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001 異世界に落っこちる

この物語のコンセプトはタイトル通りです。

「お人好しが異世界に行ったらどうなるかな」というところから始まりました。


主人公は、お人好しだけど最強です。Tueeeシーンはなくて、魔物もサクッと倒します。戦闘描写は淡泊です。お人好しなので、相手の嫌がることはしません。人も殺しません。


人畜無害かつ天然な主人公ですが、世界に与える影響は大きいです。

自己評価が低いかわりに周囲の「主人公上げ描写」でバランスを取っています。


そんな感じの物語ですが、よろしかったら読んでみてください。

1話の文字数多めです。


それでは、よろしくお願いします。

 その日、土宮つちみや正司ただしは、いつもより早く起床した。

 ベッド脇にある電波時計を確認する。


  9月11日(木)AM 5:52


「今日から30歳ですか……」


 起床してすぐ、正司はパネルに表示された日付を確認した。


 9月11日は、正司の誕生日だった。昨日までは20代。

 だが、今日からついに三十路突入である。


「もう20代と自己紹介できないのですね。そうすると出会いが……いえ、そもそも最後にプライベートで女性と話したのだって……いつでしたっけ?」


 1年、2年と記憶を遡り、思い出すことを諦めた。

「もしかすると、学生時代に戻らないといけないかもしれませんね」


 それはあまりに悲しすぎるなどとを考えつつ、正司はベッドから降りてタンスを開いた。

 タンスの中――そこには『草原』が広がっていた。


 見間違えではない。

 タンスの中は、見渡す限りの草原だった。


「タンスの向こうって、『異世界』でしたっけ? いやいやそんな馬鹿なこと……」


 頭では否定しつつも「つい」好奇心が疼き、もっとよく見ようと「つい」タンスの縁に足をかけてしまった。


「いざ行かん、異世界へ! な~んちゃっ……痛ッ!」


 目の前に広がる世界へ足を踏み出すマネをしたら、小指をぶつけて、すっ転んでしまった。


 運動不足からか、足が思うように上がらなかったのである。

 草原の上へ、頭からダイブする結果となってしまった。


「痛たたたた……あれ?」


 振り返ると、今まで自分の部屋へと繋がっていた穴は、もうどこにも見当たらなかった。


「ここにあった穴、だれか知りませんか?」


 だれもいない草原の上でそう呟いたところで、応えなどあるはずもない。

「もしかして、私。部屋に戻れなくなりました?」


 そう呟いた土宮正司の異世界生活は、こうしてはじまったのである。




「最近、なにか変わったことってありましたっけ」

 草地の上で腕を組み、色々と思い出してみる。


 昨日は外で夕食を済まし、夜遅く自分のマンションに帰ってきた。

 背広をタンスにしまい、風呂に入ってすぐに寝た。


 そのときはまだ、タンスはタンスであった。異世界と繋がっていない。

 ここは重要だ。


「昨晩は日付が変わる前に帰ってきました。そして今日は、私の誕生日。とすると30歳を迎えたことで何か特別な力が……ん? さっきから『コレ』が気になっているんですよね」


 コレとは視界の左上にある▲(三角マーク)のことである。

 先ほどから、視界の隅でずっと点滅している。


 飛蚊症ひぶんしょうにしては大きいし、飛び回っているわけでない。


 気にはなったが、いまの境遇の方が重要だったので無視していた。

 正司はおずおずと、▲がある辺りを指で触れてみた。


「うわっ!?」


 シュルシュルっとメニューらしきものが降りてきた。

 すべて日本語で書かれていて、上から順に『ステータス/装備/保管庫/スキル/クエスト/情報/設定』とある。


「なんですか、これは? まるでゲームみたいな……」

 正司は指で一番上の『ステータス』に触れた。


   土宮 正司 30歳 男

   心体傷病弱 偏頭痛、腰痛、内臓疾患

   HP/MP 100/100

   所持スキル なし(残り貢献値 202)


 現れたのは、まさにゲームのステータスそのもの。


「これって自分の個人情報でしょうか。いつ計られたのですか? 個人情報ダダ漏れじゃないですか。コンプライアンスはどこいったんです? というか、心体傷病弱ってなんでしょう? 腰痛、偏頭痛、内臓疾患って、全部心当たりありまくりなんですがぁ!」


