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あの声が……また聞こえたんだ

 門に備え付けられている廃材で作られた小さな扉を開け、庭に入る。砂利を踏む音が、やけに優の耳にさわった。

(なんだ?この感じ)

 外見上は変わりない、けれど何かがいつもと違う。優の体全体がそれを実感していた。肌に触れる空気の異様な冷たさ。胸に襲いかかる奇妙な重圧感。吸っても吸っても残り続ける息苦しさ。

(気のせい……か?)

 しかし、外見上は何も変わらない。優の視界には、相変わらず植物の緑と砂利の灰色で飾り付けられた庭と太陽光を収集する青いドームしか見当たらない。何かの間違いだろうと思い、優は歩き続ける。家を囲む木によってぼんやりと暗くなった庭を進む。やけに溢れてくる汗をぬぐいつつ、家の扉の前にたどりついた。ドアノブを回そうとして……優の腕はそこで固まった。

「なっ!? 腕が、動かねぇ」

 ドアノブに手をかけたまま、彼の手首は固定されてしまった。ドアが壊れて開けないわけでもない。本当に優の体が石になっている。手を、放したいのに放したくない。相反する二つの感情が、優の意思を無視して肩から先の筋肉を硬直させていた。

(な――なんなんだよ、これ)

 足が小刻みに震える。呼吸が荒い。心臓の鼓動が高鳴っていくのが手に取るようにわかってしまう。掴んでいる金属から伝わってくる何かを体が勝手に恐れていた。その先を見てはいけないと、その扉を開いてはいけないと、全身が優に訴えかけてくる。

 けど、ドアノブから手を放せない。体の内にある何かが、それを妨げる。握る手にこもる力が段々と強くなっていく。皮膚から伝わってくる、体が恐れているそれと共鳴するかのように。その先を見ろと、目の前の扉を開け放てと、無意識の奥底に潜む何かが優に命令していた。

(っ――手が、勝手に動いて)

 ドアノブがゆっくりと回りはじめる。心の中から命令する何かが、体の抵抗を抑えつけ、少しずつ体の所有権を持ち始めていく。膝の震えが一段と増した。抵抗がさらに大きくなる。呼応するかのように、ドアノブを握りしめる力が一段増した。確実に、扉を開けたいという衝動が、支配権を広げてゆく。――ついに、ドアノブが回り切る。勢いよく、扉が開かれた。

 瞬間、紅い世界が優を招き入れた。

 優の背筋が凍りつく。声も出せずに、口をあけたまま固まった。目の前の現実に脳の処理が追いつかない。

 優の目の前に広がるはずだった世界は、真っ白な壁に挟まれた空間、白いタイルの上に置かれた外靴たち、LEDの光を反射する黄色一色の硬質な廊下、環境対策のために無駄な装飾をはぶかれた、どこにでもある家の玄関。けれど、優の目に飛び込んできたのは紅い光。闇に包まれた玄関を、人を惑わす妖しい紅い光で照らす何か。真っ黒で汚らしい外見の内に不気味に揺らめく炎を内包したそれは、液体と固体の境目を彷徨うように姿かたちを変えつつ、時には地面を這い、時には宙をゆらゆらと漂い、目前の空間を埋め尽くしている。

 そんな別世界を前にして、優は迷うことなく家に足を踏み入れた。恐怖がないわけではない。手足は大きく震えている。溢れ出る汗は留まることをしらない。心臓の鼓動が嫌なほど鮮明に聞こえてくる。一歩を踏み出すだけで、口を大きく広げて呼吸をしなければならない。むしろ優は、今すぐにでも踵を返して一刻も早くこの世界から逃げ出したいのだ――けれど

「くそっ!! 今度は足が!?」

 足が優の命令を聞かない。躊躇することなく、ゆっくりと紅で満たされた玄関を勝手に進む。まるで、膝から先だけ全くの別人であるかのように。

 優は、両手で勝手に動き続ける足を抑える――止まらない。自分の足とは思えないとてつもない力で邪魔な腕を振りほどき、強引に歩を進める。

(なんで、なんで止まらねぇんだよ!?)

