068 後継者問題
ロルの一座は、もともと、この町で五指に入るほど有名な舞台舞踊の大家だったらしい。
そして近年、ガスパールという十年にひとりの天才が出現したとあって、一座の人気はうなぎのぼり。
連日満員お礼の運びとなったらしい。
三公会議の息抜きとして、ルソーリンがここへ連れてきたのも頷ける。
そんな一座の座長に、「悩み」があるという。
ルソーリンでなくとも、気になるところだろう。
「実は、後継者の問題で悩んでおりまして……」
そうロルは切り出した。
このような内部事情はあまり大っぴらにできるものではない。
だが、遠からず問題は表面化してくる。
総代と代表の間にヒビが入っているのは、一座に関わる者ならばだれでも知っている。
関係者の口から、この話が漏れる。
それはもう、時間の問題だとロルは考えている。
「……すると、一座の中だけでなく、外部にも影響が?」
ルソーリンの問いかけに、ロルは「お恥ずかしい話ですが」と首肯した。
「まさか町一番と名高い一座にそんな問題があったとは……難儀な問題ね」
話を聞いて、ルソーリンの顔が曇る。
とにかく総代がとりまとめる事柄は、やたらと多い。
一座を代表して、いろいろな場所へ挨拶にでなければならない。
ガスパールはそのどれにも興味を示さず、連日、自身を高めることに余念がない。
また、他の一座と協調しようとしないため、それが悪評となって、同業者の間で広まっている。
「話を聞く限りだと、内部と外部に問題を抱える要注意人物だね。そういう者を総代としてたてるのは、良くないのでは?」
ルンベックがそう言うと、ロルは「仰るとおりです。ただ……」と歯切れが悪い。
「総代は一座の顔。そうコロコロと変えられんわな」
コルドラードが、カカと笑った。
「総代を交代させた場合、理解を示してくれる観客もいるでしょうが、総スカンを食らうことも考えられます。そうなればもう……」
性格に難があるからと、十年にひとりの逸材を引っ込める。
それで、「一座は新しく出発します」と言ったところで、観客の同意は得られない。
反発されるのは必至。
だからこそ、なんとかしたいと悩んでいる。
「なるほど……話はわかりました。そんなとき、タダシくんが相談を受けたわけだね」
ルンベックが少し離れた正司の方を見る。
「彼がどうして……?」
ルソーリンは、いまだによく分かっていない。
「タダシくんは、人の悩みを解決するのが使命、生きがい……言い方は何でもいいけど、そうやって生きるのが一番大事なことだと考えていてね。私としては、そういう頭の使い方もあっていいと思う」
頭というか、使うのは大抵魔法であるが、ここではロルもいるので、そう表現した。
「無駄遣いのように思えるが……」
大魔道士が個人の悩みを魔法で解決する。なんとも壮大な魔法の無駄使いだろうか。
どうにもルソーリンは、納得いかない顔だ。
「しかし、後継者の問題は難しいのう。儂のところは悩むことはないが、おぬしはそうもいかぬよな?」
コルドラードがルンベックの方を見る。
「息子は元気にやっていますよ。後継者としての自覚が出てくるのはもう少し先でしょうかね。フィーネ公のところも、迷う必要がないのがいいですね」
ロルの一座のように複数の後継者候補がいれば、何かあった場合安心できる。
だが、平時は悩みの種になったりもする。
バイダル公領ははやくから後継者を定めており、ファファニアは現在、見聞を広めるため、トエルザード領へ来ている。
現状、後継者の混乱は起きそうにない。
同様に、息子をひとりだけ持つフィーネ公もまた、後継者で揉めることはない。
「ええ……そう……ですね」
コルドラードに問われて、ルソーリンはやや途切れ途切れに言った。
「?」
ルンベックが不思議そうにルソーリンを見ていると、正司が「あっ、動いた!」と突然声をあげた。
「どうしたの? タダシ?」
「クエストの白線が……いえ、目的地が変わりました」
「ん? どういうことなの?」
「次に行く場所が決まったようです」
「行きたいところができたってことかしら? 相変わらず謎なことを言うわね。でも今日は遅いから、行くなら明日にするわよ」
「はい。それで問題ありません」
「そうじゃった。儂らも、明日は早い。そろそろお暇せねばのう」
