108 サロン
ハデに乗り込むと息巻いたリーザは、それを言葉通り実行した。
サロンに入るや否や、そこにいた人々の視線を独占してしまった。
これは、普段サロンに顔を見せないザクスマンがリーザをエスコートしたことも大きかっただろう。
まるで誘蛾灯に集まる羽虫のように、帝国の貴族たちがリーザの周囲に集まったのだから。
時間は少しだけ遡り、サロンに着くまでの馬車の中。
リーザは正司に、サロンについてのレクチャーをはじめた。
「帝国のサロンはね、男女一組で参加するのが暗黙の了解になっているの」
それは『秘めたる規則』のひとつであるという。
他にも職種によるドレスコートや、サロンの中での立ち居振る舞いなど、どこにも明記されていないにもかかわらず、みなが守っている規則が存在している。
つまり、暗黙の了解が分かっていない人物は、その時点ではじき出されてしまうのだ。
「なんというか、面倒くさいですね」
「それが特権階級よ。私からしたら馬鹿馬鹿しい限りだけど、みな真面目くさって実行しているわね」
というような会話があって、正司はライラをエスコートしている。
今回、なぜライラを帝国に連れてきたのか。先ほどのレクチャーは、その辺の説明も兼ねていたようだ。
ライラの家は、トエルザード公領の中で貴族階級に属する。
ライラの場合、兄弟も多く自身は家を継ぐわけではないが、リーザの護衛ということで、それなりの教育も受けている。
サロンでの立ち居振る舞いは問題ない。
「タダシはお母さまから最低限の教育は受けているわね?」
「はい……さすがに帝国のやり方は学んでいませんけど」
「こっちのやり方でいいわ。ライラだって同じだし」
リーザは、やろうと思えば上品にも居丈高にも振る舞える。もちろん帝国式の礼や挨拶も完璧にこなす。
つまり、何か「やらかす」としたら正司しかいないが、それはもう勉強代と思って諦めるしかない。
「ひとつ疑問なのですけど、サロンに行くのに、予約とかはしなくていいのですか?」
礼儀とかよりも、正司はそのところが気になっていた。
「予約というのはないわね。帝国の領内では、役職や支払った税金を参考にして『紳士録』が作られるから、そこに名が乗っていれば、参加資格はあるとみなされるの」
ヒットミア紳士録は、前年の納税や役職に応じて毎年作成される。
それがサロンに出入りする場合の目安となるらしい。
サロンに出入りできる者は、紹介したい人物を連れてきてもよい。
逆に推奨されていたりする。
「他領の著名人は紳士録に載っていないでしょ。だから連れてくると、その人に箔がついたりするわね」
「そんなものですか」
有名人の友だちはスゲーとなるようなものかと正司は考えた。よく考えると、あまりすごくないのだが。
「それとサロンの使用料は後日、人数分請求されるから、余裕がない家は頻繁に顔を出せなかったりするわね。逆に、日参することで財力を見せつけることもあるけど」
サロンの参加ひとつとっても、多くの駆け引きがあるらしい。
それを聞いた正司の反応は「やっぱり面倒ですね」だった。
今回リーザに頼まれてサロンにエスコートすることになったザクスマンだが、彼はもともと帝国官僚のひとりである。
十代のうちから組織に属し、三十年以上真面目に働いた。
その後、大陸を渡ってミルドラルのトエルザード家担当になったのである。
帝国を離れたとはいえ、なかなかの出世である。これは本人の性格が決め手となった。
ザクスマンは実直であり、なおかつ温厚。
間違っても相手を怒らせない人物として、選ばれたのである。
ザクスマンはその期待に十分応え、五年の任期を大幅に超えて働いた。
いまはこれまで貯めたお金と、毎年帝国から出る慰労金で、悠々自適の生活をしている。
実直で目立つことをしないザクスマンが、今宵なぜか若い美女を連れてサロンにやってきた。
注目を集めるのは、当然のことだった。
「さて、いまから戦闘開始よ。タダシ、分かっているわね」
「はい。目的の人へまっすぐ向かわないことですね」