 頭が回らない。理解を超えた事態に、優の理性はどんどん消え去ってゆく。興奮し、優は自分の足を殴り始めるが――びくともしない。紅い光が一際溢れるリビングへ淡々と進む。その先にあるものを求めるかのように、優の内にいる何かは優の足を無造作に動かす。

「母さん!? 直兄なおにい!? おいっ、だれかいねぇのか!?」

 大きな声で叫ぶ。家の中を、優の声だけが反響した。ひたすら叫び続けるが、返事はない。そんなことをしている間に、黒い未知の何かが次々と飛び出し、這い出てくる部屋がすぐそこまで迫ってくる。――ついに、部屋の前に辿りついてしまった。

 右側から、奇異な紅い光が溢れてくる。優は必死に目をつぶった。最後の抵抗。絶対に部屋の中は見ないよう、持てる力の全てを眉間に込める――こじ開けられた。優の内に潜む何かはそれすらも許さない。ぎこちない動作で、優の視線がリビングへと向けられる。彼の視界に映ったのは……紅い炎を内包する闇に覆われ、地面に倒れている母親の姿だった。

「母さん!!」

 刹那、体の呪縛が解かれる。恐怖など忘れ、優は一目散に横たわる母の元へ駆け出し、リビングへと足を踏み入れた。途端、声が頭の中に響いた。雑音だらけの不鮮明な声が、部屋中から、傍らに立つ何者かから聞こえてくる。

「な……直、兄」

 振り返った優の視線の先にいたのは彼の兄。紅い炎に包まれ、時守直人が宙に浮かんでいる。か細い腕を震わせ、直人の手から次々とあの黒い何かが生まれていく。

「がぁあああああ!!」

 もはや言語ですらない絶叫が、部屋中に響く。地面が揺れる錯覚を優は覚えた。それほどまでの音量、その華奢な体の一体どこから出しているのか。聞いているだけで気が狂いそうな――困惑、恐怖、怒り、悲哀、憎悪、負の感情の渦に引きづり込まれるような感覚に襲われる――叫びが続く。

「――っ」

 思わず、優は耳を塞ぐ――今度は別の声が聞こえた。耳を塞いだことで、自分の声が鮮明に聞こえるように、体の内から響く若干鮮明になったその声に優はようやく気付いたのだ。兄の咆哮とは全く異質の音。明瞭な音ではない、むしろ部屋に入ったときに感じた雑音混じりの音と同じ。けれど、それは理性を伴った言葉であった。

「うそ……だろ……」

 驚く、優。彼はその声を知っていた。幾度となく聞き続けてきた言葉。学校にいる時も、兄と外にいる時も、どこでも、ADHDと自閉症を持つ二人が常に言われ続けてきた言葉。必死に心の奥底に封印してきたはずの言葉が、兄から吐き出される紅から聞こえてくる。

――きめぇんだよ

 それは、差別、偏見。発達障害をもつものに理不尽に向けられてきた言葉のナイフ。冷たい視線と共に向けられてきた言葉。

――頭の変な奴を外に連れまわしてんじゃねぇよ

――病院にでもぶち込んどけってな。ガハハッ!!

――うちの子に近寄らないで、変態!!

 実際に、兄が言われ続けた声が、部屋中を満たす紅い炎から優の脳に響いてくる。震える両手で優は耳を塞ぐ。その声だけは聞きたくない、それを聞き続けたら俺の心は粉々に砕かれてしまう、だから優は必死に耳を塞いだ、聞かないようにした。なのに、聞こえてくる。紅い炎から聞こえてくる兄へ向けられた罵詈雑言は耳を介さず、直接優の脳に浸食してきた。

「ぁぁああああああ!!」

 兄の叫びが、また一段と大きく、高くなる。もはや絶叫ではない、その声は悲鳴だ。理由も分からず、ただ彼にとっては自然な行動をしただけでいつも言われ続けてきた罵声。それを恐れ、憎んでいるかのように、兄は世界を揺るがす咆哮を上げる。

