純穢
地底特有の陰鬱な水けを含んだ空気の中、冥府の王プルートーは玉座にて大きくため息を吐いた。
目の前にはまだ年端も行かない少女がいる。
豊穣の女神ケレースの一人娘プロゼルピーナであった。
赤髪の少女はプルートーの気も知らずに、物珍しさに目を輝かせて周囲を見回している。
まったく、ユピテルの気まぐれにも困ったものだ。
「お前もそろそろ身を固めてもいい頃合いだ。私の娘を娶るといい」
そう言って、兄は冥府に一人の少女を連れてきた。
初めて訪れた冥府だというのに、死の気配をものともしない無垢な少女であった。
プルートーは眉をしかめた。
彼女からは地上の、太陽の匂いがする。
「お初にお目にかかります、プルートーさま。ケレースの娘プロゼルピーナです」
あどけない笑みを浮かべ、ドレスの裾を持ち上げて挨拶をする少女の、その髪の色、瞳の色に、プルートーはずっと見ていない太陽を想う。
――かつて、自分が冥府の王となる前に見たそれを。
もうどれだけの輝きだったかも思い出せないけれど、きっとそれは彼女の笑顔のようなものだったろう。
この生において、自分が太陽を見ることはもう二度とない。
冥府の王は痛む頭で思わず天井を仰いだ。
彼は誰かを愛し、愛されるなど考えることすら罪だと思っている。
ましてや結婚などもっての他で、誰かを自分と同じ立場に追いやろうなど考えたこともなかった。
身も心も亡者になるつもりはない――望まぬまま冥府に就いたとはいえ、それは王としての矜持でもあった。
(望まなければ絶望することもない)
冥府の王プルートーは目を閉じて、気持ちを落ち着けようと試みる。
けれどそれも少女の声ですぐに引き戻されてしまう。
「わたくし、喉が渇きましたわ」
プロゼルピーナの目が、玉座の傍にある卓に向けられている。
そこには皮をむかれたザクロの、まるで宝石のような果肉が皿の上で輝いていた。
「どうせすぐに迎えが来る。我慢しなさい」
「わたくし、お腹が空きましたわ」
少女のもの欲しそうな目がプルートーに向けられたが、プルートーは首を横に振ってそれを許さない。
「これらは死者の世界の穢れがこびりついているから、ここにあるものを口にしてはいけないよ。
冥府の住人になりたくないのなら」
少し強めに言うと、プロゼルピーナは腹立たし気にプルートーを見た。
「わたくしがどうしてここに来たのか、ご存じですよね」
高圧的な物言いが兄を思わせるものだから、プルートーは思わず苦笑いしてしまう。
「どうせ兄はケレースの許可も取りつけず、思い付きで連れて来たのだろう」
亡者の王に娘を嫁がせることに同意する母親がどこにいる。
「君はすぐに地上に戻ることになる」
そう告げて、娘から目を逸らす。
「お父さまからあなたの話を聞いて、ずっと逢ってみたいと思っていましたの」
小さな声ではあったが、彼女の声はまるで楽器のように広間に響く。
プルートーは自身の心が揺れ動かないよう、注意深く息を吸った。
「それは……碌な話を聞かなかったと見える」
自嘲気味に笑うと、今度はプロゼルピーナが眉をひそめた。
「お父さまはプルートーさまのこと、本当に心配していましたのよ」
「残念だが、兄の気持ちで何が変わるというものでもない」
ユピテルが自分をどれだけ心配しようが、現実として自分は冥府に封殺されているのだ。
――何も望まず、ただ静かに暮らしたい。
「それでね」
プロゼルピーナはギュッとドレスの裾を握る。
「……わたくし、プルートーさまのお嫁さんになってもいいって思ったの」
やめてくれ。それは同情だ。憐憫だ。
自らに向けられるそれらの感情には辟易している。
そんなものは欲しくない。
「兄の気まぐれで、君が犠牲になることなどない」
「もっと簡単に考えてくださっていいのに。
眉間に皺ばかり寄せて、そんなのつまらないじゃない」
プロゼルピーナが玉座へと近づいて来る。
「私は冥府の王だ」
プルートーは近づくプロゼルピーナを、制しながら告げる。
「この身には瘴気が纏わりついている。近づいてしまっては、君の体が穢れてしまう」
「可愛そうな人……」
ついに玉座の前までやってきたプロゼルピーナが、プルートーの顔に触れる。
反射的に冥府の王はその柔らかな手を弾いた。
広間に乾いた音が響き渡る。
「すまない」
唖然としているプロゼルピーナに、気まずそうに王が謝罪を口にする。
プロゼルピーナはプルートーをキッと睨みつけると、そのまま駆け足で広間を出て行ってしまった。
