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053 いずくんぞ正司

 サラリーマン時代に正司が学んだことはいくつかある。

 たとえば将来については、長期目標、中期目標、短期目標をそれぞれ作成し、しっかりとリンクさせることなどだ。


 長・中期目標といっても、社会情勢はめまぐるしく変わる。

 五年、三年先を見据えた目標でよかった。その上で、毎年の目標を決定していた。


(目標を決めて、それからどうしたんでしたっけ……思い出しました。現状を把握するのですね)


 先を見据えてから足下を見る。この順番が大事である。

 先に足下を見てしまうと、それに引きずられて遠くが見通せないのである。


「会社に借金があると分かるだろ。それを先に見ちゃうと、どうしても設備投資しようという発想に至らないんだよ。だからまず目標決めだ。五年後の会社の姿を想像して、いま何が必要かを考える。そこへ至るまでの道を毎年分作っていくんだ」


 上司がそんなことを言っていた。

(ありがとうございます。その知識、ここで使わせていただきます)


 正司はこの世界について怒っていた。

 棄民が出る社会を嘆いていた。それは正司の幼い記憶が引き金になっているかもしれない。


 数十年前、日本は自国民を捨てたことがある。敗戦のときだ。

 大陸で見捨てられた彼らは、自力で戻るかそこで住むか選択させられた。


 自力で帰るといっても大変である。

 幼い我が子を泣く泣く現地の人に預け、帰国した者も多い。


 正司が幼い頃、大陸で置き去りにされた人たちの身元確認と集団帰国事業をテレビでやっていた。


 老齢になった彼らは「残留孤児」と呼ばれ、三歳、四歳の頃の記憶を頼りに、日本の親や親戚を探していた。


 国に見捨てられ、長い年月を他国で過ごした彼らが日本に戻ってくる。

 ブラウン管の中では、そんな光景が映し出されていた。


 幼い正司が受けた衝撃は大きかった。

 裕福な国だと思っていた日本に、そんな過去があったのだと。


(私の目標は、棄民をなくすことになるのでしょう。できるかどうか分かりませんけど、それを長期目標にしましょう)


 国に見捨てられた民が、正司の目の前にいる。この世界にきてからずっとだ。

 目が届く範囲で正司が関わった人たちの何人かは救ってきた。


 だが正司がいま考えているのは、そんなことではない。

 もっと大きなもの、棄民根絶だ。正司はあえてそれを目標に据えた。


 長期目標はできた。

 だからといって、中・短期目標はすぐ決まるものではない。


(次は現状把握ですね)


 正司は棄民の生活に詳しいわけではない。

 たとえば目の前の子供たちは、普段どんな生活をしているのか。


 何を食べ、何を考え、何を求めているのか。

 子供たちは将来、どのように生きていくのか。


(ミュゼさんから、もっと国の政策について学ばねばなりませんね。為政者の考えを知りたいですし、巷間の現状も理解したいです。双方の話を聞いて、正しく理解しなければいけないと思います)


 目標は決まった。あとはどう実現するかだが、正司にはその辺の知識が足らない。

 ゴールは見えているのに、道がはっきりしないのだ。


 ならば手探りでもいい、前に進もう。

「ニジュさん、この子供たちについて、教えて欲しいことがあるのです」


「それはいいですけど、何が知りたいのですか?」


「できるだけ多くのことを教えてください。子供たちが普段何を食べているのか、どんな暮らしをしているのか、将来、この子たちはどのような大人になるのかなど」


 突然の質問に驚くニジュだが、正司の真剣な表情を見て、これは適当に答えるわけにはいかないと思い直した。


「食事でしたら、ちょうど作ろうと思っていたところです。見てみますか」

「ぜひお願いします」


 今日は午後にビストの所で話を聞いた。


 その足でここまできたが、陽はまだ傾いたところだ。

 食事には少々早いのでは? と正司が思っていると、ミュゼが「灯りがないからですね」と言った。


 この小屋には、ロウソクのような火を灯す用具も一切なかった。


(なるほど、子供たちだけで火を扱うのは危険ですし、そういったものも節約しているのでしょう)


