064 斜陽への坂道
リムの町を出発した馬車は、次の町に向かって街道を進む。
ルンベックがスミスロンの町へ赴くのは、実に十二年ぶりである。
三公会議が開かれる町は決まっておらず、必要になったとき、その都度決定される。
そしてルンベックのように当主ともなると、三公会議以外で他国へ足を伸ばすことはできなくなってくる。
「次の町でもまた歓待を受けるのですね」
「そうだよ。不公平があってもいけないからね」
些細なことでへそを曲げられても困る。
あの町には一日多く滞在していたのにと、目くじらをたてる者もいるのだ。
領主は大らかであっても、その部下たちも同様であるとは限らない。
できるだけ穏便に事を運ぶには、各町で同じ日数だけ滞在した方が良い。
そもそも、本来滅多に訪れることのない町ばかりである。
少しばかり余計に滞在したとして、マイナスになることはない。
自領にやってくる人物とだけ話していても、分からないことの方が多いのだ。
「その間、私たちはゆっくりと観光していますわ」
「…………そうだね」
ルンベックが領主と会っている間に、リーザと正司は町を見て回る。
何の問題もない。
……ないはずなのだが、なぜこうも不安をかき立てるのか。
ルンベックの額に汗が浮かんだ。
「大丈夫です、お父様。ちゃんとタダシを見ていますから」
「……見ているだけかね?」
「それが何か問題でも? お父様」
リーザは首を傾げて問いかける。
「いや……何でもない」
額に浮かんでいだ汗が一筋、首筋に向かって流れ出した。
「…………」
「…………」
そして二人は、無言のまま佇む。
小窓を開けて外を見ていた正司が、「?」と疑問符を頭に乗せたが、馬車内の雰囲気が少し変わった理由に心当たりはなかった。
馬車は静かに街道を北上していく。
「そういえば、お父様。リムの町では王国の影響力が残ったままです。よろしいのですか?」
今回の事件で、エルヴァル王国の関与は立証されなかった。
関わった商人の名前は控えてあるし、証拠がないだけで、ある程度の関与も証言から得られている。
「なぜ放っておくのかと、言いたいのだね?」
「そうです」
領主を引責辞任させる計画は、未然に防がれた。
ラムエルの恋を成就させようと正司が動いた結果、あれよあれよという間に事件が解決してしまった感じだ。
事情を知った正司は、「タナボタですね」と言っていた。
リーザは「タナボタ」が何なのか分からなかったが、今回の計略でトエルザード家が利用された。
ルンベックならば、嬉々として落とし前をつけさせるものだと思っていたのだ。
「私はね、リーザ。今回の事件は、トエルザード家と縁の深くない領主を据えたいという思惑が隠されていたと思うんだ」
他にも、できるだけ賄賂に転びそうな……もしくは、鼻薬を嗅がせやすそうな者を領主に据えたがっていた。
「国境の町ですし、王国としては無能な領主を歓迎したいのでしょうね」
コルドラールたちは、そんな思惑にうまく利用された面もあった。
「いずれにせよ、他領の話だ。このままにしておけないが、フィーネ公の仕事を奪うわけにもいかないね。いずれ制裁するが、いまはもっと大事なことに集中した方がいい」
大量の捕縛者が出た時点で、王国は手を引いているだろう。
ゆえに、あの町での謀はしばらくないとルンベックは言った。
「もっと大事なことに集中ですか。分かりました。今回はそれで……ですが、次の町では何もおこらないといいですね」
「それは……リーザ次第なのではないかい?」
「まさか。そんなはずがないです、お父様」
さも心外とばかりに、リーザは目を見開く。
ルンベックは「本当にそう願いたいものだね」と小さく呟くと、傍らの正司に目をやった。
スミスロンの町へ到着するまで、あと二つの町を通過しなければならない。
本当に、何事もなければいいなと、ルンベックはため息をぐっと飲み込むのだった。
幸か不幸か、はたまた日頃の行いのせいなのか。
正司は、ゆく先々でクエストを見つけ、大騒動とは言わないまでも、大いに町を騒がせることとなった。