――店の近くに寄らないでくれ、客が逃げちまう

――障害者が住んでるんですって、この地区には住みたくないわよねぇ

「うぅぅ……何で、また聞かなくちゃいけねぇんだよ」

 膝をつき、脳内に響き続ける声に悶える優。頭を幾度も地面に打ち付ける。これは夢だ、現実じゃない、夢から覚めるために、紅い炎から聞こえてくる言葉から逃れるために、優は自分の頭を傷つける――現実は変わらない。優の額から生々しい血が溢れても、目の前に展開される事実は変わってくれなかった。

「くそっ、くそっ!?」

 優の理性はもはや消し飛んでいた。炎から聞こえてくる言葉に対する恐怖のみが心の内を渦巻き続ける。早くここから逃げだしたい、その思いだけが優を支配する――耳を引きちぎろうと、手を掛けた。

――……

「え?」

 優の動きがピタッと止まった。耳にかけた手から声が聞こえた。ゆっくりと、恐る恐る、優は手を目前にもっていく。


 “紅”


 優の手から、紅くゆらめく炎を内包した闇が次々と溢れてくる。兄と同じように、あの声を発しながら。

――近寄んじゃねぇよ!! 気持ちわりぃんだよテメェ!!

――優ってさ、なんていうか、動きの全てがキモイと思わない? キャハハッ!!

――あいつも来てるぜ……まじ萎えるんだけど

 優に浴びせられ続けてきた悪意が、彼の手から聞こえてくる。茫然と、優はそれをただ茫然と聞いていた。優の精神は既に限界を超えていた。心に入りこんでくる毒を吐きだそうとする気力すらでない。ひたすら、蝕まれていくだけ。

――触らないで!! 変なのが移るから

――んなこともできないのか。お前使えないな

――お前みたいなのがいるとクラスのみんなが話を聞かなくなるだろうが。授業の邪魔なんだよ!!

 ふと、優は兄に視線を向ける。血の涙を流す兄の瞳に映る自分の姿を見た。兄と同じように、手から紅い炎を生み出し、瞳から血涙を垂らす自分の様を。周りにある全てを憎むかのように叫んでいる兄と同じ姿をした自分を。

「俺も……憎んでるのか?」

 感情のこもってない声で優は呟く。その声は誰に届くわけでもなく、消え去るはずだった。

――ニクイダロウ?

 なのに、返事が返ってくる。兄の叫びとも、闇に包まれた紅い炎から聞こえてくる声とも違う、クリアな声が優の心に直接響く。悪魔の誘いのように魅力的な言葉が、優を誘う。

――ズットクルシメラレツヅケテ、ズットハクガイサレテ、ツラカッタダロウ?

 悪魔の誘いが、容易に優の心を捕えた。彼の空っぽになった心を、憎しみに染めていく。

――ダッタラ、コワソウ?

 優の眼前に浮かぶ紅い渦。触れてしまえばどこまでも引きづり込まれそうで、自分というものが消えてしまいそうで、けれど、この生きづらい世界ではどうしても手を出してしまいそうな魅力的なブラックホール。

 無機質な瞳を渦へと向ける優。意思を持たない操り人形のように、彼は声の主へと手を伸ばした。



 伸ばした手が、渦に触れる前に止まった。

「まっ……て」

 ズボンを掴まれた感覚に優は後を振り返る。紅い炎に包まれた優の母が、地面に這いつくばりながらも、優を止めていた。荒い息、上半身をあげることすらままならない、明らかに衰弱しきった様子で、しかし彼女は力強く息子の服をつかむ。

(なんで、あんたは俺を止めれるんだ)

 限界を超えたはずの精神が疑問を発した。それほど、母の行動は優にとって理解しがたいものだった。

(あんたは俺なんかよりも、俺や兄貴よりもこの声を聞き続けてきたじゃないか。なのになんで、憎まない)

――親の育て方が悪いからこんなことになったんだろう?