「そうでした。フィーネ公、今日は誘っていただき、ありがとうございます。そして座長、大変いいものを見させていただきました。最後まで居られないのは残念ですが、私たちはこれで失礼します」
「いえ、名だたる方々がご覧になっていただけたこと、大変嬉しく思います。これを励みに、更なる向上を目指してまいります。また、時間のできたときにお越しくださいませ」
ロルが丁寧に頭を下げ、ルンベックたちは口々に「よかった」「面白かった」と呟いて去って行った。
「さっ、タダシ。私たちも帰るわよ」
「はい。それではロルさん。また近いうちに参ります」
「そうですか。お気をつけてお帰りください」
ロルに見送られて、正司とリーザもまた、楽屋を去ったのである。
翌日。
ルンベックは会議のために朝早くから出かけていった。
昨日の疲れもあるだろうに、リーザが起きたとき、ルンベックはもう出発したあとだったのだ。
「お父様は頑張っているようね。それでタダシ、今日は別の場所へ行くのよね」
「ええ、町の北のほうみたいです」
「ということは、三公会議のある会場かしら」
「いえ、もっと北ですね」
三公会議が行われる場所までは、正司も足を運んでいる。
会場を見学したとき、マップが埋まったのである。
白線は、そのもっと北まで伸びていた。
(これはもしかすると、町を出ることになるかもしれませんね)
正司はリーザにそのことを伝える。
「じゃ、馬車はないほうが便利ね」
「そうなんですか?」
「お母様と同じように、運んでくれればいいわ」
ミュゼは正司に抱えられて、何度も遠出している。
リーザはそのことを知っている。
正司としては、慣れたとはいえ、若い女性を抱えて移動するのは御免被りたいが、リーザは言い出したらきかない。
「できるだけ、そうならないようにしたいですね」
抱えて運ぶかどうかは、クエストの白線しだいである。
「三公会議が行われている会場近くに、跳んでくれるかしら。人がいなさそうな場所がいいわ」
「でしたら木の陰がいいですね。目立たないと思います」
正司は〈瞬間移動〉で跳んだ。大きな木の陰に出現したが、だれにも見とがめられていない。
そこから徒歩で町の北方へ進む。
会場から数キロメートルも歩けば、家々もまばらになってくる。
スミスロンの町は、フィーネ公領で最大。
なるべく自給自足できるよう、町中に農地があるのである。
「この辺はのどかですね。畑が多い気がします」
「町の人全員分を賄うのは難しいでしょうけど、それなりに畑が広がっているわね」
木訥な風景の中、セカセカと歩くのはみっともない。
観光するつもりで、ふたりは歩く。
「ラクージュの町って、あまりこういう場所はないですね」
住宅地や商業地がひしめき合っている。
畑が広がる場所はあっただろうかと正司は思い出すが、それらしい場所は記憶にない。
「食糧の生産は、近くの村に依存している感じね。町中で少しは作物を作っているけど、行き渡るほどじゃないわ」
町と村で役割分担を徹底させているらしい。
そもそもラクージュの町は盆地なので、周囲は岩山。
土地が狭いのだそうだ。
ふたりが歩いていると、向こうからひとりの男性がやってきた。
ここは一本道で、脇道はない。
互いを認識できる距離にまで近づいたとき、相手がおもむろに背を向けた。
回れ右である。
「待ちなさい!」
突如、リーザが大声を出す。
「リーザさん!?」
驚いて正司がリーザの方を向くと、すでに駆け出したあとだった。
「えっ、早い!?」
爆発したような勢いで、リーザは背を向けた男に追いすがろうとする。
正司は慌てて〈身体強化〉を自分にかけた。
このままでは置いていかれる。
「待ちなさい! 待たないと、グーで殴るわよ!」
正司が駆け出したときにはもう、リーザはそう絶叫していた。
(あの後ろ姿に見覚えがありますね。どこかで会ったような気がします。けど、フィーネ公領で知り合いに会うことなんてないと思うのですけど)
そんなことを正司が思っていると、またまたリーザの絶叫が聞こえてきた。
「叔父さまが待たないと、私の気が済むまで殴りますよ!」
そこでようやく正司は、逃げた相手がルンベックの弟、オールトンであることに気付く。
