ただの政略結婚でございます
真っ白なクロスを彩るのは、色とりどりのカップケーキ。アイシングやクリームにも、一つ一つ、可愛らしい砂糖菓子の飾りやチョコレートで模様が施され、令嬢の乙女心を鷲掴みにする。
それでいて、歓談の合間に手に取るにふさわしい、慎ましやかな大きさ。その生地は焼き上がりもきめ細かく、眺めているだけでも、料理人の丁寧な手仕事が窺い知れる。
一口味わうことができたら、さぞかし幸せだろうけれど。
咲き誇る薔薇を臨む茶の席には、優雅でありながら、互いに一歩も引かぬという、張りつめた空気が漂っていた。
「……セリナ様。あなたがルーカス様と、どのようなお付き合いをなさっているか、わたくしも存じております。いささかお労しいお振る舞いの数々……あまりお行儀が良いとは言えませんわ」
オルランド公爵家の令嬢レイアは、お気に入りの磁器のカップを静かにソーサーへと戻した。
一切の無駄がない優美な所作。向かいに座るウェザビー男爵家令嬢、セリナを射抜く瞳には、隠しきれない冷ややかな光が宿っている。
並の令嬢であれば、レイアの背後に存在する公爵家の威光と、柔和な笑みに滲むものを瞬時に感じ取り、息を飲んで平伏してしているところだが。
しかし、セリナは怯むどころか、片側の口角を引き上げ、くすりと挑発的に微笑んでみせた。
「お行儀、ですか? うふふ! レイア様。身分違いの恋を蔑むのは、貴族の嗜みかもしれませんが、恋は誰にとっても平等のはずですわ。政略という無感情の絆で結ばれたあなたと違って、わたしとルーカス様の間にあるのは……本物の恋愛ですもの」
「本物の、恋愛。まぁ、それは、それは……」
レイアは言葉をゆっくりと反芻し、薄く笑った。
「それに、わたしは『育成』のスキルを持っていますの。この力があれば、領地の農場を助けることができます。しがない男爵令嬢のわたしでも、立派にルーカス様のお役に立てますわ」
レイアは目を細めた。
この国の、限られた者しか持っていないと言われる、スキル。セリナが自慢げに語る育成のスキルは、対象の育成を促進するもの。
『豊穣』とは違い、その力は補助的なものであると、理解しているのだろうか。
だからこそ、ウェザビー男爵領が、抜きん出て栄えることなく、いつまでもウェザビー男爵領のままであるというのに。
「可愛らしい幻想ですこと。ですが、ルーカス様は我がオルランド家との絆があってこその、次代の公爵。 ただの恋心で貴族の約束が覆るほど、この世界は甘くありませんのよ。……これ以上、あの方にまとわりつくのは、やめていただきたいの。手を引かなければ、きっと後悔なさいますわよ」
「後悔? 私が……?」
言い返そうとしたセリナだったが、ふいに強い眠気が視界を揺らした。
急激に瞼が重くなり、頭が重く沈んでいく。
━━な、に……? お茶に、何か……?
眠くて、瞼を開けていられない。
意識が抗いがたい力に捕まれ、暗闇に引きずり込まれていく。
驚愕と共になんとか目を開こうとするセリナの体は、意志とは反対に、ゆっくりとテーブルに伏せられた。弛緩した腕がカップに触れ、軽い音を立てた。
レイアはただ静かに、美しい笑みを浮かべて見つめていた。
王宮の大広間にて。
シャンデリアが輝く夜会のただ中で、貴族たちの眼差しは公爵令息ルーカスと、2人の令嬢に釘付けになっていた。
「レイア・オルランド! お前との婚約は、今この時をもって破棄させてもらうぞ!」
怒りを含んた声が響き渡る。その傍らには、勝ち誇った笑みを隠すように、ルーカスの腕にしがみつくセリナの姿があった。
大広間が騒然となる中、レイアは眉一つ動かさず、姿勢正しく婚約者を見つめ返した。
濃紺色のドレスをまとい、突然の罵声にも微動だにしない。凛と立つその姿は、息を飲むほど美しい。一枚の宗教絵画のような、神々しささえ感じられた。
「……婚約破棄ですか。理由をお聞かせ願えますか? ルーカス様」
「シラを切るつもりか! お前はセリナに危害を加えた! 彼女は茶会で薬を盛られ、突然の眠気に襲われたと訴えている。嫉妬に狂ってそのような卑劣な手段を使うような女を、我が妻として迎えるわけにはいかない!」
「危害……? 薬とは。身に覚えのない、言いがかりでございます」
