君と出会って、明日が好きになった。
へたくそでも許してください;;
余命は、半年。
医師から告げられた言葉を、セレスティア・ヴァレンティアは不思議なほど冷静に受け止めていた。
治療法のない病気。魔法でも治せない、生命力を少しずつ奪っていく病。
星蝕病。
それが、彼女に残された時間を決めた名前だった。
「……そうですか」
それだけ答えて、診察室を出た。
泣きはしなかった。
悲しくなかったわけではない。ただ、泣いたところで何も変わらないことを、彼女はよく知っていた。
屋敷に戻って病気のことを家族に伝えると、父は難しい顔をして黙り込み、母は「なんとかならないの」と医師に尋ねた。
姉のイザベルは、心配そうにセレスティアの手を握った。
「かわいそうに……」
その言葉を聞いたとき、セレスティアは自分が本当に病人になったのだと感じた。
誰も、彼女が何を思っているのか尋ねなかった。
怖くないのか。
何かしたいことはないのか。
残された時間を、どう過ごしたいのか。
誰も尋ねなかった。
それから数日、セレスティアは自室にこもった。
窓から見える庭は美しく、食卓にはいつも通りの料理が並んでいた。屋敷の生活は何も変わらない。
変わったのは、自分の未来だけだった。
ある日の午後、彼女は机に一冊のノートを広げた。
そして、一番上に書いた。
『死ぬまでにやりたいこと』
最初に思いついたのは、ひどく些細なことだった。
『お菓子をお腹いっぱい食べる』
次に、
『海を見る』
『夜の海を見る』
『自分のお金で働く』
『知らない街を歩く』
『旅行をする』
『心から笑う』
書き終えて、セレスティアは小さく笑った。
「……私、こんなことがしたかったんだ」
誰かに許可をもらう必要はない。
残された時間が短いのなら、せめて最後くらい、自分のために生きてもいいはずだ。
彼女は引き出しから青い宝石のブローチを取り出した。
家族から与えられたものだったが、これまで身につけたことはほとんどない。
それを売り、旅に出ることにした。
家族には何も告げなかった。
引き止めてほしかったわけでも、心配してほしかったわけでもない。
ただ、自分の人生を、自分で選んでみたかった。
*
海に着いたのは、夜だった。
初めて見る海は、思っていたよりもずっと広かった。
月明かりを受けた波が、銀色に輝いている。
セレスティアは靴を脱ぎ、波打ち際まで歩いた。
「……きれい」
思わず声が漏れた。
海は何も言わない。
ただ、寄せては返す波の音が、彼女の心を静かに満たしていく。
そのとき、少し離れた場所に一人の男性が立っていることに気づいた。
整った顔立ちに、落ち着いた雰囲気。どこか近寄りがたい印象の男性だった。
彼女は迷わず声をかけた。
「こんばんは」
男性が振り返る。
「……こんばんは」
「あなたも、海を見に来たんですか?」
「ああ。そんなところだ」
「では、一緒に見ませんか?」
彼は、少し困ったような顔をした。
「初対面の相手に、ずいぶん気軽に声をかけるんだな」
「だって、せっかく海に来たのに、一人で見るのはもったいないでしょう?」
男性は返事に困ったようだった。
それでも、帰ろうとはしなかった。
「私はセレスティアです。あなたは?」
「アルベルトだ」
「アルベルト様ですね。よろしくお願いします」
「……こちらこそ」
セレスティアは再び海に目を向けた。
どれくらい時間が経っただろう。
風が強くなり、彼女は思わず肩を震わせた。
すると、アルベルトが上着を差し出した。
「着ておくといい」
「でも、アルベルト様が寒いでしょう?」
「私は平気だ」
「本当ですか?」
「……君が風邪をひいたら困るだろう」
その言い方がおかしくて、セレスティアは笑った。
「ありがとうございます」
上着を羽織ると、少しだけ温かかった。
それは、冷えた身体だけではなく、久しぶりに誰かの優しさに触れた心まで温めてくれた。
その夜、セレスティアは初めて、明日も何かをしてみたいと思った。
*
翌朝、彼女は街を歩きながら、小さな花屋を見つけた。
店先に並ぶ花々は色鮮やかで、見ているだけで心が弾んだ。
ふと、店の扉に貼られた求人の紙が目に入る。
