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058 研修

 ラクージュの町にあるバイダル家の屋敷。

 ファファニアはいま、ここに滞在している。


 ウイッシュトンの町からここまで一緒にやってきた護衛たちは、みな戻した。

 いま屋敷に残っているのは、護衛兼侍女のランセットと、お目付役のシャルマンのみである。


 もとから屋敷には、多くの家臣と使用人が住んでいるため、三人増えたところで、まったく問題ない。


「じい、いよいよ明日ですわね」

 喜色を浮かべたファファニアに、「じい」と呼ばれたシャルマンも相好を崩す。


「はい、ファファニア様の新しい生活がついに始まります。じいも応援しておりますぞ」


 明日から博物館の従業員研修がはじまる。


「明日集まる従業員は、数十人にもなると聞きました」

「凄い人数ですな。ですがまだ、それでも半分程度とか」


「驚きですわね。これほどの規模とはわたくしも思いませんでしたわ」

「じいもです」


 バイダル家の直系は、どのような形になるにせよ、最終的には人の上に立つことになる。

 そういう教育を受けてきた。


 ただ、最初からトップの座に就いてしまうのはよくない。

 下の者たちのことをまったく知らないのは、いびつすぎる。


 未熟な内に多くのことを経験しておくのは、将来において大変有用である。

 17歳のファファニアが領外で働くのはそういった理由が多分に含まれている。


「明日、タダシ様に会えるのですね。楽しみですわ」

「明日は仕事の打ち合わせに向かうのです。そういった態度は逆効果かもしれません」


「……っと、そうでした。気をつけますわ」

 ファファニアは神妙に頷く。


 対外的には、経験を積むためにここへ来たことになっている。

 色恋にうつつを抜かしている姿を初日から見られるのはよくない。


「そういえば、明日は博物館に集合だそうです。馬車は普通のものを使用しますがよろしいですか?」

「ええ、これから毎日使うのですもの。他の方を威圧するわけにもいきません。紋章入りの馬車は使いません」


「分かりました。御者にも、なるべく目立たないように伝えておきます」


「それにしても、じい、この前見学に行った博物館……あれは凄かったですね」

 ファファニアは博物館を見て驚いたが、それもそのはず。


「はい。あれは本当に人の所業かと思いました。……町の噂を総合すると、ほんの僅かな時間で作り上げたとか。まったくもって、信じられません」


「さすがタダシ様ですね」

「………………ええ、まったくです」


 そう答えるものの、シャルマンは思い出すたびに、背中に嫌な汗が流れる。

 噂に聞くのと実物を見るのでは、受ける衝撃が大きく違う。


 博物館は、それはもう見事なものだった。

 大きさもさることながら、きちんと形作られ、頑丈この上ないものとなっていた。


 あれが〈土魔法〉で作ったと言われても、いまだに信じられない。

(数年がかりで取り組んだとしても、あんな大きなものは到底作れません)


 石材を集めるだけで何年もかかる。

 それを綺麗に切りだし、組み上げ……芸術品のように形作るとなると、建築に10年かかっても不思議ではない。


 まったくもって、驚愕の一言である。

(あれをどう報告したとて、この驚きは伝わらないでしょう)


 ファファニアは単純に「凄い」と喜んでいるが、これほどの魔道士をトエルザード家が秘匿していたことに、シャルマンは舌を巻く思いであった。


 そして国家間の軋轢が増したこの時期に、あのような大魔道士を表に出したことの意味。

(本当に怖いお人ですね、トエルザード公は)


