プロローグ
私室と化した仕事部屋で、マルディヘルはふぅんと鼻を鳴らせた。
マルディヘルはとある会社を経営している。
現在三十四歳。一代で立ち上げたにしては、それなりに成長したと自負している。これならもはや未熟者と叱られることもないだろう。
しかし、代わりにこんな面倒事を押し付けられるとは思っても見なかった。
むしろ、面倒事を押し付けるのは自分の十八番だ。わたわたしながらも必死にこなしていく人達を見るのは、なかなかに面白い。
―――なのに、どうして自分に回って来るのか。
マルディヘルは問題の権化のような一枚の紙を細目で見た。
依頼申請書。タイピングされた文字はそうとある。その下に、流麗な文字で幾つもの事項が書き連ねられている。今日顔を合わせた書き手からは想像できない文字だ。
―――レイヴァン=ナイト=オリエス
公候伯子男の五爵の下に来る準貴族、騎士。
一代限りに与えられる、国が本に個人を認めた証。
それも、紙に書かれている彼の地位の高さを思えば、そのことがやがてどこに繋がるかなんて予想するまでもない。
「―――所長」
脇で控えていた男が不安げに声を掛けた。
バルド―――久しく口にしなかった男の名を呼ぶ。
「まったく何の因果だろうね。まったくあくどい男だよ。そりゃあ、身内にも嫌われるってものさ。あーいやだいやだ、粘着質な男って。だから、未だ一人身なんだよ」
ねぇ、と同意を求められて、バルドは怒鳴りつけたくなった。
お前が言うな。
しかし、生まれた時から主従関係が染みついてしまったバルドにそんなことは言えない。思っていても言えないのだから、習性とは恐ろしいものだ。
バルドはいつものように誤魔化すために、仕事に集中することにした。
「やはり、その依頼お受けするのですか?」
その問いに、マルディヘルは愚問だよ、と言わんばかりの目で返す。
彼は、マルディヘル=マジェンカ。
マジェンカ人材派遣事務所、二百の人員を従える主。
世間では敏腕経営者の評価を頂く営業の鬼だ。
マジェンカのうたい文句は、「ありとあらゆる要望に応じた人材を派遣します」。
事前調査で依頼人には、何一つ問題なかった。むしろ、清廉潔白ほこり一つでない綺麗な体だ。犯罪に関与している気配もなければ、借金に苦しんでもいない。人間関係も、一つの問題を除けば至って良好。そして、その一つの問題を解決するために、依頼がきたのだ。
ならば、マジェンカが「人材を派遣できません」と言えるはずがない。
マルディヘルは、時に身内にだって残酷な面を見せる。
情はあるはずなのに、それを簡単に切って捨てて、最高を求める。
貪欲な好奇心。
それだけのために。
不愉快な他人の陰謀にだって、あえて乗っかっていって見せる。
にやり。口元を弛めたマルディヘルに、バルドは今度の生贄を哀れんだ。
「さぁ、あの子には頑張ってもらわないとね」
この絶えない空腹を満たす今一時の糧として―――