094 表門開放
三公会議は、ミルドラルの発展のために行われる。
代表者が一堂に会し、多くの案件を話し合う。
名前から誤解されやすいが、三人の当主だけが問題を処理するのではないのだ。
「さすがにこの話は、漏れたらまずいのう」
「まずは私たちだけで処理するしかないですね」
コルドラードの呟きに、ルンベックは返す。
今回、文字通り、三公だけで話し合いを持った。
これから情報を共有する相手は、厳密に選ばねばならない。なにしろこれから……
――未開地帯に国をつくる
可能かと言われれば、「絶対に否」と皆が口を揃えるだろう。
だが現実に、町の大部分は、出来上がっている。
「あれが戦争の火種にならないことを祈ります。さもないと、我が領は真っ先に被害を受けそうですから」
新しい町から一番近いのは、フィーネ公領である。
もし戦乱がおきれば、フィーネ公領は足場として、まっさきに狙われる。
「そうならないためにも、根回しは必要でしょうね」
ルンベックは重々しく言った。
隠すべきときは、絶対に隠す。ただし、ひとたび発表したならば、なるべく正確な情報を発信し続けた方がいい。
そこでヘタに隠して、周辺国を疑心暗鬼に陥らせるのはよくない。
そしてルンベック、コルドラード、リグノワルの三人は当主である。
自家の利益を優先して考えねばならない立場。
各国の利益の調整をしつつ、文句のでない形で自国の利益を確保していく。
これを成し遂げるには、高度な政治的感覚と、全体を調整できるようなバランス感覚が必要になってくる。
「頭の痛いことですね」
「ああ、頭の痛いことじゃ」
リグノワルとコルドラードは、恨みがましい目でルンベックを見た。
やるべきことの大変さは、当主である二人はよく分かっているのだ。
「ですから、私も被害者ですって」
ルンベックの返答は変わっていなかった。
「そうそう、彼への説得は任せたぞ」
「えっ? 私がですか?」
「他に適任はおらんじゃろ」
「たしかにそうですが……そうですね、やっておきます」
ルンベックは不承不承頷く。
いかに正司に納得させるか。
正司が「ノー」と言った場合、あの町は戦乱の火種になりうる。
もし何の準備なく、町のことを各国が知ったら、どうなったか。
三人はそれを想像して、背筋をブルッとさせた。
何しろあれは、あまりに大きすぎる果実だ。
どこにも属していないただの町のままだったら、他国は絶対に無視しない。
町ができたので、みんなが移住しました。
めでたし、めでたし……では終わらない。
かならず政治的な思惑に巻き込まれてしまう。これは避けられない事実。
どこにも属していなければ、どの国でも、だれ憚ることなく接触できる。
「抜け駆けするな!」
「わが国が先に接触したんだ」
「ええい、わが国を無視するな」
熟れる果実を巡って、争いが起きるだろう。
そう遠くないうちに。
町が知れ渡れば、どうせ接触してくるのである。
ならば最初から巻き込んでしまえというのは、一見乱暴な提案だが、後々を考えたら、悪い手ではない。
何しろ、最初から一枚噛んでいれば、あとでイチャモンのつけようがないからだ。
そこで問題となってくるのが正司。
だからこそ正司を説得せねばならない。
正司は「棄民を救いたい」という願いから、あの町を作っている。
願いが純粋な分、政治的なしがらみに身を投じたくないのが予想できる。
だからといって、正司をトップに据えないと、それだけで揉める材料になってしまう。
ルンベックの責任は重大といえた。
「あとは発表の時期ですね」
「たしかにのう……」
リグノワルの言葉に、コルドラードがしばし悩む。
「なあトエルザード公よ。たしか王国には、港町のことは伝わっておるのだったな」
「そうですね。ただ、現時点では信じられていません。別の船の乗組員が同じことを言えば、それを疑う人はいなくなるでしょうけど」
「そうか。では発表は急がんと駄目だな」
二隻の船の船員が同じことを叫べば、まさかと思いつつも、信じる人が出る。
だれかが確認しに向かうだろう。
そうなれば早晩、港町のことは広まってしまう。
「いえ、発表は少し待った方がいいでしょう」
「どうしてじゃ? トエルザード公」
「タダシくんは、町や村に住めない者を救済しようとしています。それはいいのですが、彼らは税が支払えず、やむなく出て行った者たちです」
