どうせ俺は人の話がきけませんよ……けっ。空気も読めませんよ……ちきしょぅ
透明な仕切りから入る温かな日差しが、白一色のタイルを優しく照らす。窓の外で風に吹かれ、秋に染まった葉をなびかせる木々。空間を舞う無数の踊り子たちを、少年はただ眺めていた。空気の働きに流され、空中を漂う赤と黄に彩られた幻想的な風景に魅入られたかのように。卓上に置かれたモニターに映し出される電子情報を読むわけでもなく、目の前で数十人の生徒たちに対しデータを解説する男の熱弁を聞くわけでもなく。
「時守!!」
びくっ、と時守と呼ばれた少年の肩が震えた。
罰が悪そうに、ぎこちなく頬を緩ませながら、時守は視線を戻す。
「あ~……どうしました? 先生」
何事もなかったかのように自然に振舞おうとしている少年だが、よく見ると日に焼けた肌から粘りつく液体がとめどなく溢れだしている。細身の体が少々力んでいるのもよくわかる。
「ん~? わからないか?」
先生と呼ばれた男が、柔和な、不自然なくらい優しい笑顔を浮かべて、銀色の机と生徒の隙間を縫いつつ少年の元へとゆっくり歩を進める。同時に、少年の心臓が鼓動を速めていく。周囲に視線を向け、助けを求めるが、視線をそらされるばかりか、くすくすと笑いだすものまでいた。
「はて、何の事だか……」とお茶らけて見る優。
目前で腕を後ろに組み、至近距離まで顔を近づける男に、少年は右手で黒く後ろにはねた癖っ毛をかきながら、目を逸らす。
瞬間、少年の鼻っ面に軽く拳が飛んできた。
いてっ!! と声をあげながら、両目をつぶる少年の頭を乱暴に鷲掴み、男は強引に視線を合わせる。少年の視界には背筋が凍るほどの満面の笑みを浮かべる先生。そして、握られた右拳は細かく痙攣している。相当、力がこもっているようだ。
「お・ま・え・さー、しっかり話を聞けって何回言えば分かるんだ? 授業があるたびに一回以上は必ず言ってんだけど? え?」
「いたいいたい!! 頭つかむ手に力いれないで!!」
涙目になりながら自分の頭を握りつぶさんとする手を引き剥がそうとする少年。しかし、びくともしない。このままでは自分の頭がい骨が割られた卵の殻になってしまう。そんな錯覚が脳裏をよぎるほどの握力が、時森を襲っていた。
「いやだったら俺の話をちゃ~んと聞け。次またやったらどうなるか……分かってるな?」
一段と低いトーンで男は少年の耳元にささやく。相変わらずの笑みを浮かべて。背後に陰りが見えるのは気のせいだろうか?
機械のように首を縦に往復させ続ける少年の姿を確認した先生は、ゆっくりと頭から手を離すと教卓へ戻り、何もなかったかのように授業を再開した。
――くくく、あいつまた叱られてやんの。馬鹿だなぁ。
――お前さぁ、いい加減話くらい聞こうぜ。これで何回目だよ……ぷぷっ。
クラスメートたちの笑いが入り混じった小声が聞こえてくる。
毎度毎度で悪かったねと時守優は心の中で吐き捨てた。注意されて直後ということもあり、優は改めて、落書きの一つもないピカピカの机に置かれた、携帯端末の液晶画面を眺めた。長方形型の小さな機械を手に取る。スイッチやボタンなど備え付けられていない、映像だけを一方的に流す装置。先生の話と共に、勝手に次々と切り替わる画面を必死に読み取る。
(なんだよ……前回の復習じゃねぇか)
んなことなら別に聞かなくてもよかったじゃんと声に出さずに愚痴る優。椅子の背もたれに体重を預け、ふうっ、とため息をつく。授業でする復習なんてやる気がまるででないが、叱られた矢先に、授業を流し聞きする勇気はない。めんどくさいが、当てられた時困らないように優は前回習った範囲を思い出すことにした。
確か――
「水野、2019年6月17日に何が起きたか覚えているか?」
先生が突然、生徒に質問をふった。
水野と呼ばれた生徒は眼前に掲げたモニターを睨みつけながら、首を捻り少しの間唸る。
そして、自信なさげに答えた。
「海底水爆搭載魚雷実験による海底沈下CO2の大量浮上事件……でしたっけ?」
(そうそう、海に溶けた莫大な二酸化炭素が米国が行った最新兵器の実験による衝撃で地上に浮き上がっちまったんだよな)
椅子に体重をかけたまま、両手を組み、うんうんと頷く時守。
彼は水野の回答を元に記憶の引き出しから情報を引き出していた。
「そうだ。いまや世界の転換点と呼ばれるこの事件によって、人類は深刻化した環境問題に直面したわけだ。まあ、途中でよそ見なんかせずに最後まで話を聞いてればこんな問題簡単だな。なあ、水野?」
眉を吊り上げ、さも当然であるかのような口ぶりで水野に問いかける男。
「まあ、話を聞いてれば簡単ですね……話を聞いてれば、ですけど」
同様に、当たり前といった口ぶりで返す水野。二人はちらっ、と優に視線を向け、微笑を浮かべた後、各々の作業に戻った。それを見た優の表情筋がピクッと震える。
(あのやろぉ……人を小馬鹿にしやがって!!)