 つまりここの人たちは日の出とともに起き、日暮れとともに就寝する。

 そんな生活をずっと送っているのだ。


 ニジュとルーラが外で炊爨すいさんするというので、正司もついていく。


 かまどと呼ぶにはおこがましいほど貧相な炊事場。

 石の囲いがあるだけである。


 そこで調理する二人を見つめながら、正司は昔を思い出した。


 母親がコーヒーを飲んでいたので、ひと口もらって飲んだ。苦かった。

 父親がビールを飲んでいたので、ひと口もらって飲んだ。これも苦かった。


 大人になった正司は、コーヒーもビールも大好きである。

 大人と子供で味覚が違う、よい例だろう。


「これを子供たちに与えているのですか?」


 ニジュとルーラが作っているのは、青菜と野草を煮込んだものに、磨り潰した穀物を水で溶いて、焼いたものだ。

 両方とも手軽に作れる反面、栄養価は低い。


 飢える心配はないと言っても、現実はそんなものである。

 大人たちなら我慢できるだろうが……いや、子供たちだって文句は言わない。喰わねば飢えるのだから。


「これを使ってください」

 正司は『保管庫』から魔物の肉を取り出した。


 ミュゼが何か言いかけて口を開いたが、結局何も言わなかった。


「これを? ……ありがとうございます。ですが、よろしいのですか?」

「たくさん余ってますので、子供たちにたっぷりと食べさせてあげてください」


 正司は、二人がなぜここに来るようになったのか聞いた。

 ここは町外ちょうがい区域。


 町にも村にも住めない者たちが集まる場所である。

 真っ当な仕事をしていたら、このような場所の子供たちと関わることがない。


「私たちは商業区域にある服飾店で働いています」

 一般の人から上流階級の人まで対応できる大きな服飾店らしい。


 その人に合った一点物をつくるオーダーメイド品、フォーマル品、店売り品、行商に持っていく二級品など、仕事は途切れないほど舞い込んできているという。


「わたしはお客様をよく外までお見送りすることがあります」

 ルーラは、そこでよくこちらを見ている親子に気付いたという。


 物欲しそうに新しい服を眺めるのだ。

 彼らが着ていたのは、古着のお下がり品をさらに継ぎ当てたものだったという。


 一度顔を覚えてしまうと、町で会ったときについ目がいってしまう。

 いつも同じ服で、見かける度に段々とボロくなっていく。


「私が店長に相談したのですけど、店の品物は見習いの失敗作だろうと、施すのはだめだと言われました」


 幼子を連れた親は、なかなか定職にありつけなかったのだろう。

 子供を置いて働くこともできず、誰もが嫌がる仕事を引き受けて、僅かな賃金をもらって、その日を凌いでいたのだとルーラは考えた。


 ルーラはニジュに相談し、ニジュもまた同じ思いを抱いていることを知った。

 やつれ、ボロをまとったままでは、仕事を得るのは難しい。


 仕事が得られなければ、ずっとそのままだ。

 いまの生活から抜け出すことができない。


「自分たちでできることをしてみないか」

 ニジュはルーラにそう提案してみた。


 自分たちでできること。それは、服飾の技術を生かすことである。

 さっそくニジュとルーラは雇い主に、店の端切れを貰えないかとかけあった。


 訝しむ店主にニジュは説明した。


「彼らももとは町や村で働いていた人たちです。ちゃんとした外見になれば、きっと仕事が見つかるでしょう。そうすれば今後、顧客になってくれる可能性もあります」


 ニジュは、ボロをまとっている人たちのために、いらなくなった店の布を使わせてほしいと願った。


 たしかに彼らがまっとうになれば、潜在的な顧客となりえるだろう。

 だがそれは先の長い話だ。


 店主はそれを承知の上で、「捨てる布ならば良い」と言った。


 ニジュは自分の給与の中から針と糸を買い、端切れをもらって、ルーラとともに救済に乗り出した。


「それが功を奏したのか、時期が良かったのか、マシな服に着替えた大人たちは、次々と仕事が決まるようになりました」


 今までは外見の汚さから門前払いをくらっていたのかもしれない。

 それがマシになったことで、ちゃんと働けるようになったのだ。


