がられていた。筋肉質のいかつい男で、無口に近く、余分な事は喋らなかった。身なりも粗末な物ばかりを着て、風采が上がらず、薄気味悪かった。だが美雪には可愛い男であった。

「彼は真面目で良い人よ」

 庄介の純粋さは、美雪が誰よりも一番、良く知っていた。庄介は異常なまでに純粋だった。

「そうかな?」

「花材の選択にも真剣だわ」

「活け手に惚れているからだろう」

「何を根拠で、そんなことを言うの」

「男の勘だよ」

 英雄の口元に笑みがこぼれた。その笑みは、時折、庄介に誘いをかけて楽しんでいる美雪を見透かしているような意味あり気な笑みであった。

「馬鹿なことを言わないで」

「君は変わらないな」

「あなたは変わったわ。何時も怖い顔をしている。世の中を恨んでいるのでしょうね」

「その通り。世の中ばかりじゃあ無い。君のことも恨んでいる」

 そう言うと同時に、英雄は急に立ち上がり、窓辺の障子を閉めた。美雪の顔が緊張した。美雪は危険を感じ、部屋から逃げ出そうとした。そんな美雪の肩を英雄の逞しい腕が捕まえ、美雪を強引に畳の上に押し倒した。

「やめて、何をするの」

 英雄は美雪を畳の上で抑え込み、美雪の和服の裾をめくりながら、やらせて欲しいと懇願した。美雪は英雄を必死に押しのけようとした。だが否も応も無かった。美雪の力が英雄の力に適う筈が無い。美雪は観念した。

「ここではまずいわ。押し入れに入って」

 二人は押し入れに入った。美雪が押し入れの中の布団に寄りかかり、和服の裾を開いて目を閉じると、英雄は美雪の和服の袖口から手を伸ばし、美雪の乳房をまさぐった。それからゆっくり美雪の股間を開き、その奥へ侵入した。美雪は身体の力を抜いて、英雄の求めに従った。

「この日を待っていた」

「私も・・」

 英雄の羽織と浴衣を脱がしながら発した自分の呟きに、美雪は唖然とした。思えば二十年ぶりの交わりであった。男を知った美雪の身体は昔以上であった。美雪は英雄の胴に足を回して英雄の愛を強く求めた。まるで夢のようだ。たとしえ難い快感が全身に広がって行く。互いに懐かしく愛しい肉感をむさぼり合った。

「時々、英雄さんのこと、思い出していたわ」

「死んでしまったと思っていたのだろう」

「何時か戻って来ると思っていたわ」

 激しい女の欲情が身体の奥から湧き出して来た。英雄の凄まじい攻めに、美雪は身体をのけぞらせて喘いだ。己を失い、あられもなく身悶えし、必死に相手を求め、二人は絶頂に達した。英雄は積り積もっていた愛を美雪の中に吐出した。美雪はそれを受け止め満たされた。もう貞淑な妻では無かった。ことが終わると二人は身体を起こし、着物を整え、押し入れから出た。部屋では柿の実のついた枝と、アケビの紫の実が、竹篭に活けられるのを待っていた。美雪は部屋鏡で和服姿と髪型を再確認すると、英雄に微笑し、アケビと柿の枝を竹篭に生けた。

「これからも愉しませてくれよな」

「駄目よ」

「随分と燃えていたではないか」

 英雄には総てがお見通しだった。美雪は英雄に官能の悦びを悟られたことを後悔し無かった。むしろ女としての悦びを感じた。夕方の忙しさがこれから始まるというのに、美雪の心は浮き浮きした。京子の言う《不倫という冒険》を体験した喜びと、夫、公平への報復感とが重なり合って、美雪は不思議な充実感に満たされた。



          〇

 旅館『湯本荘』をぐるりと取り囲む夥しい樹々の葉が紅葉して、その落ち葉が旅館の庭に散乱している。番頭の喜八が、赤や黄色の落ち葉を竹箒で掻き集めている。美雪はその喜八の前を通り過ぎた。美雪は喜八に問われる前に言った。

「滝下の末広さんへ行ってくるわ」

「行ってらっしゃいませ」

 和服姿の美雪は何時も清楚であった。藤木川沿いの坂道を、いそいそと『末広』に向かって登って行った。美雪はその『末広』に着いて、旅館組合の回覧板を届けてから、その先の不動滝の茶店まで足を延ばした。そこで甘酒を飲み、茶店の女将とニコニコして、二、三の世間話をした。それから、美雪は、直ぐ近くの滝を見ると言って、石段を登った。高さ十五メートルの不動の滝は白い絹糸を垂らしたように美しい水飛沫を岩肌に落下させていた。滝壺には虹がかかって、あたりに人影は見当たらなかった。逢引した相手が何処にいるのか見回すと、竹林の脇の出世大黒尊が祀ってある石垣の高い所に英雄が立っていた。美雪は和服の裾をまくり、その高台まで登った。英雄が先に口を開いた。