 子供の頃から季節の変わり目に偏頭痛が疼く。

 いまもズキズキ痛んでいる。


 また高校時代に部活動で無理をし過ぎて、腰痛を発症してしまった。

 それ以来、腰痛とは長いつきあいである。そして極めつけの内臓疾患。


「そういえば、健康診断で異常値が出ていましたね」


 『至急』と朱字の判が押され、直後に「要精密検査」と書かれていた。


 人間30歳に近くなれば、なにかひとつくらい病気を持つものだとうそぶいていたが、ステータスによると三つの持病持ちだったらしい。

 ステータスに書かれた症状に、正司はヘコみかけた。


「やれやれです。『心体傷病弱』というのは、心と体に傷や病、それと弱っているところがあると表示されるのでしょうか……見なかったことにしましょう」


 嫌な気分になってステータスを閉じ、一番下の設定をタッチしてみた。

 何か分かるかもしれないと考えたのだ。


「いろいろありますね。『オン/オフ』で切り替えられるようになっているようですね」


 ためしにマップをオンにしてみる。

「うわっ!?」


 右上に円形のマップが出現した。

「これは今いる場所? 視界を少し塞ぐけど、便利だな」


 正司が視線や身体の向きを変えても、マップは動かない。

 その代わり、マップ中心にある矢印のようなものが正司の動きに合わせてクルクルと動いた。

 正司の向いている方向が尖っている。


「地図の向きは固定みたい? とすると上が北になるのでしょうか」

 分からないものは飛ばして、次々に設定をオンに変えていく。


 画面左上、最初の▲があった場所の上部に、赤と青のバーが出現した。

「HP表示、MP表示とありましたし、赤がHP、青がMPでしょうか。よく分かりませんが、普通はそうですよね」


 他にも「新規スキル取得時の通知」とか「クエスト受諾画面自動出現」とか「マップ内クエスト進行表示」など色々あったが、正司はすべてオンにしておいた。


「スキルとかクエストとか、まるっきりゲームみたいです。……今度はスキルを見てみましょう」

『設定』画面を閉じ、『スキル』画面をタッチする。


 スキル項目は【言語】【肉体】【魔法】【生産】【戦闘補助】【魔法補助】の6種類が出ていた。正司は一番上の【言語】をタッチする。


〈上流語〉〈共通語〉〈クアロディーネ族語〉〈ドアリュム族語〉……と表示が続いている。


「言語……なぜこんなにいっぱいあるのでしょう」

 一番上の〈上流語〉をタッチしてみる。



   〈上流語〉を取得しますか? 受諾/拒否



 正司は少し悩んでから、受諾をタッチする。



   〈上流語〉を取得しました。



 そう表示されて一覧の中から〈上流語〉が消えた。


「いま、スキル取得のメッセージが表示されました。設定でオンにしたので、それはいいのですが、スキル欄から取得したスキルが消えたんですけど……」


 慌ててスキルを閉じ、ステータス欄を開く。



   土宮 正司 30歳 男

   心体傷病弱 偏頭痛、腰痛、内臓疾患

   HP/MP 100/100

   所持スキル 無段階〈上流語〉(残り貢献値 200)



「あっ、ここにありました。それと貢献値が2だけ減っていますね。『無段階』の意味が分かりませんが、貢献値を2使用して〈上流語〉を取得したのでいいのですね」


『残り貢献値』という表記が謎だったが、どうやらスキル取得に使ってよいポイントらしい。


「なんとなく分かってきました」


 正司はもう一度スキルを開く。

「今度はどれを取得してみましょうか……」


 ――ギョェエエエエエン


 遠くから耳をつん裂く鳴き声が聞こえてきた。


「ちょっと待ってください! ここってもしかして、危険?」

 逃げねばと浮き足だったが、正司はいま上下パジャマ姿。そして裸足はだしである。


「ここは危険かもしれません。この状況を脱するスキルを取得した方がいいですね」


【言語】や【生産】はいま役に立たない。

【肉体】をみたら、戦うスキルばかりが並んでいた。


「戦い以外でなにかあるでしょうか」

 正司が欲しているのは、逃げるかやりすごすといったもの。


「ありました。これです!」

【戦闘補助】にあった〈気配遮断〉をタッチして受諾を押した。


「いま取得しましたよね。これでいいのでしょうか?」

 すぐにステータスで確認する。すると……。


   所持スキル 1段階〈気配遮断〉

         無段階〈上流語〉(残り貢献値 199)