「そう。初見の私たちは注目されているから、ここへ来た目的を悟られないようにしなさい。それと、私が最初に目を引くから、タダシは隅の方で小さくなっているといいわ。面倒そうなのが来たら、ライラが追っ払ってくれるから」
端で聞くとあんまりな言い方だが、そこは噂と陰謀がうずまくサロンである。
お上りさんの正司が迂闊に何でもかんでもペラペラ喋ってしまえば、ただカモにされるだけである。
自分の手札を切らずに、相手にだけ切らせる芸当ができればいいが、それには高い授業料を何度も払うしかない。
ゆえにできるだけ目立たないようにしていた方が、目的を達しやすいのである。
というわけで、ザクスマンと一緒にハデに登場したリーザは、すぐに社交の中心となった。
リーザとザクスマンの周囲に人の輪ができ、それを遠目で窺っている人たちが多数存在している。
正司はというと、リーザの言いつけを守って、隅で大人しくしていた。
「タダシ様、向こうから人がやってきました。服装から貴族や役人ではないと推察されます」
正司は先ほどのレクチャーを思い出す。
サロンでは、あまり誤認を与えるようなドレスコートは歓迎されない。
商人なのに貴族のように振る舞うとか、その逆もそう。
わざとそのようなことをして、相手の混乱を誘うやり方は、相応しくないとみなされる。
そのため、ある程度服装で職種が分かるのだ。
「分かりました。この場合、初対面の相手に対する礼でいいですね」
「はい、それでいいと思います」
相手の地位や身分によって、礼の仕方は細かく変わる。
素性が分からない場合、ほぼ決まった作法がある。
ただ服装から相手が貴族と分かっている場合、なるべくそれに相応しい礼をした方がいい。
今回、ライラの意見が正しければ、相手は貴族ではない。
一般的な目上の人に対する礼を正司はした。
ライラの実家は貴族であるし、家族全員トエルザード家の家臣である。
こんなとき、相手はどうすればいいのか。
この場合、家がどうこうよりもライラ本人の身分――トエルザード家家臣と考えるわけである。
ライラの実家が貴族だからといって、相手に貴族としての礼を求めるのは間違っているのだ。
「はじめましてでしょうか。わたくしはグーヌアンスと申します。お見知りおきを。こちらは家内のラルファです」
「ごていねいに。私はタダシと申します。今はそれしか名乗れません。そして彼女はトエルザード家家臣のライラです」
互いに紹介されたラルファとライラが礼をする。
「トエルザード家ですか。とすると先ほど一緒に来られた方も?」
「はい。彼女の名はリーザ・トエルザード。ルンベックさんの長女です」
「なんと!? いま飛ぶ鳥落とす勢いのトエルザード家ですか。それはまた……」
グーヌアンスは大仰に驚いてみせたが、内心でもしっかり驚いていた。
ザクスマンが十年以上トエルザード家の担当をしていたのは、グーヌアンスも知っている。
この町でトエルザード公領のツテを頼るときは、ザクスマンを通すのが確実だからだ。
ゆえにザクスマンがトエルザード家の関係者をエスコートしてきたことは別段、驚くに値しない。
問題は、サロンに参加した者が大物すぎたことである。
バイラル港からルード港まで船で数カ月。そこからグラノスの町まで、どんなに急いでも十日以上かかる。
まさか公家息女がこんなサロンに足を運ぶとは思わなかったのだ。
そしてもうひとつ。
目の前のタダシという人物は、トエルザード家の家臣をエスコートしてきて、身分は「今は」ないと言っている。
これをどう読み解くかだが、普通に考えれば商人か一代で成り上がった成功者である。
そのような人物は、この先も身分を得る可能性はない。
つまりわざと「今は」ないと答えても、嘘ではない。
だがタダシは、トエルザード家当主のことをルンベックさんと呼んだ。
トエルザード公領にするのならば「ルンベック様」や「ご当主様」のような、もっとちゃんとした敬称で呼ぶはずである。
隣に家臣がいるのだから、とくにそうだ。
気軽に呼んで許されるはずもない。
(他領のお忍びか?)