「白々しい! 」
「確かに……わたくしはセリナ様をお茶に招待いたしました。少々、込み入ったお話をするためですわ。
ですが、セリナ様は眠ってしまわれたのです。ですから途中で切り上げ、我が家の馬車でご自宅までお送りいたしましたわ」
「おおかた、お前が睡眠薬でも混ぜたのだろう!」
「なぜ? なんのために?」
「知らん!」
レイアは溜め息をつく。
「……ルーカス様さえ理解の及ばぬことで、わたくしがこのような辱めを受けるとは、いかがなものでしょうね。では、あえて、ルーカス様のご主張に乗ってみましょう。
仮にわたくしが、セリナ様を眠らせたとして、それがなんの罪となるのでしょう? セリナ様はただ、眠っただけですわ。現在、なんの後遺症もなく、とてもお元気そうですものね。
さて。どのように、セリナ様の被害を、わたくしの罪として証明なさるのかしら?」
「だから……それは……現に、セリナが被害を受けたと言っていて……」
「証言だけで被害を認めることができるのであれば、わたくしが『何もしていない』という主張も、また、認められなくてはなりませんね」
「うぐぅ…………」
レイアは口ごもるルーカスに向かって、あくまで静かに、穏やかな笑みを崩さずに否定した。
しかし、大勢の貴族が目撃する前で突きつけられた言葉は、瞬く間に社交界の隅々へと広がり、覆すことのできない事実として一人歩きを始めた。
結果として、両家の取り決めであった婚約は、本当に破棄されることとなったのだ。
━━勝ったわ……! わたしが勝ったのよ!
自室の鏡の前で、セリナは興奮に頬を染めていた。
公爵夫人の地位━━誰もが羨む圧倒的な資産と、王家とも縁戚関係にある強大な権力が、もうすぐ、この手の中に入る。
潰れかけた貧乏男爵家での惨めな暮らしは、これで終わりを告げるのだ。これからは、眩いばかりの贅沢と栄華が待っている。
公爵令嬢相手にあっさり決着が着いたのも、全ては計算の上だ。
高位の貴族ほど、醜聞を嫌う。オルランド家にしろ、ハイドリヒ家にしろ、人前で醜態を晒した子供たちを、そのままにしておくことはできない。
予想はしていたものの、あっさりしすぎて、物足りないくらいに。物事はセリナに都合よく動いた。
鏡の中の、最高の笑顔を眺め、うっとりと目を細めた。
だが、セリナが浮き足立っていたその裏で、書斎では父親であるウェザビー男爵が、頭を抱えて吐血せんばかりに嘆いていた。
「終わりだ。我が家はもうおしまいだ……!」
二つの公爵家━━オルランド家と、ルーカスの実家であるハイドリヒ公爵家から、同時に莫大な慰謝料の請求書が届いたのだ。大貴族同士の婚姻を壊し、醜聞を引き起こした原因として、男爵家の責任が徹底的に追及されたのだった。
先祖代々の土地を売り、手持ちの優良債権をすべて現金化し、家宝の美術品を叩き売ったとしても、請求された額の一件分にすら届かない。残るのは、ガタのきた家屋敷と、名ばかりの爵位だけだ。
当然、男爵は浮かれて鼻歌まじりの娘を、激しく叱りつけた。セリナは、ルーカスから贈られたアクセサリーを、呑気に鏡の前で取っかえ引っ変えしている最中で、ろくに父親の顔を見ようともしなかった。
「 なぜわたしたちが、慰謝料など払わなきゃいけないの? わたしとルーカス様は、愛し合って結婚するのよ?」
のんびりと返事するセリナに、男爵は怒りに震えた。固く拳を握りしめ、一度、思いっきり自分の太ももを殴りつけた。そうしなければ、その拳を娘の頬に叩きつけてしまいそうだった。それから、一度大きく深呼吸をして気を取り直すと、握りしめてしまった手紙を突きつけた。
「ハイドリヒ公爵家からの通告だ。
『政略結婚に横槍を入れるという、貴族の最低限の嗜みさえ備わっていない娘を、我が家に迎えるなど虫唾が走る。
結婚したければ、ルーカスを男爵家に婿に入れろ。こちらは親子の縁を切る。男爵家が今後どうなろうと、一切の援助も接触も無いものとする。これは、当家以下、一門全てを同様とする。
そこまでの覚悟があるならば、結婚を認め、慰謝料は結婚祝いとして相殺してやる』……とな!」
「なんですって? 我が家の後継はお兄様と決まっているのに」
