第70話 料理と、えいようそ?
ニナの指示のもと、血で汚れた侍女服を着替えるファイ。次に部屋から出てきた彼女は、寝間着姿だった。
「(……むぅ)」
もこもことした吸湿性・吸汗性に優れた黒い寝間着のまま、ファイは密かにむくれる。
『ご飯を食べた後、8時間? 寝てきてくださいませ』
それが今回、ファイに与えられた命令だった。
確かに、そろそろ睡眠を言いつけられるころだろうとは思っていた。エナリアに戻って来てからかれこれ12時間以上。ウルンでの活動時間も考えると、睡眠せずに行動している時間は軽く48時間を超える。わずかな思考力の低下を、ファイ自身も感じていた。
それでもまだまだ活動できる。誰もが幸せになれるエナリア作りには、モノとヒトが足りない。魔獣だけは揃っているという話だが、通信用のピュレの開発などはまだ発展途中だという。
ニナのために、睡眠時間を削ってでもたくさん働きたい。そんなファイの想いとは裏腹に、あの小さな主人はファイに無理をさせてくれない。その点だけは、ファイがニナに抱く数少ない不満だった。
(……私に心は無い。だから不満もない、けど!)
などと心の中で言いながら、見る者が見れば不満たらたらの顔で歩き出すファイ。パタパタとなる館内靴は着脱しやすくて履き心地も良い一方で、激しい動きには適さない。寝間着も含めて「今日はもうこれ以上指示を与えません」と言われているようだった。
暗い気分のまま調理場へと足を向けるファイ。実はファイが1人で料理をするのは今回が初めてだ。これまでは主にルゥが作ってくれていたが、彼女も別に暇というわけではない。ニナの命を受けてしばらくファイの面倒を見てくれていたが、それももうお終いだ。
これからはファイが自分で、自分の食べる料理も作っていかなければならなかった。
(なに、作ろう?)
これまでいくつか見せてもらった調理の風景。それらから、自分でもできそうなものを思い返す。記憶と再現――学習はファイの得意分野だった。
問題は、ファイが自分で何を作るのかを決めなければならないということだろう。
確かにファイはここ最近、自分の意思で選び取ることを何度か経験した。エナリアに戻る選択肢を取ったことが最たる例だろう。ただ、自分の意思で何かをする、ひいては“人間としてのファイ”を出すことはまだまだ苦手だ。
もちろんニナもそれを知っているはず。だというのにニナは、ファイに自由意志を求めてきた。自分で決めて、自分でするように言ってきたのだ。
(きっとそこに、ニナの意図がある)
ファイは、ニナの言うことに従っていれば優秀な道具――幸せ――になれると信じている。いや、信じたい。だからこそ以前のように「ニナが決めて」というのではなく、弱い自分のまま考えて、前に進もうとしていた。
そうして自分の意思で懸命に献立を考えたファイは、
(……お砂糖を溶かしたお湯が良い、かも?)
大好きな砂糖を効率よく摂取できる料理を考えつく。自分の好きなものを好きなだけ食べられる。そう思うと少しだけファイの気分も上を向く。
初めての料理を頑張ろう。そう意気込んだファイが調理室の扉を開くと、そこには先客が居た。
金色の髪と、黒毛の耳と尻尾を揺らすミーシャだ。
今の彼女は侍女服姿ではない。半袖の上衣と、ダボっとした丈の長い下衣という姿だ。髪も下ろしていて、ゆるく波打つ金色のクセ毛が明るい夜光灯の光を返している。そんな彼女は、まだ少し不器用さの残る手つきで肉叉と小刀を使って焼いた肉を食べていた。
「ミーシャ」
「あら、どうしたのよファイ? 何か用?」
食事の手を止め、ファイに緑色の瞳を向けてくるミーシャ。緩やかに揺れる尻尾とこちらに向けられた三角形の耳は、“興味”を示している。
「お料理しに来た」
「そう。火を使うなら気をつけなさいよね」
「うん」
ミーシャからの忠告に頷いたファイ。取っ手のついた小型の鍋を調理台の下から取り出し、蛇口から水を灌ぐ。それをエナで動く加熱台の上に置いて、点火。こうして一度水を沸騰させなければお腹を下す可能性がある。それを教えてくれたのはやはり、ルゥだった。
(“ふっとう”の準備、よし。あとは……)
