杖のない世界であなたと
現代の男×異世界転生をした女。ファンタジー。
魔法の杖を持つことを、私は許されなかった。
生まれた家は古く、重たく、息が詰まるほど静かな屋敷だった。祖母の代から続く魔導師の家系。壁には呪文が刻まれ、床には親やきょうだいたちが残した数多くの魔法陣の痕があった。
家族はみな杖を持ち、火を灯し、水を操り、光を呼んだ。けれど、私の杖は一度も光ることがなかった。どんなに呪文を唱えても、風ひとつ動かない。
「どうしてあの子は魔法がつかえないの?」
「変なの」
“無杖の娘”と呼ばれるたびに、何度も泣いた。何度も悔しさに打ちのめされた。それでも、私は空の色を見上げることをやめなかった。
魔法の届かない空の、そのもっと遠くへ行きたいと思っていたから。
ある夜、杖を握りしめたまま、私は空を見上げていた。
流星がひとすじ、空を裂いて落ちてくる。
「ここじゃない場所で、生きてみたいな」
そう呟いた瞬間、ふいに足元の地面が消え去った。
***
目を開けると、眩しい光の下にいた。
白い天井、知らない言葉、知らない世界。そこには杖も魔法陣も、呪文もなかった。私は、水野璃子として生まれ直したのだ。
新たな世界には、魔法がなくても空は青く、風は優しく頬を撫でていた。
「もう一度、生きてみよう」
そう強く誓った私は、学校で学び大学に通い、そして一般企業に就職をした。
決して頭もいいほうではなかったけど、何社かの面接の末に今の会社に内定が決まったときはとても嬉しかった。この世界での父と母は一人娘の私をとても可愛いがってくれて、愛情をもって育ててくれた。
「璃子、辛くなったらいつでも家に戻ってきなさい」
「そうよ、働くことは大変だけど璃子は頑張りすぎちゃうから……。お母さん、少し心配だわ」
「大丈夫だって、また電話するよ」
そうこれまで住んできた田舎町を離れて、私は都市部にある会社の側で一人暮らしをすることに決めていた。
あれから数年、日々の暮らしにも仕事にも慣れてきたころに部署異動が決まった。これまで事務仕事をしてきた私が、雑貨の販売に携わることになったのだ。
「水野さんなら、大丈夫」
「わからないことは、佐久間さんに聞くといいよ」
「ありがとうございます」
働くことは不思議なことばかりだったけれど、人々が作る「小さな努力の積み重ね」に私はなぜだか遠い昔に忘れてきたはずの魔法のような温度を感じていた。
新たな出勤先は、小さな雑貨店「ともり」。
駅から少し離れた通りにある、木の扉の小さな店だった。扉を開けると鈴が鳴り、落ち着いた音楽が人々を出迎える。棚にはガラスや陶器、布小物が丁寧に並んでいた。
初めて店に入った瞬間、私は思った。
ここは、魔法の代わりに手のぬくもりで満たされた場所なんだと。
「おはよう、水野さんだね?」
声をかけてくれたのは、先輩の佐久間さんだった。私よりも少し年上の男性で、柔らかい笑顔と低い声。作業台に立つ姿は、無駄がなくて美しかった。
「おはようございます。今日から、よろしくお願いします」
「そんなに緊張しなくても大丈夫だよ、ここはぜんぜんお客さんもこないお店だし。もっと気楽にやっていこう」
店員は、私と佐久間さんの二人だけだった。以前は何人かアルバイトの子もいたようだけれど、お店のあまりの退屈さに辞めてしまったとのことだった。
「それでも、俺一人で働くわけにもいかないからさ。水野さんが来てくれてよかったよ」
「そうだったんですね」
それからしばらくして、佐久間さんの言う通りお客さんは一日に一人来るかこないかの日々が続いていた。その合間に、私は仕事内容を少しずつ教わっていた。
オープニングスタッフだったという佐久間さんは、レジを打つ指先や、タグを付ける所作、包装紙を折る角度などひとつひとつの動きに無駄がなくて完璧だった。
それに比べて、私は慣れない作業に何度か失敗をしてしまう日々だった。
「佐久間さん、すみません」
毎日一回以上は、この言葉を口にしていたような気がする。
それでも、佐久間さんは決して怒ることもなく根気強く私に付き合ってくれていた。