「……自分のお金で働く、か」
セレスティアは店に入った。
店主の女性は、突然訪ねてきた彼女を温かく迎えてくれた。
「働きたいの? もちろん、歓迎するわ」
こうしてセレスティアは、小さな花屋で働き始めた。
初めての仕事は、思っていた以上に大変だった。
水を運び、花の手入れをし、店の掃除をする。慣れない作業に手間取り、何度も失敗した。
それでも、誰かに頼まれた仕事を自分の力で終えられることが嬉しかった。
そして二週間後。
「はい、初めてのお給料よ」
店主から手渡された小さな袋を、セレスティアは両手で受け取った。
「……ありがとうございます」
袋の中には、自分が働いて得たお金が入っていた。
彼女はそれを握りしめ、何度も確かめるように見つめた。
その日の帰り道、彼女は菓子店に立ち寄った。
ショーケースには、色とりどりのお菓子が並んでいる。
どれもおいしそうで、選ぶのが難しかった。
結局、彼女は小さなケーキをいくつか買った。
宿に戻り、一口食べる。
「……おいしい」
甘さが口いっぱいに広がった。
こんなにもおいしいものを、今まで知らなかったなんて。
セレスティアは笑った。
心から、嬉しいと思った。
その翌日、花屋にアルベルトが訪ねてきた。
「いらっしゃいませ」
彼女は驚き、それから嬉しそうに微笑んだ。
「アルベルト様!」
「……覚えていてくれたのか」
「もちろんです。あんなに優しくしていただいたんですから」
「上着を貸しただけだが」
「それでも、です」
彼女は店先の花を指さした。
「この青い花、好きなんです。ブルースターという名前なんですよ」
「君は青い花が好きなのか?」
「はい。見ていると、なんだか落ち着くんです」
アルベルトは、その花を一輪買った。
彼女が嬉しそうに笑うのを見て、なぜか自分まで嬉しくなった。
それから彼は、たびたび花屋を訪れるようになった。
花を買う日もあれば、特に目的もなく立ち寄る日もあった。
いつしか彼は、花を選ぶことよりも、店の奥から顔を出すセレスティアに会うことを楽しみにしていた。
*
季節が少しずつ移り変わる頃、セレスティアは初めてのお給料で買ったお菓子を、アルベルトと一緒に食べた。
「自分のお金で買うと、こんなにおいしいんですね」
「お菓子の味は変わらないと思うが」
「分かっていませんね、アルベルト様は」
彼女は得意げに笑った。
「自分で働いて、頑張って、そのお金で買うから嬉しいんです」
「……なるほど」
「アルベルト様にも、そういう経験はありますか?」
「私は……」
彼は少し考えた。
「どうだろうな」
その答えに、セレスティアは不思議そうな顔をした。
けれど、無理に尋ねることはしなかった。
彼には彼の事情があるのだろう。
自分だって、話していないことがある。
それでも、一緒にお菓子を食べている時間は楽しかった。
ある日、セレスティアはアルベルトに話した。
「私、もっといろいろな場所へ行ってみたいんです」
「どんな場所に?」
「知らない街とか、遠くの町とか。今まで見たことのない景色を見たいんです」
「なら、行けばいい」
「簡単に言いますね」
「行きたいのだろう?」
「そうですけど……お金もかかりますし」
アルベルトは、彼女を見つめた。
「やりたいことを、いつかできればいいと考えているうちに、時間がなくなることもある」
その言葉に、セレスティアの胸が小さく痛んだ。
彼は、彼女が病気だとは知らない。
それでも、その言葉は彼女の心に深く届いた。
「……そうですね」
彼女は微笑んだ。
「いつか、ではなくて、今やってみます」
アルベルトは、その笑顔を見て思った。
この人には、もっと笑っていてほしい。
もっと、いろいろなものを見てほしい。
そしてできることなら、自分もその隣にいたい。
その気持ちが、ただの親切ではないことに、彼はまだ気づかないふりをしていた。
*
やがて、ヴァレンティア家から一通の招待状が届いた。
舞踏会への招待だった。
セレスティアが家を出てから、家族が彼女の居場所を調べていたことも分かった。以前、彼女が売った宝石の記録をたどったらしい。
けれど、誰も彼女を探しに来なかった。
招待状が届いたのは、舞踏会に家族の一員として出席させるためだった。
