時森直人
数個の机と椅子が規則的に並べられた部屋の中、がらんと開いた室内に一人だけ男がいた。彼は、銀色の椅子に腰かけ、片手に収まるほどの携帯端末だけ置かれているビジネスデスクに肘を立てる。男が眺めているのは、壁に備え付けられた薄型テレビの画面で作りだされる映像。画面の向こうでは、紺色のスーツを着た清楚な女性が、画面の外へ淡々と話しかけている。
「H.oxygen(重酸素)誕生からちょうど5年。開発者である尾野 健二に国際環境保全功労賞が授与された……か」
水色の作業服に身を包んだ男は、画面の下に流れるニュースのテロップを読んだ。映像から目を離し、窓の外に視線を移す。秋の日差しが照りつけるコンクリートの道には、多数の通風孔が等間隔に設置されている。H.oxygenは男が見つめるその穴から大気中に噴き出されていた。
薄型テレビから発せられる女性の声が、室内に響き続ける。
「世界の転換点以降、人類は急激に悪化した環境問題を改善するため、心血を注いで様々な対策を講じていきました。しかし、どれも事態を好転させる程の結果を上げることができずに終わっています。そんな中、先の見えないトンネルとかした環境問題に光を見出したのが、このH.oxygenでしたね、先生」
再び、男は視線を液晶画面に戻す。同時に、カメラのアングルが切り替わり、彼女の隣に座る白髪の老人が映し出される。眼鏡が印象的な、皺の目立つ顔は、見る者に知的な印象を持たせる。
「そうです。H.oxygenはCO2から生み出され、酸素と全く同一の働きを行う気体。日本がこの気体を精製したことで、最も問題視されていた二酸化炭素濃度を軽減させることに成功したのです。おかげで、制限されてきた娯楽文化が、ここ数年で少しずつ解放されていき、だんだんと自由な社会に戻りつつあります」
そこまで聞くと、男はテレビの電源を消すために立ち上がる。ニュースなどの情報伝達番組を除き、無駄を排除するために、テレビ局は縮小されていった。リモコンの必要性もなくなり、画面の操作は全て、本体につけられたスイッチで行うしかない。カチッという音と共に、電源が落ちる。
(まあ、H.oxygenの成果はそれだけじゃないけどな)
かつてヘルパーとして、体の不自由な老人や、身体障害者の世話をしていた男は、椅子に座りなおし、目をつぶりながら記憶を呼び起こす。
彼が介護人として、体を酷使していたころは、従来から騒がれていた人員不足と、医療技術にまで介入してきた無駄の削除のために、過酷な労働を強いられていた。高齢化社会も重なり、負担は増す一方。余りの激務に職を辞めるものも後を絶たずにいた。そんな折、H.oxygenが生まれたのだ。
(Heavy.oxygen(重酸素)略してH.oxygen。捻りの欠片もない名前というか……センスを感じないというか)
H.oxygenと酸素の違い……それは重さだ。この新気体は酸素の10倍の重さを誇っている。
そんな気体が、溢れかえっている二酸化炭素(軽い気体)と取り換えられれば、大気の圧力が変化し、従来の環境に慣れ切った生物は、運動機能を大幅に制限されてしまう。人間の場合も例外ではない。生存すら困難な状況に陥るだろう。
よって、ホモサピエンス自体の性能向上が必要とされた。縮小されてきた医療に意識が集まり、全世界で医療技術の進歩が始まった。人工筋肉、関節駆動補助機器、移植負担軽減術式、耐圧用肉体組織強化剤、数多の発明が次々と生み出されていき――
(俺のこの肉体は相も変わらずっとな)
腕を軽々と振る男。十倍に膨れ上がった大気圧をものともせずに。
人類は変動した環境への適応に成功した。10倍に膨れ上がった気圧の中で、何の問題もなく、体を動かすことができる。
(おかげで、ヘルパーの仕事も楽になったんだよな)
さらに副産物として、人のスペックアップは、老化や身体障害の克服を可能にした。人工筋肉や、関節駆動補助機関は、体を自由に動かせない人々をサポートし、移植負担軽減術式が、体力の低い老人や子供の可能性を広げていった。その他、様々な新技術が、多くの問題を改善したのである。