同時に、なぜ「こんなところに?」という疑問も湧いた。
足の速さだと、〈身体強化〉をかけた正司がダントツ。
次に憤怒の表情で追いかけるリーザ、スタコラサッサと逃げるオールトンの順となっている。
しかもオールトンはあまり運動が得意でないらしく、五分も走らないうちに息が上がり、ペースは激落ちしはじめた。
そこからは早かった。
すぐにリーザに追いつかれ、捕まってしまった。
「さあ、叔父さま! あのとき逃げた報いを受けてもらいますからね!」
以前オールトンは、リーザのもとから行き先を告げずに去っている。
というか、夜逃げ同然で町を出てしまった。
「待て、待て……ちょっ……」
「問答無用です、叔父さま。いつも、いつも、いつも、いつも勝手ばかりして! 私やお父様をどれだけ困らせたかっ!」
「そ、そんなことあったかな……げふぅ」
リーザの腹パンがきれいに決まった。
「あったかな、じゃないです、叔父さま。家の義務を放棄して遊び歩き、あまつさえ見つかったら逃げ出すとは、言語道断です。民のことを考えれば、そんな選択肢はありえません。一体いくつになったら、まともになるんですか!」
「リーザ、グーはやめるんだ。グーはっ……へぷぅう」
いろいろ鬱憤が溜まっていたのだろう。リーザの鼻の穴が膨らんでいる。
叔父と姪という関係である。
姪が叔父に説教をはじめたのだ。よほどのことである。
為政者の家系に生まれて、民の税金で育てさせてもらった身の上で、大人になってから義務を放棄して遊び歩いているオールトン。
その姿に、リーザはキレている。
しかもこの前は、勝手に出歩いた(無断で国境付近まできた)ところを見つけ、保護したと思った矢先に、まんまと逃げられてしまったのだ。
トエルザード家が守るべき民たちのことを思えば、誰かがオールトンにキツく言ってやらねばならない。
「つまり、腹パンは当然の報いです」
「おぶぅ、へぷぅ……」
正司がアワアワしている前で、オールトンは奇妙な声をあげていた。
ちなみに正司は、馬乗りになっているリーザの顔は見ていない。
これは見ない方が幸せだと、固く信じているからである。
場所を木陰に移して、正司とリーザとオールトンは向き合った。
さすがに道の真ん中でやりあっては、人目をひく。
ピクピクしているオールトンを正司がここまで運んだのである。
「それで叔父さま、なんでこんなところを歩いていたのかしら」
半眼で問いかけるリーザに、オールトンは得意のリュートを掻き鳴らそうとしたら、リーザに取り上げられてしまった。
「それはね、風が……って待って、リーザ! そのポーズはなに?」
拳に息を吹きかけたリーザの顔がオールトンに迫った。
「なぜ叔父さまは、あそこにいたんです?」
声音が幾分低くなった。
「この町で三公会議が開かれているって聞いたからね。馬車で中心部までいくと、もしかすると家臣の誰かに顔を見られるかもしれないじゃないか」
だから町に入ったときに馬車を降り、そのまま外周を迂回するようにして移動しようと考えたらしい。
「いかにも叔父さまらしい思いつきですわね。私も、たまたまこの道を通らなかったら、気付かないところでしたわ」
「そうだね。なんでここを通ったのかなーなんて、不思議に思うのだけど……?」
「それはタダシのおかげです。それより叔父さま。今まで、どこで何をしていらしたのかしら? 三公会議があるおかげで、お父様はものすごく、それはもう、ものすごく忙しかったのですよ」
「僕がそれを知ったのは、町に入る直前だったんだよ。だから……」
「普段から連絡が取れていれば、こんなことにはなりませんでした。どの町でも、トエルザード家の屋敷は利用していませんでしたね?」
「そりゃそうさ。使った瞬間に、家へ連絡がいくだろ……痛い、痛いよ、リーザ」
リーザはオールトンのこめかみに、握り拳を当ててグリグリやりはじめた。
「そのせいで、お父様もお母様も大変忙しかったのです。しかもお父様が町を出たので、お母様がいま、ひとりで領を切り盛りしています。……その間、叔父さまは何をしてらしたのでしょうね?」
分かっていて義務を果たそうとしないオールトンに、リーザはいまだおかんむりだ。
般若のような顔で睨むリーザに、オールトンはしぶしぶながら、これまでの経緯を語った。