「うむ。仕方ないこととはいえ、気の毒な話じゃ」
「町に住みたくても住めないのです。そんな時、新天地があり、そこは彼らを受け入れる意志も場所もあると分かった場合、人々が殺到すると思いませんか?」
「時期が来るまで移動を制限……ああ、そうか」
もともと国の庇護下から外れた者たちだ。国の言うことも聞かないだろう。
町が人で一杯になる前に行けとばかりに、我先に押し寄せようとするかもしれない。
「じゃが、辿り着けぬぞ?」
「だからです。北を目指して移動しても辿り着けません。かといって、途中で受け入れる町がありません。最終的に未開地帯の前で立ち往生でしょう」
「それは困ります」
リグノワルが慌てた。
「そうか……立ち往生か。それはありえるの。不確かな情報に躍らされる者はかなりの数、出そうじゃな」
「そうなのです。もし発表するのでしたら、移動方法まで含めた方がいいでしょう。つまり受け入れ準備が完了してからの方がよいと考えます」
遠からず港町の噂は真実となる。
だからその前に発表を……となれば、不確かな情報に躍らされる者が続出する。
「国の上層部のみに通達して、早急に人材を確保するか。これは時間との勝負じゃな。そして民への発表は少し間をおく……そんなところかの」
「ええ、当面はその予定でいきたいと思います」
「よかろう。他国とも話し合いつつ、もっともよいタイミングを考えよう」
以上のようなことが話し合われ、会議は終わった。
コルドラードとリグノワルは正司の魔法で自領へ戻っていった。
これから三人は、家臣にいまのことを話し、準備を整える。
そしてルンベックには、もうひとつ仕事が残されていた。
正司の説得である。
ルンベックはリーザを伴って、正司のところへ向かった。
リーザはいまだラクージュの町にいる。というより、未開地帯の町へ、二度、三度と足を運んでいる。
実はルンベックが会議をしている間にも、正司に頼んで町の見学をしていた。
なぜ何度も? とルンベックが不思議がる。
「すでに巻き込まれてますもの、早めに隅々まで理解しておいた方が安心できます」
もうリーザは、腹をくくったらしい。
そもそもリーザは、巻物でラクージュの町へやってきた。
そして港町が正司の仕業と知った時点で、いろいろ諦めていた。
もし後悔があるとすれば、首に縄をつけてでも、戦場に同行させればよかったことくらいだ。
「えっ、国になるんですか」
「そうだ。まず、話を聞いてほしい」
露骨に引いた素振りをみせる正司に、ルンベックは丁寧に説明する。
正司に誤解されては元も子もない。ここは正念場である。
忍耐強く、「いかに国として機能させることが重要か」を噛み砕いて話して聞かせた。
「……つまり、いま町に人を呼び寄せると、大変なことになると」
「その通りだね。そして問題が発生する。もしそれを場当たり的に対処しても効果は薄い。根本的な解決にはほど遠いだろうしね」
「うーん、言われてみればそうですね」
正司は最初、砂漠の集落、もしくは薬師クレートと出会ったときの集落をイメージしていた。
集落は、町や村を追い出された人々が寄り集まって暮らしていく場所である。
それを未開地帯に作りたかったのだ。
だが、集落と町では規模が違う。
ルンベックの言うとおり、他国からの干渉は十分考えられる。
「ねえ、タダシ」
「なんでしょう、リーザさん」
「タダシは旅の途中で出会った人たちを救いたいんでしょう?」
「そうですね。あと、砂漠やその周辺に住んでいる人たちもですね。……彼らが希望すれば、町で一緒に住みたいと思っています」
「でもこのままだと、本当に問題だらけになるわ。それは私も分かる。問題を先送りにすればするほど、面倒事は積み上がっていくもの」
「それは分かります。博物館のときもそうでした。あれほど下準備をしたのに、いざオープンしてみると、見えてなかった問題がどんどん出てきてしまいました」
博物館は正司にとって、とてもよい経験になった。
たかが博物館ひとつ……とは思えないほど、多くのことを学んだ。
多くの人を雇うには、雇う側にも準備がいる。
ものを揃えるには、目利きが必要である。
事務仕事に広報の仕事……結局、だれかの助けを借りなければ、たとえ見切り発車でオープンさせたとしても、早晩大きな問題が発生したと考えられる。
