074 謎は深まるばかり
ルンベックと正司の話は続く。
〈土魔法〉で壁を作る計画は、王国の野望を打ち砕く一手となる。
もちろんこれは正司の魔法をアテにしたもの。
そして正司は大賛成だったりする。
壁ひとつで争いが回避されるならば、それに越したことはない。
正司は本気でそう考えている。
「レジルオール殿はラマ国の国主だが、何でも自分の好きに決められるわけではないからね。各方面の代表者たちと事前に話し合う必要はあるだろうね」
なるほどと、正司は思う。
日本の総理大臣だって、派閥外の意見を取り入れたり、野党に譲歩することもある。
トップだからこそ、各方面への配慮が求められるのは、もっともなことだ。
「そういうとき、意見が割れると大変そうですね」
「直接、利害関係が絡むと人は頑固になるね。けど、全力を尽くすと約束してくれたから、私たちはそれを信じて待てばいい。悪いようにはならないと思っているよ」
ルンベックは楽観しているようだ。
こういう事態になるのはルンベックの予想通りであり、それを含めて成功すると判断しているのかもしれない。
「しばらくは待機になりますね」
「そうなるね。私は少し動くつもりだが、タダシくんは自由にしていいよ。働いてもらうのは最後だからね」
国主の許可が出れば、即日壁を作ることになっている。
ちなみにトエルザード家の場合、派閥争いがあるため、家臣全体へ意見を落とす前に、メリットとデメリットをすべて抜き出し、できるだけデメリットを消しておくのだという。
ラマ国の政治制度はトエルザードと違う部分があるものの、調整の段階で反対意見が出てくると予想される。
レジルオールは、壁の設置に前向きな考えなので、彼らの説得が調整の主な仕事となるようだ。
よってレジルオールは、デメリットを減らす方法を部下たちと考えるようだ。
「やはりデメリットもあるんですか」
「少しだけど、あるかな。たとえばこの町に何かあったとき、帝国側に逃げられなくなるのは大きなマイナスだと思うね。戦争にしろ、魔物の出現にしろ、逃げ道を一本失うのはやはり痛い」
「なるほど……他にはどんなのがあるんですか?」
「王国とミルドラルは港を持っている。もちろん帝国もね。唯一、持っていないのがラマ国だ。そしてこれから先……そうだね、三十年後を考えてみよう。技術革新が進み、大きな船が何隻も建造可能になったとする。どうなると思う?」
「ラマ国以外で商業圏が出来上がるわけですね」
「そういうこと。流通でラマ国だけが取り残される可能性が出てくる。これは国として、大きなマイナス要因となるだろうね」
結局、現時点では壁があった方がよいものの、将来的には分からない。
ならば今のように門を設置しておく方がいいのではという意見が出るだろうとルンベックは言った。
ただその場合、ラマ国を脅せば門を開くだろうと、王国が行動を起こす可能性がある。
門があるために戦争になるかもしれないのだ。
結局、メリットとデメリットを照らし合わし、どちらが得かを判断することになる。
「戦争回避以外に、メリットはありますか?」
「そうだね……まず、王国と帝国双方から攻撃を受けることはないだろうね。行き来できないならば、ここはもう魅力的な場所ではなくなるだろうし」
「そうですよね」
「そうすると、軍事費が大幅に抑えられるかな」
「戦争の心配が減るからですか?」
「壁ができることによって、帝国側の監視が不要になるだろ? 山を登って常時監視しつづけるのは、存外骨の折れることだと思うね。それとタダシくんが言ったように、戦争の可能性が減るから、ある程度の兵力は削減できる」
するとどうなるか。
余剰人員は生まれ、それを生産に回せる。
作物を育てたり、製品を造ったりと、兵士としてこれまで生産活動に従事していなかった者たちが、一斉に生産活動をするのだ。
一時的に、国力が上がることが予想される。
「もとは兵ですし、健康で体力がありますから、なんでもできますね」
「そう。鉱山労働者になってもいいし、傭兵として活動してもいい。すると、これまで村や町が作れなかった地域にも、進出できるかもしれないんだ」
壁ができることによって、そこに割いていたリソースを他に移すことができる。
これはメリットとして、とても大きいとルンベックは言った。
「ぜひ賛成してくれるといいですね」
「国主が多くの人の意見を吸い上げた上で決めてくれるそうだから、期待して待っていたいね」