「呼び出したりして御免」

「人目につかないうちに、手短に要件を話して」

「今しばらく逗留させてもらいたい。次の予定が変わった」

「困るわ。これ以上は無理よ。夫もあなたに疑いを持ち始めているわ」

「そりゃあ、まずいな」

 英雄は顔を曇らせた。美雪も顔を曇らせた。これ以上、英雄に長逗留されては困る。同じ宿の別館に過去を共にした男が居続けるなんて、気が気でならなかった。美雪は焦った。

「私とあなたは、犯してはならない過ちを犯してしまったの。これ以上、過失を続ける訳にはいかないわ。底なし沼に陥るだけよ。お願いだから、私の前から消えて」

「そうはいかないよ。消えるには金が要る」

 美雪は英雄の言葉に驚いた。自分が英雄に利用されているだけであると悟った。英雄の言葉に怒りを覚えた。

「金の工面は出来ません。お願いだから、湯河原から立ち去って。早くしないと捕まるわよ」

「君が僕を売る筈が無い。僕は逃げようなんて思わない」

「私たちのことを周囲の者たちが、疑い始めているのよ。もう限界よ。こうして会っていることだって、直ぐに噂になると思うわ」

「分かった。なら今夜、百万円を用意してくれ」

 そう言って英雄は冷たく笑った。愛情のひとかけらも無かった。美雪は英雄の発言にいたたまれなくなって、石段を駈け下りた。裾の乱れなど気にならなかった。英雄に対する憎悪で、胸が激しく高鳴った。仕事をしていた茶店の女将が、駈け戻って行く美雪を見かけて、首を傾げた。美雪は駈けながら思った。何て自分は愚かなのだろう。彼の呼び出しに応じたりして・・・。

 『湯本荘』に戻ると、これからやって来る来客の為の準備が、着々と進んでいた。それぞれの役目を充分に理解し、従業員の誰もが熱心に働いていた。そんな従業員の姿を見て、美雪は自分の愚行の反省をした。しっかりしなくては。自分の部屋に戻ると、応接室に娘の由香が来ていた。美雪は気を取り直し由香と対面した。

「あ、由香、来ていたの。おばあちゃんは元気?」

「うん、元気だよ」

「今日、塾は?」

「これから」

 由香はテーブルの上の茶菓子をつまみながら、楽しそうに喋った。由香の目的は分かっていた。

「お小遣い貰いに来たの?」

「うん」

「もう無くなってしまったの。ちょっと早いんじゃあない。しょうがないわねえ。無駄使いは駄目よ」

「分かってる」

 美雪は胸から財布を取り出し、一万円札を渡した。由香は小遣いを受け取ると、塾のカバンを肩にかけ、ちらっと母親を見て言った。

「お母さん。お父さんには気をつけた方が良いわよ」

「どういうこと?」

「この間、綺麗な女の人と一緒に歩いていたわよ。浮気しているんじゃないの」

「まさか。お父さんは、そんなことしないわ。困った子ね。勉強以外の余計な事、考えたりしないの」

 由香は母親に叱られ、決まり悪そうに、ペロリと舌を出した。それからテーブルの上の茶菓子をポケットに詰め込み、逃げるようにバス通りに跳び出して行った。由香の言葉に美雪は深い溜息をついた。子供に夫の浮気を指摘されるとは、考えたくも無いことであった。



          〇

 晩秋の日暮れ時、青戸庄介が、うめもどきの実のついた柿の枝の花材を『湯本荘』に届けに来た。その花材の代金を貰い帰ろうとする庄介に美雪が声をかけた。

「庄介。ちょっといい?」

 庄介は、美雪に自分の部屋に来るよう手招きされると、それに従った。また公平のことかと部屋に入ると、美雪は口を閉ざしたまま、中々、用件を言おうとしなかった。

「話って何ですか?」

「それが」

「それがでは分かりませんよ。はっきり仰有って下さい」

 どうしたことか。庄介を呼び止めておきながら美雪は何も喋らない。当惑しているようだ。こう言った時、庄介は待つより仕方ないと心得ていた。沈黙がしばらく続いた。庄介が黙って美雪の顔を見詰めていると、美雪の顔が急に涙顔になった。美雪は庄介の前で俯くと低い声で言った。

「実は雨竜先生から宿代を一銭もいただいていないの。そればかりか、お金を要求されているの」

「なんですって。何であの小説家に金を要求されなければならないんです?」

「それには訳が・・・」

「幾ら要求されているのです?」

「百万円です」

 雨竜英雄の宿泊代は二ヶ月以上溜まっていた。昔の知り合いということで、請求を怠っていたのが過ちの始まりであった。彼は原稿用紙を窓辺の小机の上に置いたりして、小説家を装っていた。女中も番頭も、先生、先生と呼んでいた。美雪もそれに合わせ、先生と呼んでいた。従って庄介も、英雄が金持ちの有名小説家であると信じていた。

「そんな大金、どうして?」

「昔のことを言い出されて・・・」

「昔の事って何ですか?」

 美雪は、こうなっては庄介に、何もかも告白して、助けてもらうしかないと考えた。庄介なら真剣になって相談に乗ってくれるに違いないと計算した。

「雨竜先生は私の学生時代の友達なの。学生運動の過激派の主力メンバーの一人で、革命という大義の為に、アラブヘ行っていたの。私は大学を卒業して湯河原に戻り、もう彼のことなど忘れていたのに、突然、彼が日本に戻って来て、私の前に現れたの」

「そして金を要求された」

「その通りなの。お金を出せば消えてやるというの・・・」

 庄介は驚いた。美雪の話が事実であるならば一大事である。雨竜英雄は小説家などで無く、国際犯罪人であり、警察から追われている男だ。その犯罪人を匿ったとなれば、犯人隠匿容疑で美雪も逮捕されてしまう。

「姫様。こりゃあ大変な話だ。これ以上、ほっとくのは良くねえ。何とかしねえと」

「分かっているわ。でも公平には知られたく無いし、どうしたら良いと思う?」

 美雪の震える声に、庄介は彼女の苦悩を知った。庄介は思った。美雪を救うには、自分が英雄と対峙するしかない。相手は連戦錬磨の過激派の闘士である。自分よりも背丈は低くても、格闘慣れしているに違いない。しかし、自分がやらなくて誰がやるのか。庄介は使命感に燃えた。