ようやく事態を把握したセリナが、父親から手紙を受け取った。手紙は二通あった。
オルラント公爵家からの、破談の慰謝料の請求書。それもかなりの高額。ほぼ、男爵家の全財産に匹敵する。いや、それよりも僅かに多いかもしれない。
ハイドリヒ公爵家からは、間違いなく、こちらも高額な慰謝料の支払いか、ルーカスを婿入りさせた上で、一族と完全に縁を切るかの二択を迫る通達書だった。
「バカバカしいわ」
手紙を投げ捨て、再び宝石を手に鏡を覗き込む娘に、男爵は大きなため息をついた。娘の楽しげな背中は、きっと現実的な問題から目を背けた姿そのままだ。
男爵は娘の教育を誤った自分の情けなさに肩を落としながらも、まだどこかでセリナを信じる気持ちを捨てられずにいた。
領地の広大な農地を、キラキラした瞳で視察していた娘。決して豊かとは言えないが、領主と民が一丸となって、苦楽をともにしてきた日々を、セリナもどれほど大切にしてきたか。父親として、充分に知っているつもりだ。
華やかな王都に毒され、一過性の悪い夢を見ているだけと信じたい。性根はあの頃と変わらず、素朴で素直な娘のはずだ。
男爵は手紙を拾い上げると、丁寧に畳んで娘の部屋を後にした。
せめて、娘が夢から覚めるまで。男爵領を守るために、時間稼ぎ出来ればいいのだが。怒り心頭の公爵家を相手に、それも難しいだろう……。
街外れの落ち着いたカフェに、セリナとルーカスの姿があった。
個室を貸し切った久々のデートだというのに、セリナの心は穏やかではなかった。
ルーカスと今後の話し合いをする中で、結婚の条件を改めて眼前に突きつけられたところだ。
ルーカスの婿入りなど、冗談ではない。
決して裕福ではない男爵家から脱するために、わざわざ夢見がちなルーカスをおだて、好意を積みかさね、ようやく籠絡させたのだ。それなのに、 公爵家の資産が手に入らない……いや、公爵家に嫁げないなんて。
しかし、セリナはすぐさま、頭の中で計算を弾き直した。
ルーカスが婿入りすれば、とりあえず慰謝料の支払いは相殺されるか、免除される。父がかき集めた金子をあの高慢なレイアの家に渡し、この局面さえ乗り越えてしまえばいい。
ほとぼりが冷めた頃に、ルーカスの両親に泣きついて援助を求めれば、結局は贅沢な暮らしができるはずだ。
セリナは舞踏会で見かけた、ルーカスの両親を思い浮かべた。
父親のハイドリヒ公爵は、見た目も厳格で隙がない。ルーカスのこだわりの強さ、変な部分で潔癖な性質は、父親譲りだろう。
しかし、夫人の方は、穏やかな雰囲気を常にまとい、いかにも苦労知らずの貴婦人と言わんばかりの、息子への愛情を隠しもしない人物だ。きっと、ルーカスの夢見がちなところは、母親に似たのだ。
母親には付け入る隙がある。
母親にとって、息子は小さな恋人だ。夫に命じられるままに、簡単に縁を切れるものではない。
十月十日の日々を一体となって過ごし、身をさくような苦痛を乗り越えて親子になる。出産の痛みも、子供を育むために乳が張ることも知らぬ男性とは、絆の深さが違うのだ。母親にとって子供は、生涯変わらず可愛い存在。
断言できる。
夫人は、傾きかけている男爵家に息子を渡し、そっぽを向くことなど、できやしない。
決意を固めたセリナと、どこか思い詰めた顔のルーカス、二人の唇が、同時に動いた。
「結婚しましょう」
「結婚はできない」
静寂が落ちた。
「……え?」
セリナは耳を疑った。
「どうして!? あなた、私を愛しているんでしょう!? 酷いわ、今更『結婚はできない』なんて!」
「……君の本音が見えたからだよ」
ルーカスは冷めた瞳でセリナを見つめていた。その顔には、かつてセリナに向けられていた、甘い熱情は微塵も残っていなかった。
「僕が男爵家へ婿入りすると話した瞬間……君がどんな顔をしたか、見せてやりたかったよ。落胆と、失望。それから沈黙の間にしていたであろう、凄まじい速度での計算。
そのクルクル変わる表情で、全てを理解した。僕が本物の愛だと信じていたものは、ただの浅ましい欲に過ぎなかったんだとね。
君は僕を愛したんじゃない。僕の家名と財力が欲しいだけだ。」
「そ、そんなことないわ! 我が家に婿入りなんて考えてもいなかったから、ただ驚いただけよ!」
