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初夏のラーメン

 緋色、というなまえに、私は負けている。まず、私は赤が似合わない。私の、地味でさっぱりした顔は、ぱきっとした赤には負けてしまう。

 お風呂あがり、足の爪にちいさな刷毛をすべらせる。真紅のペティギュア。顔から遠いところにしか、こんなビビットな色は置けない。

「緋色。こっち来いよ」

「だめ。まだ乾いてない」

 それに、乾いたら二度目を塗るし。てらてら光る爪たちを睨みつけながら答えたら、背後でシーツの擦れる音がした。琥太郎先輩は182センチあるし、シングルサイズのベッドはふたりで寝るにはどうにも窮屈だ。「ダブルベッド買おーよ」なんて、先輩は簡単に言うけど、そんなもの置いたら六畳間のほとんどがベッドに占拠されてしまう。

 それに。もし先輩が今後気まぐれに出て行ってしまったら、ひとりで寝るには大きすぎるベッドを、持て余してしまうじゃない。そういうことも含め、先輩はなにも考えてない。「いま」の「気分」がすべて。

 右も左もわからずにうろうろしていた新入生の私をつかまえて、あっという間に手なずけて、挙句部屋にまで転がり込んできたのも。いっしょにごはんを食べていっしょに眠るのも。きっと彼はぜんぜんなにも深く考えてなくって、だから、彼の目が覚めて私から離れていくときは、きっと突然、やってくる。

「緋色ー。まだ乾かねーの?」

 乾いた。つやつやのエナメルの、真っ赤な爪をひと撫でして。二度塗りは面倒だからもういいや、と、ベッドで寝そべる彼の横へすべりこんだ。


 学部も違うし、学年も違うし。先輩のカリキュラムがどうなっているのか、私にはわからないけど、あんまり真面目な学生じゃないんだろうな、とは思う。そのわりには単位を落としたとかいう話は聞かないから、きっと要領がいいのだ。

 二限スタートの私が朝食の片づけやら身支度やらでばたばたしているそのそばで、先輩はまだ寝息をたてている。明るく染めぬいた短い髪に、切れ長の目、長いまつ毛。男子にしておくにはもったいないような、透明感のある肌。なにも手入れしているような気配はないのにこんなに綺麗だなんて、悔しくなってしまう。

 ミニテーブルに鏡を置き、ポーチを広げ、メイクをする。ささっとファンデ塗って眉描いてリップ塗るだけ。メイクと呼ぶのもおこがましい感じ。小・中・高と、ずっとバレーボールひとすじで、おしゃれにも恋愛にも無縁で来たから。だから、ただしいお化粧の仕方も流行の服の着こなし方も、いまいちわからない。雑誌を見てもお店に行っても友達に指南してもらってもぴんと来ない。

 肩まである髪を丁寧に梳いて、高い位置で、きゅっ、とひとつに結いあげる。小五の頃からずっとポニーテール。いまさら髪型を変えるのも、なんだか自分が自分じゃなくなっちゃう気がするし。

 琥太郎先輩は。こんな私の、どこを気に入ったんだろう。


 出会いは、桜吹雪舞う四月。入学したての私は、キャンパスでのサークル勧誘の嵐に飲まれ、あらゆるビラを受け取り、もみくちゃにされた。いかつくて押しの強い大柄な男のひとに、「探検部で秘境の神秘を探らないか」と力説されていたところで、私の腕を引っ張ったのが琥太郎先輩だった。そのまま、「B級グルメ研究会」という、なんかゆるそうなサークルの立て看と机出しまで連れていかれて、「入部しなくていーからさ。今日、お好み焼き食べに行こうよ。うまいとこあるんだよ」と言われた。私だけじゃなくって、その場にいた一年生みんな、先輩たちに連れられて、学生向けの飲み屋街の角っこにあるお好み焼き屋に連れて行かれた。

 おいしかった。隣県から引っ越してきてひとり暮らしをはじめて、まだ街のようすがぜんぜんわからなかった私に、琥太郎先輩は、たくさんの安くておいしいお店を教えてくれたし、安くておまけもくれる商店街のお店にも連れて行ってくれたし、一緒にお肉やさんの揚げたてコロッケをはふはふと頬張ったりもした。最初はサークルの誰かも交えてわいわい、って感じだったのに、そのうち、私と先輩ふたりだけで出かけるようになって。 

 二週間ぐらい前のこと。焼き鳥屋さんで、先輩はお酒を飲んで私はノンアルのカクテルを飲んだ。その帰りに、はじめて手をつないで、舞い上がった私は先輩をはじめて自分の部屋に上げた。一晩でフルコース終了した。もちろんすべてがはじめてだった。だけど、好きだとかつき合おうとか大事にするよとか、そういうのは一切なくって。ただ、翌日もずっと部屋にこもってふたりでごろごろしてて。夕方近くになってからラーメンを食べに行って。いったん自分のアパートに荷物を取りにいった先輩は、あたり前みたいに、その日も泊まった。で。そのまま先輩は私のアパートに居ついてしまったのだ。

