第61話 命、大事に
ジメッとした空気。ところどころに生える夜光石がぼんやりと照らす洞窟。かつては緊張と共に足を踏み入れていたエナリアという空間が、ファイにはなぜか懐かしく感じられた。
「ん~……! 身体に新鮮なエナが満ちていきますわぁ~……」
などとのんきに言っているニナだが、彼女に抱かれるファイからすれば、どう見てもニナは重体だ。鼻血は言うまでもなく、今や目や耳からも血が滴っている。顔のそばで血の香りを感じたので目を向けてみれば、ファイを抱くニナの指先――爪の間からも出血していた。
そんな状態にもかかわらず笑っているニナの姿に、ファイは色んな意味で恐怖せざるを得ない。ニナに下ろしてもらうや否や、
「ニナ。大丈夫? 死なない?」
早口に言って、血まみれの顔を指先で拭ってあげる。が、そんなファイの手を優しくつかみ取ったニナは、
「細くて長い、しなやかな指。たくさん剣を振っていらした、少し硬い皮膚。ひんやりとした体温。……ファイさんの手、ですわ」
と、目を閉じながら感慨深げに言っている。何をしているのか。行動の意図が分からずに固まるファイの手を両手で包み込んだニナ。すると、ニナの体温とファイの体温が、指先からじんわりと溶け合いはじめる。
目を閉じてファイの手を堪能しているらしい主人に会わせて、試しにファイも目を閉じてみる。すると、手のひらの中にあるニナの熱に、より一層、集中できる気がした。
「……ニナの手は、あったかい、ね? 小さくて、フニフニ」
「まぁ! 嬉しいお言葉、ありがとうございますわ。ですがわたくしとしては、もう少し指が長くても良いと思うのです。それこそ、ファイさんの手のように」
ハッとしてファイが目を開くと、少し唇を尖らせる主人の姿がある。ニナは自分にないものを全て持っている。そう思っていたファイにとって、ニナが自分を羨むなどとは思いもしなかった。
そして、たとえ指先だけだとしても。ニナが羨ましい、良いといってくれる自分の手が、少しだけ誇らしく思える。こんな空っぽな自分でも、誰かが羨んでくれる。たったそれだけのことで、ファイは救われた気分だった。
「ありがとう。ニナ」
再び目を閉じて、手のひらの中にある幸せへと意識を向ける。そんなファイに対して、ニナも改めて感謝の言葉を口にする。
「こちらこそ、ですわ。戻って来てくださって、ありがとうございます。……もう、離しませんわ」
そう言葉にしたニナは、ファイの手を握る手に一層の力を込めたのだった。
そのまま、果たしてどれくらい手を握り合っていただろうか。
「……さて!」
ニナの元気な声で、ファイの意識は現実へと引き戻された。
「わたくしだけでファイさんを独占するわけにはいきませんわ。早くルゥさん達が待つ最深部に戻らなくては」
そう言って、ファイの手を引いて最寄りの“裏側”への入り口へと歩き始める。
「ニナ。前にも言った。私はニナのもの、だよ?」
「あっ、うっ……。それは、そうなのですがぁ……。そ、そういうことではありませんわぁっ!」
慌てた様子で、よく分からないことを言っているニナに、改めてファイは自身の取り扱いについて説明する。
「私の中の一番は、ニナ。だから、ニナの好きに食べて、ね?」
「そ、そう言えば、そういう話でしたわっ! ……ですが、わたくしね。落ち着いた今なら分かりますわ」
周囲に人が居ないことを確認し、壁に擬態させたピュレを押し込むニナ。そのまま扉の取っ手を探すようなそぶりを見せたかと思うと、すぐに扉が開かれる。そうしてエナリアの裏側への入り口がある小部屋へとたどり着いたファイは、ニナと共に天井に擬態したピュレを突破。数分後には、夜光灯が照らす無機質な廊下へとたどり着いた。
そのままニナと共にゆっくりと第20層へと降り始める。
その長い道中の会話。その始まりとして、ニナはお互いの間にあるだろう勘違いの訂正を始める。
「ファイさん。もしかしなくても、わたくしがファイさんを食べるために迎えに来た。そう考えているのですわね?」
「そう言った、よ? ニナも、頷いてた」
今さらどうしたのだろうかとニナを見つめるファイに、ニナは「やっぱり、ですわね」と苦笑する。が、すぐに眉を少しだけ吊り上げると、心外だと言わんばかりにファイを見てきた。
「良いですか、ファイさん。何度も申し上げますが、わたくし達……少なくともこのエナリアにいるガルン人の方々は、あなたを食料として見ておりません」
それだけではなく、ウルン人を食料として扱うことすらも禁じているのだとニナは語る。それは、食べるという行為だけを禁じているだけではない。ウルンの人々を食料として見たり、考えたりすることもやめるようにお触れを出しているという。
「それを理解してくださっていれば、わたくし達がファイさんを食べる、などという発想にはならないはずなのです。……そもそもわたくし達がファイさんを食べると思われていることが、心外ですわ!」