「言い訳はいい。既に結婚の条件は父からの手紙で伝えてあったはずだ。……とにかく、結婚はできない。君への気持ちは、もう完全に冷めてしまった。
君となら、伯爵家を盛り立てていけると……それがたとえウェザビー男爵家になろうとも、愛があればどんな苦難も乗り越えられるなどと、一瞬でも本気で考えた自分が恥ずかしいよ。
本当ならもっと早く、気づくべきだったのだろうが……僕自身の愚かさが招いた結果だ。処分は甘んじて受け入れる」
「冗談じゃないわよ!!」
ルーカスの行動は素早かった。その意志の固さを示すように、力強い足取りで、さっさと部屋を出てしまった。
セリナは勢いよくテーブルを叩いて立ち上がった。
一瞥もしないルーカスを追いかけ、慌てて個室を飛び出した。
「待ちなさいよ、ルーカス!」
カフェで穏やかな時間を過ごしていた客たちが、一斉に不快そうな、冷ややかな視線を向ける。間違いなく、今の叫び声は店中に響き渡っていた。
顔を真っ赤にし、セリナはもはや恥も捨て、なりふり構わず怒号を浴びせる。
「こんなの詐欺じゃない! 責任取って結婚しなさいよ! さもなければ、私の方からあなたに慰謝料を請求してやるわ!!」
「……なんて恥ずかしい人なんだ」
ルーカスは自分のしでかした愚行を完全に棚に上げ、深く、心底呆れたため息をついた。
「君とはこれっきりだ。二度と、僕につきまとわないでくれ」
セリナの叫び声を背に受けながら、ルーカスは一度も振り返ることなく、カフェを後にした。残されたのは、周囲の視線に晒されるセリナ、ただ一人だった。
カフェを飛び出したルーカスを追いかける気力すら無くし、セリナは茫然自失のまま実家へと引き返した。しかし、彼女を待っていたのはさらなる地獄だった。
社交界という場所は、ゴシップの伝播において光よりも速い。
夜会での鮮烈な婚約破棄、そしてその後のドタバタ劇━━二つの公爵家が男爵家に叩きつけた莫大な慰謝料と、ルーカスとセリナに突きつけられた結婚の条件、果ては高貴な身分の者たちが集まるカフェで、セリナがみっともなくフラられた顛末まで。その全てが、面白おかしい醜聞として、貴族たちの好餌となっていった。
「聞いた? 例の男爵令嬢、公爵令息に捨てられたんですって」
「まあ、当然ですわね。財産目当てだったのが透けて見えていたもの」
「政略結婚に横槍を入れた挙句、当の男にまで見限られるなんて……因果応報とはこのことですわ」
「ええ。あとは、恥ずかしい身の程知らずが、いかようにして舞台から転げ落ちるか……最後まで目が離せませんわ」
噂話には、かならず嘲笑が添えられていた。
昨日の今日まで真実の愛を振りかざして調子に乗っていたセリナに、同情する者など一人もいなかった。まともな貴族の振る舞いもできない、完全なる異端の道化となっていた。
これでは、恥ずかしくて社交など、とてもできやしない。
ルーカスと結婚できなければ、他に相手を探さねばならないというのに。
どこに顔を出しても、セリナばかりか家族全員が嘲りと陰口の的となった。社交界に出て日が浅い弟や妹たちは、貴族としての心がまえが身につく前に、尊厳を激しく傷つけられ、家に引きこもった。
跡取りの兄は、婚約者が去っていった。失恋と孤独と屈辱が優しかった兄を変え、ことの発端となったセリナに辛く当たるようになった。
両親は慰謝料の工面に奔走し、売れるものは全て売ってしまった。そんな男爵家に有益な事業を持ちかける家などなく、どうしても二件分の慰謝料を払うだけの金を集めることができない。父は毎晩遅くまで方々を駆けずり回っている。母も侍女の職を求めて、あちこちに口利きを頼んでいるようだが、芳しくない。
屋敷を歩けば、兄弟たちはその姿を見ただけで、蜘蛛の子を散らすように、自室へと逃げ込んでいく。わずかばかりの居間での談笑も、セリナが現れただけで、引き潮のように引いて消え、後に残るのは、重苦しい沈黙だけだった。
妹とは、しばらく顔をあわせていない。彼女は自室に閉じこもったきりで、セリナが訪れても、がんとして部屋を開けることはなかった。
決して裕福ではないにしても、常に家族の温かさに守られてきた自分の家が、音を立てて壊れていく。わかっていながら、セリナにできることなど、何一つなかった。