そのたびにルンベックの体重は、少し……いやかなり減っていった。
何にせよ、一行は無事、三公会議が開かれるスミスロンの町へ到着したのである。
トエルザード公領にあるラクージュの町。
ミュゼは執務室で、今朝届いたばかりの書類に目を通していた。
そこへレオナールがやってくる。
「ちょうどいいところに来ましたわね」
レオナールの眉がピクリと動いた。
「何か問題でもありましたか?」
「ここ五日ばかり、タダシさんの屋敷を監視する者が増えたみたいなの」
「それはそれは……順調に引っかかっておりますな」
「ええ……時期としてはちょうどかしら」
レオナールは頭の中で軽く計算し、「そのくらいですな」と頷いた。
ちなみに、正司は屋敷を持っていない。
トエルザード家の客人として、リーザたちと一緒に暮らしていたし、もらった土地は博物館になっている。
「いま屋敷には何人ほど住まわせておるのですか?」
「タダシさん……の格好をしてもらっている人を含めて五名ね。まだ接触はないみたいですけど」
時間の問題ですわねと、ミュゼは書類を「解決済」の棚に放り込んだ。
何のことはない。
とても見張りやすい場所にある屋敷をひとつ用意して、そこに正司の偽者を住まわせたのである。
他国からやってきた者は、半信半疑ながらも注視せざるをえない。
それを逆に監視している。
そしてミュゼが言った「ちょうどの時期」とは、エルヴァル王国から派遣された間者が到着する時期のことである。
大規模なトンネルを魔法で作った話はすでに各国へ伝わっている。
王国はすぐに人をやり、詳細を調べさせているはずである。
その報告が再度王都にもたらされ、「これは本物かも」と本格的な間諜が送り込まれたとすると、両国の往復期間を考えると、そろそろやってくる頃合いだったりする。
「さぞ困っていることでしょうね」
「情報が錯綜しておりますから……さすがに真実には辿り着けないでしょう」
王国は、正司のことをトエルザード家がずっと隠していた大魔道士だと考えている。
野良でいるのを偶然見つけたとは絶対に思わない。
とすれば、これまで生活してきた痕跡がどこかにあるはずである。
家族はもとより、師匠や弟子、友人知人、同業者やライバルがいると考えるのが普通である。
正司本人に接触するのはだめでも、その周辺ならばと、洗い出しにかかっているはずなのだ。
「それらしい人を用意しようかしら」
「さすがにバレると思います」
「うーん。まあ、そうですわね」
正司の身辺にあまり何も出ないのはおかしいが、急に現れても怪しいことこの上ない。
「その件はおいておくとしまして、本日はご報告にあがりました」
「あら、何かしら」
もともとレオナールはルンベックの下で働いていた。
経済や政策についても、ルンベックのやり方はよく知っている。
「町外区域で名を控えた商人たちのことでございますが……」
「ああ、そういうこともありましたね」
正司の逆鱗に触れ、円柱の上に置き去りにされた者たちのことだ。
「裏もとれましたので、それとなく商いの本流から外れてもらっております」
「噂を流したのかしら」
「耳打ちしただけでございます」
レオナールはニヤリと笑った。
彼らはトエルザード家の不興を買った。
大魔道士の逆鱗に触れた。
加えて、ミュゼが怒り心頭だった……という噂も流れている。
そんな話とともに商会の名を出せば、みな取り引きを控えるようになる。
話が広がれば、他の商人たちは、これまで掛け売りしていたものを現金取引のみに切り替えたりと、リスクヘッジに動きだす。
中途半端な制裁に留めて、「これくらいなら大丈夫そうだ」と思うかもしれない。
少なくとも、公家の不興を買ったと一時的に取り引きが落ち込むくらい、正司の怒りを直接買うよりかなりマシではなかろうか。
ミュゼが棄民救済をうたっているが、いまだ具体的な策を提示していない。
今回の件で、棄民のために用意した土地を占有した「心ない商会」のイメージは悪い。
「いずれ棄民救済を打ち出すことになるでしょうけど、それまで彼らは悪者でいていただきましょうか」
棄民救済を打ち出す――誰が?