 となっていた。〈上流語〉を取得したときと違って、1段階の所にスキルが出現している。

 そして残り貢献値が1減っていた。


 正司が〈気配遮断〉に触れると「段階を上げますか? 受諾/拒否」と出た。


「段階? 1段階とあるから、今は最低なんでしょうけど、これはレベルと同義でしょうか」

 受諾を押すと2段階の〈気配遮断〉になった。正司の考えは正しかったようだ。


 ふと残り貢献値を見ると198に減っていた。

 気配遮断の段階を上げる前は199だったので、1減ったことになる。


「どういうことでしょう、計算が合いませんね」

 もう一度気配遮断をタッチすると、「段階を上げますか? 受諾/拒否」と出てきた。


「上げられるだけ上げてみよう」


 すると気配遮断は5まで上げられて、残り貢献値が184となった。

〈気配遮断〉スキルの取得前から比べて、16減った計算になる。


「最後は8減って、その前が4減りましたから……段階が上がるときに必要な貢献値が倍になるようですね。とすると最初はボーナスで1だけなのでしょうか」


 スキル取得時は1段階と表示されていた。

 そこから1使用し、段階が2に上がり、貢献値が1減っていた。


 それ以降、必要な貢献値は2倍ずつ2、4、8と増えていって、5段階までに合計で16のポイントを使っていた。


「必要な貢献値がやや変則的ですけど、結果がすべてですよね……その前にスキルはこれで使えているのでしょうか? いや、そんなはずありませんね」


 四六時中気配を遮断していたら、だれにも気付いてもらえない。


〈気配遮断〉のスキルは自分の意志でオンとオフを切り替えられるのではないかと考えたが、そのやり方が分からない。


「気配を遮断……気配を遮断……」

 頭の中で念じてみた。


「……これですね!」


 何かが身体から抜けた気がした。

 直後、突然自分の意識が希薄になったような気がした。


 身体も同じで、大気と一体化して、完全に自分と自然が融け交じったような感じだ。


「これはすごいです……」

 広い世界のただ中で、自分は大きさのない点になったような錯覚に襲われた。


「気配遮断の効果はすごいです。これならば敵に気付かれることがないです」

 正司は落ち着きを取り戻し、もう一度スキル画面を開く。


「先ほどの鳴き声……ここは怖い世界なんでしょう。でしたら、生き抜けるだけの強さを持つか、絶対に見つからない技術を身につけるか、どんな攻撃でも大丈夫な守りを手に入れるかですね」