セレスティアは、手紙を静かに閉じた。
傷ついていないと言えば、嘘になる。
それでも、彼女は舞踏会に出席することにした。
リストに書いた願いを叶えるために。
自分が本当に望んだ人生を、最後まで生きるために。
自分のお金で青いドレスを買い、舞踏会へ向かった。
華やかな会場で、久しぶりに家族と顔を合わせた。
「セレスティア、今までどこにいたの?」
母はそう尋ねたが、彼女が答える前に、身につけているドレスへ視線を落とした。
「少し地味ではないかしら」
その言葉に、セレスティアは小さく微笑んだ。
そのとき、会場がざわめいた。
人々が道を空け、その中心を一人の男性が歩いてくる。
アルベルトだった。
彼は正装に身を包み、堂々とした足取りで会場へ入ってきた。
そして、セレスティアの前で足を止めた。
「セレスティア」
「……アルベルト様?」
彼は、彼女の家族へ丁寧に挨拶した。
そこで初めて、セレスティアは知った。
アルベルトは、王国でも指折りの地位を持つ公爵だったのだ。
家族の態度が、一瞬で変わった。
「まさか、公爵閣下と親しくしていたとは!」
「どうして今まで教えてくれなかったの?」
父も母も、突然、彼女を誇らしげに扱い始めた。
先ほどまでドレスを地味だと言っていた母が、彼女の髪を褒める。
父は、これからは家族として交流を深めようと言った。
セレスティアは、その言葉を聞きながら、胸の奥が冷えていくのを感じた。
もし、アルベルトが公爵でなかったら。
もし、彼女が彼と親しくなっていなかったら。
家族は、今も自分を見ようとはしなかったのだろう。
「……少し、風に当たってきます」
彼女はその場を離れた。
庭に出ると、夜風が頬を撫でた。
泣くつもりはなかった。
もう、家族に認められたいと願っていた頃の自分とは違う。
それでも、心が痛むことまで、なくなったわけではなかった。
「セレスティア」
振り返ると、アルベルトが立っていた。
「大丈夫か?」
「はい。大丈夫です」
彼女は笑おうとした。
けれど、彼は静かに尋ねた。
「君は、私の前でも笑っていなければならないのか?」
その言葉に、セレスティアの表情が崩れた。
「……っ」
「無理に笑う必要はない。少なくとも、私の前では」
彼女は、とうとう泣いてしまった。
家族に認められなかったことが悲しかったのか。
それとも、ようやく誰かに本当の気持ちを見つけてもらえたことが嬉しかったのか。
自分でも分からなかった。
アルベルトは、何も言わずにそばにいてくれた。
彼女が泣き止むまで、ただ待っていてくれた。
「……アルベルト様は、ずるい方ですね」
「私が何かしただろうか?」
「いいえ。何もしていないからです」
彼女は涙を拭い、今度こそ心から笑った。
その笑顔を見て、アルベルトは思った。
自分は、この人が好きなのだと。
*
数日後、アルベルトはセレスティアを旅行に誘った。
「君が行きたいと言っていた街へ、一緒に行かないか?」
「……私と、ですか?」
「ああ。私も、君と見たい景色がある」
セレスティアは、驚いたあと、嬉しそうに笑った。
「はい。ぜひ!」
旅先で、二人は海辺の町を歩いた。
セレスティアは、初めて見る景色に目を輝かせた。
店先に並ぶ焼き菓子を見つけては立ち止まり、珍しい貝殻を見つけては大切そうに拾った。
アルベルトは、そんな彼女の姿を眺めていた。
彼女が笑うたび、自分の心が温かくなる。
彼女が疲れた様子を見せれば、歩く速度を落とした。
彼女が寒そうにすれば、上着を貸した。
何かをしてあげたいと思うのに、何をしても足りない気がした。
旅行の最後の日、夕暮れの海辺で、アルベルトは彼女に告げた。
「セレスティア。私は、君が好きだ」
セレスティアは息を呑んだ。
「君といると、何でもない一日が特別に思える。君の笑顔を見ると、もっと笑っていてほしいと思う。君がいない時間を、寂しいと感じる」
彼は彼女の手を取った。
「私の恋人になってくれないだろうか」
セレスティアの瞳に、涙が浮かんだ。
嬉しかった。
夢にまで見た言葉だった。
彼の恋人になりたい。
彼と一緒に生きていきたい。
ノートに、こっそり書いた願いだった。