――お前の家の遺伝子のせいで家の孫が障害を持ってしまったんじゃ

 優や直人が障害をもって生まれてきたせいで、彼女はいわれのない悪評を受けてきたのだ。ADHDや自閉症が先天性の、生まれ持った障害であることが知られていないせいで、彼女の育て方が悪いからと言われたこともたくさんあった。何の証拠もないのに、彼女からの遺伝で優たちが障害をもったと怒鳴られたこともあった。

――その行動は虐待じゃないんですか?

――あなた、それで良心はいたまないんですか!?

 優や直人の持つ発達障害特有の問題を少しでも軽減するためにした訓練を、虐待ではないかと児童相談所に疑われたこともあった。人の心を持ってそんなことをしてるのかと叫ばれたこともあった。それだけじゃない。障害者に対する偏見からできるかぎり、優や直人を庇ってきてくれたはずだ。優や直人が知らないところで、彼らに向けられた言葉のナイフを無数に浴びてきたはずだ。

 なのに、彼女は憎もうとしない。紅い炎に包まれているのに、恐らく、優と同じように声が聞こえてるはずなのに、彼女は優を止めようとしているのだ。

「たしかに……つらかったよ」

 息も絶え絶えに、けれど、振り絞るように彼女は言う。そこまでして伝えたい何かに優の意識は引きつけられた。

「あんたたちが生まれてから……どうすれば良いか分からずに……とにかく一生懸命本で発達障害について学んで……けれど……それでも偏見とかの問題が常に振りかかってきて……つらかった」

 けどね、と彼女は優しい口調で呟く。

「“今”は……幸せよ。辛かった過去から少しずつ積み上げていって……今私は楽しい生活を手に入れることができたわ。……優も、そうじゃないの?」

 “今”という言葉が優の胸にゆっくりと浸みわたっていく。昔、障害を持つ直人が住むことを嫌がっていたこの住宅街にいる人たちは、今では直人の障害を理解してくれて、問題が起こっても偏見を持たず協力してくれている。この住宅街に住む皆が、偏見を持った人々からの罵詈雑言から直兄を守ろうとしてくれている。昔、直人をけむたがった飲食店の店主は、今では自分の息子がADHDだったと診断されて以来、直人を客として毎週笑顔で迎え入れてくれている。

 昔、母の育て方が悪いから、母の遺伝子のせいでと怒鳴っていた優の祖父は、今では自分が軽度の自閉症であったことを知り、母に謝ってくれた。昔、優や直人が持つ障害特性を少しでも軽減するために母が行った訓練を虐待だと疑った児童相談所の担当員は、今では発達障害の子どもたちへの対処、訓練などを教育機関に伝えることに奔走している。

 昔、優がそばに寄ってくるたびに、キモイ、近寄んなと罵詈雑言を吐き散らしていた同級生は……神野は、今では「お前……変わったな。昔と違って、普通だな」と言って一緒に帰宅する仲になった。昔、発達障害のせいで当たり前のことができない優を使えないやつと見下してきた同級生は……隼人は、今では優のことを同等の存在として見てくれている。神野も隼人も、高校に入って昔のことについて優に謝ってくれた。それがたまらなく嬉しくて、一緒に駄弁る仲間ができて、優は幸せだった。

(そうだ……昔は死ぬほどつらかった。けど、今は――)

 優の心を蝕む毒が少しずつ浄化されていくのを優は実感する。胸にかかる重圧感が消え、気持ちの良い解放感を得た。両手から溢れてくる紅い炎も消える。ドロドロとした負の連鎖は……もう優にはない。

 優は、落ち着いた動作で母の隣にしゃがむ。穏やかな笑顔を浮かべて言う。

「ありがとう母さん。……もう、大丈夫」

 屈託のない優の笑みを眺める母。安心したように柔和な笑みを浮かべた瞬間、糸が切れた操り人形のようにズボンを握る手の力が抜ける。

 倒れたまま動かない母をしばし黙って見つめる優。紅い炎にまみれ、苦しそうに呻く母の姿を。次に、紅い炎をまき散らし続ける兄を。血の涙を流し、悲鳴を上げ続ける兄の姿を。