 タンスから転がり落ちたところから、正司はまだ一歩も動いていない。

 正司をここへ連れてきた穴はもうどこにも見えず、自分の部屋に帰れる可能性はほとんどない。


 スキルの中に元の世界に帰れるものがあるのかもしれないが、過度の期待は禁物である。

「まずは生き残ることを考えましょう」


 持病持ちの30歳は、冒険をしないものである。


 正司はスキル欄を穴があくほど見つめ、いま必要なものを選ぶことにした。




 ――およそ2時間後。


「ひとまず、これでいいでしょう」


 正司が選んだスキルは以下のようになった。


5段階:〈気配遮断〉〈魔力増量〉〈魔法効果増大〉〈瞬間移動〉〈回復魔法〉〈火魔法〉〈土魔法〉〈身体強化〉

無段階:〈上流語〉〈品定ひんてい


 使用した貢献値は全部で132。貢献値の減り方は正司が予想したもので合っていた。

 そして無段階のスキルは、取得時に2必要な事も分かった。


 正司はまず自室に帰れるかどうか、スキルの中を探した。

 そこで見つけたのが〈瞬間移動〉である。


 これを5段階まで上げたとして、魔力不足で帰れない可能性もある。取得するか悩んだ。


 何しろここはゲームのような世界である。

 レベル1――つまり1段階目のスキル効果では、たかが知れている。


 そこで正司は〈魔力増量〉と〈魔法効果増大〉を同時に取得して、5段階まで上げてみた。


 その上で瞬間移動を取得し、使ってみる。


「家に帰れ、家に帰れ……」


 すると「マップに表示されていないため、移動できません」と頭の中に浮かんできた。

 システムメッセージとは違い、漠然と頭に浮かんだ感じだ。


 ならばと、目の前の岩の上に移動するよう、念じてみる。

「おっ、一瞬で移動できました。やはり、念じれば魔法は使えるようですね」


 右上のマップにも岩は表示されている。

「今度はマップの灰色部分へ跳んでみましょう」


 実は右上のマップ。

 正司が移動した場所以外は、すべて灰色で表示されている。

 マップの灰色部分に移動を試みたらどうなるか。それを試したくなった。


「かなり先の方に一本だけ木があります。あの横に移動してみましょう」


 草原の中に木が1本、ポツンとあって、とても目立つ。

 直線で500mくらいだろうか。肉眼では見えるが、マップだと灰色の中にある。


 そこへ移動するように念じてみるが、家に帰ろうとしたときと同じく、「マップ上に表示されていないため、移動できません」と頭の中に浮かんだ。


「瞬間移動はマップ依存ですか。とすると、意外と使えない?」


 まだ行ったことの無い場所でも、名前を知れば移動できたり、遙か視界の先でも、連続移動で進めたりといった技は使えないことになる。


「せっかく最大まで上げたのに、微妙でしたね」


 瞬間移動の検証はそこまでにして、何かあったときのためにと〈回復魔法〉を取得し、ついでに5段階目まであげた。


 次に取得したのは、〈火魔法〉と〈土魔法〉である。

 攻撃手段を持たないと、追い詰められたときどうしようもなく、とくに瞬間移動を妨害される場所があれば、簡単に詰んでしまう。


 そして正司が悩んだ末に取得したのが〈身体強化〉である。

 草原の周囲は森に囲まれている。


 正司は自力でここから脱出しなければならない。


 運動不足の身体に、過剰な期待はしていない。

 よって、最低限森を抜けられるだけの体力を得るために、〈身体強化〉を取得したのだ。


「残り貢献値が70ですか。これはあとで必要になったときまで取っておきましょう」


 生き残ることを前提にスキルを取ったら、魔法に偏った構成になってしまった。

 だが、これには理由があった。


「あんな怪物相手に、接近戦はできないですしね」


 実はスキルを決定するまでの2時間で二度ほど、草原に怪物がやってきた。


 気配遮断を発動していたので気付かれなかったが、やってきたのはかなり大きな怪物であった。


 あれを見たとき、たとえスキルを持っていたとしても、剣で斬りかかるような真似は絶対にできないと思ったのである。


「最初に気配遮断を取って本当によかったです」


〈身体強化〉のスキルを取ったのは、体力不足を補うため。

 これで戦うつもりはない。


 攻撃は魔法を使えばよい。

 ただし魔法に属性があったように、敵にも属性があった場合、一種類の魔法しか覚えていないと大変危険である。


 そう考えた末、正司は「火」と「土」の魔法を取得したのである。


「これでもう、大丈夫ですね」

 根拠のない自信が湧いてきた正司であったが、水も食糧もない状態では、早晩倒れてしまう。


 もしこの世界がゲームによく出てくる世界と似ているのならば、敵を倒せばいいのではと考えた。


「次はレベル上げです。私の安全ライフのため、怪物退治といきましょう!」


 正司は握り拳を高く掲げて、世紀末覇者のようなポーズをとった。

 上下パジャマ姿であったため、寝起きに伸びをしたようにしか見えなかったが。




 ……と、意気込んだ正司だったが、彼は昔から人と争うのが苦手だった。


 正司には二人に兄がいて、ともにスポーツマンであった。