グーヌアンスは思案した。
ここはひとつタダシの素性を聞いておきたい。
そこでまず、グーヌアンスは自分についてを話すことにした。
「私はこの町で土地や建物を提供しております。もしご入り用でしたらお申し付けくださいませ。ご希望に添えるものを必ずやご提案させていただきます」
グーヌアンスは貴族でも役人でも、ましては商人でもなかった。
この町に土地や建物を多く所有している有力者であった。
さあこれでどうだと、グーヌアンスは待った。
こちらの素性を明かしたのだ。少しなりとも正司も自分のことを語らねばならない。
すると正司は……。
「土地建物ですか。そういえばトエルザード家の屋敷はこの町にないみたいですね。でしたらリーザを紹介した方がいいですね……呼んできましょうか」
「い、いえ……それには及びません。じ、時間ができたときで結構です」
「そうですか? 呼べば来ると思いますよ」
「ご歓談中のようですので、それには及びません……わ、私はこれにて失礼します」
グーヌアンスは、アタフタと礼をして去っていった。
正司の素性は分からなかったが、存外大物であることが分かった。
正司から離れたグーヌアンスは、背中にびっしょりと汗を掻いている。
(当主をさん付けで呼んで、息女を呼び捨てするとは……しかも隣の家臣がそれを黙認している人物に心当たりがないのだが……)
危うく危険な藪を突く所だったと、グーヌアンスは額の汗を拭った。
有力者とはいえ、グーヌアンスは地方の町で不動産業をやっている程度の男である。
貴族たちがいま、リーザを十重二十重に囲っている。
そんな状態で、グーヌアンスのためにリーザが呼び出されでもしたら、明日からサロンに顔を出せなくなってしまう。
「しかし、タダシというのは何者なんだ?」
「……さあ。ですが貴族様方を差しおいて、あなたがリーザ様を独占したら、明日から針のむしろになります」
「そうだな。なんでそんなことで恨みを買わねばならないのだ。逃げて正解だったよ」
グーヌアンスが去ったことで、次の犠牲者が正司に近寄っていく。
それを遠目でみながら、「今日は日が悪い」と、グーヌアンス夫妻は、隅の方で大人しくするのであった。
「お見事です、タダシ様」
ライラの称賛に正司は「何がです?」と首を傾げた。
リーザの周囲には、サロンを主導する貴族たちがまだまだ大勢集まっている。
そこに加われない者たちは順番待ちをしているが、その輪に加われない者たちが、リーザの「おまけ」としてやってきた正司にアプローチをかけた。
だが結果はグーヌアンスとまったく同じ。
みなことごとく散っていった。
ここに来る前、リーザは正司に身分についての簡単なレクチャーをしていた。
「帝国には八つの領があるわ。つまり領主が八人いるわけね」
この領主が管理する地は広く、それぞれが一国に相当するほど広い。
「領主は各町に代官を派遣して、領全体を管理しているの」
つまり実質的な町のトップは代官ということになる。
絶断山脈の西側で領主といえば、町とそれに付随するいくつかの村のトップとなる。
西側の領主は、帝国の代官に相当すると考えればいい。
「するとルンベックさんは、帝国の領主と同程度みたいになりますか?」
「それで合っているわ。ラマ国の国主も王国の王もみんな帝国では領主と同等と考えていいわね。もちろん、向こうへ行けばちゃんと礼を尽くしてもらえるけど、イメージ的にはそんなものよ」
帝国は広大な版図を持っており、それを考えれば文句も出ないというのが、リーザの感想であった。
「それでね、タダシ。あなたの場合、まだ建国宣言していないから、王を名乗ってはいけないのよ」
貴族や王族の詐称には、かなり神経を尖らせているらしい。
「似たようなものだから」とか「どうせもうすぐなるのだから」といった軽い気持ちで名乗ると、あとで大変なことになる。