「姫様。俺に任せて下さい。俺が何とかしますから。あいつを湯河原から追い払ってやります。そうすれば良いのでしょう」

「ええ」

 美雪は頷いた。その美雪の顔を見て庄介は厳しい覚悟を決めた表情になった。庄介は夕暮れ迫った山林に目をやった。するとそこはもう深い暗闇だった。覆いかぶさるように黒く沈んだ森が、さながら黒いマントを広げた悪魔のように見えた。庄介は、その森の深みに踏み込んで行かねばならぬかと思うと、恐怖の余り、自分の顔が蒼ざめて行くのが分かった。

「庄介。そんなに怖い顔をしなくても良いの。雨竜先生を、湯河原から追い出してくれるだけで良いんだから」

「それだけで済むかどうか・・・」

 庄介は凍り付いたような冷たい目で美雪を凝視した。その形相を見て、美雪の身体は硬直した。庄介はとんでもないことを考えているかも知れない。もしかして、彼を抹殺してしまおうなどと恐ろしい事を考えているのかも・・・。



          〇

 山の紅葉がすっかり谷間に散り尽くして、季節の陰りが湯河原の町に訪れた。海辺に近い山の斜面の蜜柑畑の蜜柑が色づき、藤木川のほとりに、山茶花やつわぶきの花が咲いて、冬の到来を告げた。そんな季節の移ろいを感じながらの散歩の帰り道、雨竜英雄は、突然、庄介に声をかけられた。

「雨竜先生。ちょっと耳に入れておきたいことがあるんですが」

「何かな?」

「申し訳ありませんが、姫様から手を引いてくんなさい」

「何ですか。その姫様というのは?」

「とぼけなさんな。あんたが泊っている『湯本荘』の女将さんのことだ」

 そう言われて英雄は胸騒ぎを覚えた。直観だった。この男は真剣だ。自分に挑もうとしている。どう対処すべきか、英雄は戸惑った。庄介は続けた。

「俺は姫様の用心棒だ。姫様を苦しめる奴が許せないんだ。命が惜しいと思うなら、湯河原から立ち去ってくれ」

「僕が女将さんに何かしたとでもいうのか。何もしてないのに、何故、立ち去る必要がある?」

「あんたは姫様に面倒をかけているではないか。姫様は、あんたの宿賃が増える一方で苦しんでおられる。旅館にこのまま居座ろうというのなら、警察に通告するぞ」

 警察という言葉に英雄はびびった。自分の正体を知られてはまずい。自分の正体が露見されれば、同志たちに警察の手が伸びる。警察は世界人民革命軍のメンバーを一網打尽にしようとするであろう。そんなことは、あってはならないことだ。計り知れない恐怖が、英雄の背筋に冷たく流れた。

「分かった。君の言う通りにしよう。兎に角、旅館からは出よう」

「約束してくれ。そうでないと、保証は出来ぬ」

「しかし、少しだけ待ってくれ。次の滞在先が決まるまで、待ってくれ。年内には必ず次の所へ移る」

「良かろう。滞っている宿賃も早急に支払ってくれ」

 庄介は笑いもせず、強い威嚇の目で英雄を睨みつけた。英雄は庄介を相手にすることを避けた。内ポケットにあるトカレフを使用すれば、庄介の命など、一発で奪うことが出来る。だが人間一人が消えれば警察が騒ぎ出す。滅多なことは出来ない。英雄は庄介に言われた通り、大人しくするしか方法が無かった。庄介は自分の要件をはっきり伝えると、急ぎ足で暗くなり始めた森の奥へと入って行った。英雄は思いがけない庄介の脅しに窮地に追い込まれた。

「どうして、あんな男に脅されなきゃあならないんだ」

 情け無かった。世界を股に闘って来た自分が何故?英雄は悔しさに歯を食い縛ってバス通りを歩いた。そして、突然、目に入った近くのスナック『加奈』に足を踏み入れた。店に客はいなかった。

「いらっしゃあい。加奈子です。よろしく」

「こちらこそ、よろしく」

「先生。初めてでしょう。このお店」

「ああ」

 ママの加奈子が自分を知っているのには驚いた。彼女は妖しく笑った。

「何時か先生が来てくれると思っていたわ」

 その言葉に英雄は安堵した。こんな店があろうとは。ママの加奈子にすすめられるままに英雄は酒を飲んだ。やけ酒だった。そのうちホステスや地元の馴染み客がやって来た。またその後から温泉客もやって来て、それらの客と一緒に英雄は酒を飲んだ。飲んで飲んで酔いつぶれる程、飲んだ。どのようにして『湯本荘』に戻ったのか覚えていない。



          〇

 翌日の午後、英雄は部屋から引き上げる桃子に、美雪を呼んでもらった。緊張した顔をして美雪が部屋に入って来ると、英雄は喰ってかかった。

「僕を恨んでいるのか?」

「そんなことはありません。ただ何時までも居られては困るのです」

「ならば僕にだって言い分はある。僕は戻りたくなかった。しかし世界人民革命軍構想を実現させる為には、資金集めと人集めが絶対、必要なのだ。日本に戻るべきかどうか、随分と悩んだ。正直なところ戻りたくなかった。でも故郷に戻り、両親に詫びたいという気持ちもあった。君に詫びたいという気持ちもあった。君が仕合せでいるかどうか、確認したいという気持ちもあった。アラブへ向かう時、君は言った。絶対、戻って来てよと。それもあって日本に戻って来た。そして日本での資金集めと人集めが終わったら、誰にも気づかれずに、そっと引き返すつもりでいた」