 ちなみに勉強は……お察しである。


 正司がまだ小さい頃の話。

 兄が通い始めた剣道場で、兄と一緒に竹刀を振っているうちは良かった。


 だが、正司はどうにも人を殴るのには抵抗があった。


「――殴るときに難しいことを考えるな!」


 周りからそう言われるものの、稽古が終わったあとは精も根も尽き果てたかのように憔悴していた。

 たとえ防具の上からでも人を殴るのには、精神的にキツいものがあったのだ。


「これなら柔道をやらせても無駄だろうけど、一応習わせてみるか?」


 もうひとりの兄がそう呟いたとき、正司はブルブルと首を横に振った。

 人を投げて畳に打ち据えるなんて、とんでもない。


 これでは駄目だと、ふたりの兄は、相手と接触しないスポーツを正司に勧めることにした。


「せっかく俺たちに似て、運動神経は良さそうなのにな」

 もったいないと嘆く兄たちは、正司にラケットを握らせ、テニス教室に通わせた。


 しばらく伸び伸びと楽しくやっていた正司だったが、試合の結果はいつも惜敗。

「あれだけ動けて、なんで同世代に勝てないんだ?」と兄たちを悩ますことになる。


 ある試合の日、ふたりの兄はこっそりと正司の戦いぶりを見学することにした。

 すると、目に飛び込んできた光景は……。


「あいつ、勝ちそうになると、わざと手を抜きやがる」

「それじゃ、実力で劣る相手にも負けるわけだ」


 試合に勝って相手を負かすよりも、相手に勝ちを譲ることの方がストレスが少ないと感じた正司は、いつも試合でわざと負けていたのである。


「あのお人好しの性格は、スポーツに向かないな」

「根が真面目なんで、色々考えちゃうんだろう」


 ハングリー精神を持てとまでは言わないが、実力を出し切って最後まで諦めずに戦う――それがスポーツマンシップである。

 試合で手を抜くなど、言語道断であった。


 あのままテニスを続けさせても、本人のためによくない。

 そう考えた兄たちは、テニスを無理矢理止めさせた。


 正司が高校に入ると、何の心境の変化か運動部に入ると、自ら言い出した。

 兄たちは「ようやく、人と競うことの楽しさを覚えたか」と喜んだが、正司が選んだのは陸上部だった。


 そこで正司は三年間、人と争うことなく、楽しくグラウンドを駆けていた。

 大会で記録こそ残さなかったものの、正司にはとても楽しい三年間だった。


 しかしこの高校生活で、正司は腰を痛めている。

 理由は、正司の性格にあった。


 なんでも自分で工夫しながらコツコツとこなす正司は、『止めどき』を見失う傾向があった。

 検証のため、何度も同じ動作を繰り返すのである。


 いつしか筋肉が疲労し、それを庇いながら続けていたことで、骨や神経を圧迫したらしい。

 腰痛の発症である。


 その頃になると兄たちはすでに就職しており、家を出てしまっていた。

 あまり正司に対して意見を言う機会もなかったし、言うつもりもなかった。


 正司の様子には、気づかなかったようである。


 ちなみに正司の妹は中学のテニスで優勝し、惜しまれつつも高校は陸上に転向。

 大きな大会で記録を残している。


 大学で理科系を専攻した正司は、運動とは無縁の生活を送り、4年間のキャンパスライフを送ったあと、東京の機械制作会社に入社した。


 それまでオフコンと受注生産のソフトウェアが主流だった業界に、パソコンと汎用型のパッケージソフトが導入されはじめた頃だった。


 一昔前まで高度な演算するソフトウェアは、完全受注の世界であり、開発するのに一本一千万からの金が掛かっていた。

 ゆえに作業するのは、その部署で一番のエリートと決まっていた。


 だが正司が入社した頃は、その様相も一変しており、一本数十万円で買えるソフトを市販のパソコンで動かす時代がやってきていた。


 開発業界に押し寄せた小型化ダウンサイジング汎用パッケージソフトの波によって、正司は若いながらも自分のパソコンで開発作業に没頭することができた。


 バブルが弾けたからこそ、各社がこぞって機械オートメーション化を推し進めたていたのだ。


 そして不況にもかかわらず、機械の発注は減るどころか、増える一方だった。

 というのも、開発費が低く抑えられた結果、それほど大きくない設備投資費で人員削減が見込めたからである。


 面倒なことはすべて機械にやらせる。

 そんなことを目論む企業からの発注が相次いだ時代でもあった。


 正司は真面目に働き、上司からも気に入られ、充実した日々を過ごしていた。


「あ痛たたた……」


 転機は入社して6年目。

 朝から晩まで一日中、椅子に座ってパソコンに向かっていた正司は、重度の腰痛に悩まされるようになっていた。


 ある日、開発も一段落過ぎ、正司は会社に多大な貢献をしたということで、昇進の話がきた。

 だが、事務仕事デスクワークは腰に負担がかかる。


 正司は昇進ではなく、営業職への転向を願い出た。


 そこでも正司は真面目に働き、もともと持っていた専門知識と、本人の真面目な性格、そして営業職にありがちな押しの強さがないことから、同じタイプ――技術畑の顧客から多大な信頼を得ることになる。