 

 六月はじめの空気は湿っぽくて、暑くて、夜の空気には青い緑のにおいがとけている。空には雲がひろがっていて、月も星もみえない。明日は雨になるかもしれない。

 部室で集まって夏行事の話し合いをして(ちなみにたいした活動はしてない、ほとんど遊びだ)、解散したあと、同じ一年のさえちゃんと折原と、しゃべりながら歩いてる。なんとなく、三人でごはんでも食べに行こうかという流れになった。

「津村、今日、木下先輩どうしたの? 居ないけど」

「合コンだって」

 そっけなく答えたら、折原は、いかにも「やべ。地雷踏んじゃった」って感じに顔をしかめたから、

「べつにいいもん気にしてないし」

 と言ってやった。べつに。つきあってるわけじゃないし。たぶん。寝食ともにしたって、やることぜんぶやってたって、先輩の気持ちなんて私にはわかんないし。

「緋色ちゃん、明日、授業、午前中だけでしょ? いっしょにランチして、お買いものいかない? 夏物見たいんだよね」

 さえちゃんが私の腕をとる。にっこり笑って、さえちゃんの柔らかいほっぺをつんとつつく。

「金欠だからパス。ごめんね、また今度」

 さえちゃんはむくれた。ごめんね。さえちゃんは、服も雑貨も甘くてガーリィなものが好きで私にもすすめてくるし、やたらとこじゃれたカフェで休もうとするし(おなかいっぱいにならないわりに高いんだよね)、さえちゃんのことは好きだけど、ちょっとだけ、合せるのに疲れる。テイストが違いすぎて。

 ブルーデニムにTシャツ、ポニーテール。私はいつもそんな感じだし。ぺたんこビーサンからのぞく、ペティギュアの赤だけが、唯一の、ささやかな、「津村緋色をいろどるもの」。

 それでいい。……のかな。

 三人でだらだら歩きながら、キャンパスを出たところで、携帯が鳴った。

 先輩からのメッセージ。私はさえちゃんと折原に手を合わせた。

「ごめん! ほんっとうに、ごめん」

 折原は苦笑した。

「先輩に会うんでしょ?」

「よかったね。合コンより緋色ちゃんがいいんじゃん、やっぱ」

 さえちゃんが私を小突く。私は、もう一度、「ごめんね」と頭を下げた。


 駅前の広場で先輩を待つ。駅裏通りのラーメン屋に行こうって、先輩が言ったから。

 はじめてうちに泊まった次の日、ふらりと出かけたお店だ。あのときの、からだもこころもふわふわ浮いてるような、くすぐったいような感覚を。つないだ手のあたたかさを、長くて細い先輩の指の、意外とごつごつした感触を。噴水そばのベンチに座って、街灯に照らされた水のゆらめきを見ながら、ぼんやりと思い出していた。

 いかにもあか抜けない、ちょっとやさしくしたら簡単に落ちる、ちょろい女の子、って。思ってたり……しないよね。私のこと。

 ちくりと、胸がうずく。実際、簡単な子だよね、私。私だって、自分がこんなだって思わなかったよ。こんなにあっけなく、すべてを許してしまうなんて、思わなかったよ。

「緋色ーっ」

「せんぱい」

 立ち上がる。つい今しがたまで思い描いていたひとが、私に向かって駆けてくる。先輩はすぐに私の手をとった。

「ハラへったろ? おれもへってる。はやく行こう」

「自分は食べてきたんでしょ?」

「たいして食ってねーよ。ビールばっか飲んでた」

 くしゃっと、笑う。先輩は背が高いのに私はチビだから、見上げていると首がすぐに痛くなってしまう。

「可愛い子、いた?」

「いねーよ」

 先輩は、つないだ手に力をこめた。

「つまんねーから抜けてきた。数合わせに、どーしても来てくれって頼まれて。世話になってるやつだし、おごるって言われたしさ」

 たくさんお酒を飲んだんだろう。妙に先輩は機嫌がいい。

「拗ねるなよ」

「拗ねてないし」

 私のほっぺをつまんで、何が可笑しいのかわかんないけど、先輩はけらけら笑った。

 よっぱらい。

 商店街のひとつ裏の、飲み屋の並んだ通りをあるく。仕事帰りのサラリーマンっぽいひとたちがちらほら歩いてるけど、平日だからか、そんなに人は多くない。

 ビルとビルの隙間にある、古ぼけた、ちっぽけな建物の、赤いのれんをくぐる。ふたつしかないテーブル席にはもう先客がいたから、私たちは、カウンター席に並んで座った。

 先輩は、「カウンター、醤油ラーメンふたつー」と厨房に向かって叫んで、「あいよ」という答えが返ってきてから、セルフサービスのお水を注ぎにいった。私はなんだかぼうっとしてて、拭っても拭っても油染みのとれなさそうな壁、いちめんに貼られた、たくさんの名刺たちを見ていた。ここでラーメンを食べたお客さんたちが、記念に貼っていくらしい。地元テレビ局のアナとか、ローカルタレントのサイン色紙もある。