「そうなら、早く消えて欲しいわ」

 冷淡な美雪の言葉は、かっての恋人の発言とは思えなかった。共に学生運動に青春を燃やした仲間の発言とは、思えなかった。冷淡というより冷酷だった。

「僕は一体、誰の為に戻って来たのか?」

 美雪は英雄に喋りたいだけ喋らせた。自分には何も言う事は無かった。京子の勧めに従い、英雄と不倫を重ねたことが悔やまれた。自分は『湯本荘』の女将である。このまま彼と付き合っていたら身の破滅である。肉体を弄ばれ、金をせびられ、犯罪者となり、家庭が崩壊することは目に見えている。英雄は美雪の変わりようを見て涙をにじませた。だが美雪は英雄の涙を無視した。

「あなたは勝手に出て行き、勝手に戻って来たのでしょう。私には関係無いことよ。一人で泣くがいいわ」

 美雪は、そう言い残すと『桐の間』から出て行った。冬枯れの裏庭にヒヨドリが遊びに来ていた。万両の赤い実を狙っているに違いなかった。英雄はしばらくの間、『桐の間』で、茫然自失の時を過ごした。原稿を書く気持ちなど全く起こらなかった。英雄は桃子が運んで来た夕食を食べ終えてから、こっそり部屋を抜け出し、スナック『加奈』へ飲みに出かけた。ママの松井加奈子がニッコリ笑った。

「昨日は沢山、飲ませちゃったわね。ごめんなさい」

「いいんだ。素敵なママに出会えて、仕合せだった。今夜も、そんなママの胸で酔いたくて、ぶらりと来ちゃった」

「まあ、調子が良いわね。流石、作家先生。でも嬉しい」

 ママの加奈子は他の客がいるというのに、その気になって英雄に身体を寄せて来た。悪い気はしなかった。媚を含んだ濡れた目が悩ましかった。ホステスの百合子が焼餅を焼く程、ママの加奈子は英雄に接近した。しかし別の客が現れると、加奈子と百合子は、そちらに係り切りになった。客は旅館で宴会を終えてからの二次会組で、浴衣姿でカラオケを唄い、マイクを放さなかった。その為、絵梨が相手をしていた地元の客は直ぐに帰ってしまった。英雄はカウンター席の片隅で、グラスを傾け続けた。十一時近くなると、その温泉客も帰って行った。客は英雄一人になった。

「百合ちゃん、絵梨ちゃん、帰って良いわよ」

 ママの加奈子の言葉に百合子と絵梨は逃げるように退去した。加奈子が酔いきれないでいる英雄を見て言った。

「先生。何か悩んでいるいるみたいね」

「どうして僕が悩んでいるって分かるのかな?」

「私も悩んでいるの。いいのよ、先生。私を抱いて泣きたかったら泣いて」

 加奈子の瞳がスナックの部屋の明かりを映して、うるんでいるのが分かった。英雄は彼女を隣の席に座らせ、彼女の肩に手を回した。彼女を抱いてみたかった。結果、英雄はその夜、『湯本荘』に戻らなかった。



          〇

 大晦日。雨竜英雄は既に『湯本荘』に居なかった。『湯本荘』は大晦日と新年を迎えるとあって、大忙しだった。板長の村山貫治は特に張り切っていた。朝から年越しそばと御節料理に取り組み、美雪が手伝いたいと言っても、女の入る所では無いと、若い板前と一緒に、それを許してくれなかった。女中頭の喜代も桃子たちと一緒に客室の大掃除に駆け回り、声をかけても、全く他人行儀だった。政吉は大声で小使いを指揮して、大浴場や露天風呂の掃除に夢中だった。庭に出ると喜八が送迎バスを洗ったり、忙しそうだった。旅館周囲は、竹屋の庄介が、数日前から門松を飾るなどして、綺麗にしていて、何もすることが無かった。だからと言って、『湯本荘』から外出する訳にはいかなかった。母のマンションの方は、公平が手伝いに行っているので、何とかなるでしょう。残された仕事はただ一つ。掃除の終わった玄関と客室に花を生けることだけ。部屋数が少ないとはいえ、花を飾る床の間は十六もあった。花材の到着を待つばかりであった。午後一時過ぎ、庄介の小型トラックが、花材を積んでやって来た。松竹梅の他、コデマリ、万両、つわぶき、黄菊、白菊、バラ、水仙などの花材が満載されていた。切り取って来たばかりの花材の香りが、春の訪れの近いことを感じさせた。美雪は、その花材をトラックから降ろして貰うと、早速、各部屋に花を飾った。庄介は美雪の生け込みに立会った。自分が集めた花材を美雪の指示に従い、それぞれの部屋に配った。玄関の大壺には松の老木を飾った。この赤松の枝を得るのには随分、苦労した。竹の水揚げにも神経を使った。梅は曽我の友人から入手した。それ故、花材の一つ一つに思い入れがあった。その花材を『桐の間』に生ける時、美雪が庄介に言った。

「この部屋は雨竜先生のいた部屋よ」

「そうですか」

 そう言われて庄介は、その部屋の隅々まで観察した。客人のいない『桐の間』は閑散として寂しかった。あの男が占拠していたというのはこの部屋か。一方、美雪は英雄との不倫の時を思い出し、心が揺れ動いた。彼はどうしているのだろうか。

