レンタルハニー2
マジェンカの三階フロアは、丸々所長室である。
階段を上れば直ぐたどり着く上、一課の部屋はその階段の目の前。呼び鈴が引かれ、一日に何度もけたたましい呼び出し音を鳴らす。
じりりりりりりりぃぃぃぃぃぃいんっ―――
それがなった瞬間、一課の全員が「来た!」と開眼した。
この音は、実は他部署にまで聞こえているらしく、事務所の全員が思いを同じくしていたりする。
とんだ一体感だ。
これに怯えないのは、慣れて感覚麻痺しているタンドリー一人だ。
「待たせすぎましたね。九時には出勤すると伝えてありましたから」
現在九時十分。
前の仕事の報告書を提出しに来ただけなのに、追加依頼を押し付けられそうになり、課長とすったもんだした十分。
―――もう少し待てないのか!
ラビはあの変人所長に頭が痛くなる思いだった。
それを増幅するように、未だ呼び鈴は鳴り続ける。
あまりの煩さに苦情が出始め、ラビは課長に叩きだされた。
常々思うが、本当あの課長は所長以外に遠慮がない。所長相手だとまるきり下僕だが、他相手だと鬼の所業もやって見せる。とんだにわか被害者だ。裏切り者!
重い足取りで階段を上れば、また呼び鈴が鳴って課長がじっとこっちを見ていた。メガネが反射して、目が見えない。口元にうすら笑いを浮かべているのが不気味で仕方ない。どこの推理小説の容疑者か。
こんこん―――ノックして、「C-0027、ラビです」と告げる。すると、待たず「どーぞー」と抜けた声が返ってきた。
「失礼します」
「いらっしゃーい」
妙にテンションが高い男が出迎えてくれた。歓迎を示すように両腕を広げている。
ダークブラウンのわかめ頭に胡散臭い笑みを浮かべている。視力は悪くないはずなのに、モノクルを掛けている辺りが余計胡散臭い。一点物のブランドスーツが泣きそうだ。
「久しぶりだねぇ。一か月ぶりかな? いやいや、ラブルトンはどうだった?」
ラブルトンというのは、今回ラビが出張していた先だ。
この国の南にあって、常夏の亜熱帯地域だ。一月真冬の今、避寒にはもってこいの場所で、商家のお嬢様の傍仕えとしてラビは派遣された。―――実態は、じゃじゃ馬お嬢様の手綱を握って、屋敷から逃げ出さないように言い聞かせたり、街中で荒事に巻き込まれないように庇ったり、暇だ暇だと喚くから話し相手になったり、その周囲で落ち込んでいる使用人たちを励ましたり、と。とんだ惨事だった。派遣先でも被害者の会を見ているようだった。
「…………温かで気持ちよかったですよ。休暇を使ってもう一度行きたいくらいです」
にこやかに答える。
耳障りのいい褒め言葉だが、同時に「その休暇を奪うつもりか、ァア?」という嫌味がたっぷり詰まっている。
「そうか。それはよかった。私も彼女と行きたいなぁ」
―――効果はないけど。
「それなら、頑張って仕事してください。所長が全力を出せばいくらだって休暇はとれますから」
―――お求めの人物が誘いに乗ってくれるかはわからないけど。
「ふふふ。だから、ちょっと頑張っちゃったんだよ。たっぷり依頼もぎ取って来たから、これからみんなに分配するところ。ラビにもとびっきりのがあるからね」
――――話が回って来て、ラビは落ち込むしかなかった。
やっぱりいつものことながら、この男には勝てない。そもそも頭の出来からして、違い過ぎるのだ。稀代の天才鬼才と呼び声高いマルディヘル=マジェンカに立ち向かうには、ラビのスペックはいいところで上の下―――まったく足りていなかった。
せめて足掻いてみせようと、直接文句言う。
「わたし、今日から休暇なんですけど」
「また今度ね」
「それ、一か月前も聞きました」
「働き者の部下を持って何よりだよ~」
「話がかみ合っていません」
つまり、一生懸命働けと?
事務所に住み着いているのに、週三日しか働かない人間に言われたくはない。
「―――テェリシア課長にチクリますよ」
「それは困るね。これがばれたら、本気で嫌われるよ」
何を今更。もうとっくに嫌われている、というか呆れられている。
二課の課長、テェリシア。お色気お姉さま然としながら、生真面目で淡々と所長を諌めにかかる彼女が、所長の思い人というのは知る人ぞ知る公然の秘密だ。―――つまり、マジェンカの古株たちはみんな知っている。趣味の悪いことにテェリシアがいつ落ちるかで賭けをしているが、今の所決着がつくめどはない。
それは、ラビからすればとんだ茶番だった。
賭けをするだけ無駄。馬鹿馬鹿しくて、目にするのも鬱陶しい。
なにしろ、所長が本気になれば今日にだって決着はつく。しかし、この男は今のぬるま湯を心地よいと感じている以上、いつまでも決着はつかない。古株たちはそれを理解しながら、なおかつその茶番を茶化しているのだから。
―――まぁ、テェリシアの今後を思えば、その方がいいのだろうが。
「それで? いったいどんな依頼ですか? わたしの休暇を後回しにさせる程の依頼なんでしょうね?」
古代遺跡発掘隊の助手(大陸規模の大プロジェクト)、連続通り魔の捕縛(生死不問)、武闘家夫婦喧嘩の仲裁(治安維持部隊全滅)、ブチギレて家出した自国王妃の捜索(国家機密)―――過去経験した珍依頼に並びうるものなら、まだ許してやろう。
どうしてラビに回したんだと思うくらい、すごい事件のオンパレードだ。
人生愉快痛快になるくらいの吃驚珍事だった。
おかげで、家出してから人生経験値が跳ね上がった。今、レベルどれくらいだろうか? 所長を倒せるまではまだまだ遠そうだけど。
今更、驚く程の依頼があるわけない。
そう高をくくっていたラビは、まだまだ浅はかな未熟者だったのだろう。
※※※※
ラビの高らかな問いに、マルディヘルは口の端を上げた。
―――そうくると思った。
一課の人間は総じてお人好しだ。他人を無下に扱えない。
だから、すごく、面白い。
―――楽しましておくれ。
むくむくと湧いてくる好奇心が抑えきれない。抑えるつもりなんて鼻からないけれど。
「ラビ、君には今日から三か月『婚約者』として派遣するから」