 ここでも満足いく仕事を成すことができたが、腰痛が悪化する。

 営業先は、車で十五分、二十分で行けるところばかりではない。


 座って話をする機会も多い。

 一年中走り回っているイメージの多い営業職であるが、意外にも座っている時間が長かったのである。


 お得意様もでき、さあこれからというときに、腰のせいで踏ん張りが利かない。

 正司は考えた。どうすればいいかと。


 営業職で客と話すときに立っているのは失礼に当たる。

 ならばそれ以外の時間はなるべく立つようにしよう。


 正司は思い切って車の使用をあきらめ、電車とバスを使って営業をすることにした。


 そもそもこの頃になると、正司は家でも座ることが一切なかった。

 食事も立ってするほどである。


 とにかく座ってしばらくすると腰に激痛が走るため、自衛の措置であった。


 移動を公共機関に変えてからというもの、正司の腰痛もなりを潜めた。

 今では普通に座って暮らせるまでに回復した。


 偉そうに車を横付けするよりも、汗を流しながらでもやってきてくれる正司の姿は好感が持てる。

 そんな解釈をされることもあり、お得意様の受けもよかった。


 腰痛は一生付き合っていく病気。

 正司は納得していた。


 そして30歳の誕生日。

 今日も頑張ろうとタンスを開けたところで、異世界に来てしまったのである。


「兄さんたちの家族はともに子沢山ですし、妹も結婚して海外。私が異世界に来ても、だれも困らないでしょう」


 独身で付き合っている女性もいない正司には、地球で心残りとなるような人物が思い浮かばない。


 ネット上の友人もいるが、最近はご無沙汰になっている。

 みなそれぞれ家庭を持ち、それぞれの生活があり、それぞれの人生を送っている。


 リアルの友人は年に一度の年賀状のやりとりくらい。

 ハガキで近況を知ると、不思議と穏やかな気分になれた。


 リアルもネットもそのくらいの関係で落ちついていた。


「会社は……私が無断欠勤したらすぐに動いてくれますね。そういう社風ですし、安心です」


 今日の午後には、誰かがマンションに訪ねてくれるのではと正司は思っている。

 つまり、実家も友人も会社もすべて正司が消えても問題ないはずである。


「ならば、この世界で真面目に生きていくことを考えてもいいかもしれませんね」


 戻りたい気持ちはある。

 だが振り返っても、自分の部屋に戻るための穴は……やはりどこにもなかった。




「さて、魔法はどうやって使えばいいのでしょう。瞬間移動と同じ感覚でいいのでしょうか」

 スキルは取得したものの、使い方が分からない。


 それでもまったく慌てないのは、正司の経験ゆえだろうか。

 まだ正司が大学生の頃、スキル制のMMORPGが大ヒットしたのである。


 レベル制のゲームと違って、スキル制ゲームはカンストしてからが本番である。

 どのスキル構成が最強なのか。まずカンストさせてから確かめる。


 生産職と戦闘職は完全に独立させて、キャラクターごとにロールプレイも出来た。

 鍛冶屋の前で武具の修理を請け負ったり、採取専用のキャラクターをつくったりと、大学の勉強そっちのけで、楽しんでいた。


「いまは大規模なパッチが複数あたって、様変わりしちゃったといいますね。最初の頃のあの混沌とした状況はなくなっているとか。寂しいものです」


 いまだにゲームを続けている友人から情報だけはもらっていた。

 最近の正司は朝が早いため、中々ログインできなかったのだ。


「もう裁縫戦士なんて絶滅危惧種だとか……」


 初期の武器だけを握りしめて森へ赴き、動物を狩っては皮を剥ぐ。

 それで革鎧を作って、少しずつ自分を強くしていく。


 当時、正司がゲームを始めた頃、戦士は全員裁縫スキルを取得していた。

「最終的に裁縫スキルはいらなくなるから消すんですよね。裁縫は強くなるのに必須スキルで……ああ、懐かしいですね」


 効率を求めるならば、裁縫戦士から鍛冶戦士になり、最後は包帯戦士を目指すのが一般的だった。


 今は皮も肉も無加工で店売りができ、そのお金をもとに高級品防具を買いそろえることができるらしい。

 いい時代になったものだと、正司はしみじみと思っていると。


 ――ンギャァアアアアア


 何かの鳴き声が聞こえてきた。


「おっと、こうしてはいられません。魔法の使用方法ですが、さてどうすれば……」


 気配遮断のときは必死に念じたらできた。瞬間移動も同じだった。

 ならば火魔法も同じやり方で念じればいいのではと思う。


 そう思うものの、問題は「どう念じればいいのやら」だったりする。


「そういえばメニューに『情報』がありました」

 『情報』欄は気になっていたが、スキル取得が先だと思って、まだ開いていなかった。


 メニューにある『情報』をタッチしてみる。すると、左の欄に言葉が並び、右の欄にその説明文が記載されていた。

 左の言葉の列には規則性があり、最後に取得したスキルから順番に並んでいた。


「最新の情報が上にくる並び順なのでしょうか」


 正司は無段階スキルの〈品定ひんてい〉をタッチしてみた。



〈品定〉――魔力を消費することで、人や物の名が分かる。品定できるものは一つもしくは一人ずつで、一度に複数の品定はできない。加工物については、どのような状態なのか、品定しなさだめできる。



