早朝(2) オムニバス
裸の女が泣いていた。
昨日の夜、その女は幸せに包まれていた。
見知らぬ店で目を覚ました先に理想の男と目があった。
理想の男から「タイプの女だ」と告白され、手を引かれるままにホテルへと足を運んだ。
そこで、楽しい食事と楽しい夜を過ごした。
女は降って湧いた幸福に酔いしれた。
その日の夜は心の底から安心してよく眠れた。
翌朝、女は目を覚ました。身体全体に寒さを感じたからだ。
昨晩のこともあり、身体は未だ疲労感が抜けておらず、動きが重かった。
それでも彼女の目は理想の男を探していた。そこで、にわかに信じられないものを見た。
部屋にあった一切の物が消えてなくなっていた。
昨日、女が部屋に入ったとき、まず目にしたガラスのテーブル。その上に盛り付けられていた色とりどりのフルーツ、特殊な容器に入っていた色んなケーキを思い出した。
壁にはよく分からないながらも様々な絵が掛けられていた。
シャンデリアは女の幸せを演出するかのように豪華で華美だった。
トイレの紙はトリプルで、シャワー室のアメニティの品質は申し分なかった。
ベッドは大きくてふかふかだったのに……。
今、女は冷たい床の上で寝転がっている。
何もない殺風景な部屋で。
ガチャ、とドアの開く音が聞こえた。
男かと思い、振り返ったものの、理想の彼氏ではなかった。
サングラスに黒服姿の感情の読めない男が二人やってきて、片腕ずつつかむと女をどこかへと連れていこうとする。抵抗しようにも相変わらず身体が重く、頭の働きがはっきりしない。
それでも出来るだけの抵抗をしていると、またもドアの開く音が聞こえた。
次に現れたのは値踏みするような眼差しと思わず目を背けたくなるような吹き出物の、女よりも背の低そうな男だった。
女の姿を見て、まず男は「キヒヒ」と笑い始めた。
「な……に……笑って……んのよ」
女がなんとか今の気持ちを言葉を紡ぎだすものの、男に焦った様子はない。むしろ、無造作に瞳を大きく開けられて、何かを確認するような動作だった。そしてそれは男の満足する結果だった。
「クスリはよく効いている。だから、少しホントのこと、教えてやる」
「しんじつ?」
「お前は売られた。昨日の男に」
「………………え?」
「昨日、お前がご機嫌だったあの男は俺らの世界では有名な売人。お前のように男に免疫がないヤツに理想の彼氏像を演じて、その日の晩だけ、甘い夢を見させる。そして、翌日、今のお前のように何も分かっていない状態のまま、顧客のもとへと俺たちが連れていく。俺たちは金をもらい、お前は……ヒャアハハハ!」
その男は説明を終えると、可笑しくてたまらないとばかりに腹を抱えていた。
女は自分の身がようやくヤバイ状況に陥っていることに気付いた。
だが、気付いてもどうにもならなかった。身体の自由はまだ利かなかった。
女は護送車のようなすこぶる頑丈な車の中に押し込まれ、外側から鍵を掛けられた。
運ばれている間、女は悲しいという気持ちに突き上げられ、涙をこぼした。
それは押し止められるものではなく、次から次へと溢れてくる。
いつしか泣いていた。
泣いて泣いて、哭いていた。
■□■□
ゼニー警部が目覚めるとそこは豪邸の一室だった。
昨晩までのゼニー警部は、部下の美咲くんとともにエメラルド・シティの病院の狭い病室で一夜を過ごしていたはずだった。ギシギシとうるさいベッドに寝ていたため色んな勘違いを招きそうだな、と思っていたものだ。
(もしや、人身売買かっ!)
ゼニー警部の過去の経験から可能性の高い犯罪が浮かび上がる。だが、ゼニー警部は考えを改める。
部下の美咲くんならともかく、儂なんぞ売り飛ばす価値があるだろうか? と。
そこでゼニー警部ははたと思い付く。隣にいた美咲くんの姿がないことに。
(犯罪組織の目的は美咲くんかっ!)
