あれが聞こえてきたんだ。聞こえちまったんだ
――扉を開けた瞬間、何かが、俺の心に入ってきた。違う、俺が同調したんだ
真っ赤な世界。
暗闇に包まれた部屋を紅い光がぼんやりと照らす。
白い壁も、緑のソファーも、透明なガラスも、全て紅い。視界に入る万物が紅に彩られている。
紅い世界に佇むは二人の青年――いや、兄弟。
頭を抱え、体を震わす弟はただ、赤黒い液体を目から流し続ける兄の姿を眺めていた。
「――!!」
言葉にならない咆哮。理性など欠片もない。けれど、困惑、恐怖、怒り、悲哀、憎悪……あらゆる負の感情を表すに足る叫び声。
瞳の血管を肥大させ――まるで、視界に映る全てを恐れているかのように――体中の筋肉を震わせ――まるで、皮膚に触れる全てを憎くむかのように――黒く濁った紅い何かを生み出す、変わり果てた兄。
骨に皮が張り付いた程度のか細い腕を膨らませ、激しく痙攣する両手から、部屋を紅く照らす何かを吐き出し続ける。
吐き出されているそれは、黒く濁った表面の内に内包された怪しく揺らめく炎。
それが……部屋一面を覆い尽くしているのだ。
けど、弟は変貌した兄の姿に驚愕しているわけでも、視界空間全てが未知の存在によって埋め尽くされている異常事態に怯えている訳ではない。
“声”
この異世界を生み出している紅い何かから聞こえてくる言葉に、少年は怯えていた。
溢れ出る冷たい汗に濡れた両手で耳を塞ぐ。何も聞かないために。自分の心を保つために。
だけど、聞こえてくる。
姿かたちを自在に変える水のように、蓋に開いた僅かな隙間を通り抜け、獲物に絡みついた蛇のように、頭の中で回り続け、遅行性の毒をふりまき、少年の闇を精神の奥深くから引きずり出そうとしている。
「うぅぅ……何で、また聞かなくちゃいけねぇんだよ」
その声を、少年は幾度となく聞いてきた。
同年代の子どもたちに囲まれていたころも、兄と共に町に出かけたときも、いつでも聞いてきた。そのたびに、重いものが胸の内に溜まっていって――苦しかった。そして、記憶の海底に沈めた。どこまでも深くどこまでも奥底に……再び浮き上がってこないように。
その沈めたはずの言葉が、部屋一面から少年に襲いかかる。
「――」「え?」
そして、声が鮮明に耳を抑えているはずの両手から少年に伝わった。
恐る恐る首を曲げ、ゆっくりとした動作で、少年は自分の手を見る。
“紅”
彼の手から噴き出される何か。
深遠なる闇に包まれ、ゆらゆらと燃える炎。兄が生み出してるものと全く同じものが弟の手から次々と、次々と生まれていた。
「俺も……憎んでるのか?」
――ニクイダロウ?
少年の頭の中で声が響く。
紅い世界に渦巻く負の連鎖の中で、一際クリアで、けれど、魅力的な音が脳内を反響し続ける。
――ズットクルシメラレツヅケテ、クルシカッタダロウ?
明瞭で優しい言葉は、崩れ始めた少年の心を容易く浸食していく。彼の心を真っ黒に染めてゆく。
――ダッタラ、コワソウ?
顔を上げた少年の目の前に真っ赤な渦が浮かんでいた。触れてしまえば引きずり込まれそうで、けれど、この醜い世界ではどうしても手を出してしまいそうなブラックホール。
意志のない壊れた瞳を向け、弟は混沌の象徴である声の主へと手を伸ばした。