あなたにしか書けない文章
一.才能という名の呪い
──私は、才能がない。
それだけは、はっきりしている。
小説を読んだ。
ページを閉じた瞬間、自分がどれだけ空っぽか思い知らされる。
松田瑠衣は文庫本をそっとテーブルに置いた。窓の外では夕暮れが路地を橙色に染めている。誰かの部屋から料理の匂いが漂ってくる。世界は、何事もなく回っていた。
プロの文章は違う。情景が目の前に広がり、登場人物の感情が静かに胸に染みる。私には、どうあがいても書けない。
どうして、私には書けないのだろう。
世の中は不公平だ。タレントやカフェ経営をしながら作品を生み出す人たちのSNSに触れるたび、胸がじくじくと痛む。
でも、私も努力してきた──はずだ。
でも、『選ばれし者』よりも努力したのかと問われると、答えに迷う。
ベッドに仰向けになり、天井のシミを見つめる。三年間、この部屋で何をしてきたのだろう。
──私は、『選ばれし者』になれなかった。
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二.花の名前を知らなくても
仕事帰り、駅前の花屋に立ち寄った。
スーツ姿の男性がユリを選び、小学生が向日葵を指さす。老婦人はカーネーションを手に、店員と笑顔で話している。
昔聴いた歌を思い出した。花はどれも美しく、誰が一番かなんて競わなくていい、と歌っていた。
私も、『花』のひとつになれているのだろうか。
花の名前もほとんど知らないまま、店員に声をかけた。
「明日、お世話になった方に渡す花束を作っていただけますか。華やかだけど、押しつけがましくないものがいいんですが……」
迷わず手を動かす店員。淡いオレンジのトルコキキョウ、小さな白いスターチス、柔らかな緑のユーカリ。知らない花たちが、見る見る形になった。
──才能とは、こういうことなのかもしれない。
花束を抱えて駅まで歩く。ふわりと香る花の匂いに、少しだけ心が軽くなる。
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三.山田さんの光
山田さんが今日、退職する。
山田陽子は、三十四歳。入社してからずっと、瑠衣の隣の席に座っていた。
山田さんは仕事ができる人だった。資料作りもメール文章も素早く的確で、無駄がなかった。発言はいつも要点を射ていて、会議が迷走しそうになると決まって彼女が静かに軌道修正した。それでいて押しつけがましいところがなく、誰からも慕われていた。
彼女は整理整頓も得意で、すべてのファイルに番号やタイトルをつけてきっちり管理していた。パソコンも得意で、瑠衣の知らないことをたくさん教えてくれた。ショートカットキー、関数の使い方、画像の圧縮の仕方──ことあるごとに「これ、こうするともっと楽になるよ」と言って、手際よくやって見せてくれた。
私にはない、彼女の美点が眩しかった。
なぜ私には──。
その思考が、また頭をもたげた。
山田さんは退職後、フリーランスのライターになるそうだ。ずっと書くことが好きだったと、先週の昼休みに静かに話してくれた。仕事は続けながら、ずっと文章の勉強をしてきたのだという。
彼女ならどこに行っても何をしても、何事も卒なくこなすだろう。
正直、羨ましかった。
そして、羨ましいと思ってしまう自分が、少し嫌だった。
上司が言った。
「山田さんみたいになれよ、松田」
その瞬間、胸の奥で何かが音を立てて折れた。
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四.デコピンと花束
「山田さん、今までありがとうございました」
花束を手渡す。緊張で言葉が出ない。三年間、助けてもらったこと、支えてもらったことを、全部伝えたかったのに。
山田さんは、退職の挨拶で、ほんの一瞬だけ声が震えていた。
「松田さんはさ、もっと自分に自信を持って」
予想していなかった言葉に目を瞬かせる。
「……え?」
「松田さんには、松田さんにしかできないことがある。気づいてないだろうけど」
──私に?
「そんなもの……ないです……」
小さく消え入りそうな声に、周囲から笑いが漏れる。
「自分に自信がないのが、一番の悪いところ!」
そしておでこにデコピン。痛っ、と笑いながら押さえる。
「いっぱいあるよ。気づいてないだけ。でもちゃんと自分で気づいて欲しいから、私からは何も言わない」
「そんな……教えてくださいよ……」
「簡単に教えたらつまらないでしょ」
花束を渡すその瞬間、山田さんの少し細めた目に、瑠衣は胸が締め付けられた。
──私も、ちゃんと『花』ですか?
