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健全な異世界の男女のオムニバス  作者: 陽花紫


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愛しても貴女は海の底

青年と貝の娘、人外。

 その娘は、貝から生まれた。

 にわかには信じがたい出来事であったが、その日、私は確かにその場にいたのだ。それはこの世のどんな奇跡よりも、静かで、残酷で、美しい光景だった。


 海の底は、まるで音のない夜のようだった。

 太陽の残り香のような光が、遠くから細い糸になって届いている。砂の粒がその光を受けて、わずかに瞬く。

 まるで、誰かが息をしているように、静かに明滅していた。

 私は、その場所に長いこと潜っていた。

 理由はない。ただ、心の奥に沈んだ何かを探していた。

 海の底には、名もなき想いが棲んでいるような気がしたからだ。けれど本当は、もう地上で呼吸をすることに疲れていたのかもしれない。


 その時だった、暗い海の底でひとつの貝が開いたのだ。

 それは古びた巻貝のようでもあり、花のつぼみのようでもあった。そこから、眩いほどの光が零れ出した。


 私は驚き、思わず息を呑む

 ごぼりと、溜めていた空気が泡となって逃げ出した。たちまちに泡は弾け、肺が焼けるように痛みだす。それでもなお、目を逸らすことができなかった。

 貝の中の光は、形を持ちはじめていた。はじめは白く丸く、何か柔らかいもののようだった。けれど次第に、そこから人の姿が生まれ出る。

 肩、腕、髪。波に溶けるように伸びる長い髪は、淡い銀色をしていた。


 それは、息をするたびに微かに光を放つ。

 長くうねる髪が海流に揺れて、まるで編むように光の糸を絡ませる。目鼻が形づくられ、指が、唇が、ゆっくりと生まれていく。そして、白い衣がその身を包みこんだ。

 やがて、娘は目を開けた。その瞳は、私のような人間の瞳ではなかった。

 真珠だった。

 海が長い時をかけて磨きあげた、秘密のような光を秘めた白く美しい瞳だった。


 娘は両手を広げ、私に目を向けた。

「あなたは、だあれ」

 その声は、音にならず胸の奥に響き渡る。

 まるで海そのものが話しかけてくるような、優しい響きだった。


 私は答えようとしたが、それは声にはならなかった。喉が締めつけられ、泡だけがこぼれる。娘は悲しそうに眉を下げると、そっと私の頬に触れた。

 冷たい水の中で、その手だけが不思議なほど温かかった。

「声が、でないのね。かわいそう」

 その言葉と同時に、私の胸にあった苦しさがふっと消えた。

 息をすることができる。

 海の底で、私は初めて自由に呼吸をした。


 娘はその様子を見て、嬉しそうに微笑んだ。

「海が、あなたを認めたのね」

 その笑顔に、なぜだか心が揺さぶられた。

 あの真珠の瞳の奥には、深い海の記憶が眠っているようだった。


 娘は私の手を取り、ゆっくりと立ち上がる。彼女の指先から小さな泡が浮かび上がり、夜のような海へと消えていく。

「来て、見せたいものがあるの」

 私は、導かれるままに歩き出した。

 海底の砂は柔らかく、足跡の代わりに幾重もの光の粒がそこには残った。

 海草が揺れ、珊瑚の欠片が月光のように白く光る。


 娘はまたも、私を振り返っては笑っていた。

 その笑みは、まるで波が静かに砕ける音を見ているようだった。

「ようこそ。ここが、わたしの世界」

 そこには、無数の貝が並んでいた。

 どの貝も微かに光を宿しており、貝殻の隙間から泡が流れている。その泡が集まって、ひとつの光の道を作っていた。

「この子たちは、みんな眠ると夢を見るの」

 娘はしゃがみこみ、貝のひとつをそっと撫でた。

「海が穏やかな夜ほど、いい夢を見ることができるのよ」

 その言葉の響きが、まるで子守唄のようだった。

 私は思わず膝をつき、静かに彼女の隣に並んだ。

「あなたは、夢を見る?」

 と尋ねると、娘は目を丸くして首を傾げた。

「よく、わからない」

「そう……」

「わたしは、ただ波のようにここにいるだけ。でも、あなたを見ていると……なぜだろう。胸が、少しだけ痛いの」

 その「痛い」という言葉を口にするとき、娘の真珠の瞳がわずかに曇ったような気がした。

 気付けば私はその手を取って、こう口にしていた。

「それはきっと、夢を見る心だ」

 娘はその言葉を確かめるように、ゆっくりと瞬きをした。

 海の光が青白い頬を照らし、彼女は小さく笑った。

「ありがとう。あなたの夢も、聞かせて」


 私は少し考えて、こう答えた。

「……君と、こうして笑っていたい。たとえ束の間の夢でも、構わないから」

 娘はその言葉を聞くと、ふわりと体を回した。

 髪が海流に広がり、無数の真珠の粒がこぼれ落ちる。ふいにそれを両手で掬い上げると、私の頭上にふわりと放った。


 光が降る。

 水の中で、まるで雪のように。


 娘は、私の肩に身を寄せて囁いた。

「人と海は、本当は似ているの。どちらも、抱いたものを手放すことができないから」

「君を手放せると思う?」

 と、思わず私は尋ねた。

「それでも、いつかは潮は満ちて別れの時がやってくるの」

 娘の声は、優しくも哀しかった。


 私たちはしばらく、何も言わずに歩いていた。ゆらゆらと、海に溶け込むように。


 貝の森を抜け、珊瑚の小道を通り、やがて、一面に広がる光の丘が姿を現した。


 途中、娘は立ち止まり、小さな貝殻を拾って私に渡した。

「これは、わたしの眠りの欠片。海が静まると、これがわたしの心になるの」

 私は、その貝を胸に当てた。

 娘の手のひらと同じように、なぜかその貝にも温もりがあった。


 娘はそんな私を見て、無邪気に微笑んだ。

「あなたの心も、少し光っているわ」


 どれほどの時間が経ったのか、もう分からない。

 海の底では、時の流れさえ音を立てなかったからだ。ただ光と影の波だけが、静かに二人を包んでいた。


 ――潮が満ちるまで、あとどれくらいだろう。


 娘はふと立ち止まり、振り向いた。

「ねえ、お願い。黙って、いまだけはこの光を見つめていて」

 遠く、海面から月の光が差し込んでいた。

 それはゆらめきながら降り注ぎ、娘の体を透かして照らしていく。髪の先から、指先から、小さな泡がひとつ、またひとつと昇っていった。その泡のひとつひとつが消えるたびに、私の胸の奥もまた少しずつ痛くなった。

 それでも、私は彼女の手を離しはしなかった。


 娘は、私の肩に額を寄せた。静かに、海が呼吸をしているのが分かる。

 ふたりの心臓の鼓動が、遠くの潮の音と重なっていた。


 潮が満ちるまでの、短い時間。

 それは永遠のように静かで、優しくて、悲しかった。


 ――愛しても、貴女は海の底。


 それでも、彼女が微笑んでくれたこの夜だけは、海の記憶に沈めたくはなかった。


END

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