036 世界の神秘
ルフレットから受けたクエストは、とある女性を捜すことだった。
無事でいるのか、生きているのか。
その女性の消息だけでいいから知りたい。そういうものだった。
クエストは果たされたと正司は思っている。
というのも、マップを見ると、すでに白線は別の場所へ伸びていた。
もうこの場には用はない。
そう思うものの、憂いのあるシンティの表情を見て、正司は彼女の事情を聞くことにした。
「私はそこそこ裕福な村で生まれました。同年代の友人たちも多く、恵まれていたと思います」
周辺の村に比べて土地から上がる収穫物も多く、周辺の魔物もそれほど強いものは出なかったらしい。
そこでは村ぐるみで、村民の武装化を推進していたという。
周辺の魔物のグレードが低いのだから、できるだけ自衛できるようにしよう。
男女問わず、その村の者はみな、戦うか守るための訓練を行ったという。
その試みは成功し、魔物狩人になる村の次男、三男がゾロゾロと出たらしい。
「私は戦えませんので、回復魔法を覚えました。物心ついてから十年近く、村の回復魔法使いの人に習って、何とか使えるようになったのです」
このままシンティは、村で回復魔術師として治療院の手伝いをする。
漠然とそう思っていたという。
だが同年代の仲間たちに誘われて、魔物狩人のグループに入った。
シンティ自身、村を出て魔物を狩るのは、乗り気ではなかった。
それでも、長年一緒に村で育ってきた者たちの誘いは断れなかった。
何度も村周辺の魔物狩りに参加して、慣れていたこともある。
ついに村の若者たちで形成したグループに交じり、魔物狩人として、村を出て行ったらしい。
「グレード2までの魔物しか狩らないと言っていました。それでこの人数ならば大丈夫かと思ったのです」
戦闘職の幼なじみたちは、単独でグレード1の魔物を狩ることができる。
そんな者たちでグループを組めば、グレード2の魔物を狩るのは可能である。
シンティのグループは順調だった。
それこそ、一度に二体以上のグレード2を相手にしても、逃げずに戦うことができた。
若さを考えたら、かなり優秀なグループであるといえる。
「そんな時です。タダシさんの仰った方の傷を回復したのは」
単独の魔物狩人は珍しい。
ゆえにシンティもよく覚えているという。
「ですが今、ここにいると言うことは、そのグループを抜けたのですね」
もしくは、壊滅したか。
「はい……ある日、いつものように狩りをしていましたら、グレード2の魔物がやってきました。私たちはそれを相手にして……」
茂みから近づいてくる別の魔物に気付かなかったらしい。
一番後方にいたシンティが襲われた。
幸い仲間たちはすぐに気づき、事なきを得た。
だが、シンティの心に大きな傷が残ってしまったという。
「とても痛くて、怖かったのです。死ぬかと思いました。いまでも死の恐怖が蘇ってきます」
この戦いでシンティは心に傷を負い、狩りを続けられなくなった、
「戦わなくていい。仲間の傷を治すだけ……そう思っても、足が竦んで、前に出ないのです」
心的外傷である。これの克服は難しい。
ふと心の病ならば治癒魔法で治せるのではと思い至ったが、それを指摘しない分別を持ち合わせていた。
心の傷を治して、魔物の出る森へ追いやるのが正しいとは思えなかったからだ。
「怖かったのですね」
「はい。盾は怪我をしたとき放置しました。それ以来取りに行ってません」
狩りに出られなくなったシンティは、グループを抜けることにした。
無理矢理狩りに出たとして、動けなくなるのでは足手まといになってしまう。
村の仲間も無理強いはしなかった。
シンティは正式にグループを抜け、村に帰る決心を固めた。
だが、シンティたちが村を出てからもうすぐ二年が経つ。
村では新しい回復魔術師が生まれ、その者が師匠とともに、村人の怪我を治しているのだという。
そこへシンティが帰っても、もてあますだけである。
シンティが考えあぐねていると、同じグループの仲間がこう提案した。
――町で治療院を開けばいい
仲間たちはシンティが優秀だからこそ仲間に誘ったのであり、その力はよく知っている。
シンティが治療院を開けば、きっと流行る。