「ねえ、じい。明日は何を着ていきましょうか」

 くるくると回りながら、ファファニアが尋ねる。


「そうですな。あまり目立たない服装がよろしいかと思います。最初が肝心とは申しますが、ファファニア様はこの町では新参者。あまり反感を買うべきではございません」


「そういえばそうでした。明日の発言もほどほどにした方が良いですね」


 ファファニアの言葉に、シャルマンは満足そうに頷いた。

 最初にガツンとやることも大切だ。


 だがここは敵地アウェーではないとはいえ、悪目立ちしていい環境ではない。

 まず周囲に溶け込み、全体の雰囲気を掴んでからでも遅くない。


 シャルマンが少し言っただけでファファニアも理解したようなので、滅多なことはないだろう。


「じいが思いますに、タダシ様が喜ぶことを優先すればよいかと思います」

「タダシ様が喜ぶことですか。となると、博物館を成功させることですわね」


 これほど大規模なことをしているのだ。

 絶対に成功させたいに違いない。


「はい。言われたことをよく守り、率先して模範となるように動く。タダシ様はそういった人材を求めているのではないでしょうか」


「なるほど、さすがじいです。わたくしはタダシ様が何を望んでいるかを常に考え、それに沿うように行動すればいいのですね」


「それが最善かと思います」

「分かりましたわ。……ふふっ、明日が楽しみすぎて、今夜眠れるか分かりません」


「夜更かしはほどほどになさいますよう」

「分かっていますわ……けれど、この胸の高鳴りを押さえることができないのです」


 窓から夜空を見上げて、ファファニアは祈るように呟いた。

「タダシ様が何を求めているのか……明日、しっかりと確認しますわ」


 こうしてファファニアは、近年稀にみる最高の気分で夜を過ごした。

 この話をもし正司が聞いていたら「遠足の前日と同じですよね」と大いに同意しただろう。




 そして翌朝。

 正司は博物館に集まった従業員たちを見回した。


 この中には、もちろんファファニアもいる。

 上品だが華美でない服に身を包み、集団の中に埋没している。


「ではみなさん。本日はお集まりいただきありがとうございます。いまから業務マニュアルを配りますので、一部ずつ持って下さい」

 最初の挨拶が終わると、正司は用意した冊子を全員に配った。


(何かしら?)

 ファファニアは冊子を手に取る。

 本と言ってもよいほどに分厚いものだった。


『博物館運営マニュアル』と題されたそれは、二部構成になっており、前半が解説で、後半は資料となっているらしい。


(最初にやり方を説明するのかしら。珍しいですわね)

 ファファニアはマニュアルをめくる。


 中身は小さな字で、ビッシリと書かれている。

 周囲から驚きの声が上がっている。


 それもそのはず。ぱっと目を通しただけで、何をするのかが事細かく書かれているのだ。

 もしかしてこれ、すべて読まなければいけないのかと考えた従業員たちがどん引きしている。


 正司は、空いている時間を使ってコツコツと作ってきた。

 マニュアル作成の作業は大変であるものの、やりがいもあった。


 完成したものを何度も見返し、ようやく満足できるものになると、今度はミュゼとレオナール相手に説明する。


 二人が理解できない部分や、勘違いしやすい部分を改良し、運営マニュアルの第二版ができあがった。


 それを使って、今度はエリザンナとマリステルに同じように説明する。

 二人が理解できない部分を修正し、第三版を作り上げる。


 これをもう一度ミュゼとレオナールに見せて、最終確認をする。

 こうしてできたのが、『博物館運営マニュアル』である。


 今日配ったものは、それを書写させたものである。


「これからの研修は、これをもとにして行いますが、みなさんはまだどの部門に就くか決まっていません。マニュアルには最低限のことしか書かれていません。自分の部署以外でも知識として持っておく必要があると思いますので、すべて頭に入れてください。よろしくお願いします」