もちろん正司である。
「……では、くだんの商会の扱いは変更なしで処理させていただきます」
「少し待って!」
「はい、何でしょう?」
「より悪質な商会だけは、少し強めの措置をお願いしますわ」
「畏まりました。区別して取り扱います」
こういうときの差別化こそ必要だと、ミュゼは考えている。
「それと明日、魔物退治の部隊が出発します。ついでにこちらの噂も流しておいてくれるかしら」
「何を流せばよいのでしょう?」
「そうですわね……」
ミュゼはしばし考えて、少しだけ笑みを深くした。
「トエルザード家は強力な軍隊を持っているから安心……というのはどうかしら?」
「……ッ!?」
王国に対する牽制だと、レオナールはすぐに判断した。
ルンベックはなるべく実力を隠すように動く。
性格的に、その方がやりやすいからだろう。
逆にミュゼは、見せつけるようにしたいらしい。
「当家の軍事力が明らかになるでしょうね」
レオナールが質問しなくても、ミュゼは「何が問題なのか」を把握している。
「それでも利があるとお考えですか」
「ええ、あるとわたくしは思っています。なにしろ、いま魔物はほとんどいないのですもの」
そう言えばそうだったと、レオナールは思い出した。
『実験』と称して、連れ回されたのは記憶に新しい。
正司は近隣の魔物を狩り尽くしていた。
つまり明日出発する軍隊が、魔物の出る領域を軽く回っただけで、目的は達成できてしまう。
「どれほど精強な軍隊なのかと、周辺国は震え上がるでしょうな」
「やはり調べ終わるまで、手を出してこないでしょうね。ミルドラルとラマ国を同時に相手するのは得策ではないと考えると思いますの」
「……たしかにそうでしょうな」
王国の目的はすでに分かっている。帝国への陸路を確保することだ。
問題はそれをどうやって実現するかだが、ミルドラルをいいように利用しようとする姿勢は許せない。
現在、水面下で熾烈な情報戦をしている。
そこへミュゼが一手を投じたことになる。
「そうですわね……たとえば王国との国境付近に派遣したらどうなるかしら。もちろん、事前に王国の許可はとってですけど」
戦争の意志がないことを示すため、国境付近の魔物を討伐するときは、事前に隣接国へ連絡をいれてから行う。
自領から出なくても、それくらいの配慮はしてしかるべきである。
ミュゼが言っているのは、「とても精強にみえる軍隊」が、魔物討伐とはいえ、国境付近に展開するのだ。
心穏やかではいられないだろう。
後ろ暗いことがあれば尚更だ。
かといって、断ればまた、それはそれで痛くない腹を探られてしまう。
「……私ではお答えできかねます」
「そうね。そちらの方は、軍隊が戻って来てからにしましょう」
そう言ってミュゼは笑った。
レオナールの笑顔は……やや引きつっていた。
同じく、ラクージュの町。
ファファニアは、日頃から博物館に通い詰めている。
研修を受けつつ新規従業員の教育を行っているのだ。
「ようやく安息の日が訪れましたわ」
ファファニアは、久し振りの休日を満喫するつもりでいた。
なにしろ、このところずっと根を詰めていたのである。
覚えること、やることがあまりに多いのだ。
「お嬢様は、変わられましたね」
護衛のランセットが、目を潤ませながらそんなことを言ってきた。
「あら? そんなに変わったかしら?」
「ええ、とても立派になられました」
「何か、とてもトゲのある言い方なのですけど……って、ランセット?」
プンプンと頬を膨らませたファファニアだが、ランセットがマジ泣きしているので、それ以上の文句は言わなかった。
バイダル領にいたころ、ファファニアはよき導き手であろうと、日々頑張っていた。
だがその中で、年相応の幼さと甘えが見え隠れしていた。
いまは正司のために頑張ると自分を追い込み、苦しいときでも弱音を見せず、歯を食いしばってでも耐えていた。
その甲斐あって、従業員たちの中でも頭一つ飛び抜けるほどには、一目おかれている。
ランセットからしたら、「よくぞ成長してくれた」と思う所以である。
そして今日は休日。
ファファニアは午前中ゆっくりと疲れを取り除き、午後は買い物に出かけようと考えていた……のだが。
「お嬢様、使者が参っております」
「分かりました。会います。……それにしても、中途半端な時期ですね」
「ですが、持っていた印は本物。符丁も合っています」
「疑ったわけではないのよ。では、いま向かいます」