「あいつはスナック『加奈』の二階に転がり込んでいる。加奈子とねんごろになったらしい。あそこはあいつにとって、最高の隠れ家だ」

 それを耳にして美雪は、カウンターにうつ伏せ、酒に酔いつぶれている英雄の姿を想像した。彼は荒れた心を酒でまぎらしているに違いなかった。とても可哀想な気がした。しかし、あのままずるずる不倫を続けていたなら、どうなっていたか分からない。不倫の最中を公平に見つかっていたかも知れない。妻の淫らな姿を目撃して、公平が逆上し、殺意を抱いたかも知れない。娘の由香に気づかれ、家族が崩壊していたかもしれない。それを押しとどめてくれたのは、側にいる庄介であった。庄介の美雪に寄せる気持ちは純粋だった。手ひとつ握ることも無く、ひたすら忍びに忍び、ずっと美雪を思い続けている。その庄介は、ことを穏便に済ます為、英雄を脅し、『湯本荘』から、英雄を追放してくれた。庄介のお陰で、安心して正月を迎えることが出来る。自分の為なら、命も惜しまぬ庄介に、どう感謝すれば良いのだろう。美雪は庄介が集めてくれた花材を、心を込めて生けることに専念した。それが庄介に対する恩返しのように思えた。庄介は、そんな美雪の背後に正座して、自分の集めた花材が、美しく優しく生けられて行くのを楽しんだ。庄介にとって、それは至福の時であった。



          〇

 その頃、公平は石崎友江の住む町営住宅にいた。民生委員の立場で彼女と六歳を迎える晴美が、何とか無事に年越し出来ることが嬉しかった。下心があると思われるのが嫌で、封筒の裏に湯本公平と記し、十万円入りの封筒を郵便受けに投げ入れた日のことが、昨日のことのように思い出された。あれから何度、ここに立ち寄ったことか。毎月十万円を渡すようになり、和菓子屋『丸山』の丸山栄一社長には、深入りするなと忠告を受けたが、結局は旅館のことは、そっちのけで、友江に深入りしてしまった。美雪に気づかれでもしたら、離婚騒ぎになるかも知れぬが、しかし、もうどうにも止まらない状況にのめり込んでしまっていた。公平は今日も『丸山』に頼んでおいた正月の御供え餅を受け取りに行って来ると言って、『湯本荘』を出て来た。そして、丸山栄一の菓子工場に行って御供え餅を受け取った後、ここに立ち寄った。

「これは友江さんの家の分だ。受け取ってくれ」

「まあっ、嬉しい。こんなに沢山のお餅をいただいて良いの」

「うん。晴美ちゃんに美味しい御雑煮を食べさせてあげなよ」

 公平の言葉に友江は胸がいっぱいになった。公平は何時も自分たちに優しくしてくれていた。世間では良い齢をしてと、公平のことを嘲笑う人がいるが、友江には、公平だけが唯一人、頼れる人であった。公平に出会えて仕合せだった。公平もまた友江親子といると、心が安らぎ、生甲斐のようなものを感じた。友江は美人であるし、台所仕事も巧みで、とても家庭的だった。

「良いんですか。大晦日に、こんな所に来たりして?」

「良いんだ。これからマンションにいる娘と婆さんを迎えに行くところだ。正月を『湯本荘』で迎えると言ううんでね」

「羨ましいわ」

 昼飯を食べた後、遊び疲れたのであろう。晴美は炬燵でぐっすり眠っていた。餅を渡した公平が、その晴美の寝顔を覗き見て、微笑み、玄関から立ち去ろうとすると、友江が公平の手を摑まえた。公平は友江の目を見て、彼女が燃えているのが分かった。公平は忙しかったが、友江に手を引かれるまま部屋に上がった。誘われるまま隣の部屋に入って抱き合った。公平は首にしがみつかれたまま、友江のスカートをめくり上げ、立ったまま彼女のパンティを脱がした。友江は悦びの声を漏らすと、公平の耳元で囁いた。

「別れるなんて、嫌ですからね。あなたが来なくなったら、私の方から旅館に押しかけますからね」

 友江の熱い思いが、公平の肉体に襲い掛かって来た。友江が吹きかける吐息の甘さは、公平を夢中にさせた。友江が抱かれれながら仰向けになると、公平は、その上に跨った。涙ぐむほど真剣な友江の瞳を見詰めると、公平は友江のことが一層、愛しくなった。



          〇

 新年になり、寒椿の花が咲くと、毎年、今年も頑張ろうと陽気になる美雪であるが、今年の美雪の心は暗かった。公平が浮気を止めないからではない。雨竜英雄がまだ湯河原の温泉街に居残っているからであった。美雪の経営する『湯本荘』を出て行ったが、落合橋近くのスナック『加奈』のママ、松井加奈子の所に転がり込んでいて、時々、金の無心に来るからであった。彼の手口は巧妙で、公平がいない時を見計らってやって来た。

「今夜、僕のいるスナックに飲みに来ないか」

「そんなこと出来る訳がないでしょう」

 美雪は不機嫌な顔をして突き放した。

「冷たいんだな」

「だって、そうでしょう。私たちは、もう終わったのですから」

「もう終わっただって。終わる筈など無いよ。君と僕の過去は、消し去ろうとしたって、消せやしないんだ。二人が死ぬまで、ずっと続いて行くんだ」

 英雄は冷たく笑った。こんなに執念深い蛇のような男だとは思ってもいなかった。学生時代は正義感の強い、純な心の持ち主であったのに、今はその面影のひとかけらも見当たら無かった。彼の世の中を信じようとしない疑惑に満ちた目の奥が、凄まじい孤独の真っ暗闇のように不気味に見えて恐ろしかった。

