第62話 帰って来たんだ、ね?
第20層に戻りながら、近況の報告をするファイとニナ。主にニナのせいで話があっちへこっちへ行くのだが、ファイにはそれがひどく心地よい。そのせいか、数時間もかかっているはずの最深部への道のりが、ファイには本当に一瞬のように感じられた。
そして、20層に着いてもニナの笑顔は変わらないままで、楽しそうにファイに話しかけてくる。
「それでその時、ルゥさんがそれをこうすると、あっちの方でぶわーっとなりまして!」
目を輝かせながら、身振り手振り満載で話すニナ。しかし興奮のあまり指示語や擬音語が多すぎて、さすがのファイも理解力の限界だ。
「ごめんニナ。ちょっと話が分からない。もう1回――わっ」
落ち着いてニナの話を聞かせて欲しい。そう言おうとして廊下の角を曲がったファイを襲う、小さな影があった。
とっさにその軽い身体を受け止めたファイは、腕の中に収まる人物へと目をやる。金色の髪に黒毛の耳。ファイのお腹に顔をうずめてスリスリしているため顔は分からない。それでも、甘酸っぱい果物のような香りと収まりの良いこぢんまり感は、彼女が誰であるのかをファイに知らしめるのに十分だった。
「――ミーシャ?」
ファイが問いかけても、ミーシャが身を離すことは無い。ファイの腰に腕を回したまま、やはり顔をこすりつけている。今日は髪を下ろしているらしく、特徴的な“馬尻尾”は見当たらない。その代わりに揺れるのは、やや波打つような癖のある首辺りまでの金髪だ。
その柔らかそうな金色の髪にファイが振れようとすると、ちょうどミーシャの小ぶりな鼻が当たる位置に、ファイは湿り気を感じた。
「ミーシャ……? もしかして泣いてる――」
「泣いてないっ!」
そう言ってファイを睨みつけるミーシャは、やっぱり泣いていた。
「ううん。泣いてる、よ? だって、ほら、涙」
ファイに涙をすくい取られてようやく、ミーシャは自分の顔を見られていることに気付いたらしい。再びファイの胸に顔をうずめたかと思うと、
「泣いてないったら、泣いてないっ! アタシのこと置いてどっかに行っちゃうファイなんて子、知らない! 心配なんて、してあげないんだから……っ!」
言って、尻尾と耳をしおれさせている。
(私、ミーシャに忘れられちゃった……?)
1か月だ。日付のナルンが1周しただけで忘れてしまうほど、ファイはミーシャにとっては気にも留めないような存在だった。そう言われたような気がして、ファイは――歓喜した。
「さすが、ミーシャ。徹底して、私を道具として扱ってくれる」
お前など、取るに足らない存在。ただの道具でしかないと言われた気がして、思わずファイの口元が緩む。その歓喜は知らぬ間にファイの身体を動かし、抱き着いているミーシャの頭を撫でてしまっている。
ただし、ファイがこのとき雑な扱いに喜ぶことができた根底には、ミーシャが見せてくれた涙がある。彼女の涙の意味――喜びを無意識に感じ取っているからこそ、ファイはこうして“雑な扱い”を喜ぶことができていた。
もしこの時ミーシャが何の反応もなしに、
『え? アンタ誰よ?』
と真剣な声の調子で言っていれば、ファイは膝から崩れ落ちていたかもしれなかった。
「えっと、ごめんね、ミーシャ。それから、私の名前はファイ。ウルン人の、人間族。よろしく――」
「知ってるわよ、ばかぁ……」
「……???」
覚えているのか、忘れているのか。どっちなんだろうかとファイが鈍感に疑問符を浮かべることができたのも、ひとえに。ミーシャが自分のことを心配してくれていると肌で感じ取っていたからだった。
と、ひとまずミーシャを泣き止ませようと腕を回したことで、ファイにはもう1つの疑問がわき上がった。
「……なんでミーシャ、裸、なの?」
そう。ファイに抱き着くミーシャは、なぜか素っ裸だった。ファイに抱き着いているためおおよそ大切な部分は隠れているのだが、そういう問題ではないと言うことくらいファイにも分かる。
(もしかしてガルン人は、裸で動き回るのが普通……?)
まだリーゼによる訂正がなされていないため、ファイの中ではガルンに唾液を飲むなどという謎の文化があることになっている。それを基準にした時、裸で動き回るのも普通なのではないかと考えられなくもない。
(そう言えばお風呂に入る時、ルゥも裸だった。けど、ニナは服を着て入ってた……?)