ファファニアから「じい」と呼ばれるシャルマンが来客を告げにきた。
やってくる顔ぶれは、毎回違う。
商人風だったり、職人風だったり。
女芸人だったこともある。
決まってシャルマンが事前に符丁を確認し、本物と認めた上でファファニアに会わせている。
今回は使者が往復する中日、イレギュラーな訪問だ。
こういうときは、バイダル領で何かおこったのかと心配が頭をもたげてしまう。
「お使い、ごくろうさま。……それで何がおきましたの?」
トエルザード家のこと、正司のこと、三公会議のこと、ラマ国国境のこと。
思い当たることが多すぎて、絞りきれない。
「はっ、報告します。ラマ国首都ボスワンにて、大規模な改革案が発表されました」
「改革案ですか……? それが当家となにか関わりあるのですか?」
「改革案の発表の前に、ボスワンの町でいくつかの計略が露見しました。関わった多くの商会が捕縛されたとのことです」
「面白そうな話ですね。詳細は分かっていますか?」
「さすがにそれは……漏れ出た噂だけになりますが、よろしいでしょうか」
「それでいいです。ボスワンで何がおこったのかしら」
「ボスワンへの物資の搬入が、止まるところだったようです。それが未然に防がれたともっぱらの評判です」
ラマ国ボスワンの町は、山の中腹にある。
当然、町は狭く、人が多い。
足りない物資は山とあるだろう。
「そんなもの、止めようとしても他の商人が持ってくればお終いですわね。ラマ国としては、高くても買うでしょう」
「通常はそう考えます。今回、戦争の噂が先行しておりましたので、中規模な商会は物資確保に二の足を踏んでいたようです」
「……そういえば、そうでした」
戦争が始まれば、流通はストップしてしまう。
戦争中、町の出入りは簡単にできなくなる。間者が入ってくるからだ。
行商中に軍と遭遇すれば、途中で荷を奪われるかもしれない。
何日も町に入れず、物が無駄になったとしても、大きな商会ならば問題ない。
だが中小の商会で、荷がすべて駄目になったら、死活問題に直結する。
状況が判断できる商人ならば二の足を踏むのは当然だ。
ファファニアは考えた。
他の商人の不安をあおり、それでいて自分が荷を届けると言い出した商人がいたのかもしれない。
暗躍好きの王国のことだ。何らかの妨害工作があったのだろう。
「自作自演で交易品を襲わせる計画でもあったのでしょうかね」
「かもしれません」
それにしてもと、ファファニアは思う。
「ラマ国も存外優秀ですわね。もう少し武に偏った国かと思っていたのですけど」
今回、バイダル公領でも計略の全貌は掴めていないだろう。
どう出し抜こうとしたのか、またそれをどう見抜いたのか、各国が秘匿するからだ。
自慢げにすべてを詳らかにするような者は、為政者失格である。
ゆえに分かっていることだけから推測するしかない。
今回の場合、考えれば考えるほど、ラマ国の手際がいい。
「物資なんて、足らなくなってはじめて危機感を抱くでしょうに……未然に防げるものなのかしら」
国が物を買い上げているわけではない。
流通は、商人たちが独自に行っているのだ。
たとえば、ウイッシュトンの町へ何がどれだけ搬入されているか、リアルタイムで理解している者はいない。
「よほど諜報に力を入れているのでしょう」
「それでもおかしいですわね。やはり情報が届くまでタイムラグがでます。そんなにすぐ手を打てるはずがないのですわ」
もちろんこれは、考えても分からないことだ。
複数の町の情報が一度に入ってくるならば、計画段階で潰せるかもしれない。
「では敵方がミスをしたのでしょう」
「そう考えるのが妥当かしら。他に報告はありますか?」
「ラマ国が発表した改革案の中に盛り込まれておりましたが、ミルドラルとの取り引きを増やすようです。物資の安定供給を目指すためとか」
「とすると、国境付近に展開していた軍隊は?」
「ラマ国側が解散させました。現在、荷とともに、商人が戻りつつあるようです」
「それは良いニュースですね」
「ジュラウス様はこれを機に、ラマ国との通商強化を考えているようで、コルドラード様にお伺いを立てる模様です」
バイダル家当主のコルドラードは、三公会議に出席するため、フィーネ公領へ赴いている。
留守を預かっている息子のジュラウスの判断で、当主の指示を仰いだ方がよいと考えたようだ。
「お父様がそこまで考えるのでしたら、大規模な規制緩和になるのでしょうね」
「詳細は聞いておりませんが、新しい風が吹いているとだけ申してました」