そう言って、みな少ない貯蓄の中から、治療院開設のために、なけなしの金を供出したのだという。
「私の腕が上がれば人の為になるから。もし自分が怪我をしたときに安心できるからと言って……」
これまで魔物狩人で稼いだ金の大部分を治療院開設のために使ってくれたのだという。
こうして無事治療院は開かれ、仲間たちは町を出て行った。
魔物狩人を続けるのである。
「ではシンティさんは、ここで治療を?」
「はい、私一人でやっています」
なるほどと正司は思った。
盾が放置されていた理由も分かったし、なぜ本人が町で治療院を開いていたかも分かった。
「いまの話を聞く限り、とてもよいことのように思えます。そのわりに顔色が優れませんが」
「私はみなさんが稼いだ大切なお金を使って、この治療院を開きました。私がここで腕をあげて、いつしかその恩を返したいと思っています」
「それはいい考えだと思います」
「ですが私自身、魔力が少なくて、治療できる回数が少ないのです。もっと高度な回復魔法の勉強をしていますが、魔力が少ないために発動しません」
そのことで困っているとシンティは言った。
「そうですか。えっと、魔力が少なくて高度な魔法が発動しないのですね。……魔力を増やす方法はないのですか?」
魔力が少ないならば、増やせばいい。なぜそれをしないのか? もしかして魔力は自力で増やせないものなのか。
正司は気になって聞いてみた。
「魔力を増やすには、二種類の方法があります。いえ、二種類の方法しかありません」
「どのような方法でしょう。教えてもらっても構いませんか? それとも秘匿されているとか」
「いえいえ、秘密にしていることではないと思います。……魔力を増やすには、使える魔法の種類を増やすか、より高度な魔法を使えるようになるかです」
シンティの説明はこうだ。
いま回復魔法を使えるシンティが魔力を増やそうとするならば、より高度な回復魔法を習得すればいい。
だがシンティの場合、もともと魔力が少ないので、それはできなかった。
高度な魔法を発動するには、その魔法を習得するだけでなく、それに見合った魔力が必要らしい。
魔法が発動しないので、魔力を増やすことができないのだという。
そしてもうひとつの方法は、別の魔法を覚えること。
魔力を増やしたい者は、通常こちらを選択するらしい。
シンティの場合、回復魔法が使えるので、それと似ている治癒魔法などがお薦めらしい。
だが、治癒魔法を習得するには、また何年も勉強せねばならず、多大な労力が必要となってくる。
そもそも複数の魔法を習得する者が少ないのは、使えるようになるための時間が膨大だからである。
シンティはまだ十代後半。
時間は十分あるが、それを勉強に充てては、生活が成り立たない。
片手間に治療院と他の魔法の勉強ができるとは思えない。
新しい魔法を習得するには、繰り返しの練習が必要であり、それには魔力が必要なのだから。
ゆえにシンティは、魔力を増やす方法は分かっていても増やせないのである。
「そうだったのですか……」
正司は考え深げに、何度も頷いた。
実は正司は、魔法について常々「おかしい」と思っていることがあった。
自分の魔力は人よりも多いのである。それはなぜが、理由が分からないでいた。
(私の場合、第五段階まで上げた魔法系スキルのおかげで、かなり魔力が多いのでしょうね。そして複数の魔法を習得していますから、それでも加算されていたのでしょう)
考えてみれば、第五段階のスキルを習得している。
習得しているのだから、それを使える魔力を持っていることが前提となっていなければおかしい。
多くの魔力を持っているのは、当たり前のことであった。
(あっ……そういえば、スキルで〈魔力増量〉と〈魔法効果増大〉を第五段階まで取得していましたっけ)
ふと正司は、自分のスキル構成を思い出した。
このふたつを持っている――第五段階まで上げていることで、かなり魔力が増えているのではなかろうか。
(そういえば、魔力増量のコインを一枚だけ使いましたね)
正司の魔力はいま、コインの効果によって基本値の20パーセント増しである。
それは魔力切れにならないわけだと、今さらながらに気付いた。
(……あれ? そうすると、シンティさんもコインで魔力を増やせるのではないでしょうか)