けれど。
「……ごめんなさい」
彼女は、手を離した。
「私には、アルベルト様の隣にいる資格がありません」
「どうしてだ?」
「あなたを、苦しめてしまうからです」
それ以上、言えなかった。
自分の病気のことを話せば、彼はきっと、自分を支えようとしてくれる。
けれど、自分がいなくなったあと、彼はどうなるのだろう。
自分の死を悲しみ、傷つき、苦しむ姿を想像するだけで、怖かった。
彼女は、彼を愛していた。
だからこそ、彼に自分の死を背負わせたくなかった。
アルベルトは、何も言えなかった。
そのまま二人は、街を離れた。
帰りの馬車で、セレスティアは窓の外を見つめていた。
本当は、彼の手を握りたかった。
本当は、好きだと伝えたかった。
でも、言えなかった。
胸の中で、願いがひとつ、静かに痛んだ。
*
それから、セレスティアは花屋に行けなくなった。
病状が悪化していた。
少し歩くだけで息が切れ、身体を起こしているだけでも疲れるようになった。
数日後、彼女は店主に辞めることを伝えた。
「今まで、本当にありがとうございました」
店主は、彼女の手を握った。
「無理をしないでね。あなたがここに来てくれて、私は嬉しかったわ」
セレスティアは、涙をこらえて笑った。
その夜、アルベルトが彼女の宿を訪ねてきた。
彼女が仕事を辞めたことを知り、心配して探してきたのだった。
「セレスティア。どうして私を避ける?」
「……そんなつもりは」
「なら、どうして何も話してくれない?」
彼の声には、悲しみが滲んでいた。
セレスティアは、もう隠し通せないと思った。
「……私は、病気なんです」
彼女は、すべてを話した。
星蝕病のこと。
余命半年だと告げられたこと。
そして、今はもう、一か月も残されていないこと。
アルベルトは、言葉を失った。
「……どうして」
「ごめんなさい」
「どうして、もっと早く言ってくれなかったんだ」
責めるような声ではなかった。
ただ、彼は苦しそうだった。
「あなたを悲しませたくなかったんです」
「私は……君がいなくなることを知らずにいる方が、よかったと思うのか?」
セレスティアは答えられなかった。
「君が私を頼ることを、迷惑だと思ったことはない」
彼は、彼女の手を握った。
「君は、いつも一人で何とかしようとする。少しくらい、私にも手伝わせてくれないか」
「でも、私は……」
「君の残された時間を、私にも一緒に過ごさせてほしい」
セレスティアは、涙を流した。
ずっと怖かった。
誰かに本当のことを話すのが。
誰かに頼ることが。
自分がいなくなったあと、悲しませてしまうことが。
それでも。
本当は、ずっと一緒にいたかった。
「……私、もっと生きたいです」
声が震えた。
「アルベルト様と、もっと一緒にいたい。もっといろいろなところへ行きたい。もっと、あなたと笑いたい」
彼は彼女を抱きしめた。
「……ああ」
「でも、怖いんです」
「分かっている」
「あなたを、残していくのが……怖いんです」
アルベルトは、彼女の髪を撫でた。
「君がいなくなることは、怖い。想像するだけで、耐えられないほど悲しい」
彼は、正直に告げた。
「それでも、君と出会わなければよかったとは思わない」
セレスティアは、彼の胸に顔を埋めた。
「君と出会えてよかった。君を好きになれてよかった」
彼は彼女の手を握った。
「だから、残された時間を一緒に生きよう。君が望むことを、ひとつでも多く叶えよう」
彼女は泣きながら、何度も頷いた。
その夜、セレスティアは初めて、誰かに本当の気持ちを打ち明けることができた。
*
セレスティアは、アルベルトの屋敷で過ごすことになった。
彼は最高の医師を呼び、あらゆる治療法を探した。
けれど、病気を治す方法は見つからなかった。
できることは、痛みを和らげ、少しでも穏やかに過ごせるようにすることだけだった。
アルベルトは、それでも諦めなかった。
治療法を探すことをやめたわけではない。
ただ、それと同じくらい、彼女と過ごす一日一日を大切にしようと決めた。
朝、二人で食事をする。
庭の花を眺める。
彼女が食べられそうな菓子を探し、少しずつ分け合う。