「そうですね、分かります」
「けど、相手に舐められないことも必要。だからお父様と相談したのだけど、身分なしの対等関係で乗り切りましょう」
地位としては、ルンベックと同等。ただし公的な身分はなし。
他と会話するときはそれで押し通せということになった。
「分かりました。その方がいいのならば、そうします」
「私やライラのことは呼び捨てね」
「はい」
社外の人に社内の人を紹介するようなものだろうと正司は納得する。
「あと、サロンでは〈上流語〉を使うからね。使えたわよね」
「はい、変えておきます」
「? まあいいわ。そういうわけでがんばりましょう」
以上の経緯があって、格下だと思っていた正司がルンベックを対等な相手として呼ぶわ、リーザを呼び捨てにするわで、正司に話しかけた者たちはことごとく撃沈していった。
「今は」身分がないというのを、各人は深読みし過ぎてしまっていた。
「とくに何もしていないのですけどね」
相手の言うことを素直に受け止めた正司によって、相手は自爆させられたわけだが、ライラからすれば見事な躱し方としか思えない。
本当に無自覚でやっているのかと疑いたくなる程だった。
「それで有象無象はみな逃げ去りましたが、タダシ様はどうされますか?」
「そうですね。そろそろ動こうかと思います。第二部が始まるまで、まだ時間はありますよね」
「おそらく大丈夫だと思いますが、そろそろ動かれた方がいいでしょう」
有象無象とは随分な言い方だが、人が離れてくれたのは正直助かった。
サロンは通常、パートナーと一緒に交流を深める一部と、個々で深い談話をする二部に別れる。
男女で参加するのがルールとなっている手前、男性がパートナーを放って歩き回るのはよくないとされている。
だがそれでは込み入った話ができないし、投資や経済の話を女性がいる前ですれば、隣で退屈させることになる。
ゆえに二部では気の合った者同士に別れて、ホールや各部屋で交流を深めるのが習わしとなっていた。
ビリヤードやカードゲームをやりながら経済の話をしたり、対人遊戯をしながら投資の話をしたりする。酒を飲みながら馬鹿話をしている者もいる。
女性は女性で集まり、噂話に花が咲くことになる。
こうやって個々で動く時間帯になると、一人になった正司がボロを出す可能性がある。
ゆえに二部に入る前に撤退することが事前に決められていた。
(では行きますか。白線の人はもう分かっていますし)
すでに問題の相手はライラにも告げてある。
正司はライラを連れて相手に近寄った。
「すみません、私はタダシと申します。少々お時間をいただいてもよろしいですか?」
正司が話しかけた相手はおそらく商人。
商売人の服装を豪華にしたものを纏っていた。
「ええ、構いませんとも。私はこの町で商いをしておりますウーレンスと申します。こちらは家内のルニアです」
「これはご丁寧に。隣はトエルザード家家臣のライラです」
ウーレンスは、これまで正司が挨拶してきた者とは違った礼をしてきた。
幾分複雑な様式だったので、より上等な相手に使うものと思われた。
ルニアも同様に礼の仕方が違ったが、正司が話しかけるまで示し合わせた雰囲気はなかった。
臨機応変に対応を変えたのだろう。
(商人でしたか。貴族か役人を想定して話題を準備してきたので、ちょっと困りましたね)
会話のとっかかりとして、トエルザード家が所有している投資に繋がりそうな経済や政治の情報をいくつか頭に入れてきた。
だがこの町の商人であるウーレンスでは、あまり効果はない。
たとえば、いかに手広くやっていようとも、田舎町にあるスーパーの店主にヨーロッパあたりの流通の話題をするようなものだ。
さてどうしようかと一瞬会話が止まったとき、ウーレンスがすかさず質問してきた。