壁ができることによって、戦争が回避できるばかりか、国力まで上がる。
(デメリットもあるようですけど、こういうのは、なるべく多くの人に賛成してもらいたいです)
結果は数日待たねばならない。
そしてルンベックは、ただ漠然と待つつもりはないようだった。
翌朝、ルンベックは「知り合いの所へ行ってくる」と言って、朝早くから出て行ってしまった。
懇意にしている人物が、ボスワンの町にいるらしい。
(私も知り合いを尋ねてみましょうか。昨日は孤児院ですから今日は……クリミナさんのところへ寄ってみましょう。あの洞窟のことは、ずっと気になっていましたし)
危険な斜面で暮らしていた棄民たち。
そこに住むクリミナにお願いされ、正司は〈土魔法〉で崖に階段をつくった。
それだけではなく、穴に住んでいた人たちのために、ちゃんと住めるよう洞窟の形を整えたりもした。
「――あっ、タダシ様!」
正司が顔を出すと、クリミナが驚いた表情で迎えた。
「お久しぶりです、クリミナさん。用事があってこの町に来たのですけど、クリミナさんたちの様子が気になったので、こうして来てみました」
「それはそれは気に掛けていただいて、ありがとうございます。わたしたちは、こうして元気にやっています」
洞窟は正司の記憶通りのまま、そこにあった。
ただし、住んでいる人たちの数が違う。
「……人が増えました?」
明らかに以前より増えている。
正司とクリミナが洞窟で話していると、奥から、ぞろぞろと人が出てきた。
やはりというか、相当数の人がここで暮らしているようだ。
「そうですね……タダシ様が来られた頃の……三倍、いえ四倍近くに膨れあがっています」
「四倍……そんなに増えたんですか!?」
さすがに正司も驚いた。
洞窟を拡張してから今日まで、まだ数ヵ月しか経っていない。
何があったのかとクリミナを見ると、彼女は非常に困ったような、なんとも表現しがたい笑い顔を浮かべた。
「タダシ様、孤児院へは行かれました?」
「はい昨日、顔を出しました」
「子供たちが増えて驚いたのではないですか?」
「そうですね、倍になっていました」
「ここも似たような感じです。町を出て行かざるを得ないような方々が、大挙して押しかけてきまして、一時は喧嘩も絶えなかったのですが……」
聞くところによると、この町には税金は払えるものの、他に余裕のない人たちと、税金が払えるか払えないかギリギリの人たちが数多くいるらしい。
そこへもってきて、魔物が出なくて安全な住み処の情報が町中に流れた。
この場所を占拠しようと大人たちの集団がやってきたらしい。
もともとここは、足腰の弱い者が半数ほどいて、残りの者が危険な斜面を下りて町で手間仕事をしてくることで暮らしていた。
健康な大人が十人も集まれば、容易く蹴散らされてしまう。
だが、そうはならなかった。
「そうはならなかったのですか?」
「はい。国主様が手を回してくださって、兵を派遣してくれたのです」
「どういうことです?」
「ここは町として認められていない場所ですので、本来は兵の管轄外です。いえ、今でも管轄外ですけど、国主様のお言葉添えがあって、この場所の占有権がわたしたちにあることになったのです」
村や町ではないので、追い払われたとして、誰にもどこにも訴え出ることはできない。
それが分かっているからこそ、占領しようとした大人たちが出たらしい。
国主が指示を出し、兵が仲裁に入ったようだ。
「それで占有権がクリミナさんたちにあると認められたわけですね。それは良かったです」
ラクージュの町では、町外区域に商人たちが勝手にやってきて、場所を占領した。
あれを見たとき、正司は本気で怒った。
「兵の方々が横暴な人たちを追いだしてくれました。ただ、できれば、なるべく多くの人を受け入れてほしいと言われました」
洞窟とはいえ、ここは住居として十分やっていける。
町へ下りる階段もある。
ここは多くの人がうらやむ環境である。
ならば、それを自分たちだけで享受しないで、困っている人たちは受け入れてほしいと言われたらしい。
クリミナたちはいろいろ話し合って、ひとつの結論を出した。
もともとここは、働ける者が働けない者を養いつつ暮らしていた。
そのルールに従うならば受け入れると。
そうして一人増え、二人増え……ていったらしい。