「大丈夫、誰でも最初はそんなもんだよ」
その優しさに救われながら、私は着実に仕事を覚えていった。
「水野さんって、真面目だよね」
「そうですか?」
「そう、もっと肩の力を抜くといいよ。これまで本部で頑張ってきたご褒美だと思ってさ」
そう笑いながら、佐久間さんは何度も私のラッピングの包装の練習に付き合ってくれていた。
***
ある日の閉店後、私は忘れ物を取りにお店へと走っていた。
祈るような気持ちで扉に触れれば、まだ鍵はされておらず私は「よかった」とこぼしながら店内を見渡した。
そして、佐久間さんの姿を見つけた。
「どうした?」
思わず声をかけられて、どきりと胸が鳴る。
少しだけ照明を落とした店内で、佐久間さんはスケッチブックを手にしていた。
「すみません、忘れ物をしてしまって……。」
レジ周りに置き忘れてハンカチを手にして、私は佐久間さんのほうに向き直る。
「そう、見つかってよかったね」
佐久間さんは、鉛筆で何かを描いていた。
「ありがとうございます。その、すごく……お上手ですね」
静かに覗き込むと、そこには今のこの時を目にしたままの店の風景が描かれていた。ほんのりと明かりを灯したランプの形、淡い色のカップ、落ち着きのある棚の木目のひとつひとつまで。光の反射や影の具合まで繊細に描かれていて、まるで本物のようだった。
「昔、ちょっとやっててさ。今は趣味程度なんだけどね」
「すごく綺麗です、本物みたい」
「ありがとう。でも、これで飯は食えないよ」
そう言いながら、佐久間さんは笑った。
けれど、その笑顔の奥に、わずかな寂しさがあったのを私は見てしまった。
佐久間さんと出会ってから、私は少しだけ変わった。
昔を思い返すことも増えて、もしも私に魔法が使えたら佐久間さんを画家にしてあげたいだなんて、ばかなことを考えるようにもなっていた。
あれだけ嫌っていた魔法なのに、それが今になって恋しいだなんて本当にどうかしていると思う。
それでもきっと、これが恋をしているということなんだと思う。佐久間さんにとっては、私はただの後輩で同じ仕事の仲間でしかないと思う。それでも、そばにいることができるこの時間だけは、誰にも邪魔されたくないと思うようになってしまっていた。
***
ある日、私は道で小さな石を拾っていた。
透明で、光を受けると青く揺れる。珍しい石だと思った。思わずそれを店に持っていくと、佐久間さんがいつものように笑っていた。
「……それで、拾ってきたの?」
「はい。なんだか、魔力がありそうじゃないですか?」
「魔力?」
「すみません、変なこと言って」
佐久間さんは吹き出して
「水野さんって、やっぱり面白いな」
と言った。
それは“変”と言われるよりも、ずっと温かかった。
その夜、帰り際の店内で、ふと佐久間さんがぽつりと言った。
「水野さんってさ、もしかして帰国子女?」
「えっ?違いますけど……」
「そう?なんだかさ、どこか遠くに行ってた人みたいだよね」
「どうして、そう思うんですか?」
「言葉の選び方が、少し違うんだ。世界を初めて見た人の言葉みたいで」
その言葉に、私は思わず笑ってしまった。
「……もしかしたら、本当にそうかもしれません」
「じゃあさ、戻ってこないで。ずっとこっちの世界で暮らしなよ」
その言葉が、胸の奥を震わせた。
あの日以来、私はますます佐久間さんの動きを目で追うようになっていた。
手渡されるマグカップ、肩越しの視線、ふとした沈黙。それらがすべて、心の奥で柔らかくあたたかい明かりのように灯っていく。
「水野さん、よかったらこれ持って帰ってよ」
そう差し出されたのは、店で扱っているキャンドルだった。
「サンプルだから、試してみて」
「ありがとうございます」
「また感想も聞かせて」
「わかりました」
帰宅して火をつけてみると、暗闇の中で炎がゆっくりと揺れていた。
その光を見つめながら、私は思った。この世界で、誰かを想うということも魔法に似ているんだと。
その人のことを想うだけで、幸せな気持ちにもなれるし、少しだけ強くなれるような気もした。