ファイは、調理台に置かれている砂糖の入った箱――ではなく、新品の砂糖の袋を取り出す。ニナ特製の手作りお砂糖ではなく、市販されているごく一般的なものだ。その袋の封を包丁で切って、1㎏丸ごと鍋に放り込む――直前で。
「ま、待ちなさい、ファイ!」
いつの間にか隣に来ていたミーシャが、砂糖の袋を持つファイの腕を止めた。
「一応聞くけどアンタ、なに作るつもり?」
「……砂糖水?」
「砂糖水!?」
尻尾と耳をピンと立てて驚いた様子を見せるミーシャに、ファイは自分が何か間違っていたことに気付く。
「……あっ。砂糖水じゃなくて、砂糖お湯だった」
「いや、そこじゃないのよ……。っていうか、ニナ達に何か言われたんじゃないの?」
どうやらミーシャは、ファイが誰かの命を受けてここに来たと思ったらしい。料理についても、誰かに言われたものを作るのだと思っていたようだ。しかし、そうではないことをファイが明かすと、
「そりゃあこうなるわよね……」
と、ミーシャに呆れられてしまうのだった。
「いい、ファイ。食事はただ好きなものを食べればいいってものじゃないの。栄養素を考えないと」
「えいようそ?」
「ええ、そう。簡単に言えば、お肉、野菜、それから穀物。この3つをきちんと食べないとダメよ」
牙を覗かせながらこちらを見上げるミーシャの説明を、ファイもそういうものなのかと記憶していく。
「あと、お湯に砂糖をぶち込んだだけの物を料理とは言わないし、それを飲むことは食事じゃない」
「そうなんだ……」
「ええ、そうよ。だから、ほら。アタシも手伝ってあげるから、一緒に料理しましょ?」
ミーシャからの思わぬ提案に、ファイの金色の瞳がきらりと輝く。
「いい、の? ミーシャ、ご飯の途中」
振り返ったファイの視線の先には、ミーシャが食べかけているお肉が残っている。料理は温かい方が美味しいことを知っているファイは、不味くなってしまうのではないかと思ったのだ。
しかし、ミーシャは気にするなと首を縦に振る。
「良いのよ。アンタが料理でもない料理を作ってるって思ったら、それこそ心配でご飯の味がしなくなっちゃうもの」
「う……。それは、良くない」
美味しく頂くことこそ、奪った命への礼儀だというのがファイの認識だ。自分の不手際でミーシャが命を粗末にすることなど、あってはならない。ましてやファイを心配しないはずのミーシャが「心配だ」と言ってしまうくらいには、自分が料理に関して無知であるらしいことも察したファイ。
今後、心配などされないように、ここは素直にミーシャの助力を乞うことにした。
「えっと。それじゃあ、よろしく?」
「ええ。ただ、ニナの考えは尊重したい。だからなにを作りたいか……って言うと難しいわよね。どんな料理が食べたいのかは、ファイが決めて」
具体的な料理名ではなく、どのようなものを食べたいのか。ファイが答えやすいように聞いてくれるミーシャはやっぱり優しいと、ファイの胸も温かくなる。
一方で、自分の意思で何かを決めるのはともかく、それを対外的に言葉にするのはまだファイにとってはすごく抵抗がある。
「……ミーシャが決める、は、ダメ?」
「ダメじゃないんでしょうけど、それだとニナがアンタを放り出した意味が……あっ」
良いことを思いついたと言わんばかりに、口元に笑みを浮かべたミーシャ。
「こういうのはどう? アタシが3つ料理とその味付けを言うから、ファイは何番が良いかだけを言うの。簡単でしょ?」
ミーシャが言ったそれは、ファイが0から答えを出すのではなく、そこにある物を選び取るというものだ。それはファイが知らず知らずのうちに抵抗なく受け入れられるようになっている「はい/いいえ」の問答とよく似ている。
しかもファイにとっては、“感情を排して”適当に選んだだけという道具として都合の良い言い訳もすることができる。
「さすがミーシャ。私のこと、よく分かってくれてる」
「ふ、ふんっ。おだてても無駄なんだから」
などと言いながらも、ファイはミーシャの背後でご機嫌に揺れる尻尾を見逃さない。
「コホン! それじゃあ、ファイ。アタシが知ってる中でアンタでもできそうな料理を言うわね。最初は――」
こうしてファイは、人生で初めて自分が選んだ料理を食べることになった。