「俺は、壊さねぇ」

 小さな、しかし、力強い声で呟く優。優は背後にある紅い渦に向けて、自分の本当の意思を見せる。

「確かに、昔は苦しかった。この障害のせいで人の中で生きることが、とてつもなく辛かった。……冷たい視線を向けてくる奴らが、どうしようもなく憎かったさ」

 けどな、と一段と声を荒げる優。右手を力いっぱい握りしめながら、優は叫ぶ。

「過去に対する憎しみなんかよりも、皆で築き上げてきた今の幸せの方がよっぽど大切なんだよ!!」

 直人と優は必死になって障害による問題を解決しようと歯を食いしばってきた。母は、息子たちが少しでも偏見や差別にまみれない環境にいられるよう奔走し続けた。そして、家族で掴んだ小さな幸せがある。

「だから、俺に寄こしやがれ!! 壊すためじゃない、この幸せを守る力を!!」

 勢いよく立ちあがり、振り返る優。目の前の紅い渦――いや、紅い渦は姿を変え、青い光になっていた。生命の母である穏やかな海を思わせる深遠な青の光。それ目がけて、優は躊躇することなく一気に手を出した。

 紅い世界の中、青い光が優を包み込む。優から放たれる光に直人が反応した。いや、紅い炎が反応した。青い光を恐れるように、強大になろうとする天敵を今の内に始末しようと、部屋中の紅い炎が優へ突き進む。闇を纏った紅い流星群が、優の目前に迫り――全部消えた。優から放たれた青の流星群が、紅い炎を全て相殺したのだ。

 ひるむことなく、紅い炎が次々に優へと襲いかかる――届かない。優から溢れ出る青い光が紅い炎を打ち消す。マイナスのエネルギーがプラスのエネルギーと消しあうように、青と赤は部屋中を飛び交い、ぶつかり合い、同時に消える。

「がぁああああああ」

 咆哮と共に、紅い炎が直人の元へ集まる。それは直人を中心に渦を巻き、紅い竜巻を生み出す。共鳴するように、青い光が優に集う。光が弧を描くように尾を引き、優を包み込むように青い気流を作り出す。

 ゆっくりと、紅い旋風を恐れることなく、優は兄の元へ歩き出す。青と赤が衝突した。正の感情と負の感情が混ざり合い無心になるように、青と赤の竜巻は衝突するや否や、お互いの身を削っていく。

 二つの力が激突し、生まれた空間を通り、優は一歩一歩兄の元へ向かう。反発するように、直人の手から紅い炎が放たれる。優に届く前に、青の光が壁となり、打ち消した。優の歩みは止まらない。直人の抵抗が激しくなっても、容易に突き進む。

「あああああああ」

 叫び声と共に、直人の前で炎が膨らみ始める。瞬く間に巨大化する炎、優と直人にそびえ立つ壁のように部屋の端から端まで一直線に広がった。ここから先に来るなと、俺のそばに寄るなとでも直人は言いたいのか。優の歩みが止まる。

「……わりぃ」

 一声詫びを入れ、優はあっさりと炎の壁を突き抜けた。既に、優は直人の目と鼻の先にまで接近している。それでも、直人は優が傍に寄ってくることに抗おうとした。恐れるように、目の前の男にも自分が否定されるのを怖がるかのように。炎を纏った手直人は掲げる。寄ってくる恐怖を振り払うように、その手を振りおろそうとした。


 その前に、優が直人を抱きしめた。


 ぎゅっと力いっぱい、自分の思いを伝えるために。直人の動きが、止まった。

「大丈夫……怖がらなくていい……大丈夫だから」

 優しく、言う。たった三語の言葉。けれど、数え切れないほどの思いを込めて、優は直人に言った。

 直人の叫びが段々小さくなっていく。震えていた腕からは力が抜け、瞳から流れていた血が止まる。ゆっくりと、部屋を埋め尽くしていた紅い炎がすーっと消えてゆく。部屋から、母から、そして、ついに兄の手からも消えた。憎しみが、消えた。


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