プルートーは侍女に彼女の世話をするように伝え、ゆめゆめ冥府のものを口にさせないよう注意してから、重い瞼を閉ざした。
玉間に、何度目かの大きなため息が響く。
それから数日も経たないうちに、地上から兄の使者が訪れた。
地上は豊穣の女神ケレースが大事な一人娘を探し彷徨っているために、草花作物は枯れ果て、太陽は暗雲に隠され、雪が降り始める始末だという。
もはや未曽有の大災害である。
使者はプロゼルピーナがまだ冥府の住人となっていないことを知ると、心底ほっとしたような表情を浮かべた。
プルートーはすぐにプロゼルピーナを呼び出して、地上のことを伝えて言った。
「さぁ、母親のもとに帰る時間だ」
「イヤよ、帰りたくないわ」
プイとそっぽを向くプロゼルピーナに
「みんな困っているんだ。我儘はいけないよ」とプルートーが優しく諭す。
「言ったでしょう。わたくし、プルートーさまのお嫁さんになるって」
「地上に戻って、好きな神でも英雄でも選ぶがいい。
好き好んで死者の王に嫁ぐ必要なんて、どこにもない」
「どうせいつか誰かの物になるのなら、わたくし、あなたがいいの」
少女のまっすぐな瞳が、燃える炎のような瞳がプルートーを射抜く。
期待したことはない。
誰かを好きになるだなんて、考えたこともない。
だから、彼女と一緒になる未来は見ない。
かろうじて首を横に振ると、プルートーは「帰りなさい」と掠れた声で告げる。
「わたくし、怒ってますのよ」
ツカツカと音を立ててプロゼルピーナが近づいてくる。
彼女を制する気力は、もうプルートーにはない。
少女が手を振り上げる。
平手打ちで気が済むのなら、甘んじて受け入れよう。
プルートーはその白くしなやかな手を眺めたが、いつまでもその手は振り下ろされない。
憮然とした表情のプロゼルピーナが何を思ったのか、ニヤリと笑う。
まるでイタズラを思いついた子供のように。
彼女は振り上げた手を、サッと卓に置かれたザクロに向けて振り下ろす。
プロゼルピーナの意図を理解して、プルートーが「やめろ」と叫ぶ。
「これがわたくしの覚悟です」
言うや否や、プロゼルピーナはザクロの実をひとくち、口に含める。細い喉が嚥下する様子が、まるで時間の流れが堰き止められているかのようにゆっくりとプルートーの目に映る。
あまりにも突然のことにプルートーは動くことができなかった。
仕舞い込んだはずの感情が、彼の身の内で暴れ出す。
ふたくち、プロゼルピーナが宝石を口に含める。
プルートーは止めようと思えば制することもできただろう。けれど、動けなかった。
彼女が自身を想ってくれている感情が、嬉しくすらあった。
――認めてしまおう。プロゼルピーナの覚悟、誰かと愛し合えることを嬉しく思ってしまった。
みくち、ザクロの実を口に含める。
ああ、太陽の乙女が冥府へと沈んでしまう。
絶望と悦びが胸の内で渦を巻いている。
自分でもどうしていいかわからずに、プルートーはプロゼルピーナを抱きしめた。
彼女の体温と赤い髪を間近に受けて、太陽を想う。
だから、これ以上
どうしても彼女を穢したくなかったから、
「もうやめてくれ」
プルートーは泣きながら懇願する。
「ずいぶんと情熱的な抱擁だこと」
勝ち誇った笑みを浮かべて、プロゼルピーナがまるで子供のように泣きじゃくる冥府の王を抱き返す。
「自分が何をしたのかわかっているのか」
プルートーの問いに、愛らしく声を立てて笑うと
「わたくし、あなたの妻になりましたの。
プルートーさまは、わたくしの夫になりましたのよ」
とプロゼルピーナは彼の耳元で囁いた。
ずっと蓋をしていた感情があふれ出す。
認めてしまえばもう戻れなかった。
プルートーは彼女の体を離して、優しく告げる。
「さあ、君はあの使者とともに地上に戻らなければならないよ。支度をしなさい」
プロゼルピーナが不満を顔に浮かべる前に、冥府の王は続けて言う。
「君はみくち、その冥府の果物を食べてしまった。
一年のうち三か月は、私の妻としてここで過ごさなくてはならないよ」
その言葉に、プロゼルピーナは満面の笑みで頷いた。
「ただいま戻りました」
冥府へと帰ってきた赤髪の乙女が、闇の向こうへ声をかける。
「おかえり、プロゼルピーナ」
冥府の王が彼女を迎え入れる。
朗らかなその表情に、かつての苦悩に満ちたものはもう見られない。
「あら、あなた。笑えるようになったじゃないの」
冥府の女王が、優しく微笑んだ。