「今回は町なの。それも二つ……いえ、今は二つの町といった方がいいかしら。トラブルは博物館以上になるのは分かるでしょう?」
「はい……その場合、博物館におけるレオナールさんのような人を雇うのでは駄目なんでしょうか」
レオナールはいま、博物館の総支配人である。
いつも現場にいられない正司に変わって、博物館を切り盛りしている。
「そういう人物も必要だと思うわ。各町の領主は絶対に必要だもの。だけど、それを束ねる者も必要なのよ」
結局、正司が作った町なのだから、まずは正司がトップに立たねばならない。
実際に管理する者は別に指定できるのだから、経験豊かな者を充てればいい。
そんな話をされて、正司は納得した。
トップを引き受けた後になって……
「……あれ? 国をつくるって話でしたよね。そのトップ?」
と真相に気付くのだが。
エルヴァル王国の王都クリパニア。
ここにも、トエルザード家の屋敷がある。
オールトンは立派な机の前で、次々と差し出される書類を半泣きで処理していた。
先日まで、面倒な処理はすべてリーザが行っていたが、今はいない。
扱っている書類は、王国との折衝案件ばかり。
これは余人に任せられるものではない。
どれほど泣きたくなっても、オールトンが決裁するしかない。
「ん? ……ビックリした。いつ戻ってきたんだい、リーザ」
ふと気配を感じて、オールトンが顔をあげたところ、すぐ近くにリーザの姿があった。
オールトンが部屋の出入り口に目をやる。
重厚な開き扉は閉じられたままである。
秘書や書記が目を丸くしていることから、彼らもリーザが来たことを知らなかったようだ。
「帰ってきたのはちょうど今です、叔父さま。和平交渉はどうなりました?」
「交渉は順調に平行線だね。それよりラクージュの町はどうだったのかな。そっちの話を聞きたいのだけど」
先日リーザは、王都にやってきた船乗りたちの話を聞くやいなや、オールトンに後を任せて、巻物でラクージュの町へ戻ってしまった。
今回持ち込んだ巻物のうち、〈瞬間移動〉だけは、なるべく秘匿するようにと、ルンベックから言われていた。
王都からラクージュの町まで、馬をとばせば五、六日で着く。
もっと急ぐならば、鳥を使えばいい。
それ以上の用件など、ほとんどない。
だが今回、リーザは躊躇うことなく巻物を使った。
それだけリーザにとって、船乗りたちの噂は看過できないものであった。
そしてリーザを送り出したオールトンは、一人で和平交渉へと挑まねばならなかった。
といっても、和平は双方の合意がされており、不調に終わることはない。
あとはどれだけ「毟れるか」の話だ。
相手は八老会という海千山千の商人たち。
彼らは、なんとか損害を減らそうと、交渉に全力を注いでくる。
そのため、連日オールトンは、厳しい戦いを強いられていたりする。
「向こうの屋敷でタダシに会ったわ……けど、ここでその話はちょっと」
リーザは周囲をチラッと見る。
書類仕事をしているのは今回連れてきた秘書や書記たち。
ほかにも王国在住の家臣たちもいる。
「そんなにかい?」
まさかここにいる家臣たちにすら聞かせられない話なのかと尋ねた。
「ええ、そうです」
リーザはキッパリとそう答えた。
しばしオールトンは目を閉じる。
「……よし、お茶にしよう。庭で少し話そうか」
建物内では、だれが壁に耳を当てて聞いているか分からない。
ならばどうすればいいか。盗み聞かれるほど近くに人がいなければいいのだ。
「ここならばだれにも聞かれないよ……というか、今からキミがする話、ものすごく聞きたくないのだけど、いま聞いておかないと後悔するよね?」
「まあ……そうですね」
「だったら仕方がない。話を聞くよ。それで何があったの?」
「船乗りの話は真実でした、叔父さま」
「巨大な港町を見たって、アレかい?」
「そうです。タダシが関わってと予想したのですけど、それも当たり。大いに関わっていました」
オールトンは額に手を添えてうつむいた。
「タダシくんの巻物の威力はこの目で見たから……まあ、想像できるような気もしないでもないけど……えー、でも町だよね。可能性はあるのかな? でも……」
妙に歯切れが悪い。
噂はあくまで噂。そんなはずがないとオールトンは考えているようだ。
未開地帯はホイホイと踏破できる場所ではない。そこへ巨大な港町の噂。
オールトンは、どこのお伽話だと一笑に付すレベルの戯言だと思っていた。