「ザクスマン殿と一緒に現れた女性は、今夜の人気の独り占めですな」
「ああ、そうですね。リーザは目立ちますから」
ウーレンスの視線を追ったが、人の頭に囲まれて、リーザは姿すら見えなかった。相変わらず大人気である。
大勢に囲まれれば萎縮してしまいそうだが、リーザは水を得た魚のように動いていることだろう。
二、三人はやり込めているかもしれない。
正司はそんな風に考えて和んでいると、ウーレンスはそっとルニアと目線を交錯させた。
なるほど、有力者や商人たちが退散したのは、これが原因かとウーレンスは納得した。
ウーレンスはリーザの名に聞き覚えがあった。
リーザ・トエルザード。
鳥を使った通信で知っただけだが、ほぼ無傷で王国軍を追い落とした女傑と言われている。
トエルザード公の息女にして懐刀。ゆえに彼女を当主に押す動きもあるとか。
そんな女性を呼び捨てにするタダシはさらに上の存在。地方の町の有力者たちが相手をするには荷が重すぎた。
そこでウーレンスは考えた。ではなぜタダシが自分のところへ来たのか。
格下の者に話しかけられて辟易していたのではないのだろう。
ウーレンスは正司の意図を図りかねたため、少し突っ込んだ話をしてみることにした。
「あの方がリーザ様でしたか。噂にしか聞いたことありませんでしたが、美しい女性ですね」
「ありがとうございます。リーザが聞いたら喜ぶと思います」
ウーレンスに称賛されて、正司はリーザに変わって礼を言った。
「しかし帝国に来ていたとは知りませんでした。私も存外、耳が遠くなったものです」
大陸の西側の情報は、鳥を飛ばせる知り合いから買うしかない。
ゆえに情報が選別され、届くのが遅くなるが、それでも船からもたらされるものよりも随分と速い。
だが、ウーレンスはリーザが帝国に来ていたのを知らなかった。
「帝国に来たのはついさっきですから」
「ついさっき……ですか?」
このときウーレンスは、上流語を聞き間違えたのだと思った。
もしくは、正司が言い間違えたか。
サロンに来た話と混用したか何かだろうと考えてスルーした。
「ええ、ラクージュの町から〈瞬間移動〉で来たのです」
「なるほど、それはあやかりたいですな」
ウーレンスは笑顔で言った。なんだ、冗談だったのかと。
ちょうど変な間ができてしまったので、気を利かせて冗談で紛らわせてくれたのだと理解した。
そしてこうも考えた。
いつ帝国に着いたのかは秘匿したいのだと。
「それで私は、ウーレンスさんとお話がしたくて来たのです」
「私にですか? ……はて、私は何もタダシ様とお話しできるようなものはないと思いますが」
このとき正司は、ウーレンスがそれほど悪い人間ではないと考えていた。
ガツガツしたところもなければ、企んでいる感じでもない。
もちろん会って少し話しただけであるため、確実ではない。
それでも、悪人ではなさそうという直感は、当たっているような気がした。
ゆえにある程度、正司は正直に話すことにした。
「とある浪民の女の子に頼まれて、ここへ来たのです。そしてウーレンスさんならば、力になってくれるのではないかと思いまして」
「はて? その女の子を私に引き取ってほしいというのでしょうか」
「いえ、そういうことではないのです。ウーレンスさんとお話をしていれば、解決の糸口が見つかると思っています」
思っているといいつつも、正司は確信しているようにウーレンスには聞こえた。
つまり占いか魔法かなにかで、ある程度の確証を持っているのだろうと。
となると、ウーレンスはどうすればいいか。
正司はおそらく高位の人物。浪民の女の子というのは分からないが、追求を躱す方便かもしれない。
正司の出自は分からないが、大陸の西側の王族関連か、帝国上層部の人間だろうと想像が付く。