 こうして大人たちの状況を改善したニジュとルーラは、今度は子供たちの服作りに乗り出した。

 なにしろ、ほぼ半裸である。やることは多い。


 だがふたりとも服飾店での仕事を持っており、そちらの手を抜くこともできない。

 ここに来られるのは仕事が休みのときだけである。


 僅かな休みを潰してまで、二人はここに通い詰めていた。

「だからビストさんと話し合う時間が少なかったのですね」


 ひとつ疑問が氷解した。


 ビストがクエーチェットに騙されたとき、なぜそばにニジュたちがいなかったのか。

 そのとき彼らは、町外区域に通っていたのだ。


 そして子供たちが小屋の中にいる理由。

 ときおり魔物が町の擁壁近くまでやってくることがある。


 町へ出入りする人々を守るため、兵は擁壁を巡回している。

 彼らは魔物を発見したら駆除することになっている。


 だがそれにはタイムラグが存在する。

 魔物発見の報から、兵がやってくるまでに時間がかかる。


 その間に子供たちが狙われることがある。

 もちろん滅多にないことだ。だからといって、一日中外にいたら、いつ襲われるか分からない。


 死んだらお終いである。


「ここは擁壁にも近いですし、小屋の中にいれば、魔物が現れてもしばらくすれば倒されます」


 安全性を考えて、子供たちは、小屋から絶対に出ないよう言い含められているらしい。


「それは毎日ですか?」

「ええ、毎日です。私たちが来ていない日も子供たちはずっと小屋の中で親の帰りを待っています」


 もちろん我慢できない子もいる。

 そういった子供たちは二度、三度と外出し、ひと月、ふた月……それが続いているうちにいつのまにか戻って来なくなるのだという。


 死は身近にあり、現実は過酷なのだ。

 子供たちはそれを知っているからこそ、親の言いつけをよく守る。


(やはり問題は魔物なんですね)


 国が全ての民を守れないのも、大人が職にあぶれるのも、町を大きくできないのも、子供が外に出歩けないのも、すべて魔物が身近にいるからだ。


 この日正司は、小屋の大人たちが帰ってくるまで、ニジュから多くの話を聞いた。




 翌日の夕刻。

 正司はニュブリガン商会へ向かった。


 店の中にある商談をするスペースに、六人の男女が集まっている。

 店主のビストとその息子夫婦、正司の左右にはレオナールとミュゼがいる。


 日中、正司はニジュとルーラが働く服飾店に赴き、仕事が終わったらここに来るよう伝えていた。


 普段ニジュとルーラは服飾店に泊まり込んでいる。

 ここへ来るのは五日に一度くらいらしい。


「ニジュさんとルーラさんにどうしても聞いてもらいたい話がありましたので、呼ばせていただきました。……クエーチェットという商人については知っていますね」


「ええ、父から聞きました」

「今までのような商売が続けられなくなることもですか?」


「聞いています。それが何か?」


「昼間私は、ビストさんとは話をしました。その上で聞きたいのですけど、ニジュさんは今後、ニュブリガン商会をどうしていきたいと思っていますか?」


 それこそ何度も父親と話したことだ。

 そうニジュは思い、考えることなくスラスラと語り出した。


「私は上流階級の人に合わせた服よりも、働く人たちに向けて服を作りたいと思います」


 薄くて高級な生地ではなく、厚くて重くてもいいから丈夫なもの。

 毎年変わる流行を追いかけるのではなく、動きやすさ、作業し易さを追求したもの。


 装飾よりも実用性、難解さよりも着やすさと脱ぎやすさを重視したい。

 ニジュが求めるものは、そういった町の人々が着て喜んでもらえるものであると語った。


「よく分かりました。それと今回の件はどう関係しますか?」

 あえて正司は、そう質問した。


「借金を負ったのは父のミスですけど、商人を続ければどこにでも転がっている話です。それについては仕方ないと諦める他ありません。今回の負債を清算しても、まだ町中でやれる資金は残ると聞きました。ちょうど私たちが買って欲しいと思うお客様は、この一等地に足を運ばない人たちです。もしここで私が店を開いても、なかなか来てはくれないでしょう。ですから今回、もっと別の場所で再出発を考えています」