「「「…………」」」

 読むのすら苦痛であるのに、「すべて頭に入れてください」とは。


 もしかして最初に覚えろということかと、従業員の何人かが顔を青ざめさせた。


 どの職場でも独自のルールがある。

 それは働き始めてから徐々に覚えていくもので、だいたい三ヶ月もあれば、それが完了する。


 ここに集まった従業員はみな、家臣たちの推薦があった者ばかり。

 基本的な教育が出来ているからこそ、働きながら慣れるつもりでいた。


 まさかこんな厚いマニュアルを覚えさせられるとは、思っていなかった。


「それでは私が説明しますので、質問があればのちほどまとめて受けます」


 このマニュアルは、正司が学生時代にしたアルバイトの経験から作成したものだ。

 見よう見まねであるため、抜けもある。


 それでも従業員たちにとって、刺激的だと思い、全力で取り組んだ。


「八つの部門がありますので、順に説明します。……では行きますね」

 正司は部門ごとに詳しく仕事内容を説明していった。


『展示部』は、1Fと2Fの要所に立ち、客が迷ったり、困ったりしたときの手助けをする。

 また客の質問は基本的に展示部が受け持つ。


「すべての魔物の名前や特性を覚えてください。これはお客様の質問に答えられるようにするためです」

「…………」


 何百という種類の魔物を覚えろというのである。

 しかも覚える内容は名前、外見、特徴、生息地、ドロップ品など、多岐にわたる。


 たしかに客から質問されて「……さあ?」では何のために立っているのか分からない。


 だからといって、全部覚えろというのは、さすがに予想外だった。

 これは正司が学芸員キュレーターの役割を展示部に求めたのが原因である。


『食堂部』はレストランである。

 魔物の肉を使った料理を出すだけでなく、子供たちが喜びそうなお菓子類も提供する。


「調理人は別に雇うことになりますが、みなさんには料理の種類と、使われている食材、接客のマナーなどを覚えてもらいます。フードコートを設置しますので、そちらの管理もお願いしますね」