怪我をした人や老境に入って満足に働けない者たちを受け入れたりしていたら、いつの間にかこのように膨れあがってしまったらしい。
「でも四倍はさすがに想定外でした」
「そうですね。わたしも驚きです。でも町にはまだ仕事がありますので、この先も何とかやっていけると思います」
ちなみに今日、クリミナは午後から仕事があるらしい。
さすがに連日、朝から晩まで仕事がある人は少ないが、働けない人の分を補っても、食べていけるだけの収入は得られるという。
「タダシ様に造っていただいたこの住居で、多くの人が魔物や飢えから解放されました。みなさん、本当に感謝しています」
クリミナは深々と頭を下げた。
「私はやりたいと思ったことをやっているだけですから。それに、すべての人を救えるわけではありません。それでも目の前で困っている人がいたら、手を差し伸べたいとは思っています」
目の前の困っている人を助ける。これは偽善である。
だが、幸福の考え方は、人によってまったく違う。
金があればいいという人もいれば、愛が必要と考える人もいる。
すべての人を幸せにすることなどできないし、それができるとも思えない。
だからせめて目の前の人たちだけは笑顔にしたいと正司は思っている。
そんな話をクリミナにすると、「さすがタダシ様です」と真顔で言っていた。
人が増えれば争いも増える。
それを含めて、クリミナは今を楽しんでいると。今が幸せだと正司に伝えた。
「人が増えたのでしたら、洞窟を拡張しましょうか?」
正司がそう告げると、クリミナは曖昧な笑みで首を横に振った。
たしかに住む場所が増えるのは嬉しい。
だが、現状を見ると、場所が増えれば増えただけ、人が外からやってくるらしい。
その分、町からあぶれる人が減るから、一見良いことのようにもみえるが、最近、別の問題が持ち上がっているという。
「一般の方々からの風当たりが強くなっていますから」
クリミナたちは、税金を一切払っていない。
ただし、住んでいる場所は町のすぐ近くで安全な場所。
それがおもしろくない人もいるらしい。
あまりクリミナたちが優遇され過ぎると、この先なにがおきるか分からない。
住む人が増えても同じだ。だからこのままの方がよいのだという。
「分かりました。でしたら、気付かない範囲で少しだけお手伝いさせてください」
正司はクリミナの話を聞いて、居住環境を少しだけいじった。
使いにくいところを修正したくらいだが、それで十分だという。
「それではまた寄らせてください。ちょくちょく顔を出すようにしますから」
「気に掛けていただいて、本当にありがとうございます。タダシ様が造られたこの洞窟の家を守り、わたし達は目立たず、暮らしていきます」
「いや、守らなくていいですから。普通の洞窟ですし……それでは私は行きますね」
正司はクリミナと別れて、人通りの多い繁華街へ向かった。
左右には店が並んでおり、人々が大通りを行き交っている。
(以前より、歩く人が増えたでしょうか)
町を歩くと、たった数ヵ月前とは違い、多くの人の姿がある。
(やっぱり増えていますね。食料が不足していると聞きましたけど、こういう些細な人口増加が一役買っているのかもしれません)
正司は荷運び人のいる店に着いた。
「こんにちは、カールさんはいますでしょうか」
店先にいる人に声をかけると、今は出ているという。
一旦出直すかと思ったところで、通信の魔道具を思い出した。
(これで連絡してみましょうか)
すでに何度か正司は、カールやクリスティーナと連絡を取り合っている。
といっても状況報告を受けただけで、何か問題が生じたわけではない。
カールもクリスティーナも取り立てて用がなければ、正司に連絡してこない。
少なくとも、雑談しに連絡を寄越すことは一度もなかった。
「カールさん? タダシです。いま大丈夫ですか?」
『これはこれは、タダシ様。はい、私は大丈夫です。何かありましたか?』
「いまカールさんのお店の近くに来ているのですけど、どうやら出ているようでしたので、連絡してみようと思い立ちました」
『そうでしたか。私はいま、ガババの屋敷に来ています。最近王国商人の動きが活発なもので、対応に追われていました』
「そうだったのですか。たとえば私がそこへ行っても大丈夫ですか?」
『ええ、ぜひ来て下さい。ちょうどよかった。それでご意見を頂戴できればと思います』
「何か変わったことを話せるわけではありませんけど……では行きますね」