正司と知己を得ても、ウーレンスから連絡の取りようもないかもしれないが、せっかく話しかけてきてくれたので、何か記憶に残ることをしておきたい。
「残念ながら、あまりお役に立てるものは持ち合わせておりません。です、お近づきの印にこれを差し上げたいと思うのですが、どうでしょうか」
ウーレンスは懐から木製のプレートを取り出した。
プレート自体は木製だが、表面には薄く銀が張り付けてある。
それなりに複雑な文様が銀で記されていた。
「これはなんでしょう?」
「年に二度、帝都で開かれるサロンの招待状です。主催者はメルエットの領主ですので、帝国中から招待客が集まります」
「それはとても大事なものではないのですか?」
「いえ、昨年たまたま大きな商いをしまして、その功績が認められて、戴いたものです。私は一圏内に商売の拠点を持ちませんし、それほど強力なコネも必要ありません。ですので、ここのサロンでいつか良い縁作りになればと懐に忍ばせていたのです」
「でしたら、もっと有効に活用した方が……」
「タダシ様ほど相応しい方はいないでしょう。その意味では、ずっと持っていて良かったと言えます」
この町で基盤を固めるためではなく、フラッとやってきた正司に渡すのが果たしていいものなのか。
正司としてはもっと他にいるのではないかと思っていると、会場の中央付近がざわついた。
正司たちが視線を送ると、そこは人垣ができていた場所、つまりリーザがいる所だった。
(リーザさんが何かに巻き込まれたのでしょうか)
心配ないとは思いつつ、正司は気になった。
ザクスマンとリーザは、サロンに登場してからずっと貴族たちに囲まれていた。
延々と彼らの相手をしていたのである。
おべっかを使ってくる相手には褒め殺しで返し、何か情報を得ようとしてくる者には、反対に相手のことを根こそぎ聞き出していた。
一緒にいるザクスマンは、目を白黒させてその様子を見ている。
あの幼かったリーザが、海千山千の帝国貴族たちをけむに巻く様子は、時間の流れを感じさせるのに十分だった。
しかしいい加減この人垣をなんとかしたいとザクスマンが考えていると、これまで完璧な受け答えをしていたリーザに、かすかな苛つきがでてくるのが分かった。
さすがに面倒になったのだろうとザクスマンが考えていると、遅れてサロンにきた人物が声高にやってきた。
「トエルザード家の者が来たと聞きましたのよ」
オーッホホホホと笑うのは、代官婦人のミラーフラ。
ミラーフラは貴族たちの垣根にグイグイと身体を割り込ませた。
自然とミラーフラはリーザに一番近い場所へ行く。
夫であり、このグラノスの町の代官をしているロキスは欠席。
ミラーフラのパートナーには彼女のお気に入りである若い貴族が選ばれていた。
「あなたが、ふーん……所詮は田舎の……みなさまは物珍しいのがお好きですわね。あらいやだ。オホホホホ」
ほとんど侮蔑に近い物言いに、周囲の貴族がドン引く。
一方、言われた当のリーザはというと、笑みを深くして、なぜかミラーフラの方へ近寄る。
貴族社会で他者の威を借る行為は、はしたないものと考えられている。
ロキスが代官であろうと、ミラーフラ自身は何者でもない。
外交のためにやってきたリーザとは立場が違うのだ。
「あら、どちらさま?」
ぞっと底冷えするような声がリーザから発せられた。
先ほどまでとまったく違う様子に、何人かがその場を離れた。とばっちりをくらうのを恐れたのだ。
リーザは真面目な顔で相手を見据えるだけ。
それなのになぜか、リーザの後ろに陽炎が立ち上る。
「な、なによ……わたくしのことを知らないとは、どこの田舎者かしらね」
舌戦になると思ったミラーフラは、精一杯の虚勢をはる。
だが内心では、大いに冷や汗を掻いていた。