だが、リーザは真顔になって、あまつさえ巻物で実家に帰ると言い出した。
酔狂にも程がある。
もしかしたら王国との交渉をまとめるのが嫌になったのかと考えたほどだ。
「それどころか噂以上です、叔父さま」
「本当に、本当?」
「ええ、まったくもって本当です……いえ、真実はもっと残酷です」
そのあとリーザは、他にも町があること、城ができていること、いまは町も二つだが、場所さえあれば、いくらでも増やせることを話した。
「…………」
まさに絶句である。そして考えた。
なるほど、リーザの懸念は正しかったのかと。
船乗りのヨタ話を真に受けたのは、ほとんどいない。
さすが兄の娘だと感心したほどだ。
同時にオールトンは、背筋に冷たいものが走った。
未開地帯の北端に巨大な町ができた意味は、最初思っていたよりもはるかに重大事だ。
「というわけで叔父さま。和平交渉を早急にまとめてください」
「ん?」
「連れてきた兵はどうしています?」
「順次……ミルドラルに戻しているけど」
すでに王国は、降伏の意をこちらに伝えてきた。
オールトンが代表してそれを受けた。
その直後、王国は自国民に対して、王国の降伏を発表している。
王国は軍を即時解散、雇った傭兵の契約も解除した。
それを受けて、ミルドラルも少しずつ兵を母国へ移動させている。
いまはその途中だ。
これ以上の戦いは、双方ともしないという合意はなされている。
王国による一時金の支払いもあり、物資の援助も行われている。
王国とミルドラルの最終合意は間近に迫っていた。
いまオールトンを悩ませているのは、八老会との交渉である。
今回の落としどころは、八老会から財産をなるべく多く供出させ、八老会を政治に介入させないこと。
交渉で八老会の活動に枷をつけようとしているのである。
そしてそれは難航していた。
オールトンは日に日にやせ細る思いを味わっている。
「ねえリーザ、いま……早急に合意って言ったかな」
「ええ、できれば十日以内に……は難しいでしょうから、十五日以内でお願いします」
「二、三日に一度の交渉でも、かなり精神的に参っているのだけど……一日おき、もしくは毎日やれと言うつもり?」
「それが必要だと思うのでしたら、ぜひ」
「いやあのね……さすがにそれは……というか、どうして?」
「一生懸命裏門をこじ開けようと攻めていたら、表門が吹き飛んだのですよ、叔父さま」
「?」
「もうすぐ王国との和平交渉が『どうでもよくなる』くらい、大きく世界が動きます」
「王国というより、八老会との交渉なのだけど……それがどうでもいいの? こんなに頑張っているのに?」
「ひしゃくで畑に水を撒いていたとします」
「うん?」
「途中で雨が降り出したら、叔父さまはどうします?」
「水を撒くなんて無駄なことは止めるかな」
「それと同じです。ここで八老会から少しばかり多く毟ることに何の意味もなくなりました。多少譲歩してもいいですから、早急に話をまとめちゃってください」
「……町の話、もう少し詳しく説明してくれるかな」
「ええ、そうですわね」
リーザは建国する話と、今後の国家間紛争を無くさせるために、各国を建国に一枚噛ませる話をオールトンにした。
この辺はすべてルンベックから聞いた内容である。
いまオールトンに話しているリーザですら、信じられるレベルを超えている。
そのため、黙って聞いていたオールトンは……「はう!」と叫び、その場で頽れた。
精神の限界を超えたのである。
それからのリーザは凄まじかった。
もともと彼女の能力は高かった。
影に日向に努力し、能力に相応しい知識と経験も手に入れていた。
リーザが頑張れば頑張るほど、彼女を次の当主に推す声が大きくなってしまった。
そこで最近は、何事にも力をセーブするクセがついていた。
今回の和平交渉も、リーザが下準備を行い、オールトンがそれを使って交渉に臨んだ。
だがオールトンは、リーザ不在の間に溜まった心労がどうやら想像以上に大きかったらしく、倒れてしまった。
少し気分転換をして、療養してから……などと悠長なことを言っているヒマはない。
リーザは久し振りに表に出ることにした。
交渉相手は、あの八老会。
本来ならば、準備に準備を重ねて挑まねばならない。
だが今、リーザの思考のほとんどは、正司関連で占められていた。