 これも覚えることが多いと、何人かが天を仰いだ。

 グレードの低い魔物の肉を使うとはいえ、数が多い。


 さらに料理の種類も多いため、レシピを含めて、覚えることがやたらと多かった。

 レストランは敷居によって複数に分けられており、これは提供する肉のランクによって、値段や雰囲気で差別化をはかったためだ。


 高級肉を使うレストランには、広い空間と一流の接客が求められる。


 また一般客用といっても、魔物肉を使うため、通常と比べたら高級品という扱いになる。

 だが、このレストラン内では「一般の魔物肉」を提供する「一般的な客層のレストラン」と表現している。


 ほかにも、ファストフード店からヒントを得て、テイクアウト専用の店もオープンさせる。


 手軽に食べられるよう工夫したものが買えるようになっており、じっとしていられない子供用に、手軽な食べ物も用意することにした。


 それらの管理をすべて『食堂部』が行うことになった。


 続いて『購買部』であるが、これはただ土産物を売ればいいというわけではない。

 転売を防ぐため、購入する品数には制限をかけることになっている。


 また土産物の数はかなり多く、数百種類もある。

 品物と値段を暗記するだけでなく、客の動向にも注意しなければならない。


 しかも土産物は、これからどんどん増えていくらしい。

 季節ごとに新商品をどんどん追加していくとか。


 博物館に来た人は必ずここに寄るだろうし、ただ見学しているのとは違って、購買部は接客がメインである。


 客と多く触れ合う以上、不快にさせない態度を身につけねばならない。

 朝から晩までサービス精神を発揮し続ける気苦労の多い部署である。


『遊戯部』は、正司が作った子供向けの遊具の管理がメインである……なぜか、遊具すべてが魔道具で出来ていた。


 遊具をみた従業員の何人かが絶句している。


「遊具は最低ふたり、従業員がつくことになります。これは事故防止の観点から、決して疎かにできないことです」


 魔道具でモーターを作れることが分かった正司は、自動式の遊具をいくつも開発した。

 開発したといっても、遊園地やデパートの屋上にあるものを見よう見まねで作ったのである。


 小さな子供でも楽しめるように、ハラハラドキドキするようなものは一切ない。

 安全に配慮したやさしいものばかりだ。


 だが、自走する乗り物など、通常では考えられないものが屋上には揃っていた。

 ある意味、一番「見たことがない」ものが揃っているといえる。


『遊戯部』は、正しい遊具の使い方を教えつつ、子供たちに楽しんでもらうよう、尽くさねばならない。


「もちろん、子供だましであるのは分かっています。ですが、それでも楽しかったと言ってもらえるような遊具をこれからも増やしていきたいと思います」

「…………」


 子供だましどころか、大人が並ぶのではないだろうか。

 従業員たちの顔に、そう書いてあった。


『事務部』はお金と人を管理する部署である。

 博物館は独立採算制である。年間を通して、収支をプラスにしなければならない。


 これはどんな商売でも同じである。だから、それは従業員もよく分かっている。

 問題は人事の方である。


 従業員はこの『事務部』で一括して管理され、各部署へ適宜配置してやるらしい。

 事務部は、会社の人事部と経理部が一緒になったようなものだ。


 人とお金を適正に管理し、博物館を継続して運営してゆけるよう、収支のバランスを調整してゆくことになる。

 扱う金額の総量が多いので、ここもやりがいがありつつ、大変な部署である。


『警備部』は博物館の館内と敷地を守る人たちである。

 盗難、客同士の喧嘩、従業員への嫌がらせなど、どうしても一般の従業員では対処できないこともある。


 そういったときに対処するのが彼ら警備部の人たちだ。

 この世界は武器を携帯している者が多い。


 いつ何時、魔物に襲われるか分からないのだから、自衛できる装備は必須であり、それを規制することはできない。


 ゆえに客や従業員の安全を考えれば、警備する人たちに武器を携帯させざるを得ない。

 それでも外見で威圧させないための配慮は必要だろう。


「警備部の方々には後日、必要な装備をお渡しします。まずは館内と外に何があるのか、トラブルが起きたときにどう対応すればいいのかを学んでください。巡回ルートや時間なども書いてあります。無理のない警備ができるよう、常日頃から訓練に励んでもらいたいと思います。訓練場はこちらで用意します」


 トラブルが起きたとき、警備する人によって対応がまちまちだと信用性に欠けてしまう。

 また実力がともなわないと、トラブルを解決できない。


 トラブルなど、ケースバイケースのところもあるが、ちゃんとした対応基準を設けておきたい。


 そのため、起こりえる事象とその対処法を正司はマニュアルに記した。

 それはFAQとしてすべて載っている。


 トラブルが起きるたびにFAQは追加され、よりよい解決方法が見つかったら、修正されていく。


「警備部の頑張りが、博物館の安全に繋がると思います」

 そう締めくくった。


 そして『宣伝部』である。

 これは以前ファファニアに話したことが通常業務となる。


 ファファニアがトップにいれば、隣のバイダル領にまでその噂は届く。


 またトエルザード領でも、ファファニアの名が出れば無下にできない環境がある。

 上流階級の人たち、たとえば裕福な商人などはこぞって宣伝に協力するだろう。


(この前、タダシ様から聞いた内容と同じですわ。もうあのとき、このようなことを考えていたのですわね)


 恐ろしい人……とファファニアは、飄々(ひょうひょう)とした調子で説明を続けるタダシを見つめた。


 そして最後の『倉庫部』である。

 これは主に倉庫内の管理と、石像の搬入、搬出を担当する。

 他にも従業員の制服や備品の管理も入っている。


 石像がどこに置かれているのか、飾り付けはどうするのか、搬入路の確保は大丈夫なのか。そういったものを一手に引き受ける。


 展示物の入れ替えは客が帰った深夜に行うことになるため、勤務時間も長くなることが分かっている。


 一見楽そうに見える部署だが、倉庫内にある石像の場所を把握せねばならず、展示物の入れ替えのたびに徹夜になるだろう。


「物が多いですし、覚えることはたくさんあります。そして実際に働いた場合、体力勝負なところが出てくると思います」

 結局、楽そうな部署はひとつとしてなかった。


「この中で自分には無理だなと思う部署もあるかと思います。無理なところには配属されませんが、他部署について理解していないのはよくないと思います。向き不向きがあったとしても、しっかりと学んでください。では質問を受け付けます」


「「「………………」」」

 質問がなかった。

 というか、みな呆然とした顔をしている。


 集まった従業員も、自分たちがここまで管理されるとは思わなかったのだ。

 たとえば勤務中、従業員がフリーになる時間がない。


 これは休憩がないというわけではなく、休憩や昼食など、すべて時間で管理されていることを意味する。


 大勢が働くため、小休止の時間も細かく設定されている。

 誰かが休憩中は、フォローにあたる人もシフトで決まっている。


 よく考えられており、それゆえ話を聞いただけでは理解するのがやっとで、質問まで頭が回らなかったといえる。


「あの……タダシ様、よろしいでしょうか」

「あっ、ファファニアさんですね。私のことは館長と呼んでください」


「はい、館長。質問よろしいでしょうか」

「どうぞ」


「この運営マニュアルですけれども、いつまでに覚えればよいのでしょうか」

「いつまでというのは決めていません。覚えたら来てください」


「来るというのは……タダシ様、いえ、館長の所へですか?」


「はい。マニュアルの内容について、確認試験を行います。その出来具合によって、バッジを授けようと思います。……見せた方が早いですね。これがそのバッジです。金、銀、銅の三種類ありまして、これは役職に関係なく、どれだけマニュアルを理解したのかを示すものになります」