果たして何が正解なのか。悩むファイを救ってくれたのは、
「ま、待ってよ、ミーシャちゃん~!」
侍女服の裾を揺らしながら走ってきた、ルゥだった。見れば彼女の手にはミーシャのものと思われる侍女服と下着が握られている。
「急に走り出してどうしたの……って、ファイちゃん!?」
ようやくファイの姿に気付いたらしいルゥ。表情を一気に華やかなものに変えながら走って来ると、「んにゃっ!?」と鳴いたミーシャごとファイを抱きしめてきた。
「お帰り~!」
「うん。えっと、ただいま? ルゥ」
「うんうん! 少しぶり~!」
ファイがガルン語で帰還の挨拶を告げると、ルゥも嬉しそうな声で応えてくれる。全体的に肉付きの良い彼女の柔らかさ。そして、嗅いでいるとホッと安心してしまうような、清潔でまろやかな香り。ニナとはまた違う友人による抱擁を、ファイは優しい顔で堪能する。
が、少しして聞こえたニナの叫びで、友人との再会の時間は区切りを迎えた。
「ま、ままま……またルゥさんがファイさんの初めてを奪いましたわぁぁぁ~~~!」
エナリアに響くニナの涙声に、しかし、ファイとルゥの2人は首をかしげることしかできない。
「えっと、ニナ。何が、初めて?」
ファイが代表して主人に尋ねてみる。すると顔を上げたニナが、ファイ――ではなく、ファイと抱き合っているルゥを睨みつけた。
「ひどいですわ、ルゥさん! 『お帰り』と『ただいま』は皆さんで言おうと、そう約束したではありませんかぁ!」
「……あっ」
気付きの声を漏らしたのは、もちろんルゥだ。パッとファイから身を離し、傍から見ているファイでも分かるほどの冷や汗をかきながら、自身の“やらかし”についての釈明をはじめる。
「さっきのは、ほら。つい、って言うか、癖って言うか……」
「ファイさんの初めての『ただいま』を……。うぅ、ひどいですわぁ……。あんまりですわぁ~……!」
「あっ、待って、泣かないでニナちゃん! いや、ほんとにごめ……どうしよう、ファイちゃん!?」
そこで自分に振られても困るというのがファイの本音だ。ただ、とりあえず悲しんでいる人にはこうすれば良いというのは知っているため、
「えっと、よしよし?」
隣で泣いていたニナを空いている左手で抱き寄せ、頭を撫でてあげる。右手にはファイとルゥの間で窒息して目を回すミーシャ。左手にはなぜか泣いているニナ。正面にはいつになくうろたえているルゥ。状況はまさに混沌としている。
ただ、なぜかこの訳の分からなさや騒がしさを、ファイは心地よいと思える。黒狼に居た時に感じていた静けさと満ち足りなさが、ここには無い。ただひたすらに満たされて、安心してしまう。
この時ようやくファイは、自身がここに“帰って来た”のだと実感する。そして、気付けば。
「ただいま」
そう改めて、口にしてしまっている。
その時に見せたファイの表情に、ニナとルゥが大きく目を見開いたのち、
「お帰りなさいませ、ファイさん~」
「うん。改めて……お帰り! ファイちゃん!」
ニナは涙声で。ルゥは普段と変わらない様子で、それぞれファイを温かく迎えてくれるのだった。
「積もる話もあるけど、とりあえずはミーシャちゃんかな」
そう言ったルゥはファイから優しくミーシャを受け取ると、服を着つけていく。眠っているニナを着つけてきた経験もあるのだろう。恐ろしいほどに手際が良い。
「なんでミーシャは裸だった?」
「うん? 獣化の弊害、かな。ミーシャちゃんの場合、獣化すると小っちゃくなるでしょ?」
獣化したミーシャの姿――金色の毛並みに、尻尾や耳、手足の先が黒い猫――を思い浮かべながら、コクリと頷くファイ。
「そうやって獣化した時、服が脱げちゃうの」
聞けば、つい先ほどまでミーシャは人の姿だったという。しかし、鋭敏な聴覚や嗅覚でファイの帰りを感じ取るや否や、獣化して駆け出してしまったようだ。
「んで、ファイちゃんに会えてうれし~ってなっちゃって、獣化が解けちゃった、と。……はい、お終い!」
1分と経たずに眠っている人の着付けを終えるルゥの手際に密かに感嘆しつつ、ファイは結論を導く。
「つまり、獣化したミーシャは裸?」
「あはは……。まぁ、そうだね。動物の時は毛があるから気にする人もほとんどいないみたいだけど、そのまま人の姿に戻っちゃうと、さっきみたいに素っ裸になっちゃうってわけ」
「なるほど……」
獣化する分には問題ないが、人に戻るには場所を選ばなければならない。恐らくそういう話なのだろうとファイは話をまとめた。
「――じゃあ次は、ファイちゃんの番だね!」
「……え?」
こちらを見て目を妖しく光らせたルゥに、思わず困惑の声を漏らしたファイ。
「『え?』じゃない。ほら、行くよ。ニナちゃんも、ついでにミーシャちゃんも、起きて~」
「――んにゃっ!? ファイはっ!?」
ルゥの頬ペチペチを受けて、意識を取り戻したらしいミーシャが飛び起きる。
どこに行くつもりなのだろうか。分からないでいるファイの服の裾を引っ張ったのは、ニナだ。いつの間にか泣き止んでいたらしい彼女は、赤味の残る目元で笑うとファイの手を取った。
「ささっ、ファイさん! 黒狼さんとの因縁をきれいさっぱり濯ぎに参りますわよ~!」
それから数分後、ファイはここ1か月我慢していたアレを堪能することになった。