 昼間正司がビストから聞いた話の通りである。

 ニジュがターゲットとしている層は、着るものにあまり金を掛けられない層から、普通の労働者までと幅広い。


 その中に、ビストがトエルザード家に出入りしていた頃の客層は入っていない。

 今回、土地を処分して残ったお金で別の場所で再出発するとビストが言い出したのはこのことが関係している。


「私からの提案ですけど、ニジュさん。その考えで、多くの人を救ってみませんか?」

「タダシさん、仰っている意味がよく分かりません」


「たしかにニジュさんが言ったように、再出発するのでしたら客層に合った立地を選べることでしょう。ですが、それだけです」


 ここからは営業時代に培ったトークである。

「それだけ」と最初に断定して、反論を許さない。


 使いどころが難しいやり方だが、今回のような時には有効である。


「それだけで……何がいけないのですか?」


「考えてみてください。ニジュさんとルーラさんが救えるのは、お二人が作った服のみ。大変素晴らしい考え、崇高な理念があっても、実行できる人が少数では広く行き渡りません。そう思いませんか?」


「そうですね」


「幸い、ニュブリガン商会は大店として歴史もあり、立地も最高のところにあります。ここを拠点にいくつもの支店を出して、そこで多くの人々を雇って、ニジュさんの理想を実現すべく、力を合わせるのはどうでしょう?」


「…………」


 さすがにニジュは開いた口が塞がらなかった。

 ことの発端は、父親が悪い商人に騙されたからだ。


 このままでは大きな損が出る。

 昔からの土地を売ってそれに充てると聞いたときは落胆もしたが、よい機会かもしれないとも思った。


 ニジュが見ているのは、町に暮らす大勢の人たちである。

 ごく少数の上流階級の人たちではなかったからだ。


 だが正司は、借金のあるこの状態で、もっと店を大きくしろと言っているのだ。

 支店を置き、従業員を雇うとはそういうことである。


「そんなお金、どこにあるというのです?」


 まっさきに浮かんだのがそれだ。金がないからこそ、土地を売るのである。

 すると正司は、ニヤリと笑った。


「奇特な方がおりまして、投資してもよいと言っています。もちろん担保はいただくそうですけど」


 騙そうとしているのかとニジュは考えたが、正司の左右にはトエルザード家の者がいる。

 さすがにその考えは捨て去った。


 ではどういうことか? ニジュは慎重に考えつつ答えを探した。


「細工師としての名声を父が持っています。ですが私は服を作るしかできない人間です。最初から顧客がいるわけでもない今の状態で店を広げて、採算がとれるとは思えません」


「私が協力します」

「いや、タダシさんに協力されても……」


 そこでふと考えた。

 正司は結局、どういう立場の人間だろうかと。


 トエルザード家に深く関わっているのは間違いない。

 レオナールとミュゼを見ると、まるで正司の部下のように控えている。


 ありえないことだが、トエルザード家が正司に「気を遣っている」のが分かる。


「そ、それでも私は町外区域の子供たちも見ていきたいですし、そうそう時間が取れるとは思えないのです」


「それについては大丈夫です。問題は解決しました」

「えっ!?」


 驚くニジュに、ビストは深く頷いた。

「俺も驚いたんだが、町の外にも壁ができちまったのよ」

「えっ!?」


 もし正司の営業時代の上司がこの場にいたら、正司に合格を出しただろう。

 営業トークはなにも自社製品を褒め称えるだけではないのだ。


 顧客となり得るかどうかは運次第。


 ゆえにもし、相手が否定的な言葉を口にしたら、その言葉だけでなく、「なぜそんなことを言ったのか」と言外の意味も推し量れと言われてきた。


 そしてその人が真に言いたいことを理解しろと。

 正司はニジュがいま一番気に掛けている人物はだれかと考えた。


 町外区域に住む子供たちである。

 ならば話は早いと、彼らについての懸念を無くすことにしたのだ。


 いまラクージュの町には、通常の擁壁の外に、正司が作った新しい壁が出来上がっている。


「で、ですが……」

「ですが……なんですか?」


 そして正司が営業マンとして合格を貰える理由。

 相手が言う否定材料をすべて潰す話法を用いたのである。


 反対する理由を次々潰せば、反対する理由がなくなってしまう。

 正司は同じ話法でビストを説得し、最後には「息子夫婦がうんと言ったら」という言質をもらっていた。


「一人より二人、二人より三人でやったほうが、同じ期間で救われる人は多くなると思います。それを十人、二十人と広げていきましょう。早ければ早いほどいい。そう思いませんか?」