いま二つの方法しかないと言っていたが、三つ目の方法――コインを使えば解決するのではないか。
正司はそう考えた。すると、それはとても良いことのように思えた。
ならば早速と、正司は『保管庫』から魔力増量のコインを取り出した。
「シンティさん、これを使ってみてください。魔力が上がると思います」
正司の手の中にあるのは、じゃらじゃらとしたコイン。
「これは何でしょう?」
「魔力を増やすコインです」
「ああ……コインってこういう形なのですね。一枚持ってみてもいいですか?」
「すべて差し上げますからどうぞ」
「ありがとうございます」
シンティはコインを一枚手に取り、裏表を眺めた。
「良く出来ていますね」
「それを折ると魔力が増えますので、やってみてください」
「そうですね。やってみてもいいですか?」
「もちろんです」
シンティはためらいなくコインを折った。
すると、身体の底から『何か』が沸き上がる感触があった。
足の方から上に向かって『何か』が満たされていく。
井戸から水が溢れたような感触。それがシンティの身体の中で起こったのだ。
「えっ!?」
驚いたのはシンティである。この感覚は何だと本気で訝しんだ。
そのときシンティの手の中から折れて二枚になったコインの欠片が消えた。
「ええっ!?」
そこではじめて、身体の中で湧き出てきた『何か』が『魔力』であることを知った。
「どうでした? 魔力が増えたと思うのですけど」
「…………」
理解が追いつかない。そんな表情をシンティが浮かべるも、正司は気付かない。
反対に、次のコインを握らせ、折るように促すのだった。
シンティはまさかコインが『本物』であるとは夢にも思わなかった。
あたりまえである。オークションに出品されれば値段は天井知らずとさえ言われている。
シンティはもちろん、『本物』のコインを見たことがない。
正司が無造作に出したこれも、模造品の類いとしか考えなかった。
「まだありますので、どんどん折って下さい」
呆然としていたシンティは、正常な判断ができずに正司の言葉に従ってしまった。
あまりのことに思考が停止していたのだ。
折れと言われて、素直に折ってしまった。
シンティは、善悪の判断、物事の道理などすぐに理解できないほど呆けていた。
そのため、もう一度身体の中から湧き出てきた『魔力』を知覚し、自分が何をしでかしたのか理解した。
とっさに両手を見る。
そこにはもう、何もなかった。コインは溶けて消えたのである。
「あっ……」
大変なこと、取り返しの付かないことをしてしまった。
あのコイン。
いったいいくらするのだろう。一生かけても支払えないに違いない。
そう思って、悲愴な顔で正司の方を向くと……。
「はい、次です。折って下さい」
「…………」
シンティの手に三枚目のコインが握らされた。
紆余曲折があった。
代金が払えないと半狂乱になるシンティを正司が宥め、代金は要らないと何度も伝えたが、シンティは信じなかった。
何か裏がある。
そう叫ぶシンティを落ちつかせるのに、正司はかなりの時間と労力を費やすことになった。
結局、シンティが折ったコインは十枚。
すでに二枚折った段階で代金を支払えないのは確実であり、もう二枚も十枚も変わらないと達観したからである。
田舎の村出身であるシンティは、コインは馬鹿高いものと知っている。
だが、それがどれだけ高価なのか、実際には知らなかった。
いや、町に住む者でも、コインがいくらで取り引きされているのか知っている物は少ない。
そのような情報は出回ることがない。
そのため、正司は超がつくお金持ちで、信じがたいことだが、コインを人にあげられる側の人間であると納得することになる。
世の中には、常軌を逸した金持ちがいるのは知っている。
正司はその一人なのだと、自分を納得させた。
十枚の魔力増加コインを折ったシンティは、保有する魔力量がもとの三倍弱に増えることとなった。
あり得ない増加量である。
「これで魔力の心配もなくなりましたね」
「はい……このたびは、なんとお礼を言って良いやら……」
未だにこれは夢か幻ではないだろうかと、シンティはときどき虚空を見つめながら頬をつねっている。
頬の痛さは本物であるし、体内にはかつてないほどに魔力が溢れんばかりに渦巻いている。