ミラーフラがサロンにきたとき、話題をすべて攫っていたのはリーザである。
ミラーフラはおもしろくない。
ゆえに難癖をつけて、自身の優位性を周囲に植え付けてしまう作戦に出たのだ。
だが、仔猫かと思われた相手は虎。しかも成体と思しき威風を誇っていた。
これはまずいと、別の作戦を頭の中で練っていると……。
「あら、それ。珍しい」
リーザの視線がミラーフラのネックレスに注がれる。
「そ、そうよ、ホホホホ」
それはミラーフラ自慢の一品だった。いくら金を積んでもおいそれと手に入らない海の宝石。
ネックレスには大粒の黒真珠がひとつ、光っていた。
「……へえ」
リーザの目が細まる。
「い、田舎者とはいえ、これに目を留めるのはさすがね。これは……」
「本当に珍しい。小麦粉を練って丸めたとは、なかなかおしゃれな首輪ね」
「こっ、小麦粉ですってぇ!?」
ミラーフラは一瞬何を言われたのか分からなかったが、大枚を叩いて購入した黒真珠のネックレスをこともあろうに小麦粉と言ったのである。
「しかも日が経ちすぎて、黒いカビが生えているとは。いや、面白いものを見せてもらった」
リーザは手を伸ばし、ミラーフラのネックレス……その黒真珠を人差し指と親指でつまむ。
――パキン
黒真珠が、リーザの指の中で砕けた。
「さすが小麦粉」
というリーザの呟きは、ミラーフラにしか聞こえなかった。
周囲に集まった貴族たちが驚きの声をあげたからである。
正司が聞いたのは、この声だった。
「な、な、なっ……」
声の出ないミラーフラに、リーザはミラーフラの指に視線を落とす。
「その飴細工も珍しい……」
リーザが指輪の石に手を伸ばすと、ミラーフラは手を隠して、ズザザザザと後ずさりした。
まるで化け物を見たような顔だ。
リーザが一歩歩み寄る間に、ミラーフラは踵を返してホールを出ていってしまった。
駆け足である。ダンダンダンと重い足取りだけが耳に残った。
「残念、あの宝石、潰し損ねたわ」
そうリーザが言ったとき、ザクスマンの眼鏡がずり落ちた。
周囲のだれもが声を発しない。
息を呑んでリーザを見つめている。
「さて、そろそろいい時間ですし、お暇いたしますわ」
「……そ、そうですか。でしたら馬車を」
やっと再起動を果たしたザクスマンに、リーザは首を振る。
「このまま直接、ラクージュの町まで帰ります」
ラクージュの町は、トエルザード公領にある。
ザクスマンもそこで十余年働いたのだから、よく知っている。
「帰るといいましても、今からどうやって……」
ここからルード港まで出て、船での長旅が待っている。
何カ月もかかる道のりだ。
「それはもちろん……」
リーザが視線を向けると、視線の先にいた貴族たちが脇に避ける。
するとリーザから正司までの道ができあがった。
「タダシ、準備はいいかしら」
「あっ、ちょっと待ってください」
正司はウーレンスに向き直った。
「招待状を戴いたお返しに、これをどうぞ」
正司は『保管庫』から〈瞬間移動〉の巻物を取り出す。
「これは? というより、いまどうやって……?」
「これは〈瞬間移動〉の巻物です。あると便利ですので使ってください。それでは招待状、ありがとうございました」
隣でライラが額を押さえていたが、正司は別のところを見ていた。
クエストの白線はいま、南東の方角へ向かって伸びていた。
これは正司のクエストが更新されたことを意味する。
(ウーレンスさんと会う目的は、この招待状をもらうことだったのですね)
用事を終えた正司は、ライラをともなってリーザのところへいく。
「終わりました」
周囲が黙っているのが気になったが、もうあとは帰るだけである。
正司はとくに気にしなかった。
「ではみなさま、ごきげんよう」
リーザが優雅に礼をし、ライラも続く。
そして三人の姿が掻き消えた。