かたやレイアの評価は天と地ほどに跳ね上がっていた。
両家の話し合いのもと、婚約は破棄ではなく解消された。張本人のルーカス自身が、正式にレイアに謝罪し、さらに当主から罰を与えられたという話が、瞬く間に社交界に拡散されていったことが原因だ。
そこに、ルーカス自身の立ち回りのまずさへの批判も加わった。
本物の恋愛という名の粗悪な毒薬にあたって、多少はかつての傲慢さを振りかざす気力を失っていても、瞬く間に回復し、すぐに他の令嬢へのアプローチを始めている。仲間内では、自らの行いを棚に上げ、レイアへの不満や悪口を漏らしているという噂だ。
「レイア様が可哀想すぎるわ。あんな浅はかな女と、浮気性の公爵令息に振り回されて……」
「お茶会で薬を盛られたなんていうのも、どうせ男爵令嬢の狂言誘拐ならぬ、狂言被害でしょうに」
「どこまでも毅然と振る舞われるレイア様の気品、本当に素晴らしかったわ」
公爵家同士の婚姻を壊された被害者でありながら、毅然と身の潔白を訴えた健気な令嬢として、レイアは社交界中の同情と絶賛を一身に集めていた。レイアにとっては当然の立ち振る舞いが、結果として令嬢としての品位を、より一層高めることとなったのだった。ルーカスとセリナが、勝手に幸せの階段を転げ落ちている間に。
どれほど悔しさに爪を噛んでも、だれも慰めの言葉一つ、くれやしない。
絶望に暮れるセリナは、なりふり構わずレイアの屋敷へと押し掛けた。門番に追い返されそうになりながらも、「レイア様にお目にかかるまで動かない!」と半狂乱で叫び続けた結果、奇跡的に庭園への立ち入りを許されたのだった。
満開の薔薇に囲まれたガゼボで、レイアはあの時と同じように優雅にお茶を嗜んでいた。
「……何のご用かしら、セリナ様」
レイアの声には、怒りも憎しみすらもなく、ただ通りすがりの背景を眺めるかのような、深い虚無が宿っていた。
セリナはドレスの裾が汚れることも気にせず、地面に膝をついた。
「レイア様! お願いです、慰謝料の請求を取り下げてください……! ルーカス様にも捨てられ、我が家はもう破産寸前なのです! このままでは爵位も奪われ、路頭に迷ってしまいます!」
かつて『恋は平等』『こちらは本物の恋愛』と勝ち誇っていた面影はどこにもない。ただの哀れな敗者が、レイアの足元にこうべを垂れてつくばえていた。
レイアはゆっくりとカップを置くと、セリナがそうしたように、口角の片側だけを引き上げ、くすりと笑った。その笑みには、寒気がするほどの透明感と、そして無関心が滲んでいた。
「おかしなことをおっしゃるのね。慰謝料を請求したのは当家だけではないでしょう? なぜ私にすがるのかしら?」
「そ、それは……! あなたが許してくだされば、ハイドリヒ家も……!」
「いいえ、セリナ様、勘違いなさらないで。当家もハイドリヒ家も、それぞれの意思で動いているの。こちらが何をしたところで、あちらに影響を及ぼすことなどないわ」
レイアは身を乗り出し、セリナの耳元で囁いた。
「ねえ……あの日、お茶会であなたが眠気を感じた理由……本当に『薬』を盛られたからだと思ってらっしゃるの?」
セリナの身体が凍りついた。
「え……?」
「あの時のお茶はね、ただの極上の、睡眠導入効果があるハーブティーよ。不眠に悩む方が、睡眠薬代わりに常用するもので、体に害など一切ないわ。
けれど……あなたが『薬を盛られた』と騒ぎ立て、ルーカス様がそれを鵜呑みにして大騒ぎするよう、わたくしはほんの少し、誘導してさしあげただけ。
まさか、あの場で熟睡してしまうほど、効果が強かったのは、想定外でしたけど」
レイアの瞳に、理知が光る。
「ルーカス様は正義感と悲劇のヒーロー気どりが大好きな、単純で独りよがりな御方。あなたが『危害を加えられた』と訴えれば、絶対に後先考えずに、わたくしを悪者にして、大々的に婚約破棄を突きつけると解っていたわ。……そして夜会であれば、ハイドリヒ家にとっても逃げ場のない、決定的な醜聞になることもね」
「な……っ、じゃあ最初から……!? 酷いじゃない!!」
「だって、懇ろになる相手をまともに相手していたら、大変なんですもの」
二人の間を風が吹き抜けた。庭園の薔薇を僅かに揺らした。