正司は路地裏に入り、ガババの屋敷へ跳んだ。
ここは以前、正司がクリスティーナと出会ったあの古びた家である。
「カールさん、どこですか?」
「こっちです、タダシ様」
二階の小さな部屋にカールはいた。
カールの足下には木箱が置いてあり、中には山のように紙片が積み上がっている。
この部屋は書庫として使っているらしく、壁は本で埋め尽くされていた。
また扉のある壁には、この町の地図が貼られている。
「お忙しそうですね、カールさん」
カールは荷運び人たちの親方と、町の情報屋に加えて、クリスティーナから怪盗ガババそのものを引き継いだ。
おそらく目も回るほど、忙しいのだろう。
「王国への対応に追われて、なかなかご連絡できず、申し訳ありませんでした」
「いえ、きっと忙しいのだろうなと思っていましたから。それで、何かありました?」
「タダシ様こそ、店に来ていただいたようですけど、私に用があったのではないのですか?」
「知人の付き添いでこの町にきたものですから、様子を見に寄ったくらいです。ですので、私のほうはまったく気にしないでください」
「そうでしたか……でしたら、少しこれを見ていただきたいのです。できれば意見を伺いたく思います」
カールが取り出したのは、各種商会の資料。
ざっと目を通しただけでは詳細は分からない。
「これはなんですか?」
書式が整っているので、どこかに提出されたものだというのは分かる。
「これはクロヴィルの町の商工会議所に提出された資料を転記したものです。クリスティーナ様から送っていただきました」
クロヴィルの町とは、クリスティーナが嫁いでいった町の名である。
「新規開業届ですか。所属はみな王国商会ですね」
「はい。つい最近、王国の商会がこぞってこれを提出してきたようです。聞くところによると、町の一等地を共同で買い上げたり、すでに使われている店舗に大金を支払い、場所を譲り受けた商会もあるようです」
「話を聞く限りだと、クロヴィルの町で商売を頑張ろうとしているように見えますが、それだと数が問題ですね」
手元にある資料の束は、ざっと数えても三十枚以上。
これらが一斉に開業届を出す意味は分からない。
「いま他の町でも調べさせていますが、王国の商会が進出を狙っている町は、他にもありそうです。正規の手順を踏んでいますので、開業届を突っ返すわけにもいきませんし、そもそも開業は自由です」
「そうですよね……でもなぜでしょう?」
「クリスティーナ様も、そこで頭を悩ませています。新手の策略かと考えているようですが、町に店を出してどんな罠があるのか、見当もつきません」
「そうですね、私も分かりません。ならばこれは偶然……とも思えませんね」
「はい。実は近くの町でも似たような話を聞きました。さすがに商工会議所の資料は取り寄せられませんでしたけど」
「ああ、なるほど……この資料は、クリスティーナ様が領主の妻だからこそ入手できたわけですね。ということは、普通はここまで資料が手に入らないわけですか」
「ツテを頼れば、それなりに情報は集まりますけど、そうなります。そして問題は、これをどう解釈したらいいのか分からないことです」
正司の意見を聞きたいとは、このことだったのかと理解するものの、正直正司も分からない。
「申し訳ありません。これだけでは私も何が何やら……他に変わったことはないですか?」
開業届ラッシュの意味は分からない。
判断となる材料が少なすぎるのだ。
「他ですか……そうですね、この町ですと、荷の搬入と搬出の量が増えています」
正司が出て行った直後は、戦争の話が持ち上がり、ボスワンの町へ入ってくる商品が激減したらしい。
戦争の噂が消え、それを補うように直後から荷物がどんどんと入ってきた。
それが今でも続いているらしい。
「あれ? つい先ほど、この町は食料不足らしいと聞きました。物がなくて、物価が上がっているのではなかったのですか?」
「それは事実です。食料や生活必需品の値段は上がり続けています……そう考えるとおかしいですね」
物が大量に入ってきているならば、そろそろ値上がりが落ちついてもいいはずである。
だが現実は違う。宿屋でも孤児院でも「物の値段が上がった」と認識している。
「荷の搬入が増えて、搬出も増えているのですよね。入ってきた量と同じだけ出て行っているとかではありませんか?」
「いえ、おそらく違うと思います。出て行ったのはボスワンの町の特産品などだと思います。それを扱っている商会はみな覚えていますので」