 手の平に収まるくらいの小さなバッジ。

 確認試験に合格すると貰えるらしい。


「ということは、合格した人からバッジをつけられるわけでしょうか」

「はいそうです。バッジのあるなしで差別はしませんが、これはしっかりと業務内容を覚えた方へのご褒美と思ってください。一応魔道具ですし」


 ――ざわっ


 従業員が一斉にざわめいた。

 これだけのものを短時間で作り上げる魔道士である。


 魔道具と聞いて色めき立ったのだ。


「どのような魔道具か、聞いてもよろしいですか?」

「それは受け取った方のみ知ることができる……その方がおもしろいですし、やる気がでると思いませんか?」


「そう……ですわね」

 すごい気になる。


 ファファニアがそう思ったら、周囲もみな同じ反応だった。


「というわけで、覚えたら来てください。試験をします。他に質問がないようですので、また明日」

 ニッコリと正司は笑った。


 こうして研修初日が終わった。


 皆にはまだ話していないが、成績と勤務態度、能力や適性を見ながら、各部門のトップを決めてゆく。


 トップが決まれば、その下へ従業員を配属することができる。

 いま第二陣の人員募集をかけているので、そこで採用された人たちは、ここにいる人たちが教えながら教育していくことになる。


 総合力で部門長を決める予定でいるが、それには確認試験の結果も加味される。

 そのことに、勘の鋭い人は気付いているはずである。


 正司が何も言わなくても、マニュアルを大事に抱えて帰ってゆく人が多かった。


「先は長いですが、がんばりましょう」

 去って行く従業員の背中に、正司はそう呟いた。




 もうすぐ正司はフィーネ公領へ行ってしまう。

 その間、従業員の研修は、レオナールが行うことになっている。


 レオナールならば安心して任せられる。

 あとは引き継ぎだけだと、正司が思っていると。


「タダシ殿、この入館料ですが……かなり安くなっておりませんか?」

 やや困った顔でレオナールが指摘する。


「あれっ、そうですか? かなり上げたつもりだったんですけど」


 正司が設定した入館料は、銀貨3枚である。

 これは従業員の給与と博物館の維持費から、正司が計算したものだ。


 安宿に素泊まりすると、そのくらいの金額になる。

 ラクージュの町ならば銀貨六、七枚で中規模の宿に泊まれる。


 銀貨3枚は、イメージとして数千円だろうか。

 正司としては「やや高いかな?」と思う値段設定だった。


 日本の博物館だと、入館料は安いところで数百円、通常で1500円程度。

 これは、日本全体が裕福であることとか、土地や人件費が高いことが要因となっている。


 この世界の人件費は総じて安い。

 また、土地は貰い物で、建物は正司の魔法で作っている。


 初期投資がほぼゼロなうえ、それなりの客が見込めるとミュゼたちが太鼓判を押したので、かなり強気の値段設定だった。


(テーマパークなみの値段設定はさすがにおかしいですよね)