「ルーカス様は、結婚に夢を見ていらっしゃるの。世界にたった一人だけの運命の相手を、ずっと探していらしてよ。まるで愛の狩人みたいに。
……あら、まさか。ルーカス様のお相手が、ご自分だけだとお思いで? うふふ。本当にうぶでいらっしゃること。今、あなたと同じ程度に親しくなさっている令嬢が、ほかに二人もいらっしゃることを、ご存知なかったかしら。
当家がルーカス様に求めるのは、当主としての実務能力と、カリスマ性。それ以外は必要ありませんの。
だから、多少よそ見をしても目を瞑るつもりでしたけど、わたくし、いい加減嫌気がさしてしまって。
かと言って、婚約破棄したところで、瑕疵を負うのはこちら。ですから、どうしてもルーカス様に正義のヒーローになって、失敗していただく必要がありましたのよ。
その上で、あなたが財産目当てで擦り寄ったことが解れば、あなたのこともあっさり捨てるという計算も、若干いたしましたわ」
セリナは戦慄した。
あの日から夜会での婚約破棄、そしてルーカスとセリナの破局まで━━すべてはレイアの手の上で転がされていたことなのだ。
「そんな……酷い……」
浮気性の婚約者を合法的に、かつ実家の利益を最大化しながら切り捨て、横槍を入れてきた愚かな女を社会的に抹殺する。レイアが描いた完璧なシナリオに、セリナもルーカスもまんまと踊らされていたに過ぎなかったという。
「手を引かなければ後悔すると、最初に忠告さしあげましたでしょう?」
レイアは優雅に立ち上がり、一歩引き下がってセリナを見下ろした。
「さようなら、セリナ様。公爵夫人の夢の続きは、落ちぶれた男爵家の硬いベッドの上で、じっくりとご覧になって。
それから、ご結婚に関しては、あらかじめお互いのご意思や条件を確認しておかれた方が、確実かと存じますわ。今回のように、勇み足にならぬように」
「こ、このクソ女!!! 性悪の……! あんたなんか……あんたなんか、これからも絶対に……! 誰からも愛されることなんかないんだわ!!!!!」
レイアの合図で控えの従者たちが進み出て、絶叫するセリナを屋敷の外へと引きずり出していった。
爽やかな風が吹き抜け、薔薇の香りが漂う庭園には、ただ一人、勝利を収めたレイアの非の打ち所のない、気高い佇まいだけが残されていた。
こうなったら、後はない。
セリナはルーカスへのやけっぱちの慰謝料請求をした。事は大きくなり、2人の他に両家の当主までが、王宮に呼び出されることになった。
双方の主張を聞いた国王は、
「くだらん。こんなことに余を巻き込むな。喧嘩両成敗にもならん。不服なら男爵家への慰謝料請求額を倍にしてやろうか」
と、一蹴した。これ以上の慰謝料の増額など、たまったものじゃない。セリナは慌てて訴えを退けた。
その年は極寒の冬が訪れた。男爵家は年を越さずに破産した。唯一の救いだったのは、領地をまっさきに売りさばいたおかげで、領民に死者が出なかったことだけ。ウェザビー領の素朴で善良な領民たちは、新たな領主の元で、暖かな冬を越すことができるそうだ。
そしてウェザビー家は離散した。
両親は離婚し、兄弟妹たちはそれぞれ引き取られていく中で、セリナだけが誰にも選ばれなかった。
ひとりで生きろ。冷たい眼差しと共に、家紋のない馬車に乗せられた。
旧友をたより、どこかの貴族の屋敷に働き口がないか、頼んでみたが、
「純潔を簡単に捨てるような娘を、使用人として雇えるはずがない」
と、結果は惨敗。冷笑され、鞄ひとつであてもなく広場に立ち尽くした。
雪がチラチラと舞い始め、人々は家路を急ぐ。吹き付ける風さえ凍る。手がかじかんで、指先は痺れた。
大きな荷を担いだ男に突き飛ばされて、セリナは石畳の上に身を投げ出した。放り出したカバンの留め具が外れ、中身が周囲に散らばった。必死にかき集めるその横を、裕福な平民たちが通り過ぎていく。暖かそうな立派なコートを身にまとって。
荷物といっても、高価なものは何一つない。銅貨数枚と、粗末な着替え、最低限の身なりを整えるだけの小物だけ。
手持ちの金では、宿で一泊しておしまいだ。明日のパンも買えやしない。
今夜の宿を諦めて、明日のパンを選ぶか。
それとも、雪夜の寒さから逃れることを優先して、宿に泊まるか。