これならば、より難易度の高い回復魔法を行使することができそうである。
「それでは私は行きますので」
「あっ、タダシ様っ……」
「待って!」とシンティは手を伸ばしたが、その手は虚空を掴んでいた。
「……消えた?」
そう、正司の姿は、シンティの目の前から忽然と消えたのである。
〈移動魔法〉によってルフレットと出会った場所に跳んだ正司は、マップを確認する。
「……おや? 白線が別の方に伸びていますね」
周囲を見回すが、ここは以前ルフレットと出会った場所に間違いはない。
教えてもらった村がある方角を見る。やはり間違いはない。
白線は別の場所に伸びていた。
(ルフレットさんの村の方には伸びていませんね。狩りに出かけているのでしょうか。きっとそうですね)
正司は身体強化を施して、白線を追った。
白線は街道に沿って、ウイッシュトンの町の方面に伸びている。
だが途中から右に折れていた。
(こっちは森の中ですし、やはりルフレットさんは狩りに出かけたのですね)
そのまま減速しないで、森の中に分け入る。
魔物が出るかもしれないため、〈気配遮断〉を自らにかけておく。
そのまま森を進むと……。
「あれ? これ……」
大きな盾が木の幹に立てかけてあった。
場所からして、シンティのものだろう。
そう正司は考えた。だが解せない。
クエストの白線が、なぜこの盾の所へ伸びていたのか。
正司が盾を拾い上げると、クエストが更新されたらしく、白線がまた別の場所を指すようになった。
(今回は、何なんですか)
あとはルフレットに報告するだけと思っていたが、どうやら違うらしい。
本当に意味が分からない。そう思いつつ、正司は盾を持って再び白線を追いかけた。
結局正司は白線の通りに街道を北上し、ウイッシュトンの町に着いた。
「……あれ?」
元の町に戻ったのである。
正司がクエストのためにトエルザード家所有の屋敷を出たあと、リーザたちは恒例の会議を開いた。
「バイダル公からの追及はあったけど、うまく躱せたわ」
ファファニアの治療でかなり非常識な魔法を披露した正司は、バイダル公の興味を引いてしまった。
だがそこは年の功というべきか、追及の手はかなり手控えたものとなった。
孫娘を治療するために隠していたものを詳らかにしたことで、恩を感じたのだろうとリーザは説明した。
「なるほど、そういうことですか」
「バイダル公が本気ならば、言葉の僅かなほころびからでも真実を見抜くことができたでしょうね」
さすがにリーザとバイダル公では役者が違う。
隠せば隠したいことが暴かれ、説明を避ければ、その部分に何かあるとすぐに見破られる。
魔道士は国の力に直結する。
各国にどのような魔道士がいるのか、どの国の為政者たちも情報収集に余念がない。
だが今回、意外ともいえるほど、バイダル公の追及はヌルかったとリーザは言った。
「その代わりなのだけど、王国に対抗するため、三公家で会談の機会を持つことになったわ」
正式決定ではないものの、二公が賛同すれば、三公会談を開くことができる。
バイダル公が提案し、トエルザード家としてもそれに否はない。
「となると、フィーネ公の領地で行うことになりそうですな」
「そうね。あとで父様に手紙を書くわ」
二公が賛同すれば、残り一公は異を唱えないことが暗黙の了解となっている。
それに配慮して、他の二公が会談に出向く形を取るのが一般的になっている。
今回の場合、フィーネ公のお膝元で会談が開かれることになりそうだ。
リーザとバイダル公の話はさらに進んだ。
ミルドラル国内における王国の影響力を減らすため、両家が共闘してことに当たろうということになり、いくつかの案は三公会談に先だって導入されることが決まった。
一時的に不利益を被ろうとも、まず王国の影響力を排除すべきと、両者の意見が一致したのだ。
「私の裁量で出来ることは限られているから、大したことはできないのだけどね」
「それでも今後の布石となるでしょう。ですがそうすると、領内に帰るのは少し遅れそうですな」
バイダル領の各町を回って、トエルザード家所有の屋敷を訪問し、王国についての警戒心を上げなければならない。