 いわゆる「○○ランド」と呼ばれる複合施設並にするのは、憚られた。


「せめてその倍はあった方がよいと思います」

「これでも採算は十分なんですけど」


 銀貨3枚は、それほど裕福な人が多くないこの世界で、かなり高価な部類にはいる。

 それでもレオナールは「まだ安い」と言う。


「レストランの値段ももう少し上げた方がよいでしょう」

「そっちもですか……ですが、なぜですか? たしか価格差はつけてなかったと思いますけど」


 一番高価な魔物肉は、在庫処分である。

 周辺のレストランの値段に合わせたつもりだった。


「たしかに値段は同じくらいです。ですが、タダシ殿の持ち込んだ肉の種類が問題です。おそらくこの町の住人は食べたことのない肉ばかりでしょう」


「あー、凶獣の森やラマ国周辺でかなり狩りましたからね」

 魔物の肉は日持ちしないため、普段は、この町の周辺に出没するものしか供給できない。

 正司の場合、『保管庫』に仕舞ってあったものだったため、レオナールも名前すら聞いたことのない肉がかなりあった。


「うーん、そうですね。どのくらい値上げしたらいいと思いますか?」

「できれば3割ほどお願いしたいと思います。周辺のレストランとの兼ね合いもありますので、最低でも2割は必要でしょう」


「……分かりました。では2割から3割の間で、調整をかけてもらえますか? 私では分からないことも多いので」


「畏まりました。こちらで最終調整をしておきます」

「よろしくお願いします」


 ふーっと、正司が息を吐き出していると、ミュゼが現れた。


「タダシさん、土産物の値段設定ですけど……」

「またですか」


 どうやら、ミュゼも同じ用件らしい。

 正司は天を仰いだ。




 研修が始まって三日目の夜。

 ラクージュの町にあるバイダル家の屋敷。


 ここ数日、ファファニアはずっと『博物館運営マニュアル』の読み込みを行っている。

 日中は博物館で研修を受け、夜はこうして暗記に頭を使っているのである。


 護衛のランセットが心配するほど熱中している。

 そんな中、扉がノックされ、シャルマンが現れた。


「ファファニア様、すでに夜も更けております。そろそろお休みになったらいかがでしょうか」

 ファファニアの部屋に灯りが漏れていたようだ。


「もう少ししたら寝ます。じいは先に休んでくれてかまいませんわ」

「そういうわけにもいきません。研修はまだこれからでございます、どうかお身体をご自愛くださいませ」


「ですが、覚えることが多すぎて、とても覚えきれないのです。じいも見たでしょう。このマニュアルの量を」


「はい。ですから、数日ですべて覚えられるとは思えません。長期戦の構えで行くべきかと思います」


「それはそうですけど、せっかくタダシ様が作ってくれたマニュアルですもの。確認試験もあることですし、できるだけ早く暗記したいのです」


「それは分かります。ですが、夜更かしは身体に毒でございます。睡眠不足は美容の天敵、落ちくぼんだ目でタダシ様の前に出られるつもりですか?」


「そっ、それは困りますわね。じい、どうしたら良いでしょう?」

「一番よいのは、すぐに寝ることでございましょう」


 睡眠がすべてを解決すると言われてしまえば、ファファニアも頷かざるを得ない。

「そうですね。分かりましたわ、今日は寝ます。続きは明日ですね」


「はい。ご理解いただけたようで、何よりです。それではごゆっくりおやすみなさいませ」

 部屋の灯りが消えたのを確認すると、シャルマンは去っていった。


 しかし……とシャルマンは思う。

(あの分厚い運営マニュアルというもの……タダシ様が書かれたという話ですが、なんと洗練されたものなのでしょう)


 シャルマンが見たところ、マニュアルには斬新な手法と考え方がこれでもかと盛り込まれていた。


 また、細かいところまでよく目が届いており、あれを理解すればだれでも一流の従業員になれるのではないかと思えてしまう。


 シャルマンは古参の者から「見て覚えろ」と言われて育った世代である。

 苦労しながら先達せんだつのやり方を盗み、自分のものとしてきた。


 はっきり言って、一人前になるまで、苦労のしっぱなしだった。

 だが、あのマニュアルは違う。


 素人でも、通常業務をあの通りに行えばいい。

 それだけで、ミスは格段に減るだろう。


 なんというか、あの冊子だけ、ものの考え方が数世代くらい隔絶しているのである。

 あれには、様々なトライアンドエラーを繰り返して身につけたものが凝縮されていると、シャルマンは感じた。


(これも報告すべきことでしょうね)

 バイダル家が正司に注目しているのは、魔法のみ。


 だが、シャルマンのみるところ、バイダル家がイメージしている「大魔道士タダシ像」は、かなり違うのではないか。

 シャルマンには、そう思えてならないのである。


(何か根本的なところで勘違いしている……わけではないですよね)


