122 帝国商人
帝国ヒットミア領、グラノスの町。
シャルトーリアの紹介状を持って、正司はダクワンの店を訪れた。
そこで互いの思惑が交差し、数日後に会うことを約束して別れた。
それからの数日間、ダクワンは精力的に活動した。
隠し倉庫にある品々を吟味するのに忙しかったのだ。
隠し倉庫に眠る品々は贈答用として搬入したもので、店先には並べていない。
町内で多数派工作するのに使用したくらいで、ほとんどは手つかずのままだった。
そしてついに今日、正司が店に現れた。二度目の邂逅である。
「先日は大変失礼いたしました。本日はタダシ様にご満足いただけるよう、各種取りそろえておきました」
にこやかに応対するダクワン。これには理由がある。紹介状の効力だけではない。
ここ数日、ダクワンは正司の噂を集めた。
結果、シャルトーリアが重要視するだけのことはあると確信した。
同時に、この出会いを逃すのは商人としてあるまじき事。
そう考えるまでになっていた。
そもそもダクワンは、多数派工作の要員として町に送り込まれている。
どれほど大きな商会の長といえども、権力者を前にしたらただの小間使いと変わらない。
この出会いを機に、魔道国へ商売の手を広げる自分を夢想した。
今回の商談は、正司を満足させ、太い関係を構築する絶好の機会となる。
ダクワンとしては、全身全霊をもって当たるべき相手なのである。
「今回ご用意させていただいた商品は、こちらになります」
すべて代官に隠れて用意した倉庫から運び込んだものだ。
帝国中から集めた品物であり、金を出せば買えるわけではない。
目の肥えた者たちを呻らせるために、特別に誂えたものばかりである。
「これはすごいですね」
正司は目を輝かせた。なにしろ、これまで見たことのない品々が並んでいるのだ。
ダクワンが用意したのは、名産品、特産品、工芸品と呼ばれるものばかり。
しかも最高級品。素人の正司が見ても感嘆の声をあげるほどであった。
「各領自慢の一品ですが、その中でも最高の品々でございます。きっとご満足いただけるかと愚考いたします」
そうダクワンはいいつつも、真の狙いは商売ではない。
正司との関係構築である。並べた商品など、すべて献上してもいいくらいのつもりでいた。
一方の正司も、珍しいものばかりに目を奪われているが、真の目的はクエストを進めること。商品の購入はおまけである。
前回、ダクワンと雑談したが、クエストが進む感触はなかった。
何がクエスト進行の鍵になっているか、いまだ分かっていない。
正司としては、もう少しクエストに関することを突っ込んで聞いてみたいが、ことは浪民街や、この町でおきた殺害事件に及ぶ。
不用意なことを口にして、ダクワンから警戒されるわけにもいかなかった。
(ダクワンさんが手を下したとは思えませんけど、指示を出したとも考えられますし……)
話題は選んだ方がいい。
核心に触れるのは、もう少し打ち解けてからと正司は考えていた。
一方のダクワンも、似たようなことを考えていた。
シャルトーリアからの使者はまだ来ない。
ダクワンへの密命は、この町で多数派工作をすること。
有力者を多数味方につけろと言われていた。
そんな中、突然やってきたのが正司である。
正司の存在は、まったくのイレギュラーなもの。
多数派工作の障害になりかねない。だが無視するには、あまりに存在が大きすぎた。
シャルトーリアの紹介状に添えられた一文のこともある。
ダクワンは一時多数派工作を凍結して、正司との関係を深めることにした。
粗略に扱って、対立する側と昵懇になられても困る。
そういった理由から、どうしても会話は探り探り、慎重にならざるを得ない。
「これは貝を集めた……帆船ですか?」
「はい。南の砂漠を迂回するさい、ときおり船の網に貝がかかるのです。色鮮やかものが多いため、それを綺麗に磨いて造ったのです」
それは貝を集めて固めた、船の模型だった。