疲れた日は、窓辺で一緒に本を読む。
何もできない日も、手をつないで話をした。
「アルベルト様」
「どうした?」
「今日も、一緒にいてくれてありがとうございます」
「……毎日、同じことを言うな」
「だって、嬉しいんです」
セレスティアは笑った。
「明日も、こうしていられたらいいな」
アルベルトは、彼女の手を握った。
「ああ。明日も一緒にいよう」
その約束が、どれほど難しいものなのか。
二人とも、知っていた。
それでも、彼らは明日の話をした。
次に食べたいお菓子のこと。
いつか行ってみたい場所のこと。
海を見に行った日のこと。
セレスティアは、少しずつ弱っていった。
食事が喉を通らない日が増え、目を覚ましている時間も短くなった。
それでも、彼女はアルベルトの前で笑おうとした。
アルベルトもまた、彼女の前ではできるだけ笑った。
互いに、相手を悲しませたくなかったから。
ある朝、セレスティアは言った。
「……海に行きたいです」
アルベルトは、彼女の手を握った。
「初めて会った、あの海か?」
「はい。もう一度、一緒に見たいんです」
「分かった。行こう」
彼は、迷わず答えた。
*
海は、あの日と同じように青かった。
穏やかな波が砂浜に寄せ、遠くの水平線まで続いている。
セレスティアは毛布に包まれ、アルベルトに支えられながら、海を眺めていた。
「……きれい」
彼女は小さく呟いた。
「本当に、きれいですね」
「ああ」
アルベルトは、彼女の肩に自分の上着を掛けた。
初めて出会った夜と同じように。
「また貸してくださるんですね」
「寒そうだったからな」
「ふふ。あのときと同じです」
二人は笑った。
しばらく、何も話さずに海を眺めた。
セレスティアは、アルベルトの肩に頭を預けた。
「……幸せです」
アルベルトは、彼女の肩を抱いた。
「私もだ」
「本当ですか?」
「ああ。本当だ」
彼は彼女の髪に頬を寄せた。
「君と出会えて、よかった」
セレスティアは、目を閉じた。
その言葉が、何よりも嬉しかった。
「……私も」
彼女は、ゆっくりと顔を上げた。
「アルベルト様」
「なんだ?」
「私、あなたに会えて、本当に幸せでした」
アルベルトの表情が揺れた。
「……セレスティア」
「私を見つけてくれて、ありがとうございました」
「そんなことを言わないでくれ」
彼は彼女の手を握った。
「私は、まだ君と一緒にいたい。もっと行きたい場所がある。君と見たい景色も、話したいことも、たくさんあるんだ」
「……はい」
「だから……」
声が震えた。
「だから、行かないでくれ」
セレスティアは、泣きながら微笑んだ。
「ごめんなさい」
「謝らないでくれ。君は何も悪くない」
彼は、彼女を抱きしめた。
セレスティアは、その胸に頬を寄せた。
彼の鼓動が聞こえる。
この人に出会えてよかった。
この人を好きになれてよかった。
この人と過ごした時間が、何よりも幸せだった。
「アルベルト様……」
「ここにいる」
「……大好きです」
彼女は、最後の力を振り絞るように言った。
「あなたに会えて……本当によかった」
それが、最後だった。
彼女の手から、少しずつ力が抜けていった。
「……セレスティア?」
返事はなかった。
「セレスティア」
何度呼んでも、彼女は目を覚まさなかった。
アルベルトは、彼女を抱きしめた。
泣きながら、何度も名前を呼んだ。
海は変わらず、波を寄せては返していた。
世界は、何ひとつ変わらずに続いていく。
それなのに、彼の腕の中から、世界でたった一人の人がいなくなってしまった。
「……ありがとう、セレスティア」
彼は、彼女の髪を撫でた。
「私を、こんなにも幸せにしてくれて」
涙が、彼女の頬に落ちた。
彼はその涙を拭い、もう一度、彼女を抱きしめた。
愛していた。
これから先も、ずっと一緒にいたかった。
けれど、その願いだけは、もう叶わなかった。
*
セレスティアが亡くなってから、数日が過ぎた。
アルベルトは、彼女の部屋を訪れた。
窓辺には青い花が飾られている。
机の上には、読みかけの本と、小さなノートが置かれていた。
彼はノートを手に取った。
最初のページには、こう書かれていた。
『死ぬまでにやりたいこと』