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五.空白の一週間
山田さんがいなくなって、あっという間に一週間が過ぎた。
彼女のいない職場は空虚だった。物理的な席が空いているということ以上に、何か大切なものが消えてしまったような感覚が、瑠衣をずっと覆っていた。
昼休みに誰かと話すでもなく、一人でコンビニのおにぎりを食べる。帰り道、イヤホンで音楽を流しながら駅のホームに立つ。何の気なしにスマートフォンを開いて、山田さんのアカウントを探しかけて──やめる。
私はこれからどうしたらいいんですか。教えてくださいよ、山田さん。
山田さんがいたから、私はここで息ができていたんです。
山田さんがいなくなったら、私は──。
──何もできない。
その言葉が頭の中に浮かぶたびに、瑠衣は苦しくなった。でも、否定できなかった。
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六.雑草
「松田さん、ここ間違えてますよ」
ミスの連続。山田さんがいれば──そう思う。
私は一人じゃ立てない。私は花じゃない。雑草だ。
帰り道、コンビニの前に生えていた小さな草を見た。アスファルトの隙間から、細い茎が一本、まっすぐ空へ伸びている。誰も気に留めない。それでも、確かに生きている。
──でも、それは私じゃない。
私も、『花』になりたかった。
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七.誰にも読まれない物語
瑠衣は趣味で小説を書いてWebに投稿している。だが、誰にも読まれない。誰からも気づかれない。
それでも書くのをやめられないのは、書いている間だけ、自分が少しだけ「自分でいられる」気がするからだ。文章の中では、誰より足が速くても、どんな難問も解けなくても、関係ない。ただ、言葉と言葉を繋いで、誰かの心のような場所を作ることができる。
それだけが、瑠衣の居場所だった。
私はやっぱり『花』にはなれない。
でもその夜、瑠衣はまた静かにパソコンを開いた。画面の光が部屋を白く照らす。指がキーボードの上で止まる。何を書けばいいのか分からない。それでも、一文字、打った。
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八.メッセージ
三週間後、山田さんからメッセージが届いた。
「お久しぶりです」と書いてあった。フリーランスの仕事が少しずつ軌道に乗ってきたこと、新しい土地の空気が思ったより合っていること、でも全部がうまくいっているわけではないこと、そういうことが短く書かれていた。
そして最後に一行、こうあった。
「松田さんが書いた物語、読んだよ。面白かった。あなたにしか書けない文章だと思った」
瑠衣は画面をしばらく見つめた。
どうして山田さんが、と思った。でも山田さんはずっとそういう人だった。気づかれていないと思っていたことを、全部、見られていた。
──私にしか書けない文章。
その言葉が、ゆっくりと胸の中に沈んでいった。
泣くほどのことじゃない、と思おうとした。でも目の端が少し熱くなった。
瑠衣は返信を打つ前に、もう一度その一文を読んだ。
──あなたにしか書けない文章。
山田さんが言っていたのは、このことだったのかもしれない。
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九.雑草の、花
花屋の前に立ち止まる。今日も色とりどりの花が、静かに咲いている。誰かに見せるためでもなく、競うためでもなく、ただそこにある。
私にも、そんな場所があるのかもしれない
私はその中のどれでもない。
それでも、ここに立っている。
──私にしか書けない文章。
誰にも読まれなくても、たった一人の人間がそう言ってくれた。それだけで、少しだけ前を向ける気がした。
「山田さん、読んでくださっていたんですね。ありがとうございます。また書きます」
もう一文、付け加えた。
「私、『花』になれているかは分からない。でも、まだ枯れずにいます」
夕暮れが路地を橙色に染め、静かに胸を温めてくれる。瑠衣は小さく息をつき、肩の力を抜く。街のざわめきに混ざって、遠くで子どもの笑い声が響く。
私は花にはなれない。
たぶん、これからも。
それでもいい。
雑草は、誰かに踏まれても、また伸びる。
キーボードに指を置く。
──完──




