昔はこんなことなかったな……
日が陰り始めた空の下、時守優はポケットの中に手を突っ込み、中身をいじくりながらコンクリートの地面を歩いていた。校内にいた時とは違い、前のボタンが閉められていない黒のブレザーの下から緑と青で彩られた縞模様のTシャツが見える。今は下校の時刻、学校の規則に縛られて堅い服装にする必要もない。
優は車一つ走らない道路を歩き続ける。そもそも、彼は自家用車が道路を走っているところを見たことがない。数年前まで行われてきた環境対策により、排気ガスの元になる自動車は全て電気自動車となり、やがて部品に使われる資源の保全のため、電子バスなどの公共機関以外は既に排除されている。H.oxygen開発の成果によって娯楽文化の制限が解除された今になっても、スペックアップした肉体を手に入れた人類が再び一家に一台車を持つようになるわけがなく、結果、電子バスが通る一定の時間帯を除き、歩道と車道の区別はほぼ皆無である。
よって、優も車道の上を歩いている。ただ、目は正面ではなく真横に向いているが。彼が見ているのは川の淵を固めるコンクリートだ。いや、正確にいえば、コンクリートを覆い尽くす緑を眺めている。
河川の護岸に設置されているのは“緑化コンクリート”。コンクリートはセメント・骨材・水の組み合わせで様々な隙間をあけることができる。この隙間に土壌や肥料、保水材や種子を入れることで植物を育てることができるのだ。
しかし、別に緑化コンクリートに興味を持ったわけではない。環境対策の一環として、川沿いのコンクリートは全て緑化されている。特に目新しいわけではない。優はただ、風になびく緑の動きに目を奪われているだけだった。ぼーっと、遠くを見る目で、何かを考えてるわけでもなく。
「なぁ、優、昨日さぁ……」
ひたすら、植物の動きに合わせて目を動かす優。まるで惚れた女に見とれてるかのように、何も考えずに。
「お~い優、聞いてるかぁ?」
とにかく見続ける。後ろから話しかけられていても、まるで気付かないほどに、ただ風になびくだけの植物を。
「あ~……駄目だこりゃ。こうなったらいつものあれ、やるしかないな――せーの!!」
ガンッという衝撃音と同時に頭上を駆け抜けた痛覚によって、優は虚ろになっていた意識を取り戻した。
「っ……いってぇな!!」
優は頭を押さえつつ、振り返る。すると、優の予想通り握りこぶしを固めた神野がいた。神野と優の視線が合う。神野はわざとらしく真面目な顔で、わざとらしく低い声で優に言った。
「人の話はちゃんと聞け!!」
「先公の真似してんじゃねぇよ……ったく」
友人のくだらない物真似に嘆息する優。若干似ていたこともあり腹立たしさも追加されていた。神野はと言うと、若気の至りを暴かれ、赤面になりながら声を荒げたところを折悪く注意された優の様を思い出して腹を抱えている。
「てめぇ……過ぎた話をいつまでも引きずりやがって」
いつまでたっても笑い続ける神野に対し、頬をひくつかせ始める優。拳を握りしめ、いつまでも高笑いを続けるお調子者に少しばかりお灸を据えようとしたところで
「まあまあ落ち着けって。からかい続ける神野も悪いけど、いつまでたっても直さないお前が悪いんだろ?」
神野の傍らにいた俊也に肩をポンッと叩かれた。仕方なく、振り上げた拳を下げる優。自分が悪いなど一かけらも思っていないが、俊也の言うことにも一理あるなと思い優はなんとか平静を保った。
「そうそう。大体、こんな至近距離で話しかけてるっつーのに、1メートルもない距離からの声が聞こえないってどういうことよ」
肩で息をしながら掠れた声でしゃべる神野。笑い疲れたのか、右手で腹を抱えながら左手で俊也の肩に寄りかかっている。
(てめぇらにゃ不思議でも自然になっちまうんだよ。俺は“AD/HD”だからな)
とは流石に言えないので、心の中で愚痴る優。「自分には発達障害があります」だなんてそう簡単に言える台詞ではないのだ。
AD/HD(注意欠陥・多動性障害)――注意集中を持続させること、衝動を抑制すること、体を動かさずにいることが通常の人よりできない特性により、日常生活や学校生活がうまくやれない障害だ。
(俺はAD/HDの中でも不注意優勢型に入るんだよな。おかげさまで注意力が散漫になって……昔から人の話は聞けだの、話の最中にあさっての方向を向くなだの言われ続けてきたんだよな)
優が今日の授業で注意されたのも、この帰り道で神野に頭を殴られたのも、この注意力が持続できない点に問題がある。優は話を聞く気がないのではない、聞けないのだ。いや、訂正しよう。優にとって興味のない話を聞き続けることは非常に難しい。その上、仮に聞いていたとしても自分の興味関心のあるものが少しでも視界に入ると意識が一気にそちらに引き寄せられる……いや、そんな甘い引力ではない。意識が一気にワープすると言っても良いだろう。
(特に植物の動き……あれはいけねぇ。俺の興味関心はどうやら植物だからな。あんなもんが視界にちらついちまったら人の話なん――)
ガンッ!!と優の頭上から再び重厚な衝撃音が響いた。音は一つ。けれども振動は右脳と左脳の両側から伝わっている。
「お~す、戻ってこれたか?」
「……いってぇ」