***
ある日、店の照明がいくつか切れてしまっていることに気付いた佐久間さんは電球の交換をしていた。
その下で脚立を支えながら、私は思わず作業姿に見入っていた。腕が動くたびに、シャツの袖口から手首の筋がのぞいていた。普段は飄々としている佐久間さんにも、男らしい部分はあるんだと思ってしまった。
「やっと終わった。ありがとう、助かったよ」
降りてきた佐久間さんが笑った瞬間、ふいに距離が近づいた。まるで、息が触れてしまいそうなほどの距離。
思わず私は目を逸らした。けれども、その視線はまっすぐだった。
「……水野さん、」
呼ばれた声が、胸に刺さるように響いた。
けれど、その後に続く言葉はなかった。私達はただ光を交換するように見つめ合って、何も言わずに別れてしまった。
そのあとも、何事もなかったかのように日々は続いていた。
けれども、沈黙のたびにやけに心臓の音が大きく聞こえた。佐久間さんが見せる笑顔の裏にある痛みを感じるたびに、私は思わず指を伸ばしそうになってしまう。
そんなある晩、店の外で雨が降っていた。
私が閉店準備をしていたときに、佐久間さんはレジの上に一枚の紙を置いていた。
それはスケッチブックのページで、いつものように雑貨店の店内が精巧に描かれていた。
けれども、いつもとは違う部分があった。光の中に、二人の人影があったのだから。その片方は、私と同じような姿かたちをしていた。
期待してはいけないと思いつつも、勇気を振り絞って私は聞いてみることにした。
「……これ、もしかして私ですか?」
「そう。描いてみたんだ」
「どうして、ですか?」
「たぶん、描かずにいられなかったんだと思う」
少し息を吐いてから、佐久間さんは静かに言った。
「俺、ずっと誰かを描けなかった。風景ばかりだったんだ。でも、水野さんを見てたら、また描きたくなってさ……」
手が、震える。
言葉が、出なかった。
「魔法って、本当にあるのかもしれない」
「……えっ?」
「俺、もう描けないって思ってた。けど、水野さんを見てると、心の奥が勝手に動くんだ。それってもう、魔法だろ?」
一歩、互いの距離が近づいた。
私と佐久間さんの距離が、なくなっていく。
「俺、水野さんのことが好きだ」
その声は確かな熱を帯びていて、私は思わずその目を見つめてしまっていた。
「いつからか、店に来るのが楽しみになってたんだ。君が笑うと、世界がやわらかくなるような気がするんだ」
私は、何も言うことができなかった。
ただ、胸の奥で何かが崩れて、光があふれだしていた。あの世界で、どんな呪文を唱えても手に入らなかったたったひとつの光。
それが今、目の前にあった。
「ごめん、泣くほど嫌だった?」
「いいえ!その、これは、違うんです……」
「私も、佐久間さんが好きなんです」
やっとの思いでその言葉をふりしぼった瞬間に、佐久間さんは安心したように微笑んだ。
その笑顔は、世界のすべてを包むように優しかった。
その夜、二人で歩いた道はとても静かだった。
街灯が続く道を、どこか浮足立ったような気持ちで並んで歩く。
たとえ言葉はなくても、そこに漂う空気はやけにあたたかかった。
杖の形をしたチャームがついたペンダントをプレゼントされたのは、その帰り道だった。
小さな箱の中で、それは銀色に輝いていた。それははるか昔に見たことがあるような、流れ星と同じ色をしていた。その話をしたら、佐久間さんは笑いながら私の手をとった。
「君が持つと、本当に光りそうだ」
「光らなくてもいいですよ。……もう、十分です」
「どうして?」
「だって、私にはもう魔法がありますから」
「魔法?」
「あなたです」
照れたように笑って、指が絡む。
その熱を感じて、私は初めて“幸せ”という言葉の意味を知ったような気がした。
「おやすみ」
「おやすみなさい、また明日」
部屋に戻って、ペンダントを机の上に置く。
私はそっと、目を閉じた。この心が、ようやく光を灯したような気がした。
この世界で、生きること。誰かを想い、誰かに想われること。
それが、杖を持つことのなかった私にとっての“魔法”になったのだ。
END