「観光と思って、ゆっくり行きましょう……っと、そろそろお昼ね。残りはあとで。みんなお腹が空いたでしょ」
そう言ってリーザは笑った。
昼食と休憩のあとで、会議は再開された。
「この屋敷に来たとき、父様から手紙が届いたのは覚えているでしょう?」
「はい」
「中身を知らない人がいるかもしれないから、読み上げるわね」
理と神秘を計る
世界とは何ぞや
あまりに短い内容である。
「これは私がボスワンの町で出した手紙の返事だと思うの」
ラマ国首都ボスワンに到着したとき、リーザは実家に手紙を書いている。
正司と出会ったこと、途中で王国の傭兵団に襲われたこと、正司の魔法で撃退したことや、野営したときに造った壁についてまで事細かに伝えてある。
その返事がこの短文であった。
「世界の理ですか」
ブロレンがまず反応した。
「そうね。ブロレンは魔法使いだから、世界の理について詳しいわよね」
「もちろんです」
世界の理とは、この世界の成り立ち、形成しているものすべて、森羅万象の仕組みを表す言葉である。
たとえば、魔物の存在。
決まった地域に、決まった種類の魔物が湧く。
そして死ぬと稀にドロップ品を落とす。
なぜそうなっているのか、だれも合理的な説明ができない。
ただそうなっているから、そう理解しているのに過ぎない。
それは魔法も同様である。
なぜ人が魔法を使えるのか、使えない者がいるのはなぜなのか。
魔力の多寡が生じるのはどうしてなのか。
それらの説明は一切できない。
魔法について「なぜそうなるのか」の原理はまったくと言っていいほど、解明されていないのである。
このようにすれば魔法が使える。
それが分かっているだけである。
長年、多くの人が魔法を研究しつつも、その大元の原理を解明した人はいない。
系統だてて、体系化することはできたし、一般的な習熟方法も確立している。
だが、どんなに研究が進んでも、相変わらず「なぜそうなるのか」は皆目分からない。
それは「世界がそうできているから」という他ない。
これが世界の理である。
リーザやミラベルは、一般的な教養として世界の理を学んでいる。
王国に留学したときも同様だ。
ブロレンは魔法を学ぶ上で、やはり世界の理を学んでいる。
そしてもうひとつ、『世界の神秘』というものが存在している。
「世界の神秘は、帝国の……アレですな」
アダンの言葉にリーザたちが頷く。
この世には、世界の理にあてはまらない事象が稀に、いや極稀に……極々稀に起こりえる。
世界の理にあてはまらない事象を、いつからか「世界の神秘」と呼ぶようになった。
たとえば、南の未開地帯で、グレード5の魔物が進化した。
これはまだ常識の範囲である。
たとえ数百年に一度の頻度であろうとも、グレード5の魔物がより上の存在に昇華するのは理解できる。
たとえその影響力が、果てしもないものであっても。
進化したグレード5の魔物は『凶獣』と呼ばれ、人々を恐怖のどん底に突き落とした。
何しろ、凶獣はグレード5の魔物を軽く凌駕する力を見せつけ、メルエットの国を蹂躙しはじめたのだから。
メルエットの国とは、昔、帝国領にあった国のひとつである。
その国で凶獣は暴れに暴れ、このままでは絶断山脈の右半分が壊滅してしまうと思われた。
各国が精鋭を派遣し、協力して凶獣を討つ。
その試みは半ば成功し、半ば失敗した。
いかに数を揃えようとも凶獣には適わない。
いかに精鋭を揃えようとも、やはり凶獣には適わなかった。
だがここで奇跡が起こる。
メルエットの国出身の若者デテルリードが仲間たちとともに凶獣と戦い、勝利を収めたのである。
およそ人に倒しうることが不可能な凶獣を倒した英雄が誕生した瞬間であった。
デテルリードはのちにトラウスの国に亡命し、そこの姫を娶ったあとで、メルエットとグノージュ両国を打ち負かしている。
バアヌ湖を中心とした三国を従えたデテルリードの治世は長きに亘って続き、帝国の礎を築いたと言われる。
これが英雄王デテルリードの物語である。
さて問題は、デテルリード個人の力量である。
その後の詳しい調査の結果、凶獣の強さが算出された。
単位時間に移動した距離、町を破壊するのに要した時間、一撃で破壊しうる物量などを総合的に計算した結果、凶獣の力はグレード5の魔物のおよそ3倍から4倍。