「また金が必要なんだ。今度は加奈子と別れる金だ。正月になって、加奈子の亭主が店にやって来た。僕に慰謝料を支払えと言うんだ。支払わないと僕と加奈子を殺すと言うんだ。助けてくれ」

「私は騙されないわ」

「本当なんだ。加奈子の亭主は何をするか分からん」

 英雄は唇を震わせながら、美雪に懇願した。その様子が応接室の窓の外から見えた。『湯本荘』の裏山で枯れ枝を拾っていた庄介は、『湯本荘』に英雄が来ているのに気づき慌てた。血相を変え、裏山から駈け下り、応接室のドアを開けて叫んだ。

「ここに来るなと言った筈だ。あんたは俺の言ったことが理解出来ていないのか?」

「そう言う君は僕たちの関係を知っているのか?」

「知るも知らぬも関係ねえ。姫様はあんたに会いたくないと言っているんだ」

「それはどうかな。話があるのは、女将さんの方だと思うのだが・・・」

「本当ですか、姫様?」

 庄介の問いに美雪は激しく首を横に振った。それを見て庄介は、険しい顔を英雄に戻した。

「姫様は、あんたに話なんか無いと言っているんだ」

「突然、脇から出て来て何を言うんだ。僕と勝負するつもりか」

「よかろう。外に出ろ!」

「庄介、やめて!」

 英雄に挑みかかろうとする庄介に、美雪がしがみついて止めた。こんな所で喧嘩を始められては困る。従業員や宿泊客に気づかれ、警察にでも通報されたら、とんでもない事になる。英雄の正体が露見し、週刊誌を賑わすような大事件になってしまう。また自分と英雄の関係も暴露され、世間や夫に不倫を知られてしまう。英雄は勿論のこと、自分も、家族も、『湯本荘』さえも、破滅に追い込まれてしまう。それは、あってはならない事だ。英雄にとっても同じ事だ。

「女将さんが止めろと言っている。つまらぬ争いは止めよう。お互い冷静になって考えよう。騒がせて済まなかった。総ては僕が悪かった。僕は失礼する」

 英雄は庄介に邪馬された怒りを抑え、一歩、引き下がった。そして寒椿の咲く坂道を、トレンチコートの襟を立てて帰って行った。

「ああ、どうすれば良いの?」

 美雪は頭をかかえ、応接室のソファに泣き崩れた。美雪は苦悩した。自分は、このままずっと英雄に付き纏われながら、生きて行かなければならないのだろうか。日本政府に異議申し立てをする学生たちや若者たちを機動隊や警察などの圧倒的な力によって押し潰そうとする国家権力と、それに命懸けで抵抗し先鋭化して活動した英雄たちの情熱に突き動かされた自分の青春時代の付けが、今になって回って来ようとは。

「姫様。泣きなさんな。あいつは人間の屑だ。これ以上、生きていても世の中の為にならぬ人間だ。俺が何とかする」

「出来るの?そんなこと・・・」

 美雪の声が震えた。庄介は黙って頷いた。その時、庄介の頷きに合わせるかのように、庭の寒椿の花が、ぽとりと地表に落ちた。美雪は幼い時から、家の辺りの椿の花を眺めて過ごして来た。椿はふっくらと盛り上がった真紅の唇のような花をいっぱいに開き、樹上で妖しく華麗に咲いて見せると、しばらくして地表に落ち、美しい花の余韻を残しながら、やがて樹下を散った紅色の花びらで覆い尽くす。その椿の花が落ちるのを見て、美雪は何故か椿の花に形容し難い程の不吉を感じた。庄介は美雪の面影に深い哀しみが有るのを見逃さなかった。庄介はそれを見て、温和な己れの仮面を脱ぎ捨てることにした。その庄介の仮面の下から覗かれたのは、普段の醜い庄介の顔以上に恐ろしい想像出来ない程の悪魔の形相だった。庄介は悪魔に変じようとしていた。ひたすら苦悩する美雪を守らんが為に・・・。



          〇

 今夜はどうも冷え込む。窓を開けると、雪だというのに外は明るい。天空から無数の雪片が果てしなく舞い落ちて来る。その白い雪片に美雪は息を呑んだ。庚申の夜は、三尸の虫が、天帝に悪行を告げに行こうとするのだ。眠りたくても眠れない。三尸の虫は誰かの悪行を告げる為に、今夜、天上に昇って行くのだ。こんな雪の夜、本当に天上へ昇って行くのだろうか。幽鬼のような黒い影が、美雪の部屋の窓の外に立った。

「行って参ります」

 美雪は黙って頷いた。黒い影は美雪の前を吹雪のように通り過ぎて行った。恐怖が美雪の背筋を走った。黒い影は闇の中を走って行った。美雪は目を瞑った。見てはならない者を見てしまった。あれは山から下りて来た鬼に違いない。鬼は雪の中を何処へ走って行くのだろう。その鬼の行く手に青い灯りが降る雪と交差してちらついているのが見えた。スナック『加奈』の窓の灯りだ。鬼がその窓の前に立って玄関ドアを叩くと、スナック『加奈』から男が出て来た。鬼と男は話を始めた。何を話しているのだろうか。降る雪の中での立ち話。寒くは無いのだろうか。二人はしばらく話してから、雪の中を温泉街の外れから、奥湯河原の方へと坂道を上って行った。雪の夜だというのに、二人の進む辺りだけが明るく見えた。今度は何処へ行くのか。二人はやがて、奥湯河原の山の中腹に立つ大きな桜の樹の前まで行き、そこで立ち止まった。その桜の大樹は美雪の好きな奥湯河原の庚申桜だった。桜の大樹の根方に、雪を被った石の庚申塔が幾つも人影のように立ち並んでいた。二人はそこで静止した。暗い夜空から、まだ雪が舞い落ちて来ていた。美しい雪の世界だ。辺りには誰もいない。耳に聞こえるのは降る雪のかすかな音だけであった。男がたまりかねて言った。