「はいよ」

 先輩がグラスをふたつ、ことりと置いた。

「ありがとう。ごめんなさい、先輩にお水注がせちゃって」

「何言ってんだよこれぐらいで。他人行儀だな?」

 頬杖をついて目を細める先輩。他人行儀、って。たしかに私たちは他人じゃないのかもしれないけど、だったらいったい、何なんだろう。そう思ったけど、

「体育会系の癖だよ。どうしても、上下関係が気になっちゃう」

 と、茶化して舌を出した。

「じゃ、はやいとこ直せよ、その癖。おれたちの間には、上とか下とか、ねーんだからな?」

 こくりと、うなずいた。店内はがんがん冷房がきいていて、寒いぐらいだ。両腕をさすっていると、ラーメンがふたつ、カウンター越しに置かれた。

 湯気のたつラーメン、香ばしい醤油と、ふくよかな出汁のにおい。

「澄んでるね」

「澄んでるな」

 れんげでスープをすくって、味わう。濃厚な魚介のうま味が、口いっぱいにひろがって、鼻から抜けていく。

「しあわせ」

「しあわせだな」

 その会話をさいごに、私たちはふたりして、ラーメンを食すことに集中した。ひたすらに麺をすすり(コシのある太麺だ)、スープを飲み、とろけるチャーシューをぞんぶんに味わった。

「ごちそうさま」

「ごちそうさま」

 同時にどんぶりを置いて、ふーっ、と、満足のため息を吐く。

「やっぱり魚介出汁はいいよね。日本人の味覚になじむっていうか」

「具もシンプルなのがいいよな」

「麺も。もっちりしてて、しっかりと小麦の味がして」

 言い合っていると、カウンター奥にいた大将が、ははっ、とわらった。

「……?」

「いやね、お客さんたち、食べるしぐさがぴったりシンクロしててな。つい、ちらちら見ちまって。ごめんな?」

 大将は上機嫌だ。私と先輩は、顔を見合わせた。

 お店を出て、ラーメンの余韻にひたりながら、ぶらぶらと歩く。

「おなかすいてたから、特別美味しかった。今日の」

「おれも、飲んだあとだから格別うまかった」

 先輩が私の手を握る。

「やっぱ緋色はいいなあ」

「何よ急に」

 不意打ちみたいにそんなことを言うものだから。どきんとしてしまう。

「一緒にいて、しっくりくる」 

「…………」

 胸がいっぱいになってしまって、思わず、立ち止った。先輩が、私のほうを見て首をわずかにかしげた。

 そういえば。私も言ってないんだった。

 好きだとかつき合おうとか大事にするよとか、一回も言われてないけれど。思い返せば、私だって、そんなこと、口に出したことはなかった。

 私から。伝えてみればいいんだ。

「あのね。好き」

 流されるままに一緒に居るわけじゃない。四月、わたしの腕をつかんだ先輩と、目が合ったその瞬間から。抗えない引力で。引き寄せられてた。好きになってた。だから。

「俺も緋色、好き」

 ほんとうに。拍子抜けするぐらいにあっさりと、先輩は言った。拍子抜けしたあとに、すぐに顔が熱くなって。つないだ手に力をこめる。

「はじめて聞いた。先輩の気持ち」

「わかるっしょ? ふつう。好きでもないやつと、こんなに一緒に居るの、無理じゃね?」

 わからないんです! と、怒鳴ってやりたい気持ちになった。なったけど、脛を蹴るだけで勘弁してあげた。

「いてっ!」

 そっぽをむいて、むくれる。ばかみたい。

「なんで怒ってんの? 緋色ー」

「怒ってないし」

「いや怒ってるだろあきらかに」

 そっぽをむいたまま、私は、つぶやくように言った。

「もう、合コンとか、行かないで……、ほしい」

 こんなことお願いしても。いいの、かな。いいよね?

「緋色がいやなら、もう行かない」

「ほんと?」

「行かない」

 やった、と、つないだ手をぶんぶんと振った。だから痛いってー、と、先輩はわらった。


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