「やはり〈品定〉は鑑定のような役割のようですね」


 最初正司は、鑑定スキルを探した。

 だがいくら探しても、スキル一覧には載っていなかった。


 いろいろ考えた結果、それにもっとも近そうなものを取得してみたが、どうやら当たりだったらしい。


「使い方は載っていませんね。魔力を消費するとあるし、これも頭の中で念じればいいとかでしょうか」

 そこらにある草を適当に抜いて、〈品定〉と念じてみた。


 ――セタバゲムネン草


 ――オバタカソウリン草


 ――タミエダルオコリ草


「なるほど、名前が分かりました」

 名前が分かったからといって、何が変わるのだろう。何も変わらない。「で?」という気分だ。


「……次の情報を調べましょう」


 情報欄に目を戻すと、いま名前が分かった三つの草が記されていた。

 最後に鑑定したタミエダルオコリ草が一番上に来ている。


 タミエダルオコリ草――平均の草丈20センチメートルの野草。花は咲かない。細長い葉が特徴で、枯れる前に二度、種を身に宿す。食用にならない。


「スキルの〈品定〉よりもメニューの情報の方がいい仕事をするんですけど。いや、名前が分からなければこの情報は更新されないですから〈品定〉も使えるスキル……?」


『情報』で他のスキルを見てみる。


〈瞬間移動〉――魔力を使うことで、マップ内の一度行った場所へ瞬時に移動できる。段階によって、一日に移動できる回数と一度に移動できる距離が決まる。


〈火魔法〉――魔力を使うことで、火属性の魔法を行使できる。段階によって、使える魔法の種類と威力、射程、規模が違う。4段階目以降になると、火魔法の改変が可能となる。5段階目になると火魔法の創造が可能となる。


〈土魔法〉――魔力を使うことで、土属性の魔法を行使できる。段階によって、使える魔法の種類と威力、射程、規模が違う。4段階目以降になると、土魔法の改変が可能となる。5段階目になると土魔法の創造が可能となる。


 魔法の使い方は書かれていないが、それ以外のことは大体分かるように書いてあった。

 そのまま項目をずっと下、つまり初期に登録されたものまで目に通した。


HP――生命力を表し、最大値は100%。生命力増大に関するスキルを取得したり、段階をあげることで成長する。HPがゼロになると死亡する。


MP――魔力を表し、最大値は100%。魔力増大に関するスキルを取得したり、段階をあげることで成長する。MPがゼロになると倦怠感におそわれる。


ミニマップ――自分が行ったことのある場所だけが表示される。それ以外は灰色で塗りつぶされていて、踏破しない限り、それは変わらない。表示できる範囲は5段階に調整できる。クエストやランドマークの表示も可能。すべてメニューの設定項目で切り替えできる。マップにピンを立てることができるが、ピンは現実に一切影響を及ぼさない。


スキル――スキルは魔力を消費して、実際の作業を省略して行うことができる。スキルを取得または段階をあげるには、貢献値を使用する必要がある。スキルには2種類(5段階と無段階)存在し、6つに分類(【肉体】【魔法】【生産】【戦闘補助】【生産補助】【言語】)できる。


 というようなものであった。

 短い説明文のものもあったが、これはあとで追加されるのかもしれない。


「メニューにある『装備』、『保管庫』、『クエスト』は情報に載っていませんね。やはり、実際に使うか何かしないと、情報欄に登録されないのでしょう」


 この『情報』は便利だが、使用するか、見聞きしないと登録されないシステムらしい。

 スキル欄に並んでいるスキルも、正司が取得しないかぎり情報欄に登場しない。


「この情報、詳しいのはいいんですけど、なんとなく痒いところに手が届かない感じですね」

 もどかしい思いを抱く正司であった。


 調べて大体のことは分かったが、攻撃魔法を使用する方法は書かれていない。

 情報には、魔法は使えることが前提のように書かれている。


「これまで通りならば念じればよさそうですけど……火よ、出ろ!」

 だれも見ていないが、口に出すのは恥ずかしい。


「出ないですね。やはり口に出すだけじゃ駄目みたいです。今度はちゃんと念じてみましょう」


 正司は手の平を草原に向けて、声は出さずに頭の中で火が出るよう念じてみた。

 すると、ぶわっとした熱い風が正司の顔をなぶり、炎の塊が一直線に飛んでいった。


「出た?」

 炎の塊は、遠くにある木にぶつかって爆ぜた。


 バーンという音と、遅れて爆風が正司の元まで届く。

「うわっ!」


 腕をかざして熱風を防いでいると、違和感を抱いた。

 少し前まであった気配遮断によって、自分が隠されている感じが消え去っていたのである。


「これは……気配遮断が切れたんでしょうか。とすると、原因は攻撃魔法を使ったから?」


 火は木をメラメラと燃やし、真っ白な煙が空に立ち上っている。

 音か煙が呼び水になったのだろう。


 見たこともない化け物が草原に現れた。

 そして正司の方を向く。


「――気付かれた!?」


 怪物は明らかに正司を見ている。

 やはり気配遮断は効果を発揮していないようだ。


「どうしましょう。逃げた方が……いや、もう一度気配遮断……は無理ですね」


 見つかっている以上、自分がここにいるのはバレている。

 この場で気配を消したところで、どれほど効果があるのか分からない。


「やって来ました。しかも速いっ!?」


 怪物は正司を獲物と定めたようだ。

 逃げようと向きを変えたところで気付いた。


 正司はいま裸足。ついでに言うならば、上下パジャマである。

 もう10年以上、ロクに運動していない。


 そんな腰痛持ちの30歳が、果たして逃げきれるだろうか。


 正司は冷静に判断した。

 こういうときのために魔法を取ったのではないか。


「もう一度さっきの火よ、出ろ!」

 必死で念じると、先ほどと同じくらいの炎の塊が七つ、正司の目の前に出現した。


 熱放射で正司の顔がじりじりと焼ける。

 突然出現した火の玉に、怪物の足が止まる。


 怪物が逃げようと背を向けるが、その時にはもう、炎の塊は怪物目がけて打ち出されていた。


 ――ギャアアアアアアア!