「本当に風が教えてくれた方角に向かっただけなんだ。今回はたまたまフィーネ公領だっただけで、決して逃げたわけではないのだよ」
風が教えてくれる、もしくは風が囁いているとオールトンはよく説明する。
なんのことか分からないリーザだが、オールトンには、従うべき理由があるようだ。
「だからリュートは返してくれないかな。それがないと、調子がでないのだよ」
「でしたら、尚更返せません。今日こそはお父様に叱ってもらいます。……というわけで、タダシ。せっかくここまで来てもらったけど、一旦屋敷に戻るわ」
「はい。どうやらクエストはオールトンさんを指しているようですので、私はそれで構いません」
「「……?」」
オールトンとリーザは、揃って不思議そうな顔をした。
とくにリーザは、ロルの後継者問題がどうオールトンに関係するのか、まったく理解できない。
「……よく分からないけど、タダシがそれでいいなら好都合よ。屋敷に戻りましょう」
「リーザ、僕のリュート……」
「さっ、タダシ。やってちょうだい」
「はい」
涙目で手を伸ばすオールトンを伴って、正司は〈瞬間移動〉でこの町の屋敷まで戻った。
「お父様が戻ってくるまで、叔父さまは屋敷にいてもらいます。勝手に出歩かないように使用人には言い聞かせますからね。タダシもそれでいいわね」
「クエストの白線はオールトンさんを指しているので、屋敷から出なければ構いません」
「そう。それはよかったわ……というわけで叔父さま。風が教えてくれるなどいうヨタ話はおいといて、私から逃げたあと、どこで何をしていたのか、洗いざらい吐いてもらいましょうか」
「洗いざらい吐くって……僕は犯罪者じゃないのだけど」
「それはあとでお父様が決めます。それで最初は、どこへ向かったのかしら」
「……やれやれだね」
オールトンは、リーザと別れてからの道程を、すべて詳らかにされることになった。
「……叔父さまがベッカー家と知己を得ていたとは、知りませんでしたわ」
「ベッカー家とはいっても、領主ではなく、その弟の方だけどね」
オールトンはフィーネ公領での出来事を語っている。
「弟でも同じ事です。ベッカー家はデーニックの町を治めている一族ですわね」
「そう……だね。自領でもないのによく勉強しているね。さすがリーザだ」
「町の領主の名くらい、ちゃんと覚えています。それより弟というと……」
「ジョアーノだよ。名前はジョアーノ・ベッカー。ザール・ベッカーの弟だ」
さすがにリーザも、領主一族の家族すべての名前を覚えてはいなかった。
オールトンに言われて、「そういえば、そんな名前の方がいらしたかも」とようやく思い出した。
「しかし、叔父さま。領主の弟とはいえ、よく滞在する気になりましたわね。あまりそのような方々との交流は、避けていらしたでしょう」
オールトンの場合、どちらかといえば、場末の酒場を渡り歩き、そこで知り合った人々との交流を楽しむのを好む。
とにかく堅苦しいのが嫌なのだ。
「彼は気さくな人物だよ。珍しくね」
「そうですか」
「久し振りに旧交を温めたかったのだけど、少しばかり重い話になってね。……そうだ。これはキミも知っていた方がいい」
「……?」
オールトンは、そこで聞いた悲しい出来事を語った。
「十年以上前の話だけど、ジョアーノはフィアンナという女性と結婚した。その後、ふたりの間に、エアリエルという子供が生まれた」
「フィアンナ……ですか?」
ふとリーザは、その名前に引っかかりを覚えた。
オールトンは構わず続ける。
「息子のエアリエルはすくすくと育ったのだけど……今から七年前、避暑に訪れていた湖で亡くなった。水難事故だ。突風が吹いてボートが揺れ、エアリアルは湖に投げ出されたそうだ」
「七年前……事故?」
リーザは考え込む。なにか、記憶を思い起こしているようだ。
「亡くなったとき、その子はまだ三歳だった。可哀想だよね。それ以来、フィアンナとジョアーノはふさぎ込んでしまった。ジョアーノは政務を離れ、失った息子を弔いつつ、今も静かに暮らしている」
「……叔父さま」
「なんだい?」
「思い出しましたわ。フィアンナという名前はもしかして……」
「うん。フィーネ公ルソーリンの双子の妹だよ」