(早く帰らないと……)
やはり正司はフリーにしてはいけない人物。
だれかがずっと一緒にいなければならないのだ。
この和平交渉を終わらせて帰っても、実家では問題が山積み。
ならばこんな交渉、とっとと終わらせてしまおう。
自重を忘れたリーザは、次々と相手を論破し、追いつめ、震え上がらせた。
「上の者に相談してきます」そう言い逃れようとする交渉者に対してリーザは……。
「不要! ここで決められないのなら、次から上の者を寄越しなさい……いえ、いいわ。今から行きます」
「い、今からですか?」
「どこ? 案内なさい」
「い、いえ……それは……交渉は私が任されていまして……」
「決断できない交渉役なんて、羽虫ほどにも役に立たないわよ。すべてを捨てて逃げ出すなら追いはしない。……けど、次にそんな甘ったれたことを言った瞬間」
「い、言った瞬間……?」
「その使えない舌を七つに裂いて、それぞれにリボンを結んであげるわ。さあ、どうするの?」
「あ、案内しますっ!!」
結局すぐに交渉役の上司をコテンパンにして、そのまた上司も同じ運命。
その日のうちに、なんと八老会のトップ……商会長本人と交渉することになった。
「まさか、ミルドラルの当主ならばいざしらず、ワシらと直接交渉などと……甘く見ると後悔……」
「いいから話をまとめるわよ」
クワッと般若に早変化したリーザは、目を剥く八老会相手に、タフな交渉を仕掛けるのであった。
そして十日後、リーザは王国ならびに八老会との交渉を『無事』終えた。
双方の代表者が調印を済ませる。
合意内容は、即日発表された。
この後、平和記念式典およびそのパーティへと移行する……予定だったが、リーザはそれらをすべて辞退し、ラクージュの町へ帰るのであった。しかも巻物で。
「……な、何だったんだ」
八老会のだれかがそう呟いたが、だれもその理由を知ることはできなかった。
博物館で宣伝部を切り盛りしているファファニアは、今日も上客と会っていた。
オープン前、宣伝で回った各所へ、オープン後にも挨拶回りをする。
そうやって継続的な関係を構築していく地道な作業をファファニアは率先して行っていた。
「えーっと……午後は、あら、アキミラン様ですわね。お会いするのは久し振りかしら。懐かしいですわ」
アキミランは、バイダル公領の南にある町の領主である。
本来領主がラクージュの町へなど、なかなか来られるものではない。
「博物館の優待チケットを手に入れたのでしょうね、うふふ……」
確実に他領にまで宣伝効果が届いている。
それはファファニアとしては嬉しいことだった。
午後、アキミランと会談したファファニアは、自分の想像が正しかったことを知った。
ルンベックと歳がさほど違わないアキミランは、過去に何度かルンベックと交流があったらしい。
今回、そのツテで博物館のチケットを手に入れて、こうしてわざわざラクージュの町へやってきたのだという。
「それにしても、ファファニア様。毒にやられたと聞いたときは、驚きましたが」
ファファニアの父ジュラウスは、毒の治療のために各地へ手紙を出し、治療魔法使いや、ポーションの手配をお願いした。
もちろんアキミランのところへもその書簡が届いている。
アキミランとしては、まさかこうしてファファニアと生きて会えるとは思っていなかった。
何しろ、書簡にはファファニアの症状が書かれており、それを読んだ限り、生存は絶望だと思ったのだ。
「ええ、とても幸運なことがおきましたので」
それは運命のいたずら。余命幾ばくもない状態で、まさかピンポイントでファファニアを治療できる者が町を訪れるなどと、だれが想像できようか。
完全回復したあと、ファファニアは己に降りかかった幸運に感謝した。
そしてもっとも感謝した相手は、正司である。
「しかし本当によかった」
「ええ、まったくですわ」
幸せそうに話すファファニアを見つめるアキミラン。
彼女の口ぶりからも、心に深い疵痕が残っているようには見えない。
それどころか、楽しい思い出を話す素振りさえみせる。
(旅の魔道士が治療したと聞いたが……)
アキミランは率先して情報を収集したわけではない。
それでも奇跡的な回復をしたファファニアの噂は、アキミランの町にまで届いた。
昨今、各国のあちこちで魔道士の噂が囁かれている。
これまでそんな噂は煙すら立たなかったにもかかわらずだ。