ボスワンの町の特産と言えば、木材と鉱石の類いである。
特に鉄鉱石は、良質なものが絶断山脈から算出されるため、町のよい収入源となっている。
「とすると謎だけが残りますね。この町は開業届が数多く出されたりしている兆候はあったりしますか?」
「さすがに新規開業は無理だと思います。もはや余っている土地も建物もほとんどありませんので」
あるにはあるが、それは町の外れであり、商売には向かない。
もともとこの町は割り当てられる税が高い。
繁華街はいくつかあるが、そこへ多くの店舗が集中している。新規参入はかなり難しいとのこと。
その他の場所は人通りは少ないため、店舗はとてもではないが、やっていけない。
倉庫くらいしか使い道がないだろうとのことだった。
「なおさら分かりませんね。なぜ荷の搬入が増えて物の値段が上がり続けているのでしょう」
正司の現代知識でも、何が行われているのか、まったく分からない。
ここへきて、急激に何かが動き出した。
それが分かるだけ、一層不気味さが増してしまった。
「この町で王国の商会がコソコソと動けば、情報が入るようになっています。それでも過信しないで、私も情報を集めてみます」
「この件は、私も少しお世話になっている方に聞いてみます。何か分かったら連絡しますね」
「ありがとうございます。あまりお手を煩わせるつもりはなかったのですが、どうしても分からなかったもので……」
「いえ、構いません。それにこれは、乗りかかった船ですから」
カールの足下にある木箱。
どうやらこれは、巷間に放っている者たちからの報告書らしい。
多くの情報を集め、それを吟味して、カールは今後に生かしているのだろう。
情報屋の名は伊達ではない。
それゆえカールが「分からない」と断じた一連の動きに、正司は大層気になった。
一体王国は、何を考え、どのような手を使っているのかと。
カールの話も終わり、正司が〈瞬間移動〉で屋敷に帰ろうとしたところでふと思いついた。
(あちこちで物の値段が上がっていると聞きますけど、どのくらいなのでしょう)
正司はラクージュの町で、何度も買い物をしている。
生活必需品の値段はだいたい把握している。
(ミルドラルとラマ国の違いはありますけど、生活必需品の値段は、どこもそれほど違いはないはずですよね)
正司は路地裏へ跳んだ。
そこから繁華街へ向かって歩く。
ブラブラと店舗の商品を見て歩く。
(全体的に二割くらいは高いですね。意外です)
ラクージュの町の物価は、かなり高いと正司は思っている。
町が発展していて、他の町や村に比べて高収入なのだ。
物の値段がある程度高くてもみんな買っていく。
だがこの町は、それを上回る値段設定だった。
(少しずつ物価が上がってきていると聞きましたけど、なるほどこれはたしかにそうです)
孤児院でも困るはずだ。
後日、魔物のドロップ品でも置いていこうかと正司が考えていると、マップに見慣れたものが映った。
(これはクエストマークですね。場所は……もっと先ですか)
クエストマークを追ってさらに裏道に入る。
そうなると、人通りはめっきり少なくなる。
マップに表示された黄色い三角は動かない。
正司はそこへ向かうように歩いて行く。
(クエストを見つけられるなんてラッキーですね)
二つほど角を曲がると、粗末な家の前で少女がしゃがんで、地面を眺めていた。
その子がクエストを持っているらしい。
(これはまた、難易度の高いクエストですね。トホホです)
正司の場合、女の子に声をかけるのが一番難しい。
(どう声をかければいいのでしょうか。日本だと通報案件なんですよね。この世界では気にしない人がほとんどだと分かってはいるのですけど……ハードルが高いです)
少女はじっと地面を眺めている。
どうしても正司は、少女に近づいて話しかける踏ん切りがつかない。
なんとか向こうから気付いて、声をかけてくれないだろうか。
そんな都合のよいことを夢想しつつ少女を眺めていると、少女が不意に顔をあげた。
「……!?」
少女と正司の視線が交差し、正司が半歩、後ずさる。
「…………」
少女は地面に目を落とした。どうやら正司に関心がないらしい。
(どうしましょう。この少女は悩みを持っているのはたしかですし、それを解決したい気持ちはあるのですけど……)
少女はミラベルよりも二、三歳、下にみえる。