「……タダシさん」

「はい、何でしょう」


「なぜそうまでして私にやらせたがるのですか?」


「それは私のエゴです。私がしたいからするのです。国から見捨てられ、行き場を無くした人たちが町の外周に住んでいる状態が嫌なのです。ですから、私が勝手にニジュさんに協力するのです」


 つまりニジュのためではなく、正司自身のためなのだと。

 その行動の中でニジュが巻き込まれた。そう言いたいらしい。


「……分かりました。よく分からない部分も残っていますが、タダシさんが子供たちに見せた憤りは本物でした。壁ができたというのは……父が言っているので、信じたいと思います。でしたら、反対する理由がありません。もし本当に多くの人が救われるのならば」


「ありがとうございます、ニジュさん。これはニジュさんにしかできないことです」


 身だしなみを整えることは必要だ。

 浮浪者にしか見えない者を普通の町民に仕立て上げる。


 建物を一瞬で建てることができる正司でもできない。


 だからこそニジュのような心を持った人がやる気を出してくれることが望ましい。


「一緒に頑張りましょう」

「はい」


 正司とニジュは固い握手を交わした。




 その日の夜、トエルザード家。

 久し振りに、ゆっくりと酒をくゆらしていたルンベックのもとに、ミュゼが現れた。


「わたくしもお相伴させていただいてよろしいかしら」

「来ると思ったよ。報告はレオナールから聞いている」


 ルンベックは杯をもうひとつ出し、そこに琥珀色の液体を注ぐ。

「少し予定を変更しようと思いますの」


 酒精の強い酒のようで、果汁を加えてからミュゼは飲んだ。


「だから建築の許可を出したのか……話を聞いて驚いた。タダシくんのことは任せてあるから多くは言わんが、もはや誤魔化せる段階を遙かに超えてしまったぞ」


 ラクージュの町全体には、擁壁が張り巡らせてある。

 壁は町をぐるっと取り囲んでいる。


 東西南北に四つの門が存在し、それぞれバイダル領、バイラル港、エルヴァル王国、フィーネ領へと通じている。


 今回、その四つの門付近に正司は壁を作った。

 それも町壁を倍するほど、巨大なものである。


「魔物避けの壁を追加したいと言うのですもの。当主の妻としては許可しないわけにはいきませんわ」


「侵攻を防ぐのは魔物だけではないだろう?」

「まあ……そうですわね」


 ミュゼは建築許可を出すかわりに、門の上から監視できるよう、壁の上に上れるよう、正司にお願いした。


「街道で魔物に襲われる人もいるかもしれませんね。監視は必要ですか」

 そういって正司は、壁の上部に移動できるスペースと、それに接続する階段を作っている。


 ミュゼは街道を遠くまで見通せることに大変満足していた。

 魔物だろうが軍隊だろうが、早期発見が可能。

 さらにこの壁を越えてくることは事実上不可能になったからだ。


「それで予定を変更というのは、どういうことかな」

 ルンベックは自分の杯に新しい酒を注いだ。


 すでにルンベックは、レオナールから詳しい説明を受けている。

 ミュゼも同じ話をするつもりはない。そのため、少しだけ結論を急ぎすぎた。


「この先、タダシさんの好きにさせようと思いますの」


 ――ぶほぉおっ!