そう思い込んだゼニー警部の行動は早かった。
ガバリと起き上がるや、着の身着のままの姿で周囲に視線をまわす。
何か武器になり得るものがないかを探した結果、ハンガーを片手に握りしめた。そして、ドアノブを慎重に回そうとして、逆に勢いよく開かれたドアに顔をぶつけ、仰け反った。
「ゼニー警部、朝ですよ。いい加減、起きましょう! って、なにそんなところで倒れているんですか」
「み、みみみみみずくん!」
「私の名前は美咲ですっ!」
心を痛めた部下の元気な姿を見て安堵したゼニー警部は、またもガバリと立ち上がると美咲くんに急接近した。だが、感動のあまり、部下の名前を間違えて、ピシャリと叩かれたあと、元気な声で叱られた。
「あらあら、朝から元気がよろしくて」
ゼニー警部が美咲くんに叱られて10分経過した頃だろうか、如何にも「セレブ!」と言わんばかりの服装と落ち着いた雰囲気を持つ、妙齢の女が扇子を仰ぎながら現れた。
「美咲くん、このご婦人は一体?」
「マモンと申します。よしなに」
セレブはそう名乗るとにこりと微笑んだ。
ゼニー警部はその眼差しに本能がゾワリとしたものを感じたが、おくびにも出さず、笑顔で対応し、握手を交わした。
「ゼニー警部、いつまでもハンガーなんて持っていないで、食堂に行きましょう。もう、すごいんですよ、あの食堂。ほらほら、早く早く!」
そんな見せかけの友好ムードを肯定的に受け取った美咲くんは、一足先に調査した成果を示したくて、ゼニー警部の手を力強く引っ張るのだった。
■□■□
小林誠は、日本に住むごく普通の学生である。
彼は今、飼い犬のシーザーとともに日課の散歩を終え、家に上がり、居間に用意してあった麦茶を飲んでひと息ついていた。
とテレビに視線を移すと番組が南国の暮らしぶりを放送しており、簡素な布地を身に付けただけの子供達が海で楽しそうにはしゃいでいた。
(海かぁ。いいなぁ)
誠は心の底からテレビ番組を羨んでいた。
誠の住む日本の今の季節は、8月。夏の真っ盛りである。
いつもの誠なら迷うことなくプール施設に足を運ぶのだが、残念なことに近くのプール施設で女性の水着を狙った卑劣な傷害事件が起き、再発防止と安全な施設へのリニューアルのため、閉鎖されていた。かといって海は誠の住む場所からは相当離れており、連れていってとねだってみるものの、誠の父親曰く、「こんな炎天下の日に海とか熱中症で倒れるわ、バカもん!」とにべもなかった。
「誠、いつまでもテレビを見てないで宿題をしなさい」
エアコンの効いた部屋での夢の時間は、母親の一言で冷めてしまった。
憮然としながらもテレビのスイッチを切り、誠は自分の部屋へと上がろうとして、玄関のインターホンが音を立てた。
母親は昼食の準備中で手が離せず、父親はゴルフの準備に余念がないため、消去法で誠がカメラで外の人物との対応をすることになった。
「ソ、ソ、ソーネチカちゃんっ!」
誠が思わず驚きの声をあげた人物は、ソーネチカ北原という名前のハーフの女性である。
誠の同級生で、家に何度か勉強をしに訪れている。また、大変な猫好きである。
「誠くん、今日は私の友達のソーニャちゃんも一緒なんだけど、良いかな?」
「初めまして、誠くん。ソーニャ・シコルスカです。ソーニャと呼んでね」
インターホンのカメラ越しとはいえ、そのかわいさは誠の頭に電気が走ったかのような衝撃を与えた。
(いや、いやいやいや、僕はソーネチカちゃん一筋ですからっ)
ソーネチカとの初恋の成就が未だにもかかわらず、ソーニャへの浮気の甘い誘惑が心の隙間に入り込む寸でのところで誠は理性を取り戻し、ソーニャちゃんはあくまでもソーネチカちゃんの友人と心に言い聞かせて、誠は玄関の扉を開けに行った。それでも、その足取りは非常に軽やかであった。
<赤井作品の用語&人名紹介>
◎小林誠&ソーネチカ北原
主な登場作品:『兄貴はつらいぜ』『短編集だよ!(仮タイトル)』より。
赤井さんの作品の方では、メインが誠の飼い猫のアレクによる人間観察です。
赤井さんのセンスによる、猫の気持ちでの飼い主に対する思いが綴られております。珍しく、グロ皆無の心温まる短編ですので、是非、一読されてみては如何でしょうか。
◎ソーニャ・シコルスカ
主な登場作品:『底辺の誇り』より。
赤井さんのごくごく初期の作品からの登場です。
作品紹介にクライム・コメディーとありますように、犯罪を扱っていますが、はっきりとした特徴を持つ五人組がそれぞれの筋を通すことによる化学反応が秀逸な笑いを誘います。
作品は登場人物のソーニャ・シコルスカの誘拐から始まるのですが、思いもよらない出来事から…………おっと、ここから先は是非、ご一読されてくださいませ。