ルソーリンがラグラットと結婚した日。
別の町で、もうひとつ結婚式が行われた。
ルソーリンの双子の妹が結婚したのだ。
もともと妹の結婚が先に決まり、あとからルソーリンがラグラットに嫁ぐことが決まった。
双子とはいえ、妹が先に嫁ぐのはいかがなものかと周囲の意見もあり、同日に結婚式を挙げることになったと、一時期話題になった。
「双子の妹の名は、フィアンナだったはず。ベッカー家に嫁いだのね」
主流を外れた者同士の結婚だと、さすがにリーザも記憶に留めておけない。
しかも結婚したのは十年以上も前の話である。
いま、リーザが思い出せただけでも、脅威の記憶力である。
「でも叔父さま。七年前に三歳で亡くなったということは、次期フィーネ公と同じ年なのですね」
ルソーリンの息子ラコル・フィーネは、十歳。
彼が成長するまで、ルソーリンがフィーネ公を代行している。
おそらくあと五、六年もしたら、徐々にラコルが経験を積み、少しずつ政務を任されていく流れになるとリーザはみている。
「本当に細かいところまでよく覚えているね、リーザは」
「当然ですわ。それにしても、ルソーリン殿の双子の妹さんが、息子を亡くされていたなんて、初耳ですよ」
「それはそうだろうね。あまり大っぴらには公開していないから」
夫のジョアーノは領主の弟であり、公的には無官の人物である。
兄のザールが健在である状態で、領主の弟が口の端に上ることは少ない。
その子供がどうなったかなど、誰かが知っていて周囲に流さない限り、あまり知られることはない。
そして、周囲の者たちが口を噤めば、ほぼ確実に情報は流れない。
「叔父さまはその話、私の耳に入れた方がよいとお考えになったのですよね? なぜです?」
「それはね、リーザ。もしかすると、それがラグラットの死に関係するかもしれないからだよ」
「前フィーネ公の死にですか? だって、前フィーネ公は、魔物の群れに襲われてなくなったのですよ」
未開地帯の魔物を駆除し、その地を開拓しようとした。
その試みは半ば成功し、半ば失敗した。
三年目に入ったとき、魔物の反撃に遭って、ラグラットは戦いの中で命を落としたのだ。
その死に幼子の水難事故は関係ない。
ラグラットの死は、純然たる戦死である。
「僕はカーフェンの町へ行ったんだ。どこだか、分かるよね?」
「ええ……ダウテの町、カーフェンの町、ジュネの町……この三つの町の名は有名ですわ」
「そう。それらは未開地帯と接している北方の三町だね。そしてあのとき戦場にもなった町だ」
未開地帯に進出しようとしたフィーネ公の軍隊は、この三つの町を拠点とした。
「たしか前フィーネ公が拠点としたのは、真ん中のカーフェンの町だったはず」
「そう。しばらく僕はカーフェンの町にいたのだけど、そこで面白い話を聞いたのさ」
オールトンは貴族との交流は最小限に留めて、どちらかといえば、上流階級が好まないような場所に多く出没する。
たとえば、金のない者が泊まる木賃宿、場末の飲み屋などもそうだ。
もしオールトンが「面白い話を聞いた」と言ったならばそれは、上流階級の耳には入ってこない話である可能性が高い。
「叔父さま。その面白い話というのは……何かしら」
嫌な予感をヒシヒシと抱く。
リーザは一度だけ背中を震わせ、それを恥じるように鋭い視線を投げかけた。
「彼は覚悟の自殺だったのではないか……ってね」
軽く言われたその言葉の重みに、自然とリーザの眉根が寄った。
「覚悟の自殺って……叔父さま。前フィーネ公は、多くの兵を巻き込んで……自殺したというのですか?」
「未開地帯の開拓は領民の悲願だったのだろうし、あの開拓は必要なことだったと僕は思う」
フィーネ公領は貧しい。
各所に点在する「魔物が出ない地」すら、満足に管理できない。
それなのになぜ、未開地帯に手を伸ばしたのか。
あそこは、資源の宝庫だからである。
フィーネ公領には、塩と鉄がない。
採れないのだ。
長年の調査で、未開地帯には岩塩と鉱床があることが分かっている。
フィーネ公領がこの先、やっていくには、わずかに余るくらいの食糧を売って、塩や鉄を買い求めるのではなく、未開地帯にあるものを採掘する。
これは十年、二十年かかろうが、やるべき価値がある事業である。