「ものすごく手間をかけていますね。……こちらの燭台を上下合わせたようなのは、何ですか? ちょっと見ない形ですけど」
「自動演奏する銀製の楽器と思ってください。燭台のように見えるのはパイプでして、中には複雑な溝がいくつも彫ってあります。そこを小さな金属球が通過するのですが、そのとき美しい音色を奏でるのです。このように……」
ダクワンがそれをひっくり返すと、パイプのひとつひとつからチリンシャンと音が鳴る。
和音で統一されているのか、いくつもの音が重なりあって、心地よい音の連なりが正司の耳に届いた。
ダクワンが用意したのはたしかに珍しく、帝国にしかないものばかりであった。
正司が興味を示すものは多いが、ダクワンはすべて説明した。
思いがけず珍しいものばかり目の当たりにした正司は、興味あるものをいくつか購入することにした。
その熱中度合いは、クエストを忘れるほどであった。
「実はですね。もう少ししたら、新しい品物がこの町に到着いたします。タダシ様に真っ先にお見せしたいと思いますが、いかがでしょうか」
「新しい……本当ですか?」
「はい。さらなる驚きと興奮をお約束します」
ダクワンは近隣の町へ貴重かつ高価なものを持ってくるよう、使いを出していた。
それがあと数日すれば、やってくる。
「分かりました。そういうことでしたら、またお邪魔させていただきます」
今まで見たこともない品物が購入できて正司はホクホク顔だ。
問題があるとすれば、クエストが進まないことだろうか。
といっても、どうやらこのクエスト。かなり根が深いらしい。
時間をかけて進めていかないと、失敗する恐れがある。
「あと数日すれば届くことでしょう」
「そうですか、ではまた数日後に参ります」
「はい。タダシ様の来訪を心よりお待ちしております」
こうしてダクワンと正司の二度目の邂逅も、和やかな雰囲気の中で終わった。
ダクワンの思惑は成功し、クエストを進めたい正司も満足できる結果となった。
二人の関係は、今回で終わらなかった。
帝国バッタリア領、ルード港。
この町で、ウーレンスという商人が商売を始めた。
港町でいきなり店を持つのだから、他所で成功した商人なのだろう。
店を出した当初、人々はそう噂し合った。
もっともその考えは間違っていない。
グラノスの町でもそれなりの規模の商会を持っていたし、この町へ来るまでの間でも、いくつか大きな商談を成立させている。
ウーレンスの店は、人が多く行き交う通りに面していた。
上流階級の者は訪れない一角であるが、立地はそれほど悪くない。
それどころか気軽に入れる分、頑張り次第でいくらでも業績を伸ばせるところといえる。
ある日の早朝、ウーレンスは水差しを持って店から出てきた。
「おはようございます」
隣で店を構える女性に、ウーレンスは挨拶した。
「ウーレンスさん、おはようございます。花に水やりですか?」
「ええ……ようやく蕾ができてきたようです。直に咲くでしょう」
店前の花壇に水をやるウーレンスの姿は、とてもやり手の商人には見えない。
どこで何をやっていた人なんだろうと、隣近所で噂になるのも頷ける。
女性がそんなことを考えていると、荷車を牽いた屈強な男がウーレンスに挨拶をしていた。
ウーレンスもにこやかに対応する。
人あたりがよく、穏やかな性格であるためか、ウーレンスの存在は、港町の荒っぽい雰囲気から少しだけ浮いていた。
だが彼はその人当たりの良さから、この町で孤立することも対立することもなく、ごく自然に受け入れられているらしい。
「ウーレンスさん、おはようございます。今日も一日、がんばります」
店を開ける段になって、店番の女の子がやってきた。
彼女は近所に住む商人見習いで、通いでウーレンスの店を手伝っている。
「おはよう、ウルザ。今日も一日穏やかに過ごせるといいね」
「そうですね。何事もないのが一番です」
「もっとも、お客さんが来てくれないと困るのだけどね」