結果、ユーザー自体が数を減らしたため、ヘルパーの負担も大きく減少する。人手不足が過剰人員に変わり、必要とされなくなった職員たちは、解雇され、もしくは他の職に切り替えた。そして、この男は自発的に職を辞した。
(何かが欠けてる人を助けたいって俺にしたら、今はこっちの方が向いてるしな)
そこで男は、考えるのをやめた。席を立つと、テレビの隣に設置されたデジタル時計を見る。
時刻は正午を指している。会社のみんなで食事をとる時刻だ。
男は、スライド式のドアを開いて廊下にでる。人気はない。どうやらみんな、既に食堂に集まっているようだ。
不自然に曲がり角が多い廊下を、慣れた足並みで進む。脇道のない一方通行の道の奥に、目的地の入り口が見えた。扉のない、人ひとり分の小さな通路を通り、男は食堂に入る。
「リーダー、おつかれさまです」
ホールに入ると、男に気付いた青年から、声をかけられた。歌っているような語尾上がりの声が、少し気になる。動きもどことなく……ぎこちない。手足は不自然に突っ張っている。目礼のつもりで、軽く頭を下げているが、尻を異常に突き出している。
「和也君、おつかれさまです」
男も、和也と同じように礼を返す。落ち着いた発音で、動きに力みはなく、いたって自然だ。
二人は同時に顔を上げる。和也君はにこりと笑うと、みんなが集まる大テーブルへ戻る。リーダーの視線が、和也君から部屋全体に広がった。
不思議な空間が広がっていた。食堂にはたくさんの人――外見上はいたって普通、なのに、行動に違和感を覚える――がいる。ひたすら手を振り続ける青年、うーむ、うーむと唸り続けている三十代の女、子どものように椅子を揺らし続ける中年の男、席に着かず、部屋中を走り回っている小太りした男、特異な光景がそこかしこに広がっていた。
(ここが……今の俺が満足できる職場だからな)
男――福祉作業所“助け合いの樹”所長、村上 俊樹は、数年前、ヘルパーの職を辞して、父からこの施設を受け継いだ。福祉作業所とは、精神的、身体的に何らかのハンデを持つ人々が働く場である。身体障害が克服されつつある今、この施設は主に、発達障害者に働く環境を与えるのが目的となっている。
俊樹がこの職に目をつけたのは、H.oxygenの影響でヘルパーの需要が急激に減少した頃だった。身体障害者だけでなく、発達障害者の対応も経験していた彼は、助けたくても機会を与えられないくらいなら、未だに医学的に解明しきれていない知的障害者の世話をしてみたいと考えた。そして今、俊樹はこの施設の所長となり、リーダーと呼ばれている。
俊樹は利用者たちの奇怪な行動の一つ一つを入念に眺めていく。そして、ある一点でピタッと止まった。彼の視線の先にいるのは走り回っている小太りの男。彼もまた、“自閉症”という障害を抱えている。
自閉症――名前からして精神的なものと思う人も少なくない、いや、むしろそちらの方が多いだろう。しかし、自閉症は決して精神的障害ではない。まして、親の育て方などの環境により引き起こされるものでもない。先天的な脳の障害なのだ。
(でも、それが知られてないから親のせいにされたり、見た目障害があると分からないから変人だといじめられたりするんだよな)と思いつつ、小太りの男から目を離さない。
俊樹は彼の走り回るという行動が気になっていた。障害をもっているのだから、奇怪な行動をとっても別に問題ないと思う人も少なくないと思うが、違う。放置すればするほど、行動はエスカレート、さらに様々な問題を引き起こす。自分の手で止めようかと考えていた俊樹だが、小太りの男を担当していた若いスタッフが先に動いた。
(一樹が亮さんを担当してたのか。……しかし、あいつ、何かやらかしそうだな)
一抹の不安を覚える俊樹。
「今の亮さんは不安定で関わり方をミスるとまずいんだよな……」
そして、彼の不安は的中する。
一樹は走り回る亮の肩に後ろからポンと手を置いた。
「亮君、みんなと一緒に席に着こう」
幼児番組の体操のお兄さん張りの声で呼び掛ける。振り返る亮。彼はニッコリと頬を緩ませ笑った。
(あの笑顔は――まずい!!)