「魔物の被害が多いから、それを無くすためというのが一般的な話だけど、理由は他にもあるわけだね」
「その話は聞いたことがあります。だからこそ、前フィーネ公は余力のあるうちに未開地帯へ進出したのだということも理解できます。……それなのに自殺ですか?」
「そういう噂があったので、僕は調べてみたんだ。前フィーネ公はカーフェンの町を拠点として、一年の半分近く、その町で暮らしていたからね」
前フィーネ公のことをよく知っている者も多いだろうとオールトンは思ったらしい。
「それで何が分かりました? その自殺の噂だけですか?」
「一緒に戦った兵の証言を集めると、前フィーネ公の死は不自然なものだった。魔物の反撃に遭ったのは事実だ。ただ、組織的抵抗が難しくても、数キロメートルも後退すれば、カーフェンの町があった。だがそれをしなかった」
「魔物に背後を突かれて、後退できなかったのではないですか?」
「前フィーネ公を逃がすくらいの兵力は温存させてあったみたいだよ。事実、あの戦いで生き残った兵は多かった。壊滅しているわけではないんだ」
「では自殺というのは……?」
「フィーネ公は下がらなかった。あの場に留まれば、時間が経つにつれて不利になっていくのは明らかだったのに、あえてその場で指揮を執り続けた。そして最後は魔物の群れに突撃し、散った。僕はね、前フィーネ公の最期を看取った人に会うことができたんだよ」
心に大きな闇を抱えて、何年も立ち直れなくなった人だと、オールトンは言った。
「話してくれるよう、時間をかけて説得した。そしてようやく聞き出した言葉が……」
――これでようやく……息子のところへ行ける
というものだった。
それが前フィーネ公ラグラットの最期の言葉だったそうだ。
「それって……えっ!? どういうことです、叔父さま」
リーザは混乱した。
もしオールトンの言った内容――今際のきわの言葉が正しければ、ふたつの意味でおかしい。
現実と合わなくなる。
ひとつは、ラグラットの息子はすでに死んでいなければおかしい。
そしてもうひとつ。
後継者として育てられているラコルは、ラグラットの息子ではないことになる。
リーザはすぐそのことに気づき、狼狽えた。
「気付いたようだね。ではラコルっていったい誰なんだろう? そう思ったはずだ」
「え……ええ」
「そこで七年前の話に戻るけど、僕が調べた限りだと、当時、ルソーリン殿は息子を連れて、避暑に向かっている」
「……避暑に? もしかして湖?」
「そう、湖だ。公式の記録にも残っているし、七年前のことだ。覚えている人も多い。たしかにルソーリン殿は息子を連れて湖に来ている。間違いない」
「その湖ってもしかして」
「おそらくルソーリン殿は避暑をしながら、双子の妹と会いたかったのだろうね。ちょうど子供も同い年だ。ふたり……いや子供たちを入れて四人か。湖にボートを浮かべて……」
「突風が吹いた?」
「湖に落ちたのは、本当に妹の子供だったのかな?」
「…………」
リーザは答えない。答えられない。
これはそれくらいデリケートな話だ。
「僕はね、思うのさ。後継者の問題は大変難しい。それはそうさ。大なり小なり人が集まれば、それを導く者が必要になってくる。そして時代が変わったとき、あとを受け継いでいかなければならない。その受け継ぐ者次第では、組織がどうなるか分かったものではないのだから、後継者選びは慎重に成らざるを得ない。そう思わないかな?」
いま、トエルザード家にも後継者問題が表面化しつつある。
複数の後継者候補がいるのだから、それは贅沢な悩みだとは言えない。
そのせいで、勢力が二分することだってありえるのだから。
では逆に、たったひとりしかいない後継者がいなくなってしまったら。
人はどういった態度を取るのだろうか。
もし受け継ぐ組織が、フィーネ公領という大きなものだったら……。
「というわけで、僕の話はここまでさ。リーザも他人事ではないよね。だから知っておいてもらいたかったんだ。後継者を決めることの重さ、大きさ、そして現実を」
だからリュートを返してくれないかなとオールトンは頼み込んだが、「それは駄目です」とリーザに一蹴された。
その日の夜遅く、ルンベックは疲れた顔をして屋敷に戻ってきた。