「美雪は現れないでは無いか。僕を騙したのか?」

「こんな大雪になってしまって来られなくなったのでしょう」

「美雪が僕に用件があるからと言っていたのは本当なのか?」

「あんたにお金を渡し、謝罪したいからと言っていた」

「謝罪だと」

 一瞬、雪の雲間から顔を覗かせた月光に、男の目が輝いた。男は愛しい人が現れるのを思い、時計を見た。時刻は深夜の十二時になろうとしていた。雪が二人の男の肩に降り積もった。

「謝罪して、どうしようというのだ?」

「早く旅に出てもらいたかったのでしょう」

「旅にだと」

「そうだ。永遠に帰らぬ死出の旅路さ」

 そう言った男の顔が、鬼の顔をしているのに気づき、言われた男は顔色を変えて後ずさった。

「止めろ。話し合えば分かることではないか」

 男の声が震えた。男は恐怖の余り、後ずさりしながら、雪の中に転倒した。起きようとしても身体が硬直して、起き上がれなかった。

「止めろ。止めてくれ!もう彼女には近づかない」

「俺は人間を信用していない。悪い奴は何度も嘘を言い、何度も悪いことを繰り返す。俺は悪行を成した者を容赦なく処罰し、その理由を天帝に告げる鬼だ」

 鬼はそう言って、恐ろしい唸り声を上げると、逃げようと雪の中でもがいている男の首を絞め上げた。男がトカレフを手にしたが間に合わなかった。引き金を引くことも出来なかった。

「ああ、助けてくれ・・・」

 闇の中で竹の折れる音がした。その時、美雪は布団の中で目を覚ました。今の音は、雪が積もって竹が折れた音だろうか。外では雪が大分、降り積もっているようだ。今まで見ていた夢と竹の折れる音が重なったみたいだ。恐ろしい夢だった。首の骨を折られながらも、男が助けを求めているのが聞こえた夢だ。鬼の両手が男の首に食い込んで、男は鬼の両手の中でしばらくもがくと、じきに、ガクンと首を垂れて死んだ。庚申桜の下の雪が真紅に血で染まったが、その上に降り積もる雪が重なって、あっという間に血の色はかき消されてしまった。鬼は男を絞殺すると天に向かって身を震わせ、恐ろしい叫び声を上げた。それから鬼は男の死体を、あらかじめ掘っておいた穴に引き摺って行き、そこに埋めて、スコップで土を被せた。その作業が終わると、鬼は森の中に消えた。雪は吹雪に変わった。激しい吹雪が荒れ狂い、桜の大樹が枝をもぎ取られそうになって悲鳴を上げた。美雪は今見た夢を思い出し、いたたまれなくなり、再び布団に潜り込んだ。総ては自分の撒いた種である。今まで見ていた夢を思い出すと、とめどなく涙が溢れ出た。だが仰臥したまま、涙をぬぐうことをしなかった。泣きたいだけ泣けば良いと思った。悪い夢を見て、一晩中、うなされ続けた。眠ったか眠らなかったのか分からない長い一夜だった。一睡もしないうちに夜が明けてしまったような感じがした。何時しか朝になり、窓を開けると、外は美しい銀世界になっていた。降り積もった雪の上に、庭の寒椿の花弁が、鮮やかに散っているのが見えた。美雪は寒気を感じてか、胸元に手をやり、身震いした。そして慌てて部屋の窓を閉じた。



          〇

 寒椿の季節が過ぎ、再び春が巡って来た。梅が咲き、辛夷が咲き、湯河原の山野は早春の息吹に満ち溢れ、温泉町は活気を取り戻した。美雪は旅館の女将としての仕事に忙殺され、一日中、『湯本荘』の中を走り回った。

「東京に出て来なさいよ」

 悦子や京子から時々、誘いの電話があったが、美雪は忙しくて、そんな暇は無かった。公平も組合、法人会、オーナーズ・クラブ、民生委員などの仕事で、相変わらず忙しそうに駆け回っていた。公平と石崎友江との関係は、まだ続いていたが、美雪は素知らぬ顔で過ごした。板長の村上貫治は増々、腕を磨きがかかり、グルメ誌に写真が載ったりした。女中頭の喜代は全く健康そのもので、その下に仕える女中たちは、絶えずピリピリしていた。番頭の政吉は最近、露天風呂にやって来る猿を追い払うのに懸命だった。土産売り場とバーは英子が客に気に入られようと熱心だった。喜八は毎日、湯河原駅と『湯本荘』間の客の送迎の車を走らせるのに夢中だった。竹屋の庄介は相変わらず、竹細工と花材集めに余念が無かった。駅近くのマンションで暮らしている母、房代と娘、由香にも変わり無かった。何か変わりがあったかといえば、スナック『加奈』のママ、松井加奈子の男が変わったことくらいだった。彼女の新しい男は、三十七歳の森川湖南という気鋭の画家で、中々、色気のある男であった。前の男、雨竜英雄については、東京に戻ったということで、月日が経つと共に、人々の記憶から忘れ去られてしまっていた。美雪は、それで良いのだと思った。雨竜英雄などという小説家はいなかったのだ。湯河原は老若男女を問わず沢山の人たちが訪れ、傷を癒し、身も心も健康にして帰って行く温泉町だ。藤木川のうたかたのように、色んな人が現れ、色んな人が、その流れの中で消えて行くのだ。『桐の間』の窓を開けると、遅咲きの椿の花が一つだけ残っていた。もうしばらく咲いているつもりなのか、美しい真紅の花が、藤木川の上に乗り出している。小さな風が美雪の辺りを吹き抜けた。その風に見ている椿の枝の花が散ってしまうのではないかと、手を伸ばしたくなる程、心配していると、その花は不意に、何の相談も無しに、ふわりと椿の枝を離れ、藤木川に落下し、水に呑み込まれてしまった。美雪は目を見張った。あんなに生き生きと燃えるように咲いていた真紅の椿の花が、突然、命を終えるなんて。この世に疲れ果て、生きる事の自信を無くしてしまったのだろうか。一度、見てしまった死の風景は、消そうとしても消え去ってくれない。美雪の目の奥で突然、何かが光って玉になり、外にこぼれ落ちた。



