ぼくの小さな恋人2
「始業一時間前に会社にいねえおまえが悪いんだろ。課長や部長がおまえくらいのときは二、三時間前に来て朝の清掃を買って出たんだからな」とネチネチ叱られたのを思い出し、胃の縁がキリキリ痛み始めて顔が自然と歪んだ。
「どうしたの、優馬? 平気!?」とミドリが、その場で慌てふためく。
――『ねえ、優馬。本当にそれでいいの? おれは優馬の身体のほうが心配だよ』
今にも泣きそうな顔をして、ぼくに話しかけてきた彼を思い出し、胸まで痛み始めた。
「大丈夫だよ、大丈夫」
これ以上ミドリに心配を掛けたくないから、そんな発言をしたのか、それとも元気になる呪文を口にするように自分に言い聞かせているだけなのか、よくわからないなと我ながら思ってしまう。
「本当? 嘘ついてるわけじゃないよね?」
「本当だよ。ミドリが笑っている顔を見られれば、それだけで元気になるから」
作り笑顔を顔に貼りつけ、目の前にいる彼に笑いかける。
明るい紅茶色の髪に触れた。色は、どんなに本物に似ていても手触りが違うことに違和感を覚え、どうしようもなくさびしい気持ちになった。
「そろそろ寝ようよ。明日も早いし」
「……うん、そうだね。優馬、おやすみ!」
「おやすみ、ミドリ」
ぼくはパジャマに着替え、ミドリ木製の手すりを掴みながら階段を上っていった。ドールハウスの二階に上り、ベッドルームでバスローブに着替え、折りたたんだワイシャツとスラックスをベッドルームの机の上に置く。
ドールハウスの証明を消し、代わりにベッドルームに設置されているスタンドライトをボタンを押してつける。ほのかに明るくなった部屋でバスローブ姿のミドリが、たたずんでいる。
「どうしたんだ? やっぱり、その格好だと寝づらい?」
「ううん、違うよ。優馬のおやすみのキスを待ってるんだ」と目を閉じ、唇を突き出した。
彼の発言に面食らった。同時に彼は感情が高ぶると突然ハグをしてきたり、手を触ってきたりとつきあう前からスキンシップが大好きな人で、ぼくと恋人になってからは毎日のようにしてきた(それをうれしいと思えど、わずらわしいと思ったことは一度だってない)。一緒に寝るときは、いつだっておやすみのキスを求めてきたのを思い出す。
花びらよりも小さな薄紅色の唇を凝視しながら、ぼくは首をかしげた。
目を開けた彼は首の後ろを掻きながら困ったような笑みを浮かべた。
「お風呂には入ってないけど、顔もきれいに拭いたよ。……やっぱり人形とするのは抵抗感ある?」
「抵抗感はないよ。でも、きみと、どこまでできるのかな? って純粋に思って……」
「『どこまで』って?」
「エッチなこと」
ミドリは大人の男性や女性用に作られた等身大の人形ではないから性器はもちろんないし、乳首も色がついてない。先ほど身体を拭いているときに、チラッと見たから、彼の身体がどうなっているかわかってる。
でもぼくがミドリを作ったとき、目の開閉はできても、口の開閉はできなかった。今は声帯もついてないし、歯もない唇を開閉して流暢にしゃべっている。謎だ。
ぼくは彼がうちにやってきたり、お泊りデートをしたとき、ただ一緒に寝ることもあれば性行為を行うこともあった。何度も夜をともにして互いの身体をまさぐり、高め合い、体液を口にした。
お互いに仕事が休みの日は男女のように抱き合い、欲望を彼の奥に何度も注いだ。
ミドリはそこら辺はどうなのだろう? と思っていれば、小さな枕やケサランパサランのぬいぐるみがぼくの顔面に飛んできた。
「優馬のバカ、変態! むっつりスケベ……!」と定型的な罵り言葉で罵倒される(見ず知らずの人間や会社の先輩たちに言われれば傷つくこともミドリに言われると、なぜか傷つかないどころかデレッと顔がにやけそうになる辺り、ぼくはミドリ限定のMなんだなと実感させられる)。
「ミドリはそういう気持ちないの? ぼくはきみの身体中にキスしたり、舐めたいって……」
「ないよ! おれ、人形なんだから……まさか優馬、人形にだったらなんでも構わず欲情するようなやつだったの?」
あらぬ誤解を掛けられ、引かれる。
顔を強張らせ、隅っこで身を縮こまらせながら、ミドリが「ひどい……」と泣き真似をした。
「いや、ミドリ限定で発情する、ただの男だ」
きっぱり弁明したのに、まずいご飯を食べたときのような顔をして、こちらをジト目で見てくる。
「でも、きみがいやがるなら何もしない。おやすみのキスだけで済ませるよ」
ハムスターが警戒しながら、ひまわりの種を持っている手に寄ってくる様子でミドリがやってくる。
「ほんと?」
「約束するよ。きみがいやがることはしない」
「……約束だからね」
そうして、ぼくたちは触れるだけのキスをして眠りについた。
翌朝、会社に行きたくないなとゲンナリしながらも、けたたましく鳴る目覚ましを止めて身を起こす。
昨日、ミドリがぼくのところに現れて一緒に買い物へ行ったり、会話をしたのは全部、夢だったのかなと目を擦りながらドールハウスのドアをノックする。




