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健全な異世界の男女のオムニバス  作者: 陽花紫


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記憶の香りにいだかれて

とある女と、香りの男。人外。

 今日もまた、灰色の朝がやってくる。

 目覚ましの音が鳴り終わる前に、女はゆっくりと目を開けた。外は薄い灰色で、カーテンの隙間から差し込む光もどこか冷たく感じられた。

 気だるいあくびを噛みしめながら、女はいつものようにコーヒーを淹れた。

 意識を静かに目覚めさせる深くほろ苦いその香りだけが、女の唯一の救いだった。

 しかし、その香りさえ、もう感じなくなっていた。


 大都会で働く女は、化粧品会社の営業部で働いていた。

 美を扱う職場にしては、彼女の顔はいささか疲れ切っていた。鏡に映る自分の姿に微笑んでみても、唇だけがかすかに動くだけだった。

「今日も、頑張らないと」

 そう口にしてみるのは、もはや儀式のようなものだった。


 出社すると、蛍光灯の白が瞳に刺さる。フロアには、いつものように忙しなくキーボードを叩く音で満ちていた。人の声も、コピー機の音も、全て遠くで鳴っているように感じられた。

「この資料、午後までにまとめておいてくれない?」

 上司の声に、条件反射のように「はい」と答えた。


 ふと視線を落とすと、机の端に置かれた白いパッケージのハンドクリームが目に入る。

 バニラの香り。昔はそれをつけるだけで、少しだけ幸せな気分になれた。想いを寄せていた人が身に着けていた、香水の香りにとてもよく似ていたからだ。

 けれども今は、そのような香りは何の意味も持たなかった。

 ただの匂いとして、鼻をかすめた。


 ——着実に、何かを失ってきている。


 そのことに気づいてもなお、女は立ち止まることができなかった。


 週末、女は思い立ったように電車に乗ることにした。

 行き先は決めていない。ただ、「ここではないどこかへ行きたい」と思っていた。

 窓の外を流れる景色が、少しずつ街の色を薄めていく。高層ビルの群れが低い家並みに変わり、やがて大きな山が見えてくる。遠くに湯けむりのような白い煙が立っているのを見つけては、静かに息をのんだ。