          〇

 二月の末、今年も湯河原の新崎川の上流、幕山の梅林では紅梅白梅が岩山を飾り、見事な美しい景観を見せていた。湯本美雪は珍しく洋装のお洒落姿で車に乗り、湯河原駅へ行った。車を降り、ちらっと和菓子店『丸山』に目をやってから、駅の改札口まで行き、熱海行き電車が入って来るのを待った。しばらくすると、藤原悦子と井上京子が到着電車を降りて、改札口から笑顔で現れた。

「お久しぶり。びっくりした。二人で湯河原に来てくれるなんて」

「だってさ。美雪、忙しくて、東京に来てくれないからさ。会いに来たのよ」

「旅館の方、大丈夫なの?」

「平気よ。従業員がいてくれるから。じゃあ、車に乗って」

 美雪は、そう言って大学生時代の二人を車に乗せた。湯河原駅から幕山公園へ行くまで、京子が助手席に乗って、いろいろと話した。彼女は助手席に乗るのが得意らしかった。相変わらずソバージュの髪型をしていて、飛んでいる女性らしさが似合っていた。後部座席の悦子は貿易会社の社員らしい清楚なズボン姿で、ちょっと遠慮がちだった。京子はこちらから聞かないのに、あの海辺のホテル『キャッスル』のレストランの片隅で待っていた男との不倫話をした。相変わらず伊豆高原の別荘を利用しているという。臆面も無く不倫讃美を語る京子は明るかった。一方、悦子は北京に駐在していた夫、藤原達也が戻って来て、大変だと語った。

「まず大変なのは、食事を二人分、準備する事が、面倒なのよね。一人の時は簡単に済ましていたけど、二人になると、相手のことも考えちゃうから。それに達也ったら、駐在で一人で料理が出来るようになるかと思っていたら正反対なのよ。お手伝いさんがいたらしいの」

 それを聞いて、京子が悦子をからかった。

「お手伝いさん。怪しいわね」

「会社で雇った通いの中国人だから、心配無いわ」

「そうかしら?」

 悦子は京子がからかおうとするのを無視して話を続けた。

「それと、もうひとつ、今まで達也と暮らしていたマンションの部屋なのに、彼が戻って来て二人になると、狭く感じて仕方ないの。私の荷物が増えちゃったみたい」

「そうかもね。分かるわ」

「うん、だから別の所にしようかと考えているのだけれど、家賃が高くなるから、いっその事、広い所を買おうかって、今、検討中なの」

 美雪は、一年前に会った悦子から、京子の不倫を羨ましがるような欲求不満が霧消していることに気づいた。まるで悦子は新婚時代に逆戻りしたような感じだった。そんな話を聞きながら曲がりくねった坂道を運転して行くと、幕山公園の駐車場に着いた。美雪はそこで二人を車から降ろし、幕山公園に向かった。昔は入園料など無かったのに、今は大勢の人が来るので入園料を支払うようになっていた。京子は幕山の岩場の下に広がって咲く紅梅白梅を遠望すると、歓声を上げた。沢山の観光客を集め、公園内には屋台も並らび、大賑わいだった。舞台では芸者の舞い、高校生の音楽演奏、太鼓連の和太鼓演奏などが催されていて、出演者も観衆も楽しそうだった。三人は、幕山の岩場の下でいろんな種類の梅が美しく咲き誇るのを見て回ってから、公園内に設置された木製テーブルの椅子に腰を下ろして、また喋り合った。うぐいす団子や味噌田楽や甘酒を口にしながら、いろんなことを喋った。

「ところで、この前、美雪に不倫の手ほどき教えてやったけど、どうなった?旦那さんの不倫、まだ続いているの?」

「まあね。当分、収まりそうにないわ」

「そうなの。あなたの方はどうなの?」

「京子に言われて、ちょっと不倫という冒険してみたわ」

 美雪が、そう返答すると二人とも驚いた顔をした。

「それでどうだった?」

「あっという間に終わったわ。まるで旅館の前を流れる藤木川のさざ波みたいだったわ」

 美雪の言葉を聞いて、二人が笑った。さざ波みたいだったと言ったのが、面白かったらしい。その笑いをいただき、美雪の体験した悪夢のような景色は、遠い記憶の中に消えて行ってくれるような気がした。

「うん。分かる気がする」

「でも、一回きりじゃあ。本当の良さなんて、分かりっこないわ」

 京子は痛みを覚える程の濃度のある不倫を讃美した。美雪は自分が泣き出さないように堪えているのが、ばれてしまわないように、悦子と一緒になって大声で笑った。そんな三人の姿は、まるで女子大生に戻ったみたいだった。


       《完》

 




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