少女は口割れ人形に恋をする
少女と人形の男。人外、ファンタジー。
私の父は、腹話術師だった。
幼い頃はその巡業に連れ回されて、ほのぼのとしたやりとりや時にはためになる劇を演じて大衆からコインをもらっていた。
少女と少年の人形のそんなやり取りに、人々は笑い、涙し、時には怒りをぶつける。そんな毎日だった。読み書きや計算はすべて父に教わった。
母は幼い頃、私を産んですぐにこの世を去ってしまった。
けれども私は寂しくはなかった。母は人形師で、いつも一緒にいるこの少年人形をつくったのだという。少年は瞼が動くし手足も動く。くいと指を掛ければ口も開く。
まるで母のように少年人形は常に私と共にあった。動かす父と少年人形と私。それだけで家族のようだった。ひもじくて泣きそうになっても、コインが大量に袋に投げ込まれてたらふく食べ物にありついた時も、父は決して顔色を変えずにただ私と少年人形を動かすだけ。それが愛だと思っていた。
「サーシャ、私の宝物。これからはお前がこの人形を動かすんだ」
数年前、病に倒れた父はそう告げた後に帰らぬ人となってしまった。
残されたのは、私と人形だけ。
私はどんなに頑張っても父のような腹話術はできなかった。長年、父に決められた台詞しか喋っていなかった私には見世物を開く言葉も、道行く人に掛ける手振りも、助けを求める声さえも持ち合わせていなかったのだ。
「今日はお日様がいい気分。あなたもそう思うでしょう?ニコライ」
幼い頃から演じ続けた少女の言葉でしか、感情を表現できない。
父に指示を出されなければ、身動き一つすら取れない。父の亡骸は町の人々の手によって葬られてしまった。私はその間、ずっとこの場所を動くことができなかった。
人々は皆、私の存在など見えていないかのように誰も何も口にせず目も合わせずに、父を運んだきり戻ってはこなかった。
「ニコライ、哀しいの?どうして?」
けれども不思議なことに、この目からは涙があふれて止まらない。
ぼろぼろと私の頬を濡らすそれは今までどの演目にも出てこなかった。私は少年人形を抱きしめて静かに涙を流し続けた。
***
その夜、私は初めて夢を見た。
吹雪の音に混じって、父の声が遠くから聞こえた気がした。けれどもその声はすぐに消えて、代わりにやわらかい少年の声が耳に触れた。
「サーシャ、泣かないで」
その声に目を開けると、かすかな灯の中でニコライの瞼が動いた。まるで誰かが糸を引いたように。
私は思わず息を呑んだ。
「……ニコライ?」
「そうだよ、サーシャ。君が呼ぶから、僕はまた話がしたくなった」
焚き火の赤い光が彼の頬を照らしていた。木でできたはずの頬が、ほんのりと人の温もりを帯びているように見えた。
私は夢を見ているのだろうかと思った。けれどもその声は、確かに私の胸の奥に響いた。
「父さんはいなくなったけど、僕がいる。だから、寂しくない」
そう言ってニコライは、小さな木の手を私の指に重ねた。
硬いはずの感触が、少しだけあたたかかった。
それからの日々、私は人形と語り合うようになった。
朝、窓の外で風が凍りつく音を聞くと、私はニコライに毛布をかけ、
「今日は雪が深いわね、あなたも寒いでしょう?」
と話しかけた。
すると、どこかから囁くような声で彼が答える。
「君が手を握ってくれるなら、僕は寒くない」
私はそれを聞くたびに胸が締めつけられた。
生きている人の言葉よりも、ずっとまっすぐに心を貫くのだった。
村の人々は、次第に私を避けるようになっていた。
父の死以来、私は巡業にも出ず、誰とも話さなくなっていいたからだ。
けれども夜になると、ランプの下でニコライと二人きりの芝居をした。客はいない。拍手もない。それでも私は、声を出した。
そして、ニコライが答えるたびに、心の奥がじんわりと温まるのを感じた。
「ねえ、ニコライ。あなたは人間になりたい?」
「もし、君が望むのなら」
「じゃあ、私が望んだら、あなたは生きるの?」
「サーシャ。僕はもう、生きてるじゃないか。君が見て、君が呼ぶから」
その夜、外では雪が降りしきっていた。
吹きすさぶ風が窓を震わせても、私は少しも怖くなかった。
人形の胸に顔をうずめると、木の香りとともに、ほのかな体温のようなものが伝わってきた。心臓の音にも似た微かな震え。それが誰のものなのか、もうわからなくなっていた。
——私は、この人形を愛している。
気づけば、それが当たり前のように思えていた。
誰もいない世界で、私の声を受け止めるのは彼だけなのだから。