二倍に増した激痛に頭を押さえながら、優は座りこむ。彼の前には握りこぶしと共に悠然と優を見下ろす神野と俊也。音を一つにするほどぴったりな息の二人である。
「全く、注意した矢先にこれだ」
嘆息し、首を振る俊也。俊也は小学校のころからこれだけは変わらない優に呆れていた。ほんとだぜ、と神野も首を縦に振りながら相槌を打つ。だからって殴んなくてもいいじゃんという小さな呟きは二人には聞こえない。
「ったく、こんなに人の話聞けない癖に勉強ができるってのもむかつくんだよなぁ」
神野がにくったらしげに呟く。
(そうそう、AD/HDの特性って悪い点だけじゃねぇんだよなぁ。興味関心のねぇもんには注意力皆無だけど、逆に興味関心があることにはとんでもねぇ位の集中力発揮するからなぁ)
優にとって興味関心のあるもの、その一つが勉強だった。パターンを覚えていけば面白い位問題を解けるという快感が優の興味を引き付けている。そして、興味関心のあるものに対しての優の集中力は並大抵のものではない。英語、社会、理科系のテスト勉強は教科書ガン見のみ。数学などは全く授業の話を聞かずに自学のみ。驚異的な集中力にものを言わせた独自の方法で、常にクラストップに君臨している。
(相対性理論を発見したアインシュタインや発明王と呼ばれたエジソン、H.oxygenの製造者である尾野健二もAD/HDだったかもしれないってのは発達障害関連の人の中じゃよく聞く話だしな)
歴史に名を残した発明家や美術家などの偉人の背景には、AD/HDの特性による成功が隠れていることが多い。自分が身近で様々なものにAD/HDの功績が含まれているのだ。それを考えると、AD/HDであることもそこまで悪い気がしないと優は思う。むしろ――
「俺らの発想と頭脳が世界を作っているんだ!! やっべ、俺超TUEEE!!」
「人の話を聞かずに意味不明なこと叫んでんじゃねぇ!!」
俊也から放たれた怒りの鉄槌が優の顎をきれいにとらえた。型どおりに振りぬかれる拳。優はぐはっという汚い叫び声と共に背をのけぞらせ、なすすべもなく地面に倒れる。
「……何か言うことは?」
真っ黒なコンクリートの上で大の字を描いている優を見下ろす俊也。表情筋はピクピクと震え、鋭い視線を仰向けになって伸びている馬鹿に向けていた。
「……すみませんでした」
優は掠れた声でそう返す。若干涙目になっている優の顔を見て、ふうっ、と俊也は息を吐く。その二人の様子を眺めて高笑いを上げる神野。
「くくっ、最後の最後まで天然キャラ炸裂してんじゃねぇよ馬鹿。俺の腹筋ぶち壊す気か……ぷくくっ」
最後? という言葉が引っ掛かり、辺りを見渡す優。コンクリートの地面がちょうど二つに割れた地点に優は寝そべっていた。いつも神野や俊也と別れる場所である。思考に意識を捕らわれている間に、ここまで来てしまったらしい。
「もう、こんなところか」
「ま、そういうこと。んじゃまたな~優」
倒れたままの優を放置して、神野と俊也は背後に向かって手を振りながら左の道を歩き出す。相変わらずひでぇ扱いだと思いつつ、優は勢いよく地面から飛び起き、右の道を歩き出した。
(しっかし、ほんとに個性の欠片もない景色だよ。ここは)
優は道の周囲に立つ建造物を眺める。土地を埋め尽くしているのは青いドームの群れ。規則正しく区分けされた土地という土地に、全く変わり映えのない半球状の家が建てられ、建物を囲むように詰めれるだけ木々が植えられている。
(H.oxygenが生まれてまだ数年とはいえ、環境対策の名残を残しすぎっていうかなんというか……)
ここは住宅街。H.oxygenが発明される前までの環境対策により、構造を統一された住居がところせましと並べられている。半球状の家を彩る青い壁の正体はソーラーパネル。大幅に向上した性能により、100%自家発電を可能としている。このドーム状の形態は、ソーラーパネルに効率よく光をあて、少しでもエネルギー効率を上げるためのものだ。塀の代わりに家屋を囲む木々は少しでも酸素を生み出すために植えられている。どれも家と呼ばれるものの標準装備だ。
(まっ、別に変わり映えがないのが悪いってわけでもねぇし)
住宅群の中を迷うことなく歩く。通いなれた道、自我を持ち始めてから十数年、変わらない風景と言うのも悪くないなと優は思う……物足りないとも思うが。
(だから、植物の動きってのに意識を奪われるのかもな)
この硬質な人工物に囲まれた変化のない世界で、木という自然だけが、僅かな環境の変化によって姿を変えている。その様が、優の心をとりこにし続けるのかもしれない。
(まあ、そのせいで人の話が聞けなかったりするわけだが……。おかげで先公には毎度叱られるは、クラスの連中にはお笑いキャラとして弄られるは、神野や俊也には小馬鹿にされるは――)
そこで、優は立ち止まった。口元が緩み自然に笑みがこぼれた。
「こんなこと、昔なら考えられないな」
生き生きとした笑顔で呟く。夕焼けが優しく、優を照らしていた。
「っと、もう家か」
気づいたように、傍らにそびえ立つ門を見る。他の家と変わらない銀色の四角ばった門には「時守」と書かれた表札が付けられていた。どうやら、思考を巡らせている間にたどりついてしまったらしい。
家に帰ったら何すっかなぁと思いつつ、家の門をくぐる。そこで彼は違和感に襲われた。