「あ、ぅ……。ごめんなさい……」
主人の意向をくみ取ることができていなかった。道具として失格の振る舞いに、素直に謝罪の言葉を口にするファイ。歩調はゆっくりとなり、ニナから1歩引いた位置を歩く形になる。今は、ニナの顔を見るのが怖かったからだ。
そんなファイの気持ちを知ってか知らずか。足を止めたニナが、ファイの方を振り返る。が、そこに浮かんでいたのはファイが想像していたような怒りの表情ではない。少しでも想いが届くようにと、真剣そのものの顔でファイをまっすぐに見つめている。
「ファイさん。わたくしの道具であろうとするのであれば、ご自身の命は大切になさってください。自ら進んで食料になろうとする。そんな悲しいこと、もう二度としないでくださいませ。でないとわたくし――」
そこですっと息を吸い込んだニナは、
「――泣いてしまいますわ」
言いながらも、今にも泣きそうな顔で笑うのだ。その顔を見ていると、なぜかファイの胸もきゅっと苦しくなって泣きそうになる。
「ファイさん。あなたはもう、わたくしの大切な家族でもあるのです」
「かぞく……?」
「はい。エナリアという大きなお家で共に暮らし、支え合う。そんなかけがえのない存在。ファイさんの代わりなど、どこにも居ないのです。なので、どうか……」
切実にファイの“生”を願ってくれるニナの姿を、言葉を、きちんと五感に刻み込むファイ。主人の願いはファイが生きることであり、自身の命すらも雑に扱うことを許されてはいない。これからファイはあらゆる困難に対して、必ず生きて返らなければならないのだ。
(じゃないと、ニナが泣いちゃう、から……)
自分のせいでニナが涙する。迷惑がかかる。彼女に使われる道具として、そんなことはあってはならないのだ。また、ファイの中にいる弱い自分――心――もまた、ニナに泣いて欲しくないと叫んでいる。いつだってニナには笑って、ファイの見る世界を明るく照らして欲しいと思っている。だから――。
「分かった。必ず生きろっていうニナの命令、絶対に守る。……命、大事に」
目の前の主人の目をしっかりと見て、誓う。与えられた使命をきちんと全うして見せる、と、言葉と視線で示して見せるのだった。
しかし、なぜか一世一代のファイの誓いを受けた当人であるニナは頭を抱えていた。
「め、命令。“ファイさん”の答えとしてはこれ以上ないくらいに正しいのですが、これじゃない、そうじゃない感がすさまじいですわぁ~……」
「あれ、違った?」
「違いませんっ! ファイさんはどうかそのまま健やかに、素直に育ってくださいませっ」
「そう……? なら、良かった」
そう言ったファイがニナの隣に並んだことで、2人は地下への歩みを再開する。
「黒狼での生活、どうでしたか?」
そんなニナの切り出しによって始まるのは、ここ1か月の間にあった出来事の情報共有だ。特に“薬”についてはファイとしても確認しなければならない。原料となりそうな薬草があるのか。そのほか、第20層に到達した探索者が居るのかなどを確認する。が、
「そんなモノもなければ、そんな方々もいらっしゃいませんわ」
と言ったニナによって一蹴された。つまりエグバが言っていたことが嘘だったということだ。
また、その過程でファイは、ニナに隠していた秘密――自身の“使用不可期間”についても明かすことになる。恥ずかしさと申し訳なさとをにじませてしまったファイに、それでも。
「大丈夫ですわ」
ニナは優しい顔で笑って、許容してくれる。この時ようやくファイは、5年近く続いている自身の体の変調の名前や特性を知ることになる。
「そっか。子供を作るため……」
「はい。とはいえ、生命の営みについて全てを教えるとファイさんが何をどうするのかは目に見えております。なので、ファイさんの好奇心を抑え込むようで少々心苦しいのですが――」
そこでわざわざファイの方を見たニナは、真剣な面持ちで告げる。
「――子供の成し方の詳細については折を見て、わたくし達がお教えします。なので、申し訳ありませんがこのお話はここまでです。よろしいですわね?」
まるで自分が融通の利かない子供のように言われているような気もして、少しだけむっとしてしまうファイ。そうして黙り込むファイに、しかし。
「よ、ろ、し、い、ですわね?」
ニナは眉を逆立て、上目遣いにファイをしかりつける。その有無を言わせない口調には、ファイも渋々「……分かった」と頷きを返すしかない。
「けど、ニナ。私に好奇心はない」
「ふふっ! 感情が無い、のですものね! ……でしたらその可愛らしいむくれ顔も、やめなくてはなりませんわね?」
「……むくれる、も、無いから」
ニナに言われて、フイッと不服そうな顔をそむけるファイだった。