 かろうじて断末魔の声をあげることができただけマシ。

 そう思えるほど、劇的な幕切れであった。


 逃げた怪物は、正司の放った火魔法で塵も残さず消えてしまったのである。


「……危なかったです。すぐに気配遮断を使わないと」


 二度目はそれほど待たせることなく、自分の気配がこの世界に拡散した気分を味わった。

 これで怪物に発見される可能性はかなり低くなったはずである。


「いまのを情報で調べてみましょうか」


 魔物まもの――世界のよどみがり固まってできた生き物の総称。倒すと身体が消えるが、それは澱みが世界に還元されただけで、いずれどこかで生み出される。また魔物が消え去るとき、まれにドロップ品を残すことがある。ドロップ品のグレードによって、魔物は最低のグレード1(G1)から最高のグレード5(G5)まで分けられる。


 怪物ではなくて、魔物と呼ぶらしい。しかも炎に焼かれて消えたと思ったら、そうではなく、魔物は倒されると消えるらしい。


「死体が消えるなんてなんともゲーム的な。ですがメニューがある時点で、驚きはないのですけど」


 独り身の寂しさで、正司もそれなりにゲームで遊んできた。

 その経験が、この世界の仕組みもすぐに慣れるだろうと告げていた。


 魔物が消えた跡を見に行ったが、ドロップ品は見当たらなかった。

「稀にと言っていたし、それほど頻繁にはないのでしょう。そうだ、経験値」


 いま魔物を倒した。これがゲームならば経験値が入っているはずである。

 正司はステータス画面を開いた。



   土宮 正司 30歳 男

   心体傷病弱 偏頭痛、腰痛、内臓疾患

   HP/MP 100/99



 スキル表示を省略すると、上のようになる。

 どこにも経験値が表示された気配はない。


「残り貢献値も変わらないですね。というよりも経験値が表示されてない……レベルも出ていないんですけど」


 MPが100から99に減っていたが、情報からこれはパーセント表示であることが分かっている。練習で魔法を放ったり、魔物を倒したときに全体の1%だけMPを使ったのだと分かる。


 正司は情報欄を眺めたが、経験値やレベルに関する表記はやはり見当たらなかった。


「もしかして、この世界はスキル制?」


 考えてみれば、戦闘しないとレベルが上がらない仕様の場合、そこに暮らす一般の人々はずっと弱いままである。


 とくに生産系や芸術系に従事する人などは、どんなにがんばってもレベルが上がらない。

 それを考えれば、MPもHPもスキル依存であるならば、自分の得意な分野を伸ばし、それに応じて増えていくのならば、理に適っている。


「力や素早さといったものもないですけど……これらは隠しパラメータとかでしょうか」


 どちらかというと、それの上下もスキル取得の一部に含まれているのではないかと思う正司であった。


「分からないことが多いですし、細かいことはゆっくり理解していきましょう。まずは……生き延びることからですね」


 マップはどんなに広域が表示できるようにしても、すべて灰色のまま。

 実際に自分で歩き回らねばならない。


 正司はこの草原からまだ一歩も出ていない。

 この分だと世界は広く、まだその第一歩すら踏み出せていない。


「さて、どこへ行きましょうか。こういうときは、当てずっぽうが一番……よし、こっちです!」

 それは正司の今後の人生を占う一歩であった。



 正司は草原を離れ、森の中に足を踏み入れていく。



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[気になる点] お人好しというのは大人しくて善良を表すらしいのですが、この数話を読んでみるとちょっと首をかしげてしまいますね…。スポーツで手を抜くとか、魔物を問答無用で消し炭にするとか…。独善的な何か…
[気になる点] 剣道について、叩くではなく殴るという表現。 柔道で、投げるではなく畳に叩きつけるという表現と、そこからわかる寝技を考慮してない点。 これはどちらもちゃんとやれば余裕で勝てるし、その上で…
[気になる点] 普通、草原、森とあった場合、草原を行くよね 裸足で森に踏み込み人って珍しい
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