 あのマニュアルを読んでから、妙に胸がざわつくシャルマンであった。




「お母様、町の噂ですけど……」

 その日珍しく、リーザが言いづらそうな顔をして、ミュゼのところへやってきた。


「町の噂というと、わたくしが布告した『棄民救済』のことでしょう? どうして自分たちが対象ではないのか、といったところかしら」


「……はい。ご存じでしたか」


「知ってはいないですけど、簡単に予想がつきます。彼らだって、納めた税を別のことに使われたら、不満の一つも言いたくなるでしょう」


 ミュゼが予想したように、町の住民は困惑していた。

 ただし、まだ「不満を持つ」までには至っていない。


 これはミュゼが「布告をしただけ」だからである。

 また、今回の布告が町外区域に関係していることや、今のところ町民に実害が何もないことも関係している。


 この先、ミュゼが何をするかで「困惑」が「不満」に変わり、「憎悪」にまで成長するかもしれない。


「あれは、非難の矛先をお母様にむけさせるために、お父様の名前を使わなかったのですか」

「そうです。当主に傷をつけさせるわけにはいきませんでしょう?」


 だったらなぜミュゼが名を出すのか。

 というより、棄民救済が正しいことなのか、リーザには分からなかった。


 商会が『無職の者を支援する』を打ち出したとしよう。


 従業員からすれば「関係ない人たちを助けるくらいならば、自分たちの給与を増やしてほしい」と思うだろう。


 損益分岐点をギリギリ上回っている状態ならば尚更だ。

「俺たちの稼ぎをそんなことに使うな」と憤る人が出ても不思議ではない。


「これから先のことを考えると、後出しをするより先に布告してしまった方が楽なのよ」

 当然これは、ミュゼがうそぶいたことだが、リーザは何が言いたいのか理解した。


「町外区域だけじゃ済まない……タダシはもっと大きなことをやると、お母様は思っているのですね」


「まあ、そうね」

「…………そうですか」


 リーザは息を吐き出した。

 母親の前で、それははしたない行為だ。


 だがミュゼは咎めない。

 普段ならば「いつ人に見られてもいいようにしなさい。クセになりますわよ」くらいは言うのにである。


「あなたは反対かしら?」

「難しいところです。すでに起こってしまったことですし。ただ……いえ」


 リーザはかぶりを振った。

 正司が大きなトンネルを穿ったことは記憶に新しい。


 町外区域の件もそうだが、リーザは「タダシが勝手にやった」のだろうと思っている。

 そしてそれは間違っていない。


「そういえばお母様……」

「なにかしら?」


「博物館への見学を受け入れたようですけど、それはなぜですか?」

 最近、家臣たちが話しているのを聞いた。


「ほら、急に塔ができたりしたので、知りたがる方々が多かったのです」

「それは知りたがると思いますけど……」


 塔は町のどこからでも見える。

 事情を知ってそうな人物を見つけて、「あれは何だ」と聞くに違いない。


 一番事情を知ってそうな人物……もちろん、リーザの両親だ。

 質問は巡り巡って、そこへ行き着く。


 事情を知れば「ぜひ見てみたい」と言い出すのも必定。

 そしてリーザは思った。タダシならば二つ返事で了承すると。


「それはよい宣伝になりますね。いいですよ、どんどん見学してください」

 どこからか、正司の声音で幻聴が聞こえてきた。


 つまりもう、正司のことは隠すつもりはないのだ。

 積極的に広報し、味方を増やすつもりだろうか。


 それによって生じるメリットとデメリットは、どちらが多いのか……リーザは思考を放棄した。


 ――正司の好きにやらせて、その責任をとる


 メリットとデメリットがあまりに大きすぎて、リーザには損得勘定ができなかったのだ。


(お母様は積極的賛成で、お父様は放任? これはだれがタダシのストッパーになっているのかしら)