どちらを選んでも、明日をもしれぬ身であることは間違いない。
寒さで指先が上手く動かない。粗末な布の靴は、雪でぐっしょり濡れて、足先は凍るようだ。
全ては。
あの時、レイアの忠告を無視したせい。
自分の未来が真っ黒に塗りつぶされていく感覚に耐えかね、セリナは叫び声をあげた。
「あああああああ!!!」
息を呑んでセリナは目を覚ました。
「……ようやくお目覚めかしら?」
額の冷や汗を拭い、キョロキョロと周囲を見回す。
目の前には、相変わらず美しい所作で磁器のカップを手にするレイア。テーブルには色とりどりの菓子。ここは、オルランド公爵家の薔薇が咲き誇る庭園だ。
体の芯まで凍える雪の広場ではない。
「お加減は? 突然眠ってしまったから、びっくりしたのよ?」
「だい、じょうぶ……です」
セリナは激しい眩暈を覚えた。
すべて、夢だったのだ。
ルーカスに捨てられてもいないし、実家も破産していない。
恋敵である、レイアにお茶に誘われた。
公爵令嬢の婚約者はすでに手の中。得意満面で敵地に乗り込んだ。
圧倒的な強者の風格を匂わす豪奢な屋敷に、庭。そこに住まう令嬢を、毎冬の蓄えさえやっとの極貧男爵家の娘が、出し抜いたことが誇らしくて。
いかに自分が愛されている存在なのか、朗々と語って聞かせた。レイアは微動だにしない淵のような目で、ただセリナの自慢話に耳を傾けていた。
他人の婚約者を掠め取るという行為が、いかに浅ましいかを考えもしなかった。
なんという、傲慢であろう。
セリナは空のカップに視線を落とす。
緊張感のあふれる言葉の応酬のさなかに、突然眠くなるほどの、強い効果のハーブティーなど、あるのだろうか。
ただのハーブティーの睡眠効果か、あるいは何かの薬品か……訊ねたところで、レイアが答えるはずもない。澄まし顔で受け流してしまうだろう。
そもそも、全て、夢の中でレイアが言っていたことだ。口にした途端、呆れられる。
ダメだ。夢と現実が、頭の中で入り交じっている。
「酷い声だわ。すぐに新しいお茶を用意させましょう」
「いえ、結構です。今日は……これでおいとまします!」
「そう? でも、なんだか顔色も良くないわ。もう少し休んでからになさったら?」
「いえ! 本当に大丈夫ですので!」
一分一秒たりとも、この人の前にいたくない。
恐怖でガタガタと震える膝を押さえ、逃げるように席を立つセリナに、レイアはどこまでも優雅に微笑んだ。
「……お大事にね」
帰宅したセリナは、なりふり構わず机に向かい、ルーカスへの別れの手紙をしたためた。
分不相応な夢を見ていたこと。
公爵家同士の婚約に横槍を入れるつもりはなく、全てはひと時の過ちであったこと。
今後は節度を持ち、両公爵家に最大の敬意を払って過ごすということ。
手紙を受け取ったルーカスは、火の玉のような勢いで、その日のうちに男爵邸へ押しかけてきたが、セリナは面会に応じなかった。
それからはずっと部屋に引きこもって過ごした。
面会を求めるルーカスと完全に絶縁しようとする娘の姿を見て、両親は心底安堵したような表情を浮かべた。その顔を見て、セリナは自分がどれほど浮かれ、家族を破滅の危機に晒していたかを思い知り、激しい羞恥に身を苛まれた。
「レイアは不吉な女だ」
かつてルーカスが口汚く罵っていた言葉が頭をよぎる。
具体的な理由はない。ルーカスの気持ちとして何かあるのかもしれないが、セリナは聞いた事がない。ただ不気味がり、忌み嫌っていた。……要するに、思い通りにならない女性への態度など、彼の浅い人間性ではその程度なのだ。
それを……軽率にも真に受けて、自分勝手な夢を見た。
実際の、物静かで完璧なレイアと、不吉という言葉は結びつかない。男の甘言を鵜呑みにし、軽率な関係を持った己の愚かさを、セリナはただ恥じるばかりだった。
最初は根気よくウェザビー家を訪れていたルーカスも、1ヶ月も経たぬうちに、パタリとその足が止んだ。
夢の中でレイアが語ったように、他に女がいるのかもしれないし、単純に頑ななセリナの態度に、諦めがついたのかもしれない。それを確認する術はないし、確認したいとも思わない。
いずれにしろ、セリナはもう二度と、ルーカスを想い慕うことはない。全て終わったことなのだ。