 それが、この旅の始まりだった。


 その温泉街は、珍しく閑散としていた。

 雨上がりの石畳が光り、どこかで風鈴の音が聞こえた。道を歩くのも女のみで、まるで時間がゆったりと流れているようだった。

 「こんな場所が、まだあったんだ……」

 女は思いのまま、ひたすらに細い路地を歩いた。古い木造の家々が並び、軒先には手作りの雑貨や瓶詰めが置かれていた。

 その一角に、ひときわ古びた看板の小さな店があった。

 見知らぬ言語で書かれたロゴの下に、色とりどりの瓶が並んでいる。気になって店内に入ってみると、そこは思いのほか薄暗く、静かで、外とは違う空気が一面に漂っていた。

 ラベンダーやサンダルウッドの香りが重なり合い、まるで夢の中に迷い込んだよう。


「いらっしゃい」

 突然、奥から現れた老女がそう告げる。

「旅の方ですか?」

 異国の民族衣装のようなものを身にまとった老女は、女に向かって微笑んだ。

「はい。ちょっと、息抜きに……」

 女は控えめに、返事をした。

「そう、息抜きにねえ……」

 老女はおもむろに、棚の隅からひとつの小瓶を取り出した。

 その琥珀色のガラス瓶の中には、金の粉のようなものがゆっくりと浮いては沈んでいた。

「これは特別な香りでね。『夢の砂』といって、過去でも未来でもない場所に連れて行ってくれるんだよ」

 女は渡されるがまま、瓶を手に取った。

 光があたると、中の液体がかすかに揺れて、まるで何かが呼吸をしているようにも見えた。

「香りは人の心を映すとも言われている……。どうだい?旅の記念に、安くするよ」

「……これ、ください」

 気づいたときには、女はもう財布を開いていた。

 老女は小さく頷きながら、こう口にした。

「使うときは、静かな夜がいい。心が静まったときに、この香りは応えてくれるはずさ」

「ありがとうございます」


 その日の夜、大都会に戻った女はさっそくテーブルの上に小瓶を置いていた。

 部屋の空気が、なぜだかいつもより冷たく感じていた。

 明かりを消して、そっと瓶の蓋を外すと、甘くも異国めいた香りがふわりと広がっった。スパイスと花が混ざり合ったたような、どこか記憶の奥をくすぐる香りがした。

 「……いい香り」

 そう呟いて、息を吐く。


 その瞬間、世界が音を失った。

 部屋の壁がゆっくりと色を変えて、柔らかな光が滲んでいく。風がどこからか吹き抜けては、砂の匂いを運んできた。


 目を開けると、そこは見知らぬ部屋だった。砂色のカーテンに低い天井、奥にはランプのような灯りがともっていた。


 そして、見知らぬ男がそこにはいた。

 褐色の肌に、黒い短い髪。琥珀色の瞳が、女のことを静かに見つめていた。

 言葉はなく、ただ彼はゆっくりと彼女の手を取った。その指先は、驚くほどに温かだった。そしてためらいもなく肩へ、背へと触れていく。優しく確かな動きで、男は女の疲れを解きほぐしていく。


 現実では、感じたことのない安らぎだった。


 その心地よさに思わず瞼を閉じてみれば、心の中にあったざらつきが砂のように溶けていくような気がした。

 ——これは、夢?それとも現実?


 女は、何も言うことができなかった。けれど、不思議と涙がこぼれていた。

 その夜、女は久しぶりに深い眠りについていた。


 翌朝目覚めると、部屋はいつもの白い壁に戻っていた。

 香水の小さな瓶だけが、静かに机の上にあった。ほんのりと、砂の香りが残っているような気がした。



 その日以来、女は夜が来るのを待つようになっていた。

 日中は、普段通りがむしゃらに働いた。書類の束、上司の指示、同僚の笑い声。そのどれもが、女にはまるでどこか遠い世界の出来事のように感じられた。


 いつものように帰宅すると、すぐさま部屋を暗くして香水の瓶を掌に包みこむ。

 息をひと吹きすれば、たちまちに世界が反転する。白い壁は砂色に、窓の外には見知らぬ夜風が流れはじめる。

 そして、男の姿が浮かび上がる。

 言葉を交わすことはなかった。

 ただ、彼はいつも彼女の側に立ち、そっと手を差し伸べる。その手が触れるたびに、琥珀色の瞳を見つめるたびに、胸の奥に溜まっていた痛みが少しずつほどけていくような気がした。


 ——この香りに包まれていると、すべてが許されるような気がする。



 ある夜、男が少しだけ口を開いた。

「……あなたの世界は、どのような香りがしますか?」

 低く、砂のようにやわらかい落ち着いた声だった。

 驚きのあまり、女は何も答えることができなかった。

「……かおり?」

 男は目を細めて、ゆっくりと頷いた。

「香りは、心と記憶をつなぐもの。だから、あなたがどのような世界にいるのか——その香りでわかるのです」


 女は、少し考えた後にこう伝えた。

「コーヒーの香り、かな。朝の。でも最近は、何も感じない。疲れて、慣れて、何もかもが同じになって……」

 男は、静かに目を閉じた。そして女の手を取り、自身の胸元へと導いた。

「大丈夫。あなたの香りは、まだ生きています」

 その言葉が、女の胸の奥底に深く深く落ちていった。


 その夜、女は初めて男の名前を知りたいと思った。

 しかし男は、決してその名を告げることはなかった。ただ微笑みながら、風のように女の髪を撫でるだけだった。


 現実の世界でも、女の身には少しずつ変化が起きていた。

 朝のコーヒーを淹れたとき、かすかにその香りが蘇るようになっていたのだ。

 通勤電車の窓から差し込む光の中にも、目には見えないかすかな温もりのようなものを感じていた。女の心の奥には、砂色の風が吹いていた。


 それでも、日々は流れるように過ぎていく。

 上司の叱責、終わらない残業、冷めたコンビニの弁当。夜、机に突っ伏して泣いた日もあった。そのたびに、女は香水の瓶を手に取った。香りを振りまけば、名前も知らない男がそこにはいるのだから。