 リーザは頭の中で、正司を止められそうな人材を探したが、ついに見つけ出すことができなかった。




 そしてついに、ルンベックがフィーネ公領へ出発する日になった。


 正司は前日、従業員の研修をレオナールへ引き継いだ。

 従業員とはしばしの別れを済ませている。


 唯一ファファニアだけは、トエルザード家の屋敷へ、見送りにきている。


「タダシ様。どうかお気をつけて、行ってらっしゃいませ」

「はい。危険なことは極力避けますので、大丈夫です」


 それは護衛としてどうなんだろう。

 周囲にいた全員が、同じ思いを抱いた。


「戻ってくるまでに、マニュアルを完璧に覚えてみせますわ」

「がんばってください」


 結局今日まで、ファファニアは、マニュアルを覚えきることができなかった。

 魔物だけでも数百種類あり、その特徴など入れれば、数千項目に達する。


 それらを暗記するのは、ファファニアがいくらがんばっても無理だったのだ。


「それではファファニアさん、行ってきますね」

 これから馬車で出発する。


 トエルザード公をはじめ、有能な人物がこの町を発つ。

 護衛を多数引き連れての旅だ。


「――出発!」


 どこからか声が聞こえ、先頭の馬車がゆっくりと進んだ。


「タダシ様、お帰りをお待ちしておりますわ」

「はい。必ず戻ってきます」


 馬車は順番に進み、正司を乗せた馬車も動きだした。


 道を八台の馬車が連なって進む。

 護衛を含めると今回のメンバーは、六十名を越える。


 それがゆっくりと、町を出て行った。


 正司はルンベックと二人だけの馬車である。

 一際豪華で、広々とした室内。


 それをたった二人で使うのである。


「では行きますね」

「頼むよ、タダシくん」


 今回の旅は、しっかりと町の人にも見てもらう必要があった。

 ゆえに町中は行列をなして進んだのである。


 町を出てしまえば、人の目はない。

 国境まで正司の〈移動魔法〉で跳べば一瞬である。


 というのも、以前正司はバイダル公領からトエルザード公領へ行く道すがら、ちょうど国境付近まで来たことがあった。


「フィーネ公領は普通に進むしかないが、ここまでならば誰も文句はいわないだろうね」

〈移動魔法〉を提案したのはルンベックだった。


「楽でいいですね」

 正司も同意した。


 フィーネ公領では途中の町で宿泊し、領主と会談しなければならない。


 立ち寄らずに進んでしまうと、その町の領主にへそを曲げられてしまうかもしれない。

 ここは慣例通り、派手に接待を受けて「貸しを作った」と相手に思わせる方が得策なのだ。


〈移動魔法〉で途中を省略したため、その日の昼前にはフィーネ公領に入った。

「よし、そろそろ休憩にしよう」


 これは出発して、初めての休憩である。

 国境の町まであと数時間かかる。この辺で一度、馬を休ませた方がいいとの判断だ。


 先頭の馬車から次々と停まっていく。

 正司とルンベックを乗せた馬車も停まった。


 ここからしばらくは自由時間である。

 正司は護衛なので、一応ルンベックの側にいることになっている。


(どうやって時間を潰しましょうか)

 そんなことを考えていると、馬車の戸がノックされた。


「……ん? だれでしょう?」


 外には護衛たちがいる。

 ガチャガチャとやっているのは、馬の荷物を降ろしている音だ。


(護衛の方でしょうか)

 ルンベックを見ると、頷いている。確認しろということだ。


 正司は馬車の小窓をあけて、外を見た。

 すると、見知った顔が小窓から現れた。


「リーザさん!?」

 外にいたのは、ラクージュの町にいるはずのリーザである。


「中に入りたいの。入れてくれるかしら」

 馬車は、中から鍵が閉まるようになっている。


 リーザはそれを外してくれと言っている。


「えっと……なんでリーザさんがここに?」

「一番後ろの馬車に乗っていたのよ」


(最後尾の馬車はたしか荷物が積んであったはずですけど……?)


 最後尾の馬車は予備で、だれも乗っていない。

 余分な荷物が積載してあったはずだ。


 どうやらリーザは、それに乗っていたという。


「えっと……鍵ですか、はい」

 リーザの要求に逆らえるわけがない。


 正司が鍵を外すと、すぐにリーザが乗り込んできた。

 驚く正司に、リーザは「初めて会ったときと逆になったわね」と悪びれない。


「それで、何か言うことはあるのかい?」

 ルンベックに問われて、リーザはしばし考え込む。


「ええっと、こういうとき何て言えば……そうそう、思い出した」



 ――来ちゃった



 そう言ってリーザは、ぺろっと舌を出した。



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― 新着の感想 ―
[気になる点] 自分の会社をどう仕切ろうと自由ですがいきなり求め過ぎな気がしました 見て覚えろがないマニュアルはとても良いと思いますが そのマニュアルが完璧であるほど他の部署の仕事を完璧に覚えさせられ…
[気になる点] 人件費が安いのは教養がない人でマニュアルを実行できるぐらい絶対数が少ない人材は高くなるのでは?
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