(小学校に入学するくらいの年頃ですよね。七歳くらいでしょうか)
こうしていても始まらない。
(よし、こうしましょう。近づいて声をかける。もし警戒されたら、そのまま退散します)
せっかくのクエストである。
できれば受けたいが、少女の反応しだいでは、大人を巻き込んで大事になる可能性がある。
(い、いきますよ……)
正司は頭の中でリードをとりながら、ジリジリと距離を詰めた。
気分は夏の甲子園、九回裏、ホームベースを狙うランナーである。
「お、お嬢さん、なにをやって……ぐふう」
最後、変な声が出た。
緊張というか、いろいろ考えすぎてしまったようだ。
この世界にきて、少しは女性に慣れてきた正司だったが、ほとんどの場合、向こうから話しかけてきた。
自分から話しかけるような対人スキルは、まだそれほど上がっていないらしい。
「虫さんを見ているの」
とっちらかってしまった正司には目をくれず、少女は簡潔に答えた。
どうやら正司の質問の意図は、正しく伝わったようだ。
「そ、そうですか……虫ですか」
「…………」
羽虫が地面をヨタヨタと歩いている。
「えっと……お父さんとお母さんは何をしているのですか?」
親が目を離してはいけない年齢だ。
すぐ近くにいると思ったが、周囲に人影はない。
親が近くにいる場合、近寄り過ぎると大事になる。
「お母さんは寝ているの。だからお外にいるの」
「寝ているのですか。もしかして具合が……いえ、病気ですか」
少女に難しい言葉を使っても分からない。
正司は言い直した。
すると少女は、首を横に振った。どうやら違うらしい。
母親のことを話すとき、少女は背後を見た。
どうやら背後の家で母親が寝ているらしい。
(病気ではないとすると、この子は母親を起こさないよう、外で遊んでいる感じでしょうか)
正司はしばらく少女を観察した。
やることがないから外で虫でも眺めている。そんな感じに見て取れた。
「あの……ですね。私はタダシと言います。えっと、お名前を聞いてもいいですか?」
「ミムウ」
「ミムウさんと言うのですか。お名前を教えていただいてありがとうございます。……それでですね、ミムウさんはいま、困っていることはないですか?」
本来ならばこれは、もっと親しくなってから切り出すべきである。
だが、このシチュエーションで会話が弾むとは思えない。
「困ったこと?」
「はい。何でもいいですけど、困っていることはありませんか?」
ミムウは首を横に振る。
(やはり駄目ですか。うまく言葉で伝えられない可能性もありますが、本能的に警戒されているのかもしれません)
正司は膝を折り、少女と同じ姿勢になった。
「でしたら、何かしてほしいことはありますか? 何でもいいのですけど」
「してほしいこと?」
「ええ、思いつきますか?」
少女は何かを考えているようだ。少しして、また背後を見やる。
「お母さん、お腹いっぱい食べてほしい」
「……へっ? どういうことです?」
言葉の意味が分からず、正司が聞き返す。
ミムウは「ラウ麦かゆがいいな」と付け加えた。
(母親がお腹いっぱい食べられない……でいいんですよね。病気ではなさそうですけど、何か理由があって食べられないとか? それをこの子が困っている。そんな感じでしょうか)
正司は、詳しく話を聞いてみることにした。
ミムウの母親はクーファというらしい。
普段、掃除婦として働いているのだという。
最初正司は、掃除婦の仕事をメイドのようなものと理解したが、そうではないらしい。
根気よくミムウの言葉を聞き取ったところ、母親のクーファは商店が出すゴミを集めて捨てにいく仕事をしていることが分かった。
(日本だとゴミ収集車で町を回っている清掃作業員に近いのかもしれませんね)
クーファの仕事は、店が閉まってから始まる。
閉店後にその日のゴミが外に出される。
契約した店を回り、そのゴミを回収する。
それを町の外れまで持っていって捨てるらしい。
(なるほど、夜間の清掃作業員なわけですね)
そのため、日中寝ていることが多いという。
そしてどうやら、クーファの給金はそれほど高くない。
この辺はミムウの話なので、確実性はないが、言葉の端からそんな雰囲気が感じられた。
この辺は正司も理解できる。
というのも、ボスワンの町はラマ国の首都である。
住み続けるには、高額な税が課せられる。
低賃金だと税負担の割合が大きくなるのだろう。