わなわなと体を震わす優。すると、小刻みに揺れる優の肩にポンと手がおかれた。その覚えのある感触に振り返る。
「学習能力って言葉知ってる?」
開口一番仏頂面で失礼なことを聞かれた。馬鹿にされたわけではない。本人はいたって真面目な顔で聞いてくる。しかし、そんなことを真剣に尋ねられてる時点で優の沸点は鰻登りである
「あん? 隼人、そりゃどういう意味だ?」
若干苛立った口ぶりで聞き返す優。対して、失礼千万な少年は相変わらずの仏頂面でこう言った。
「いや、だって優さ、一日数回は同じことで叱られてんじゃん」
「そうそう、お前ちっせぇ頃からずっとおんなじこと言われてるよなぁ。ほんとに学習してるのか?」
右隣りから相槌を打つ少年がいた。ちらっと声のした方へ優が視線を向けると、そこにはからかいたい、ネタにしたいとうずうずしている腐れ縁の神野がいた。
「うっせぇな。直したくてもなおせねぇんだ。仕方ないだろ。」
いつものメンツからの口責めにめんどくさそうに返す優。
すると、神野の口が三日月に裂けた。まるで、そのセリフを待ってましたと言わんばかりに。
変なことを言った覚えのない優は頭の中に疑問符を浮かべる。困惑している優をしり目に、神野は水を得た魚のように生き生きと語りだした。わざと、皆にも聞こえるように少しばかり大きな声で。
「そうそう、直したくてもなおせないんだよな~。たしか、中学のころも言ってたよな。授業中に先生の話そっちのけで女子の胸を凝視してて注意された時も「こればっかりは直せないんです~」とかなんとか……」
バンッ!!と机を全力で叩く音が神野の言葉をさえぎる。音源には顔を真っ赤にした思春期の男が一人。優から目をそらし、口笛を吹く神野。優は締りの悪い口を閉じた悪友の襟首を腕を小刻みに震わせ掴む。
「テ・メ・エ・ハ、意気揚々と人の黒歴史を語るんじゃねぇ!! つうか、それとこれとじゃ話がちげぇし!! それに声がでけぇんだよ、周りにきこえちまってるじゃねぇか!!」
「声がでかいのはお前だ」
刹那、優の頭上から重厚な衝撃音が響いた。頭がい骨まで伝わる痛みに思わず頭を抱える。ふと、傍らの馬鹿二人を見ると、やはり優と同じポーズで固まっていた。恐る恐る、声がした方へ首を曲げる。優の目には握りこぶしを固めた先生が映っている。
「ったく、注意した矢先にこれだ。人の話はちゃんと聞け!! 小学生のころに教わらなかったのか? 」
――ええ、言われ続けましたよ。執拗にね。てめぇに言われなくても十分わかってるっつーの
と吐き捨てようとした優だったが、喉を通ろうとした空気を強引に飲み込む。怒りを隠しきれずに睨みつけてくる中年の男が怖いわけではない。以前、似たような失敗をした気がするからだ。
確認のため、先生にばれない様に眼球だけを動かし神野の様子をうかがう。
神野は机の下で両手を合わせて祈っていた。縋るような目で優の後ろ姿を眺めている。周囲のクラスメートも、ピリピリとした視線を優に送っていることに気付いた。まるで、訴えかけるように、抑止するように。
(はいはいなるほど。今は口答えするなってことね)
「おいっ、いつまで黙ってる」
何も言い返さない優を不審がる先生。
「いえ、反省してたんです。さすがに聞かなさすぎだな~って」
片手で髪をかきながら、苦笑いを浮かべて答える優。
周囲から安堵のため息がちらほらと聞こえた。
「なら良いが……とにかく二回目だ。罰として今から聞く質問に答えろ」
そう言うと、先生は教卓へ戻った。
ガクッと肩を落とす優。「神野や隼人も思いっきり喋ってたのに、あいつぜってぇ俺に目つけてるだろ」と自分以外に聞こえない音量で愚痴る。とはいっても、文句をつける筋合いなど自分には特にないことぐらい分かっているのだが。