「どうやら、どこもかしこも、薫風が吹きまくっているようですわね。他に何かありますか?」
「いえ、承ったのはこれだけです」
「そうですか、ごくろうさまでした。ただいまより休暇を与えます。三日後の夜に来て下さい。お父様に渡す手紙を用意しておきます」
「畏まりました」
一礼して、使者は出て行った。
「……じい、いまのどう思うかしら?」
「不思議な話ですな。ラマ国の国主はあまり市井の情報に重きを置く方ではございません」
「そうですわよね。……とすると、町中に多くの協力者を放っているのかしら」
「おそらくそうかと。またその情報を吸い上げてまとめる知恵者がいるようです。さもなければ、計略を未然に防ぐことは不可能かと思います」
バイダル公領と比べるのは変な話だが、もし同じような手口で狙われた場合、バイダル公はその計画ごと、関わった商人を潰すだろう。
だがそれは、問題が表沙汰になってからのこと。
物資が不足し、買いだめが増える。
高い金を出して他領から運んで、当座をしのぐ。
その間に犯人の洗い出しを行い、制裁を加える。
そんな流れになる。
計略が効果を現す前に潰せるとは思えない。
(ラマ国でなにか、大きな変化があったのですわね)
腰を据えて調べてみる必要があるかもしれない。
(お父様に頼んでみましょう)
「じい、会議をするわよ」
「畏まりました」
これで手紙に書く内容はひとつ決まった。
正司との関係が進展していれば、いくらでも書くことができるのだと臍をかみつつ、ファファニアはシャルマンを伴って、別室へ向かった。
「お買い物は中止ですわね」
最近調べておいたトエルザード公家の情報を吟味するために、今日一日、意見を詰めなければならない。
「やあ、ここはどこかな」
ボロロンとリュートをかき鳴らし、オールトンは周囲を見回した。
ここはどこか、町の入り口である。
――ボロロン
道行く人が怪訝な顔をオールトンに向けている。
「風が北へ行けと囁いていたけど、随分と来てしまったようだね」
そう嘯いたオールトンは、掻き鳴らした手を止める。
「あれが町の入口か。思ったより厳重だね。あの門構え、まるで魔物に怯えているようだ」
オールトンは一人で旅を続けた。
町や村を抜け、街道を北上していった。
もはやまったく未知の場所。
過去一度も訪れたことのない町が多かった。
それでもオールトンは臆することなく北上を続け、ここにたどり着いたのである。
「ここはカーフェンの町だよ。聞いたこと、あるだろ?」
靴売りの商人がキョロキョロしているオールトンに話しかけた。
男の背中には、ヒモで吊された靴が、何十足とぶら下がっている。
「ほう、ここがかの有名なカーフェンの町ですか」
「有名? 悪名の間違いじゃないのか? それにしてもあんた、いい服を着ているな。どこぞの若旦那か?」
「似たようなものかな。しかしここがカーフェンの町だったとは……とすると、この町の北はもう、『未開地帯』なのかな」
「それで合ってるよ。復興ままならないカーフェンの町へようこそ、どこぞの若旦那。それで一体何しに来たんだい?」
「それは難しい質問だね。答えは風が教えてくれるのだけど……」
――ぼろろん
「どうやら、自分で考えろと言っているようだね」
オールトンの返答に、商人は「こいつは頭のユルい奴だ」と思ったようで、くぐもった声を発し、そそくさとその場を離れてしまった。
「……なんだ、もう行ってしまったのか。もっと話を聞きたかったのだが、仕方ないね。なら、町に入るとするか」
ここはフィーネ公領最北のひとつ、カーフェンの町。
オールトンはゆっくりと門をくぐり、町の中へ入っていった。
「へえ、あの時、討伐隊にいたんですか」
「そうよ、おめぇ。あれは激戦だったぜ」
「僕は遠くから来たので、その辺の話はまったく知らないんですよ。もっと聞かせてください。もう一杯どうです?」
「へへっ……すまねえな」
赤ら顔の男に酒を薦め、オールトンは先を促した。
「未開地帯を開拓して、人の住める場所を広げるっていやぁ、だれもが賛成するだろう?」
「そうですね。理想的な話ですね」
「だがな、北の町に住んでいるおれらとしちゃ、大丈夫なのかねと心配したもんだよ」
「それなりの成果が出たと聞きましたが」
「最初の年だけだな。当時、当主だったラグラット様が大量の兵を連れてきて、一気に魔物を蹴散らしてくださったんだ。あのときは痛快だったな」
ラグラットは、先代のフィーネ公である。