当時の軍隊をもってしても、足止めすら適わないことが分かった。
それをなし得たデテルリードこそ、世界の神秘。
人が到底辿り着けない高みに登った英雄であると。
「私も世界の神秘と聞けば、真っ先に英雄デテルリードを思い出すわ。南の未開地帯が凶獣の森と呼ばれるようになった原因、あれを取り除いたデテルリードは、まさに人外の強さを誇ったと思うの」
「当主様が神秘について語られたということは、タダシ殿がその……?」
「私の手紙だけで、父様がなぜそこまで判断したのか分からないの。でも父様は神秘について言及した。少なくとも、その可能性はあると思っているのではないかしら」
「ははぁ……たしか世界の神秘は他にもありましたな」
世界の神秘は、英雄デテルリードだけではない。
ほんの僅かな例だが、世界の理から外れた事象がいくつか確認されている。
「絶断山脈の西……つまり私たちが住む側へ民族が移動したこともそうよね」
東に住む民族が過去に二度、どうにかして西側へやってきている。
一度目はおそらく凶獣の森を抜けている。
砂漠に住む民族の言語には、東のとある民族の名残がある。
種族的にも同一であると言われている。
だがそれはおかしい。
凶獣の森を横断するには二千キロメートル以上、魔物が出る一帯を通過しなければならない。
森には魔物が出る。食料だって満足にない。
そこを民族単位で踏破できるものなのだろうか。
一説には、優れた指導者がいて、その者を慕う者たちがついていったと言われている。
その指導者が持つ魔法が独特で、その名残が今でも砂漠の民の間で、脈々と伝えられている。
そしてもう一度は、それより数百年後と言われている。
これまた東側のとある民族が、絶断山脈を越えてやってきているのである。
ボスワンの裏にある唯一の通り道は、当時使えなかったのが分かっている。
あれは大地の大揺れのさいに出現した裂け目みたいなもので、昔は存在していなかった。
ならば、やはり民族を連れて、標高一万メートル近い山々を抜けてやってきたことになる。
それが果たして可能なのか。
世界の理から明らかに外れた異能を持つ者が、この大陸には度々生まれる。
そしてその時、歴史が大きく動く。
最近、世界の神秘と思えるものは一度も確認されていない。
人々が「眉唾物」と忘れ去って久しいのだ。
それが今回、手紙に書いてある。
その意味をリーザたちは考えなければならなかった。
「父様は、天秤を考えているのではないかしら」
「天秤……ですか?」
「世界の理は、砂粒みたいなもの。多くの理――砂粒が天秤の片側に積み上がるの」
「とすると、反対側に乗るのは世界の神秘ですな」
「そう。世界が理の方に大きく傾いたとき、神秘はそれを引き戻す存在。いわば分銅ね。それが世界にバランスをもたらし、元に戻す……というのはどうかしら」
手紙の「理と神秘を計る 世界とは何ぞや」という一文。
リーザはそう解釈した。
「つまり世界は凶獣が出現したときと同じように、天秤が傾いていると考えるわけですか」
「何がどう傾いたかは分からないけど、そう考えられないかしら。たとえば王国とか?」
「王国ですか……どうでしょう。それだけで天秤が傾いたと世界が判断するでしょうか。それこそもっと大きな、せめて大陸の半分くらい巻き込むような何かが必要な気がします」
民族の大移動や、凶獣討伐のような「結果」が後世に残るような偉業が必要ではないかとアダンは言った。
「そうよね……自分で言っていて、自信が無くなってしまったわ。でもそうすると、父様はなんでこんなことを手紙に書いたのかしら」
「当主様の考えることは、私どもには見当がつきません」
正司の存在を知らせて、神秘と返したトエルザード公の真意はよく分からなかった。
ただ、ボスワンを出てからの正司を見る限り、トエルザード公の考えもあながち間違っていないのでは? とリーザは考える。
今後正司は、大きな何かを成すのかもしれない。
それこそ大陸の半分に多大な影響を与える何かを。
「……まさかね」
それこそ何百年も語り継がれるような歴史的偉人に正司がなる……ようには、普段の正司からはまったく想像できない。
自然とリーザの口元に笑みが浮かんだ。
「まさかね」
もう一度リーザは口の中で呟いた。