 ルンベックは口から酒を噴いた。

「まあ、汚い」


 顔をしかめるミュゼの向かいで、ルンベックは盛大に咳き込んでいる。

 盛大に吹き上がった酒は、霧となって周囲を舞っている。


「いま、何ていった?」

「ですから、今後はタダシさんの好きにさせようかと思いますの」


「…………………………本気か?」


 ミュゼは「ええ」とニッコリ笑った。

 ルンベックはポケットから取り出した布で口元を拭い、やや自嘲気味に呟いた。


「まさかそう来るとは思わなかったな。世界が乱れるぞ」

 トエルザード領の運営は、ミュゼも詳しい。


 他領のみならず、他国の情勢もよく掴んでいる。

 そんなミュゼが、正司の危うさを知らないわけがない。


 いや危ういのは他国だけだろうか。

 国家は清濁を飲み込まねばならないときがある。池の水と同じだ。


 平常時は一見澄んでいるように見える。

 だが、ひとたび棒でかき回せば、下から泥が浮かび上がってくる。


 正司がこの町に来たことで、トエルザードという池の底に沈んでいた泥やおりがいままさに浮かび上がろうとしている。


 今後を考え、正司にはなるべく自重してもらった方が、互いに面倒が少ないとミュゼならば分かろうというものだ。


「王国は、夕食のメニューを考える感覚で、暗殺者を送り込んでくるぞ」

「ええ、分かっておりますわ」


 今夜は何を食べようかと、あいつ邪魔だから消してしまおうの価値は等しい。

 日常的に他人を出し抜くことばかり考えている。


「そして商人は、採算度外視でもやるときはやる人種だ。いま一領が突出したら、ミルドラル内部でさえ分裂するかもしれん。こちら側が麻のように乱れれば、帝国が必ず介入してくる。……まさかおまえ、変な野望を見たんじゃないだろうな」


「あなたのよい所は、そうして先が見えることですわ。障害となりそうなものを事前に排除できますし、争いもうまく治めてくれます。為政者としては得がたい人材だと思います……ですけれども、冒険心はないですわよね」


「あってたまるものか。私は弟とは違うからな。国民を等しく導かねばならない」

「分かりますわ。いつでも最善の道を選んでおりますもの」


 ミュゼは微笑んだ。

 ルンベックは、逆に心胆が底冷えする気分を味わった。


「何を考えている?」

「夢を……みました」


「――夢?」


「ええ、夢ですの。まだ形にはなっていませんけれども、とても大きな夢だったのです。どのくらい大きいかと言いますと……そうですね、絶断ぜつだん山脈に棲むと言われる大鳥おおとりが見る夢くらいかしら」


 小首を傾げてにっこりと笑うミュゼに、ルンベックは何も言えなかった。

 絶断山脈には大鳥が棲むと言われている。大鳥は想像上の生き物だ。


 その姿はあまりに大きく、左の羽を広げると、西の大陸をすっぽりと覆い隠すほどだという。

 右の羽を広げれば、帝国全土がその中に収まる。


 だれも大鳥の姿を見た者はいないが、大鳥が飛び立てば絶断山脈の高さは半分になってしまうと言われている。


 そんな大きな鳥が見る夢はいかほどか。

 足下にいる人間の悩みなど、軽く吹き飛ばされるのではなかろうか。


「楽しみですわ」

「何がだ?」


「大鳥が羽ばたくの……でしょうか」

「…………」


 ルンベックは、人選を間違えたのだろうかと本気で悩んだ。


 これまでルンベックは、トエルザード家の当主として、間違った裁決を下したことはないと思っていた。

 どんな綱渡りな時でも、最後には正解まで辿り着けたという自負があった。


 今回、リーザからの手紙に書かれた真実にいち早く気付き、対策を打ってきた。

 正司の教育係に最適な人材をと考え、自分の妻を据えることを思いついた。


 仕事は山のようにあり、これからも増え続ける。

 ミュゼに抜けられると痛いが、交代が利く分まだ傷は浅い。


 正司の教育係の方がずっと大事だとルンベックの直感が告げていたからだ。


 先ほどルンベックが「世界が乱れる」と言ったのは、嘘や誇張ではない。

 正司はまさに、池に投げ入れられた棒なのだ。


 あれで池をかき回されたら、内乱から外敵の侵入までありとあらゆる可能性が出てきてしまう。


 だからこそ、正司には穏便に行動してもらい、大陸全土が戦乱の渦に巻き込まれないよう、ミュゼに導いて欲しかったのである。


「本気か?」

 ルンベックはもう一度聞いた。


「ええ、本気です」

 そしてミュゼの返答は変わらなかった。



 この日正司は、新たな協力者を得たのである。



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