こうして、ひとつの公爵令息争奪戦は、まともに矛を交えることもなく、あっけなく幕を閉じた。
オルランド家の庭園。
レイアは向かい側の空席を視線で撫でながら、静かにお茶のおかわりを求めた。
山のように盛られた菓子の中から、美しい黄色いアイシングがかかったケーキをひとつ摘み、口へと運ぶ。
「ふふ……それにしても、あの時のセリナ様の慌てようといったら」
自然と口元から笑みがこぼれてしまうのは、ケーキが甘いからか。それとも……。
ルーカスが自分を『不吉』と忌み嫌っていることなど、レイアは百も承知だった。
そしてレイア自身も、あの誠実さの欠片もない、夢と女の尻ばかり追っている婚約者など、心底不快に思っている。
政略結婚という家同士の契約だからこそ、破綻させぬよう細心の注意を払って、完璧に接しているだけであって。そうでなければ、誰があんな男の相手などするものか。
だが、ハイドリヒ公爵家との繋がりは我が家にとっても重要。ルーカスの能力は公爵家として申し分なく、使いようでは有益だ。
ルーカスは決して馬鹿ではない。
ただ、ハイドリヒ公爵夫妻が、あまりにも息子を深く愛しすぎた。
ルーカスはハイドリヒ家の次男。もちろん跡継ぎにはなれない。ルーカスが次期公爵と言われるのは、レイアとの婚姻によって、爵位をつぐことのできないレイアに代わって、オルランド公爵家の当主の座に着くからだ。
それとは別に、ハイドリヒ公爵夫妻は、哀れな次男のために別の保険もかけていた。
万が一、レイアとの婚姻が何らかの事情で破談となった場合、公爵が持つ伯爵位を譲渡する、と。
夢追い人であるルーカスにしてみれば、愛情の欠片もない夫婦として、借り物の公爵の座につくのと。
爵位は下がっても、正真正銘自分の家を持ち、愛する運命の人と添い遂げるのと。
どちらが良いかは明白だった。
本来なら。
後のない公爵家の次男は、入婿となる相手の家の顔色を伺い、遠慮し、ご機嫌取りするものだが、代わりの椅子があるルーカスには、その必要がない。
ゆえに、横槍を入れてくる愚かな虫は、踏み潰すのではなく自ら逃げ出させるのが一番効率的だった。
指ひとつ動かすことなく、相手がルーカスの元から去って行くことが重要なのだ。
こちらに一片の瑕疵がなく、それでいて、ルーカスが選ばれなかったと思い知るように。
レイアには、誰にも言えない秘密の『スキル』がある。
【悪夢】
操るのはただの悪夢ではない。
レイアが頭の中で描いた完璧なシナリオを、対象の脳内に「現実と区別がつかないほどの圧倒的な臨場感を持つ悪夢」として、直接流し込むことのできる力。
レイアは、セリナに悪夢を仕掛けた。
茶席でセリナを眠らせ、彼女が一番恐怖する野望の果ての破滅を、五感と感情のすべてを伴わせて体験させてやったのだ。
自分が辿るであろう惨めな転落。
崩壊する家庭。
貴族社会からの追放。
そして孤独と絶望の叫び。
一度生々しい地獄を味わった人間は、同じ轍を踏もうなどとは思わない。そもそも、セリナが公爵夫人となる道など、どこにもないのだから。
夢は夢で終わらせなければ。
雑草の芽は早いうちに摘み、傷は浅いうちに完治させるのがレイアの流儀だ。
予定外にハーブが早く効いてしまったのは、まさか、敵対する相手の設けた茶席で、出された茶を一気に飲み干すとは思わなかったから。
あの、淑女らしからぬのびのびとした振る舞いは、いかにもルーカスが好みそうだ。
突然、一方的にセリナに別れを告げられたルーカスは、それなりに気落ちしたようで、ここ暫くは大人しく、レイアとの婚約者らしい交流に勤しんでいる。それも、いつまで続くことか。なにしろ彼は夢に生きる男なのだから。
侍女がそっと紅茶を注ぎ直す。
「ありがとう。……とっても美味しいわ」
紅茶の湯気の向こうで、誰にも見せない冷酷で完璧な微笑みを浮かべ、二杯目のティーカップを傾けたのだった。
夢オチというテーマで、なんとかして陳腐にならない物語がかけないかと思いましてね。
今回の女の子たちも、メンタル強めです。
どうぞよろしくお願い致します。
2026.9.12
日間異世界「恋愛」短編、21位いただきました。
ありがとうございますm(_ _)m