 ——大丈夫。あなたの香りは、生きています。


 優しさを含んだ声が、何度も女を救っていた。男は、ただ静かに女の背に腕を回していた。時には女にせがまれて、頬を撫で、触れるだけの口づけをする時もあった。女はうっとりと目を細めて、男の首に腕を回していた。


 ある日、ふと気づく。

 瓶の底が透けて見えるほどに、香水の量が減っていた。


 蓋を外したとき、その香りがいつもより弱く感じられた。ひと吹きしても、世界がすぐには変わらない。風も、光も、遠く霞んでいるように見えた。

 それでも、男はいた。淡い色の光をまといながら、いつものように微笑んでいた。

「……あなたの世界は、もうすぐ香りを失います」

 どこか悲しげに、男が告げた。

「どうして?」

「香りが終わるとき、夢は目を覚まします。それでも、目覚めのあとに残る香りこそが、本当のものなのだと私は思うのです」

 女は、何も言えなかった。ただ強く、彼の手を握りしめていた。

 けれどもその温もりが、ほんのわずかに透けていることを感じ取っていた。


 最後の夜が来た。

 瓶の中には、ほんの一滴しか残っていなかった。

 女は部屋の明かりを落として、深く息を吸い込んだ。

 そしていつものように、蓋を外した。


 その瞬間、どこかで誰かが呼吸をしたような気がした。女は迷わず、大きく大きく息を吐いた。琥珀の光が、部屋一面に広がる。どこか懐かしいような風が、やさしく頬を撫でた。

 そして、男が立っていた。

 これまでよりも遠く、けれども確かにそこに男はいた。その輪郭は薄く、今にも光に溶けてしまいそうなほどだった。

「……あなたに会えて、よかった」

 女がそう言うと、男は微笑んだ。

「香りは、あなたの中に残ります。私ではなく、あなた自身の香りとして」

「でも、あなたがいなくなったら……」

「私は、香りの記憶。あなたが誰かを想い、何かを感じるたびに、またここに姿を現すでしょう」

 女は一歩、男に近づいた。しかし足元の砂が音もなく崩れ、彼の姿が霞んでいく。

「待って!まだ——」

 女の額に向けて、男は静かに唇を寄せた。

 その笑顔は、最初に出会った夜と同じものだった。

「ありがとう」

 その声が、香りとともに消える。


 次の瞬間、女を取り囲んでいたすべての世界が静かに崩れていった。砂の部屋、光のカーテン、すべてが溶けるように消えていく。

 わずかな香りと温もりだけを残して。


 目を開けると、そこは何の変哲もない女の部屋だった。

 机の上の香水瓶の中には、もう何もない。けれども、不思議と涙は出なかった。


 カーテンを開けると、朝日が差し込んでいた。その光の中に、かすかに男の姿が見えたような気がした。

 女はひとり、微笑んだ。香りがしなくても、胸の奥には確かなぬくもりがあった。それは彼が残した「記憶の香り」。

 再び目を閉じると、砂の風が頬を撫でたような気がした。


 ——ありがとう。


 その日、女は初めて早く会社に向かうことにした。

 コーヒーを淹れると、懐かしい香りがふわりと立ちのぼる。その香りが胸に広がった瞬間、涙が一粒だけこぼれた。

 それは悲しみではない。

 心のどこかで、確かに何かが満たされていた。


 記憶の香りにいだかれて、女は今日も生きていく。


END

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