「何もないと言っても、お客さんは別ですか、店長」
「別だね。それじゃウルザ、今日も頼んだよ」
「はい。お店のことはお任せください」
「いい返事だ。じゃ、私はでかけてくるかな」
ルード港には、様々な品が水揚げされる。
もしくは、品物が船に乗せられて出て行く。
ウーレンスが狙っているのは、船に積みきれなかった荷物だ。
船で荷を運ぶ商人は、少しでも儲けるため、多めに品物を持参する。
だが、すべてを積み込むことは難しい。
積みきれなかった分は、出港前に、この町の商人に売ることになる。
それを専用とした買い取りの商人もいたりする。
ウーレンスが狙っているのもそれだ。毎日どんな荷が余るか分からない。
店で扱わない品を仕入れても仕方ないので、通常の商人は手間をかけて探したりしない。
ウーレンスはいまだ店の主力商品が決まってなく、雑貨屋に近い形を取っている。
他の商人に比べて、買い取る品物の幅が広いのだ。
ウーレンスは今日も店番をウルザに任せ、掘り出し物はないかと、港町をうろつく。
その日の夕方。
いくつかの商品を仕入れ、荷運び人を雇って自分の店まで運ばせたあと、ウーレンスはゆるゆると店まで戻っていった。
「ただいま、ウルザ。何か変わったことはあったかい?」
「いいえ、トラブルはなしです。お客さんの数もいつも通りでしたし、よくもなく悪くもない一日でした」
「そうかい、それはよかった。じゃ、後はやっとくからあがっていいよ」
「……はい。お疲れ様でした」
ウルザがエプロンを脱ぎ、たたんで棚に戻す。
反対にウーレンスは、店にあった手提げ金庫を持って奥にいく。
今日の売り上げを集計し、業務日誌を書けばおしまいだ。
手早くやってしまおうと、ウーレンスは売上金を数えはじめた。
「思えば遠くへ来たものだ……」
誰もいない静かな店内で、ふとウーレンスは物思いにふけることがある。
ウーレンスはずっと、ヒットミア領にあるグラノスの町で商売をしていた。
昨年、たまたま大きな商いを成功させ、帝都サロンへの招待状を手に入れた。
グラノスの町から帝都までは遠い。
とてもではないが、往復して帝都サロンに出席する余裕はない。
期限が近くなったこともあり、貸しを作れる相手に譲るかと、普段あまり出席しない町のサロンに顔を出した。
そこで「タダシ」と名乗る魔道士と出会った。
運命に突き動かされるかのように、ウーレンスは帝都サロンの招待状を正司に譲った。
お返しにともらったのが〈瞬間移動〉の巻物。
それを手にした事によって、ウーレンスの人生は一変した。
結果、住み慣れた町を離れて、こうしてルード港に流れ付いた。
それでもよかったとウーレンスは思っている。
どうやら自分は、町を離れてもうまくやっていける人種だったのだと再確認できた。
「て……て……て……」
外から声が聞こえてきた。何事かと、ウーレンスは顔をあげた。
「今の声、ウルザかい?」
帰ったはずのウルザの声のようだ。
ウーレンスは売上金を金庫に戻した。
「て……て……てんちょ~~」
店内に顔をだした瞬間、ウルザがしがみついてきた。
「やっぱりウルザか。帰ったんじゃなかったのか?」
「て、店長、お、おきゃ、おきゃ……」
「おきゃ……?」
ウルザが指差す方を見て、ウーレンスは、今日一日が平穏に終わらないことを悟った。
店の前の通りには、帝国の紋章をつけた馬車が停まっていた。
「ウーレンスという商人はそなたか?」
馬車の前に立っていたのは、若い女性。
その女性は、軍服を纏っていた。マントの留め金に帝国記章が光っている。
そして左手には、軍の司令長官を示す錫杖が握られていた。
軍人が式典に参加する出で立ちである。
軍の正装の場合、知識さえあれば、その者の階級までしっかり理解できるようになっている。
そしてウーレンスは、嗜みとして、軍人の階級の見分け方を学んでいた。
「と、東方方面軍司令長官……シャルトーリア様」
