ぼくの一番大切な人3
「おばさん!」
目元が赤くなり、憔悴しきった顔をしたおばさんが、おもむろに顔を上げる。
「優馬くん……来てくれたのね」
「はい、伊藤くんは……」
「今夜が峠ですって」
「なんでですか? 植物状態でも何十年か経ってから目を覚ます人だっています。手足を動かしたり、目や口を開く動作ができないだけで意識がある人も……」
すると、おばさんは鼻を鳴らし、天井を見上げた。
「心臓のほうが弱くなっているそうよ。あの子、私のお腹にいたときも心音が弱くなって死にかけたことがあるの。だから……」
そんな話は彼から聞いてない。
いつだって笑顔だったし、高校時代も、つきあっているときも病気になって苦しんでいる姿を一度だって見たことがなかった。
ぼくが呆然として、なんでと思っていると、彼女は立ち上がった。
「ごめんなさい。娘たちの面倒も見なきゃいけないし、仕事もあるから私は帰るわね……」
「妹さんたちは、どうしていますか?」
「あの子が帰ってくると今も信じてる。『お兄ちゃんに、どれだけがんばったか見てもらうんだ』ってふたりとも、卓球の大会に臨んでるわ」
「そう、ですか……」
彼女たちがここにいないのは現実から目を背けるためじゃなく、兄が自分たちのところへ戻ってきたときに成長ぶりを見てもらいたいからだという理由に、なんともいえない気持ちになり、息が詰まった。
「病室は変わってないわ。看護師さんたちにも伝えてあるから『友だち』でも入れるようになってるからね」
「……ありがとうございます」
「それじゃ」
後ろ髪を引かれるようにして彼女は病院を出ていった。
ぼくはエレベーターのほうへ向かい、ボタンを押す。
数秒待っていると中から、ほかの患者さんのご家族らしき人たちが出てきた。ハンカチで頬に流れる涙を拭ったり、強張った表情をしていた。
全員出ていったのを確認してから数字のボタンを押し、扉を閉める。
ひとり金属でできた箱の中で彼のことを考える。
人がやってこないと判断したミドリが口を開いた。
「さっきのおばさん、誰? どこかで見覚えがあるけど……」
「きみのお母さんだよ」
「お母さん?」と彼は不思議そうな声で、つぶやいた。「おれを作ったのは優馬なのに、おれにお母さんがいるの?」
その発言にひどくショックを受けたぼくは口をつぐんだ。
「優馬?」とミドリが話しかけてきても唇を閉ざしていた。何か言おうと思ったら、その瞬間に涙がこぼれてしまいそうだったから……。
扉が開くと、すぐにナースステーションに向かい、近くにいる看護師の女性に挨拶をする。
「伊藤くんの友人の春日です」と伝え、彼に会わせてほしい旨を伝えたら、「会いに行ってあげてください」と眉を下げ、口元にかすかな笑みを浮かべた。
ピコン、ピコンと心電図の音がする。ご老人の男女が何人もベッドで寝かされている中で、二十代半ばの彼の姿は明らかに浮いていた。
口元に酸素マスクをつけられ、腕には管がついている。点滴が一定期間、ぽつんぽつんと下へ落ちてくる。
看護師の方がカーテンでしきりを作ってくださったのに会釈し、ベッドのそばにある丸椅子に腰掛けた。
カバンの中にいたミドリを出して彼の顔が見えるようにする。
「この人、誰?」
困惑した様子でミドリが訊いてくる。
「伊藤碧。きみのモデルになった人で、ぼくの一番大切な人だよ」