『お菓子をお腹いっぱい食べる』
『海を見る』
『夜の海を見る』
『自分のお金で働く』
『知らない街を歩く』
『旅行をする』
『心から笑う』
『舞踏会に出る』
それぞれの願いには、達成した印がついていた。
その横には、小さな言葉が添えられている。
『初めて自分のお給金をもらった。とても嬉しかった』
『アルベルト様が、青い花を買ってくれた』
『アルベルト様と旅行をした。忘れたくない思い出』
アルベルトは、ページをめくる手を止めた。
彼女は、自分との何気ない時間を、こんなにも大切にしてくれていたのだ。
さらにページをめくると、最後の方に、見覚えのない願いが書かれていた。
『誰かに、素直な気持ちを話す』
『大切な人と、思い出を作る』
そして、その下に。
『アルベルト様の恋人になること』
アルベルトは、息を止めた。
何度も、その一文を読み返した。
彼女もまた、自分と同じ未来を望んでいたのだ。
自分の恋人になりたいと。
もっと一緒にいたいと。
それなのに、彼女は最後まで、その願いを口にできなかった。
「……セレスティア」
彼は、ノートを胸元に抱き寄せた。
そのとき、ノートの間から一通の手紙が滑り落ちた。
宛名には、彼の名前が書かれていた。
アルベルトは、震える手で手紙を開いた。
『アルベルト様へ。
この手紙を読んでいるということは、私はもう、あなたの隣にはいないのでしょう。
直接お話しできたらよかったのですが、きっと私は、あなたを前にすると言いたいことを全部言えなくなってしまうと思います。
だから、手紙にしました。
最初にお会いした夜のことを覚えていますか?
私はあのとき、死ぬまでにやりたいことを探していました。
もう、どうなってもいいと思っていたのです。
でも、あなたに出会ってから、少しずつ変わりました。
あなたとお話しするのが楽しみになりました。
あなたと食べるお菓子がおいしくなりました。
あなたと見る景色が、もっときれいに見えるようになりました。
そして、いつしか私は、明日もあなたに会いたいと思うようになりました。
来週も、その次の月も、ずっと先の未来も。
あなたの隣にいたいと思うようになりました。
初めて、死にたくないと思いました。
生きていたいと思いました。
あなたと一緒に生きていきたいと思いました。
あなたに好きだと言ってもらえたとき、本当は、とても嬉しかったのです。
あなたの恋人になりたかった。
一緒に朝ご飯を食べて、一緒に出かけて、何でもないことで笑い合いたかった。
あなたの隣で、当たり前のように明日を迎えたかった。
それが、私の最後の願いでした。
でも、あなたと出会えたこと。
あなたに愛してもらえたこと。
あなたを、心から愛せたこと。
そのすべてが、私にはもったいないくらい幸せでした。
アルベルト様。
私を見つけてくれて、ありがとうございました。
私の話を聞いてくれて、ありがとうございました。
私を一人の人間として、大切にしてくれて、ありがとうございました。
あなたと出会えて、本当によかったです。
どうか、ご自分を責めないでください。
あなたは、私にたくさんの幸せをくれました。
だから、これから先も、どうか幸せでいてください。
……そう書いているのに、本当は、もう少しだけわがままを言いたいです。
もし、いつか私のことを思い出してくれたら。
青い花を見たときでも、海を眺めたときでも、お菓子を食べたときでも。
少しだけ、私のことを思い出してくれたら嬉しいです。
私は、あなたと過ごした時間を、きっと最後まで忘れません。
大好きなアルベルト様へ。
セレスティアより』
読み終えたアルベルトは、手紙を顔に押し当てた。
涙が止まらなかった。
「……私だって」
声がかすれた。
「私だって、君と生きていたかった」
彼女もまた、同じ未来を夢見ていた。
二人とも、同じ願いを持っていた。
それなのに、その未来だけが手に入らなかった。
どれだけ泣いても、彼女は戻らない。
手紙を抱きしめても、彼女の温もりは戻ってこない。
それでも、アルベルトは手紙を手放せなかった。
そこには、もう聞くことのできない彼女の声が残っていた。
*
翌朝、アルベルトは小さな花屋を訪ねた。