ミムウは、母親がお腹いっぱい食べるのを見たことがないらしい。
「それでお母さんにお腹いっぱい食べてもらいたい……で合っていますか?」
ミムウは頷いた。
「分かりました。それで先ほど、ラウ麦かゆと言っていましたけど、それはなんですか?」
「お母さんが話してくれたの。とても美味しいって」
「へえ、そうなんですか。ミムウさんはお母さんにラウ麦かゆをお腹いっぱい食べてほしいわけですね」
「うん」
ミムウがそう答えたとき、正司の前にお決まりのクエスト文が出現した。
もちろんすぐに「受諾」を押す。
「分かりました。私がその願い、叶えてみせましょう!」
正司がどこかで聞いたような台詞を吐いたところ、「え~?」とミムウは、胡散臭い者を見る目を向けてきた。
「ラウ麦ぃ~? あんなモン、どうすんだ?」
クエストを受諾してすぐ、正司はマップの白線の通り進んだ。
ミムウは連れてきていない。
たとえ理由があろうとも、一緒に連れ歩くのは通報案件である。
「えっと、かゆにして食べるのですけど……?」
白線は町の外れの店まで続いていた。
そこは家畜の餌や堆肥、それに肥料などを売っている店だった。
(なんというか、この店……臭いです)
「かゆにして食うって……ラウ麦ってのは、家畜の餌だぞ。それも上等じゃない。家畜だって混ぜ物して食わすんだ。あんなモン、人は食わねえよ」
「えっ? そうなんですか?」
「どこで聞いたんだか知らねえが、あれを食うってのは聞いたことがねえな」
「…………」
ミムウが聞き間違えたのだろうか。
だが白線は、間違いなくここを指している。
「どうしてもってんなら、譲ってやるけど……ウマいもんじゃねーぞ。それでもいるのか?」
「あっ、はい。できたらお願いします」
「ふうん。変わってんな。俺は腹減って死ぬってなっても食いたくねえけどな」
どうやら、どんなに食糧難になっても、ラウ麦を食べるという発想はないらしい。
正司は首を捻りながらも、ラウ麦を少し分けてもらった。
(これがラウ麦ですか。枯れた草木の臭いがしますね。それとトゲ? ヒゲみたいなものが生えてて……口の中に入れたらチクチクしそうです)
店主の言うとおり、人が食べるには適さない外見をしている。
(なんにせよ、これでかゆを作ってみましょう)
白線はミムウの家の方に伸びている。
やはりクエストは進んでいるようだ。
食の好みは人それぞれだし、これでクエストがクリアできればそれでいいと、正司は軽く考えていた。しかし……。
「……………………おいしいですよ」
「マズい」
ラウ麦かゆを食べて、クーファとミムウは正反対の感想を言った。どちらが正しいのか。
それは……。
正司がラウ麦を持って帰ったとき、ちょうど母親のクーファが起き出したところだった。
ミムウの望みで、ラウ麦かゆを作る話をしたら、クーファがミムウを叱ろうとしたので、正司が慌てて止めた。
すったもんだの末、調理場を借りて、正司がかゆを作ることになった。
クーファが言うには、動物の乳を入れて煮込むらしい。
言われた通りに作ってみんなで食べたところ、先ほどのような感想がでた。
ちなみに正司の感想はというと……。
(もの凄く不味いです。というか、足の長い虫をたくさん食べている感じです)
口に含んでも、ラウ麦がなかなか飲み下せない。
頬を膨らませたまま正司はクーファを見る。
クーファも口では美味しいと言ったものの、微妙な顔をしていた。
(これ、絶対に違いますよね)
案の定、クーファは「それではそろそろ仕事に行ってきます」とそそくさと出かけていってしまった。
逃げたともいう。
もちろんお腹いっぱい食べていない。
クエストも、クリア扱いになっていない。
(どう調理してもこれ、美味しく食べられる気がしないのですけど)
麦の一粒一粒に毛が生えているのである。非常に食感が悪い。
毛の塊を食べているようなのだ。
「ミムウさん、もっとどうですか?」
「食べたくない」
ミムウは首を横に振る。
「……そうですよね」
鍋にはまだ半分ほどラウ麦かゆが残っている。
クーファは逃げ、ミムウはそっぽを向いてしまった。
(あまったコレ、どうしましょう)
正司は我慢して、もう一口だけ食べてみたが、どうしてもそれ以上口に入れることができなかった。
限界である。
これ以上食べたら、逆流するかもしれない。
鍋に残ったラウ麦かゆを見ないようにしつつ、正司はクエストのことを考えていた。