雨の日の鐘 はとむぎ
使用お題:「光」「パズル」「きれいな物語」
雨が、降ってきた。
あの日もこんな風に空を見上げていて、ぽつりと額にひとつ零れてきた水滴が、ふたつみっつと数を増して、まずい、と思って走り始めた時には、もうバケツを引っくり返したみたいな勢いになっていた。
今は始めから駅の構内で待ち合わせをしているおかげで、濡れることはなかった。フードをかぶる人、上着を脱いで頭にかける人、鞄を持ち上げる人、皆が色々な方法で濡れないようにしながら駆け出す姿を、私はなんとなく、画面の向こう側の出来事のように眺めていた。
”ごめん、電車が止まっちゃったから少し遅れそう”
携帯を開いて時間を確かめようと思ったら、彼からメッセージが届いていた。数分前だ。
”大丈夫だよ”
短い返事を送って、ディスプレイの時計を見る。待ち合わせの十分前。
再び視線を外へ戻すと、何かで体をかばうことをしないまま、唇をきゅっと結んで走る女性の姿を見つけた。負けてたまるか。あの時の私も、あんな風に何かに張り合うような顔をしていたかもしれない。
五年前の秋の日。私は当時の恋人と待ち合わせをしていた。駅から少し離れた時計広場が二人のお決まりの待ち合わせ場所で、彼はいつも最低五分は遅れてくるけれど、私はいつも十分前にはそこで待っていた。
携帯を開いても連絡はない。メッセージ画面には、昨日の昼過ぎに交わした短い会話が残っている。
”明日、十六時に”
”わかった”
彼との約束はいつも唐突で、前日に時間だけが送られてくる。私の返事は、わかった、か明日は無理、のどちらか。それに対して彼から返事が来ることはない。画面をずうっと上にスクロールしても、面白いほど単調なやり取りだけが残っている。
付き合い始めた頃は、もっとたくさん話していたし、電話もしていたのに。いつの間にかこうして会うのが当たり前になって、始めのうちは寂しかったけれど、だんだんそれに慣れていって、今はこうして綺麗に並ぶ文字の羅列が美しいと思えるようになった。
十六時の鐘が鳴って、私は携帯を閉じた。彼がまだ来ないのは分かっているけれど、変わらない時間の数字を気にして暇を潰すのが嫌だったからだ。
暫くは周囲に居る待ち合わせしていると思しき人達を眺めていたけれど、待ち人と合流できて幸せそうな表情を浮かべる彼らを見ていると、目の奥がつんと痛くなるのでやめた。私はいつも、彼と会えた時にあんな風に満面の笑顔を見せられているだろうか。彼はいつも、どんな顔で来ていただろうか。
今日は少し笑顔を意識してみよう。それで、彼の表情をよく見てみよう。そんなことを考えて、私は自分の口の両端を指先で軽く押し上げた。
まだかなぁ。そう思いながら、駅のある方角ではなく空を見上げるようになったのはいつからだったか。今にも落ちてきそうな灰色の重たい雲が、ぐんぐんと風に流されていく。雨が降りそうだな、と思ったのと額に水の感触を覚えたのとは、ほとんど同時だった。
「やだ、雨じゃん!」
少し高い女性の声が耳に入って、それが雨なのだと分かった。
傘は持ってきていなかったので、鞄で頭をかばおうとしたけれど、これは付き合って初めての誕生日に彼に貰った物だったことを思い出して、コートの内側にしまってボタンをしめた。
此処から一番近い屋根のある場所は、駅だろうか。雨が降ってきたから移動したと連絡しないといけない。綺麗に並んでいた会話が、途切れてしまうけれど。
唇を固く結んで走り出した時には本降りになっていて、駅に着く頃にはびしょ濡れだった。時間をかけて巻いた髪のパーマは解けて、コートは水を吸って重たい。ボタンを外すと、ひとつも濡れていない鞄が何てことのないすまし顔をしてそこにあったので、笑ってしまった。こんなみっともない姿になって、体の芯から冷えそうになりながら、私はいったい何を守ろうとしたんだろう。
私は彼に駅に居ることを連絡する気になれなくて、構内から外の様子を眺めていた。同じように雨止みを待つ人達は、隣に居る人とこの突然の不運に不平を並べ合ったり、携帯で誰かに連絡をしたり、大きなモニターで流れているウェザーニュースを見たりしていた。
暫くすると雨は止んで、さっきまでの様子が嘘だったみたいに明るい空が覗いた。
私が時計広場に戻ると、彼は何事も無かったかのように待ち合わせの場所に立っていた。服は濡れていないし、髪も乱れていない。整ったままの姿だった。
私の姿に気がついた彼が、柔らかい笑顔を浮かべてこちらに近寄ってくる。
「居ないから驚いた。びしょ濡れじゃん」
「駅に居たの。雨宿りしてた」
「俺も。駅に着いたら雨が降ってたから驚いた」
私がひとりで、何かにぽっかりと虚しくなっているあいだ、彼は近くに居たのだ。あの時、私が駅に移動したと連絡をしていれば、突然降ってきて濡れちゃったよ、なんて笑い話にできたのかもしれない。
彼とはそれから暫くして別れたけれど、きっかけは些細な喧嘩だった。だけど、別れの導火線に火が着いたのはこの日だったのだと思う。そこからじわじわと、色々な事が見え方を変えて私の心を蝕んでいって、最終的に爆発したんだろう。
彼との恋は決して綺麗な物語だったとは言えないけれど、きっと忘れることはできない。経験なんて前向きな言葉もそぐわないけれど、私の後ろに続く足跡のひとつだ。
雲の隙間から、光が射してきた。
待ち合わせの十三時を知らせる鐘の音が聞こえる。遅れると言っていたから、ここからもう少し待つことになる。慌ててやって来るのだろうと想像したら、つい口元が緩んだ。
「ごめん、ごめんね!」
思っていたよりもずっと早くが肩を叩いたので、私は驚いて目を瞬かせる。大きく肩を上下させ、額に薄っすらと汗をかいて張り付いた前髪、申し訳無さそうに下げられた眉。片手には濡れたビニール傘を持っていた。
「あれ、雨。電車だったよね?」
「止まったのが隣の駅だったから、そこから走ったほうが早いと思って。そうしたら雨が降ってきたから、コンビニで傘買って」
私よりも大変な思いをした彼が、ぼんやりと空を眺めて昔に思い馳せていただけの私に必死に謝る姿がなんだかデコボコで、いじらしかった。
「がんばってくれたんだね、ありがとう」
鞄からハンカチを取り出して彼の額に浮かぶ汗を拭うと、彼は満足そうに頬を緩めて頷いた。
「俺が早く会いたかったんだよ」
彼の言葉を聞いて、かちり、と何かが嵌る音がする。
本当なら、ときめいたという言葉が正しいのかもしれないけれど、違うのだ。 ”きゅん” じゃなくて ”かちり” 、 ”ときめく” んじゃなくて ”嵌る” 。
いつも新しい発見があって、それがパズルのピースのように私の心の隙間にぴったりと嵌る。そうして、彼が私を形作っていくのだ。