店主は、彼の姿を見ると静かに頭を下げた。
「……お久しぶりです」
「お久しぶりです」
アルベルトは店内を見渡した。
彼女が働いていた場所。
初めて自分のお金を手にして、嬉しそうに笑っていた場所。
「青い花を、一輪いただけますか」
店主は、ブルースターを差し出した。
アルベルトはそれを受け取り、代金を支払った。
「……ありがとうございます」
店を出ると、空は晴れていた。
彼は青い花を見つめた。
彼女は、もっと生きたいと願った。
もっといろいろな景色を見たいと願った。
自分と一緒に、明日を迎えたいと願った。
その願いを叶えることは、もうできない。
それでも、彼女が教えてくれた幸せまで、なくしてしまいたくはなかった。
「……君が見たかった景色を、私も見に行こう」
彼は、小さく呟いた。
すぐに立ち直れるわけではない。
彼女のいない朝に慣れることも、彼女のいない食卓で食事をすることも、簡単にはできないだろう。
これから先も、何度も彼女を思い出して泣くことになる。
それでも、彼女が生きたいと願った世界を、自分まで諦めたくはなかった。
*
季節が巡り、庭の花が咲いた。
アルベルトは、以前と同じように公爵としての務めを果たした。
仕事に追われる日もあれば、何も手につかない日もあった。
美しい景色を見れば、彼女にも見せたかったと思った。
おいしい菓子を食べれば、彼女と半分こしたかったと考えた。
そして、時間ができると、あの海を訪れた。
彼女と初めて出会った海。
彼女が最後に、幸せだと笑った海。
ある日、アルベルトは海を眺めながら、彼女のノートを開いた。
最後のページには、あの願いが残されている。
『アルベルト様の恋人になること』
彼は、そっとその文字を指でなぞった。
「……叶ったんだよ、セレスティア」
静かに呟く。
「君が思っていたより、ずっと短い時間だったけれど」
涙がこぼれた。
もう、泣かないと決めたわけではない。
彼女を忘れようと決めたわけでもない。
ただ、泣きながらでも、歩いていこうと思った。
彼女が生きたかった明日を。
彼女が好きだった青い花を。
彼女が笑っていた街を。
彼女と過ごした思い出を、ひとつずつ胸に抱きながら。
「……また来るよ」
アルベルトは海に向かって言った。
「君に話したいことが、これからもたくさんできると思うから」
返事はなかった。
けれど、風が吹いた。
頬を撫でる風は、あの日と同じように優しかった。
アルベルトは、そっと目を閉じた。
瞼の裏に、彼女の笑顔が浮かぶ。
花屋で笑っていた彼女。
お菓子を頬張っていた彼女。
舞踏会で、少し恥ずかしそうに手を差し出してくれた彼女。
そして、海を見つめながら、幸せだと笑った彼女。
どの姿も、もう二度と手に触れることはできない。
それでも、忘れたくなかった。
彼女は、自分の人生の一部になったのだから。
君と出会えて、本当によかった。
君を愛することができて、幸せだった。
だから私は、これからも生きていこう。
君が生きたいと願った、この世界で。
いつか、また君に会えたなら。
そのときは、今度こそ、もっとたくさんの話をしよう。
まだ見ていない景色のこと。
食べたことのないお菓子のこと。
君がいない間に見つけた、小さな幸せのこと。
そして、何度でも伝えよう。
君を愛していると。
あの日、海辺で出会ったときから。
君が最後に目を閉じる、その瞬間まで。
そして、その先も。
私の中で、君はずっと生き続ける。
アルベルトは、静かに顔を上げた。
その笑顔には、まだ深い悲しみが残っていた。
それでも、彼はもう一度、前を向いた。
彼女と出会った世界を、愛するために。
彼女が残してくれた幸せを、忘れないために。
そして、彼女が最後まで望んだ明日を、生きていくために。
――死ぬまでにやりたいことを探していた少女は、最後に、生きていたいと願った。
その願いを叶えることはできなかった。
けれど、彼女が誰かを愛し、誰かに愛された時間は、決して消えることはない。
青い花が咲くたびに。
海が波を寄せるたびに。
そして、明日が訪れるたびに。
彼女の願いは、彼の胸の中で、静かに生き続けていく。