まるで今は、魔道士の大安売り。
だれかがどこかで魔道士の情報を流しているのだろう。
真実とはほど遠い情報を吹聴している者がいるに違いない。
アキミランはそう思うものの、その目的は分からない。お伽話のような魔法を使う魔道士などいないと思うだけだ。
ただ目の前のファファニアが幸せそうに話す姿だけは、印象に残った。
「おかえりなさいませ、お嬢様」
「ただいまですわ、じい」
ファファニアが屋敷に戻ると、シャルマンが出迎えた。
普段のファファニアならば、すぐに自室で着替えをする。
だが、ファファニアが自室に向かおうとする前にシャルマンが近づいてきた。
ファファニアは予定を変更して執務室へ向かう。
「なにかありましたの? じい」
「先ほど、使者がこれを持ってきました」
バイダル公家の印が押された書簡が差し出された。
ファファニアの祖父コルドラードからのものである。
ファファニアは無言で封を切り、中の手紙に目を通した。
「……じい、使者はどうしました?」
「一旦屋敷から下がらせました。明日の朝、来るように伝えてあります」
「ありがとう。いま返事を書きますけど……正直悩みますね」
「なにか?」
「実家にすぐに戻るようにと書いてありますの。ようやく博物館も大小のトラブルを克服したところですのに……」
手紙には「至急帰還すべし」という内容が懇切丁寧な文面で綴られていた。
「なぜ今になって……」
さすがにシャルマンも訝しんでいる。
いまはこの町で地盤を固めるとき。用があっても手紙のやりとりで問題ないはずだ。
「まさか使者にすら託せない何かがおきた……なんてことはないですわよね」
「さすがにそれは……考えすぎでは?」
「だとすると、すぐに帰ってこいという無茶な要求は、なぜなのかしら」
「こちらから人をやって確認しますか?」
「いえ、いいわ。帰ります。印も本物ですし、使者も見知った者だったのでしょう?」
「ええ、何度か手紙を運んできたことがある者です」
「でしたら帰った方がいいでしょう。じい、わたくしが返事を書いている間に、護衛の手配をお願いするわ。信頼がおけて腕の立つ者を三人以上集めてください」
「畏まりました。すぐに手配致します」
翌朝、ファファニアは博物館に赴いた。
事務所に顔を出し、実家で急用ができたため、一時帰国する旨を伝えた。
ファファニアの仕事の中で代替できないものがいくつがあった。
それはファファニアが相手に手紙を認める。
残った他の仕事は宣伝部の職員へ均等に割り振る。
午前中一杯使って、引き継ぎは終わった。
「最近、タダシ様がおられないのが寂しいですわ」
帰郷前の挨拶と思ったが、今日も正司は博物館に顔を見せなかった。
「数日前に一度顔を出したきりですね」
事務所の職員はそんなことを言った。
「普段、外を廻っていることが多いので、なかなか会えませんわ」
「そういえば、そのとき変なことを言っていましたね」
「何を? タダシ様は、何と仰ってましたの?」
食いつくファファニアに、職人はやや引き気味に答えた。
「たしか……甘えてばかりでは前に進めない、乗り越えてこそそこに幸せがある……とか」
「甘えてばかり……どういうことでしょう」
「小声ですけど、逃げては駄目なんですねと言っているのを聞きました」
「……なるほど、タダシ様は頑張っておられるのですね。でしたらわたくしも頑張らねば」
「いまので、分かったのですか?」
不思議そうに事務員が聞いてくる。
「ええ……きっとタダシ様が『ノー』と言えば、だれかが代わってくれるのでしょう。ですが、あえてそれをせず、自ら引き受けた……わたくしはそう解釈します」
「なるほど」と納得する職員。
ちょうどそのとき、護衛兼侍女のランセットがやってきた。
出立の準備ができたという。
「仕事の引き継ぎは終わりましたわ」
「では」
「はい、出立致しましょう」
ラクージュの町は盆地にあり、出立すれば登りより下りの方が断然長い。
今から出れば夜には次の町に着く。
「タダシ様、すぐに戻ってきますわ。お待ちになっていてくださいませ」
走り出した馬車の中で、ファファニアはそう宣言した。
翌日からの旅は、初日のようには進めない。
緩やかな登りと下りを繰り返し、馬車はゆるゆると進む。
そしてファファニアがウイッシュトンの町へ着いたのは、出発してから七日目のことであった。