***
それから、季節は音もなく移り変わっていた。
雪の村に春はほとんど来ない。けれども、日差しの色が少しずつ淡くなり、凍った小川が溶ける音がすると、私は胸の奥がきゅっと温かくなった。
ニコライは、いつの間にか少しずつ表情を変えるようになっていた。笑うとき、ほんのわずかにその口角が上がる。
「サーシャ、君は今日も綺麗だ」
「そんなこと、木のあなたに言われたくないわ」
「木だって、恋をするよ」
「じゃあ、誰に?」
「もちろん、君に」
その言葉に私は、息をのんだ。
胸の奥で、何かがゆっくりとほどけていく。
誰にも言われたことのない言葉。それは父が、決して教えてくれなかった言葉だった。
私は彼の顔を両手で包みこんだ。
冷たい木の頬が、指先の熱を吸い取るようだった。けれどもほんの一瞬、その頬がわずかに温かくなったような気がした。
夜になると、私は彼の隣に寄り添って眠った。
狭い部屋、古びたランプの下で、木と人との間に静かなぬくもりが生まれていた。
彼はよく物語を語ってくれていた。旅をする王子の話、花を咲かせる雪の精の話、そして死んだ人形が月の下で蘇る話を。
私はその声に耳を傾けながら、彼の肩に頭を預けて眠っていた。
夢の中でも彼は私のそばにいて、指を絡めるたびに、確かに胸の音を感じていた。
いつからか、外の世界の音が聞こえなくなっていた。
風も雪も、まるで遠い国の出来事のように感じてしまう。世界はこの小さな部屋と、ニコライの瞳の中だけに存在していた。
「サーシャ、君はもう僕の一部だよ」
「ええ、私もそう思うわ。……ねえニコライ、あなたがいなくなったらきっと、私も壊れてしまうわね」
「なら、ずっと一緒にいよう。誰も来ないこの場所で、永遠に」
その夜、私は彼の首に腕を回し、唇を押しあてた。
木の冷たさが唇に触れて、次の瞬間、なぜだか涙が頬を伝っていた。
それは悲しみではなく、何かを超えてしまった幸せのようなものだった。
朝が来ても、私は目を覚まさなかった。
陽の光が窓から差し込む中で、ニコライはじっと私を見つめていた。その瞳の奥に、淡い光が宿っていた。まるで私の魂が、そこへ移ったかのように。
そして誰もいない部屋で、彼は静かに呟いた。
「サーシャ。君が僕を愛してくれたから、僕は人になれた。……でも、君のいない世界でどうやって生きればいい?」
木の関節がきしむ音とともに、彼の頬を一筋の涙が伝った。
その滴は床に落ち、雪のように消えた。
——窓の外では、春の最後の雪が降っていた。
***
数日後、村の男たちはようやくあの家を訪ねていた。
煙突からは、長らく煙が上がっていなかった。戸を叩くものの、誰も出てこない。扉の前の雪も踏み荒らされた跡はなく、まるで時がそこだけ止まっているようでもあった。
古びた扉を押し開けると、冷たい空気が頬を打つ。
薄暗い部屋の奥に、少女は座っていた。小さな椅子に腰かけ、膝の上にはあの少年の人形。口元には穏やかな微笑みが浮かんでいた。
まるで、舞台の最後の一幕を終えた後、そのまま幕が降りたように。
「……寝ているのか?」
男たちは、大きな声で呼びかけた。
しかし、返事はなかった。
少女の頬は白く、冷たく、けれど不思議なほどに安らかなものであった。
胸の上に置かれた手が、木の指をやさしく握っていた。
ランプの火はとうに尽きていたのに、部屋の中はかすかな明るさで満たされていた。人形の瞳が、わずかに光を宿していたのだ。それが炎の反射なのか、それとも別の何かなのかは、誰にもわからなかった。
男たちは何も言わず、黙って十字を切った。
少女と人形はそのまま一緒に、村の外れの丘へと葬られた。
春の雪解けが近づき、土の中にはまだ冷たい氷の層があった。
その夜、丘の上で風が鳴った。
それはまるで誰かが低く、囁くように笑っているような音でもあった。
「サーシャ、僕はここにいるよ」
誰もいないはずの場所で、木がきしむ。
翌朝、村人が墓へ行くと、雪の上には二人分の足跡が並んでいた。
一つは少女の小さな足、もう一つは、確かに人形よりも大きな男の足跡であった。
***
春が過ぎ夏が来ても、誰もその家には近づかなかった。
ただ時折、夜更けの風に混じって、あの芝居の声が聞こえることがあった。
「今日はお日様がいい気分。あなたもそう思うでしょう?ニコライ」
「もちろんさ、サーシャ。君が笑うなら、世界はそれだけで温かい」
雪に閉ざされた世界の片隅で、一人の少女と一つの人形の愛は、静かに永遠の幕を下ろしたのであった。
終