「いかにも」
鷹揚に頷く姿はりりしく、まさに人の上に立つ見本のようだった。
ウーレンスはすぐさまウルザの頭を押さえつけ、自身もその場で膝を折った。
帝国民ならばだれでも知っていること。司令長官は皇族のみがなり得るのである。
一般的な軍といえば、中央軍と東西南北を司る四つの方面軍が有名である。
他にも領主軍など、いくつかの軍組織が存在するが、その規模や話題性、そして華麗さからいえば、先の五軍が抜きん出ている。
皇族が政治と軍権を掌握していると言われるゆえんでもある。
跪きながらウーレンスは、そのような情報を整理していた。
ちなみにトラウス領とグノージュ領を掌握しているのが中央軍である。
トラウス領に帝都があることから、中央軍は最強の軍隊と言われている。
ロイスマリナ領を掌握しているのが西方方面軍である。
西方方面軍は、大陸の西側――つまりラマ国を警戒する役目を負っている。
有事があれば、絶断山脈を越えて侵攻する可能性すらある。
ニルブリア領とヒットミア領を掌握しているのが北方方面軍である。
北方は未開地帯と接していることより、方面軍の中では一番魔物との戦いが得意と言われている。
もっとも普段の魔物退治は、領主軍に任せているともっぱらの噂だが。
メルエット領を掌握しているのが南方方面軍である。凶獣の森と接している『英雄の門』を守っている。
凶獣の森は、未開地帯と比べてグレードの高い魔物が多い。
方面軍の中でも重装部隊として有名である。
そしてバッタリア領とディオーヌ領を掌握しているのが東方方面軍である。
この港町も、東方方面軍の管轄になる。
ウーレンスからしたら、東方方面軍の司令長官は、雲の上の人。
身分差を考えれば、自ら足を運ぶなど考えられないことであった。
では、たまたま皇族が買い物に来たのか。それこそあり得ない。
欲しいものを口に出せば、出入りの商人がこぞって持参するだろう。
ならばなぜ、軍の正装をしてまで、ここに来たのか。
ウーレンスは心当たりがひとつだけあった。というか、それしかなかった。
(狙いは巻物か……しかしなぜこの店のことが? あっ、税金か!)
昨年、ウーレンスが町を出る際、税の納付先変更の届けを出している。
そうしないと二つの町から、税の納付をすることになってしまう。
グラノスの町で書類を出し、このルードの港町でも書類を出している。
おそらくもう、納付先の変更は済んでいるのだろう。
書類は当然帝都にも届けられている。
ウーレンスのことなど、簡単に調べられただろう。
「少し話をしようではないか」
シャルトーリアの言葉に、ウーレンスは跪いたまま「はっ!」とだけ答えた。
「……厄介なのは、機動力だけとほざく馬鹿者どもだ。まったく困ったものだ」
場所を応接室に移し、ウーレンスはシャルトーリアと向かい合って座った。
皇族を目の前にして緊張するなという方が無理である。
粗相があればどうなるか分からない。
緊張で唇がカサカサになるウーレンスだったが、相対するシャルトーリアは終始ご機嫌だった。
ちなみにウルザは、口止めさせた上で早々に帰している。
店の前に帝国紋をつけた馬車が停まっているため、「口止め」がどこまで有効か分からないが。
「実際に自分の目で見ないことには、信じられない者が出るのも、致し方ないでしょう」
小一時間ほど雑談が続くと、ウーレンスもようやく返せるようになってきた。
また、少しずつだが、頭も働いてきた。
この雑談、シャルトーリアは追従を欲しているわけではないだろう。
そう判断して、ウーレンスは少しだけ自分の考えを述べた。
「うむ、そうであろう。私も自分の目を疑ったクチだ。見ていない者へ、素直に信じろというのは難しいものだな」
「仰るとおりだと思います」
なぜ皇族の世間話を延々と聞いていなければいけないのか。
ウーレンスは悩む。
シャルトーリアがいま話している内容は、帝都サロンでの一件だ。