(まあ、愚痴ってもしゃあねぇか。幸い、前回やったことの復習だし。楽勝楽勝)
気持ちを切り替え、再び、電子教材から流れてくる情報を読み取る。前回の授業で叩きこまれた記憶が画面に映し出される字面によって引きずり出されていく。
「どうせ聞いてないだろうから教えとくが、世界の転換点以降、人類存続の危機に追い込まれるほど進行した二酸化炭素問題に対応するために、国連で“国際環境対策義務条約(IEMDT)”が採択されたという時点まで授業は進んでいる」
「となると、今話してるのは環境対策として何が行われてきた……ですか?」
画面にのめりこんだまま、顔も上げずに先生に問いかける優。
注意された内容をさっそく忘れている生徒にため息をつく先生。気を取りなし、話を続ける。
「ああそうだ。では、主な環境対策として国際的に縮小されていったものは何だ?」
「軍事ですね」
間髪いれずに、即答する優。不安の欠片もない芯の通った声だった。だが、相変わらず眼球は液晶画面に映るデジタルデータをとらえ続けている。
「正解だ。兵器の製造に消費される資源。戦争や実験などによって発生する多大な二酸化炭素。もっとも環境問題を解決するさいに不必要な無駄を排除したというわけだ。同じように、エネルギー節約、資源の保全、特にCO2排出の抑制のために、衣服やゲームのような娯楽文化などを縮小していった」
コキッと優の傍らに座る神野の頭が下がった。今は昼時、秋特有の温かな日差しの前で自分には当てられないと安堵している高校生が、睡魔に打ち勝てるわけがない。けれど、そんなことなど気にもせず、優はひたすら読み続ける。
「そして、職を失った人々は環境対策員として割り振られ、余った資金は全てCO2問題解決に割り振られたわけだが……時守、無駄を排除した上で、我が国日本が最初に行ったことはなんだ?」
「これ……ですね?」
銀色の机を指差す優。
「そうだ。石油製品の精製によるCO2発生を抑えるための新素材開発だ」
先生も、自分の目の前で夢の中をさまよう生徒の机を軽く蹴飛ばす。はっと身を起こした水野の広い額に力強いデコピンがヒットした。しかし、その決定的瞬間すら見ず、優は画面を見つめる。授業後に、クラスメートからその時の話を聞いて激しく後悔することはまた別の話である。
二人が指した机にはプラスチックなどの石油製品が全く使われていない。日本の開発チームが生み出した製造過程において100%CO2を排出しない特殊素材と廃棄された空き缶などからリサイクルされた素材から作られているのだ。もちろん生徒たちが腰かけている椅子も同様の素材でできている。
「他にも、空き地やスペースのいたるところに木々を植えたり、太陽光発電や風力発電などの効率を格段に向上させるなども日本が行った試みだ。俺たちが手に持つこれとかもそうだな」
「そして、我が国のもっとも偉大な成果と言えば――」
カーン、校内放送から流れる鐘の音が先生の言葉を遮った。
口惜しそうに、先生は端末のスイッチを切る。すると、生徒たちの端末も連動するように電源が落ちた。
「仕方ない。この続きは次回だ。それまでに人の話を聞かない癖、治しとけよ!!」
そう言い残し、先生は早々にドアをスライドさせて廊下に出て行った。
(うっせぇな!! てめぇも人を直ぐに叩く癖直せや!!)
若干憤っていた優だが、ふと時計を眺める。電黒板が午前12時を告げていた。昼休憩の時間だ。つまりは昼飯時。
「もうこんな時間か……今頃兄貴は飯でも食ってるかな?」
そう呟くと、優は神野と俊也と共に購買という戦地へと向かう。