未開地帯の開拓を熱心に行い、人の住む領域を少しでも増やそうと尽力した人物とされている。
トエルザード公領では、『開拓公』と呼ばれることもある。
「たしか……はじめたのが五年前ですよね」
「五年かぁ……あれからもう五年も経つのか」
男は「早いもんだ」としみじみ呟く。
五年前、北にある三つの町を中心に、大規模な魔物狩りが行われた。
フィーネ公領の北には、広大な未開地帯が広がっている。
未開地帯をもっと北へ、押し上げてゆく計画だった。
一年目。
兵士が周辺の魔物を刈り尽くしたあとで、多くの職人を森に入れて、木を伐採した。
直線で一キロメートルほど、未開地帯の森が消えた。
二年目。
そこからさらに平地を広げようとした。
兵を奥に入れて、魔物狩りを行ったのである。
「二年目のあれは失敗だったな。怪我っちゅうもんは、そう簡単に回復しねえ」
より森の奥に入ったため、昨年以上の兵が必要になった。
だが、動員された兵は前年の一割減。
兵の補充が間に合わなかったのだ。
「他から連れてこなかったのですか?」
「町の領主だって、いっぱいいっぱいだったって話だが、どこまで本当か分からねえな。ただ、新兵を入れても前年より少なかったことだけはたしかだったよ」
前年開拓した平地にも魔物が湧く。
その上、新しい場所を開拓するのだ。兵は昨年以上に必要になる。
結局、魔物討伐には成功したものの、前年以上の死傷者を出す結果となった。
「そんで間の悪いことに、魔物の湧きが重なっちゃったんだよなあ」
偶然、各所で魔物が湧いたことにより、伐採に入った職人にも死傷者が出てしまった。
早急に対処せねばと、兵を集め次第、逐次投入した。
そのことで、これまた被害が広がってしまった。
そして運命の三年目。
「俺は見たんだよ。当主様が魔物の群れに突撃していったのを……あれは覚悟の自殺だったんじゃねえかと思うんだ」
守るべき面積が増えても、年々、兵の数が減っていく。
開拓三年目のある日、戦線はついに崩壊した。
最後まで前線に残って奮戦していた先代フィーネ公は、そこで命を落としている。
「『フィーネ公の悲劇』ですよね、戯曲にもありますけど」
「ああ、本物はあんなお優しいモンじゃねえけどな。戦場には、逃げ惑う兵しかいなかったよ。高グレードの魔物は、秩序だった兵で立ち向かわねえと、どんなに集めても端から蹴散らされてしまう」
「いま、逃げた兵が各地で問題になっていますよね」
「だって逃げるしかあるめえ? 当主様を死なせたってだけならまだしも、当主を見捨てて逃げ出した連中だ。あの場で踏みとどまらなかった奴らは、敵前逃亡の罪は免れねえよ。だから二度と戻れねえ」
いまフィーネ公領で問題になっている逃亡兵は、このとき生まれた。
こっそり村に帰り着き、秘かに暮らしている者もいれば、密告されて連れて行かれた者もいる。
別の名前で働いている者、棄民の中に紛れた者もいる。
彼らには追討令が出ている。
そして一番やっかいなのが、現フィーネ公を恨み、盗賊に身をやつした者たちだった。
「でもなぜそんな風に思ったんですか?」
「そんな風って?」
「先ほど話していましたでしょう。覚悟の自殺だったって」
「ああ……あれか」
男は杯の中身をすべて飲み干した。
目がトロンとしている。
「あのときフィーネ公は撤退の命令を出せば良かったんだ。逃げる時間はあった。職人はもういなくなっていたし、あの地を死守する必要はまったくなかった。だけど……」
「だけど?」
「当主様は逃げなかった。それどころか、僅かな手勢を引き連れて、一番多く魔物がいる中へ突っ込んでいったんだ。俺はそれをただ呆然と眺めているしかできなかった。あれが自殺じゃないなら、なんと呼べばいいんだろうね」
「しいて言うなら……英雄的行為ですかね」
「はっ、戯曲のまんまじゃねえか。あの場じゃ、相応しくねえな。俺の弟も死んじまった。ダチの多くが帰ってこねえ。あの場に英雄はいなかった。いなかったんだ……いたらきっと……もっとこう……違った結果に……」
男はそのまま寝崩れてしまった。
すぐにいびきが聞こえてきた。
オールトンはそれを黙って見つめ、おもむろにリュートを取り出した。
「英雄はいなかった……ですか。では、喪われた英雄のために、僕が鎮魂歌を奏でましょう」
オールトンは、リュートを掻き鳴らした。
すぐに悲しい旋律が酒場に流れ、人々の耳を打っていく。
その悲しげな旋律は、いつまでも、いつまでも酒場の中で鳴り響いていた。