サロンが開かれてからまだ日が浅く、それらの情報はこの町に一切届いていなかった。
目の前の皇女は、サロンの招待状を渡したのがウーレンスだと気付いているのだろうか。
そんなことを考えたが、それは些細な問題だと思い直した。
緊張がほぐれたことで、ウーレンスはようやくシャルトーリアの狙いが分かった。
十分気を使ってくれていたことも理解した。
シャルトーリアは、先ほどから雑談しつつ、ずっと観察していた。
目の前にいるのは、どこにでもいるただの商人だ。
話をしてもその評価は変わらない。
どうして正司が〈瞬間移動〉の巻物をウーレンスに渡したのか理解できなかった。
それでも目の前の商人が巻物を持っているのは事実。
それを取り上げたり買い上げることは、下策だとシャルトーリアは知っている。
シャルトーリアは、自分の父親を皇帝の座につけようと動いてきた。
権力闘争に勝つ方法は、実はひとつしかないと考えている。
恐怖と暴力によって支配する? それとも、欲と金で操る? どちらも有効だが、上策とは言い難い。
暴力はさらなる暴力によって上書きされるし、欲でなびく者はすぐに裏切る。
武力蜂起や暗殺もまた下策だ。
そんなことをしなくても、準備を整えて至高な椅子がやってくるのを待てばいい。
シャルトーリアの考える上策とは、敵を作らず、味方を増やすことだ。
つまり、多数派工作だ。
即位に影響を及ぼせるのは一圏の領主たち。
かれらは帝国にたった三人しかいない。
だからといって、他の領主の動向を無視していいかといえば、そうではない。
他の領主の意向も重要な判断材料となる。
そしてその領主。
町の代官を自由に任命できる反面、代官たちから信を得ないと、基盤が揺らいでしまう。
領主もまた、不自由な存在なのだ。
シャルトーリアは、これらの構造に目を付け、権力の最小単位である代官を多数派工作によって、次々と自派閥の者に入れ替えてきた。
そしてそれは、今のところ上手く行っている。
最終的に領主の交代劇まで起こっている。
自身の考えが間違っていなかったことを証明したことになる。
以上の例からも、目の前の商人と敵対するのは得策ではないと考えられる。
どこで正司と繋がっているか分からない。無用のリスクを冒す必要はないのだ。
自身の我を通すために味方をつくる。それがシャルトーリアの行動方針だった。
だからこそ巻物を持っている商人のもとへ、自ら足を運んだのである。
「……そういうわけで、気がついたら、サロンに参加していた二万人も一緒に消えたのだ」
「ははあ……それはさぞ、驚かれたことでしょう」
「まったくだ。大陸の西は遠い。これまで有用な情報を集めてこなかった自身を呪いたくなったほどだ」
サロンが終わったあと、シャルトーリアは、人を使ってありとあらゆる情報を集めさせた。
その過程でウーレンスの名前を知ることとなる。
帝国の民で唯一、魔道王からものを貰った人物。
そしてそれは、シャルトーリアの計画になくてはならないものだった。
ウーレンスがルード港に居を移したのも幸いした。
未開地帯に近いグラノスの町では、帝都からの距離は倍ほども違う。
シャルトーリアは軍人らしく、この町まで馬を飛ばして来た。
さすがに訪問前には着替えをし、自身の身分を表す馬車を用意させた。
グラノスの町だったら、今頃はまだ馬を走らせている頃だろう。
自身の支配領域にいてくれたのは、本当に運がいい。そうシャルトーリアは思った。
「…………」
「…………」
雑談が終わり、両者の間に沈黙が訪れた。
ウーレンスはこの沈黙の意味を理解している。
シャルトーリアは、〈瞬間移動〉の巻物を自主的に献上して欲しいのだ。
そのためにわざわざ正装までしてやってきている。
こちらが礼を尽くしたのだから、分かっているよなと、無言で脅しをかけているに等しいが、ウーレンスのような二級帝民と皇族の力関係を考えたら、奇跡に等しいような気の使いようである。