俊樹は早歩きで亮と一樹の元へ向かう。二人の間に素早く体を入れ、強引に亮の肩に置かれた手をどかした。
「え?」
事態を理解できず、口をあけて唖然とする一樹。彼のことを無視し、俊樹は亮の前に進み、語尾下がりのトーンで、空いている席を指差しながらクールに指示を出す。
「亮君、席に着こう」
亮は一瞬笑顔を張り付けたまま俊樹を見つめていたが、直ぐに指示通りに椅子へと向かった。俊樹は亮の体に触れないように席を指しながら彼の指定席に誘導する。亮が大人しく席に着く。そこで、俊樹はほっと息を吐いた。そして振り返り、やらかした馬鹿(一樹)の正面に立つ。
「お前……興奮してるのに後ろから刺激与えるなよ」
「え? どうしてですか?」
ここまで言っても分からないのかと俊樹は嘆息する。こんな基本的なタブーも知らないとは、真面目に障害について勉強したことがあるのか疑わしい程だ。
「ここに来る前に習わなかったのか。自閉症は外部からの刺激に敏感で、過剰に反応してしまう。見えないとこから触られるとかには異常に弱い。特に、走り回っているような興奮状態で周りに合わせられない、見えていない時は、何気ない刺激一つでパニックを起こして暴れてしまうことだってあるんだ……さっきも、俺が止めなかったらそうなってただろうな」
俊樹の言葉に、顔を青くする一樹。自分が致命的なミスを犯していたことに初めて気づいたのだ。その様子に俊樹はあきれ返る。
「というかそもそも、何であんな状態になるまで放置した。しっかり常同行動の意味を分析して、うまく抑えとけよ」
常同行動とは、手を振るや走り回るなどのような同じ行為を繰り返すことだ。自閉症の特徴的な症状の一つである。だったらそのまま同じ行動を繰り返していればいいんじゃないかとおもうかもしれない。しかし実はこの行動には様々な意味がある。だから、その時々の常同行動の意味を分析し対応を変えていかなければ先ほど周囲が見えなくなって、周りに合わせられなくなっていた亮のような状態に陥ってしまうのだ。
「す、すいません」
掠れた声で、一樹は返事をする。悪気があったわけではない。単に経験不足のせいでミスを重ねてしまっているだけであることを俊樹は分かっていた。
「よし。今度からは繰り返している動作を見たら、まずは分析だ。そして分析結果を元にやめるさせる方向へもっていくんだ。じゃあ、亮君のとこに戻って」
優しく声をかけ、俊樹は一樹の前から立ち去る。二人はそれぞれの席に着く。同時に、食事当番の利用者が「いただきます」のあいさつをした。いただきますの合唱と共に、皆食事を始める。俊樹も食事を始めようとして……
「ん?」
目の前に座る男の行動が目に付いた。
「直人君、チャーハン食べないの?」
一口食べたスプーンを皿の上に置いたまま、時守 直人は首を横に振った。重度の自閉症である彼は言葉を使えない代わりに、家族に教え込まれたジェスチャーで感情を表現していた。
「大好きなチャーハンなのに? いらないの?」
俊樹の記憶では、チャーハンは直人の大好物である。ちらっと自分が食べているチャーハンを眺める。特に直人が嫌いなものは入っていない。
(なんか変なもんでも入ってるのか?)
俊樹は自閉症者は様々な感覚過敏、知覚鈍磨があり、特に味覚に過敏な人が多いことをおもいだす。味覚過敏になると、科学調味料などの人工的な味を受け付けなくなることもあるのだ。しかし、この施設では科学調味料は使われていない。そもそも、環境を保全することを第一命題としていた今のご時世、自然調味料が使われていないはずがない。
(けど一応、味見してみるか)
もしかしたら、薬品の類が間違って混入されているかもしれないと考えた俊樹は、直人のチャーハンを一口食べた。
「別に変わんないな」
一言つぶやく。やはり、味覚過敏である直人には分かっても、普通の感覚しか持たない俊樹には分からないようだ。
「食べない?」
懲りずに催促するが、やはりかたくなに否定される。結局、俊樹は仕方なく直人がチャーハンを残すことを許した。
その後、何事もなく食事は終わった。「ごちそうさま」という掛け声と共に、皆一礼し、席を立つ。俊樹も席を立とうとして……
(なんか変だ)
妙な視線を周囲から感じた。