ここで何も察せないようでは、ウーレンスに生きる資格はない。
「……そういえば、偉大なる我が帝国に献上すべきものがございました」
「ほう、それは何であるか?」
しらじらしいやりとりであるが、これはウーレンスの方から希望しなければならないのだ。
帝国は吝嗇ではない。
巻物を献上すれば、それなりの品が下賜されるだろう。
皇族のお覚え目出度い「おまけ」つきである。
だがウーレンスは、巻物を差し出すことによって大切なモノを失う気がした。
それでもウーレンスは笑顔で言った。
「私が献上いたしますのは、ひょんな偶然から手に入れた巻物でございます」と。
「……お、おはようございます」
翌日、ウルザがおそるおそるウーレンスの店に顔を出した。
昨日、帝国の紋章を掲げた高級な馬車がウーレンスの店先に一刻ばかり停まっていたのは、だれでも知っている。
朝、出勤前にウルザのところへ事情を聞きに来た人もいた。
ウルザは「何も知らない」と追い返したが、その者はきっと夕方にも来るだろう。
同業者たちは、気が気でないのだ。上流階級の人たちであっても、息を潜めて動向を見極めようとしているはずである。
皇族が正装して現れたとは、そういうことなのである。
「おはよう、ウルザ。今日も頼むよ」
ウーレンスはいつも通りだった。
「はい……あの」
「なんだい?」
「き、昨日のことですけど……お、おきゃ、お客様が……」
「ああ、昨日……皇女殿下が来られたね。間違いないよ」
「やっぱり……」
帝国紋を馬車に使用できるのは皇族のみ。
そして町のだれもが、あれを偽物とは思わなかった。
皇族を騙った者は問答無用で死罪。その罪は一族郎党にも及ぶ。
偽者が白昼堂々、町中で帝国紋を使うなどあり得ないのだ。
ウーレンスは皇族と繋がりがあった。そうウルザは理解した。
「それでね、私は二級帝民なんだが……」
「はい」
それはウルザも聞いて知っている。
二級帝民と言っても、政治に参加できないくらいで、生活するのにそれほど困らない。
それに帝国は、ほとんどが二級帝民だ。
「帝民になった」
「ええっ!?」
二級帝民は金で買える。だが、帝民権は違う。
政治に参加できるようになるためか、取得する方法はない。
それこそ、帝国に多大な貢献をした人でないと難しいのだ。
そこまで考えてウルザは理解した。ウーレンスは、帝国に多大な貢献をしたのだと。
「それと、船をひとつ戴いた。港の使用権とともに」
「えーっ!?」
港の使用権は順番待ち。この町の住民ならば、だれでも知っている。
もう十年以上待っている人も多い。
代官クラスのコネでは、口利きすらできない。
順番を守るしか方法がないのだ。
領主ならばなんとか使用権を確保できるかもしれない。
だが、それをすると港の関係者に恨まれ、見えないところで嫌がらせを受けたりする。
それこそ、領主より上の者の口利きならば別だが。
「……あっ」
ウルザは理解した。
皇族の口利きならば、港の使用も可能だろう。
皇族の顔を潰してまで嫌がらせをする度胸がある者がどれだけいるだろうか。
一家揃って町を追い出されることだってあるし、ヘタをすれば物理的に首が飛ぶ。
「まあ、その辺の権利はおまけみたいなものらしいけどね」
「…………」
これらが「おまけ」としたら、本命は何なのか。
そういえばウルザがここへ来る途中、馬車から木箱が店に運び込まれたと誰かが言っていた。
あの木箱の中には、何が入っていたのか。
「えっと……店長?」
「帝国は吝嗇じゃないってことだろうね」
力なく笑うウーレンスの顔を見て、ウルザはそれ以上何も聞けなかった。
帝国ヒットミア領、グラノスの町。
この日、ひとりの使者が町に入った。
帝都から何日もかけてやってきたのである。
使者は休むことなく町中を進み、ダクワンの店に到着した。
使者を出したのはもちろんシャルトーリア。
正司とダクワンの二人が三度目の邂逅を果たす、その前日の出来事である。