第52話 声も聞こえる、よ?
次にファイが目を覚ました時、そこは見慣れた黒狼の狭い私室だった。
「う、ん……?」
起き上がろうとしたその瞬間、尋常じゃない頭痛と嘔吐感がファイを襲う。たまらず部屋の奥にある便器に這い寄ると、こみ上げてきた物を吐き出した。
経験上、嘔吐感はものを吐けばあるていど楽になることを知っているファイ。だが今回は、なかなか便器から離れることができない。平衡感覚は乱れに乱れ、コロコロ転がる箱の中に入れられている気分だ。
加えて、身体がひどくダルい。それに伴ってか気分も落ち込み、吐くこと以外なにもする気が起きないほどだった。
「な、に……コレ……?」
世界に愛され、魔素に愛された白髪であるファイ。彼女の身体は頑丈で、 “使用不可期間”でもない限り不調も簡単に快復してしまう。だからこそ、長期的に続いている吐き気と倦怠感には戸惑うことしかできなかった。
と、この時ようやくファイは、ここ最近の記憶がないことに気付く。いったい今がいつなのか。朝なのか夜なのかも分からない。
便器とにらめっこをしながら、ひとまず記憶を探ってみる。が、気持ち悪さもあって、なかなか記憶が出てこない。そのまま嘔吐を繰り返すこと二度。しゃっくりが出始めた頃に、ようやくファイは直近の記憶を探し当てた。
(そう。確か昨日、“希求のエナリア”から帰ってきた)
つまり帝歴423年、黒黄のナルン(9月)の半ばということになる。そして組員たちの話では、もうすぐ“不死のエナリア”に探索に向かう予定だったはずだ。
(つまり“希求のエナリア”で何かがあって、意識と記憶が飛んだ。考えられるのは敵の攻撃が当たっちゃったこと、だけど……)
ダルさを押して自身の服をめくって状態を確認してみるが、ファイが気を失うほどの手傷を負ったようには見えない。傷一つないきれいな肌が覗いている。
「ひっく。……?」
自分の身体はこんなにきれいだっただろうか。そんな疑問がふとファイの中に湧き上がる。
幼いころからエナリアで戦い続けたファイには、魔物たちによって刻まれた無数の傷跡があったはずなのだ。目につくところで言えば足や腕。胸やお腹にも、火傷や裂傷の痕があったのだが、それがきれいさっぱり無くなっている。
(黒狼の人が治してくれたの、かな……?)
だとすれば、治療という余計な手間をかけてしまったことになる。
服もそうだ。無地の新しい服に変えられていると言うことは、以前に着ていた服をダメにしてしまったと言うことでもある。
「ごめんなさ……おえ……っ」
やまない吐き気に何度もえづきながら、不出来な道具である自分を詫びるファイ。体調不良で気分が落ち込んでいることもあって、道具ではない、ありのままの弱気なファイが簡単に顔を覗かせる。
本当に自分は黒狼の人々の役に立っているのだろうか。ファイに食事と役割をくれ、育ててくれている彼らに恩を返せているのだろうか。それらの問い全てを、ファイは否定する。
(だって私は、褒められてない、から……)
きちんと道具として役に立っていれば、組長が褒めてくれるはずなのだ。
『さすが、白髪。頑丈だな』
そう言って絶賛してくれたあの時のように、お前は役に立っていると言ってくれる。ここに居ても良いのだと、生きていても良いのだと、そう言ってくれる。
しかしあの時以来、ファイが組長から褒められた記憶はない。
(けっきょく私は、何もできていない。道具にもなれない、役立たず……)
ファイが肩を震わせるたび、水洗トイレに張られた水に1つ、2つと波紋が広がる。
どうしてこんなに、弱いのだろう。どうしてこんなに、辛くて悲しいのだろう。
その胸の痛みの発信源が“心”と呼ばれるものであることを、ファイは嫌というほど知っている。肉体への痛みは、おおよそ我慢できるようになった。なのに、心が発するこの痛みには全く慣れることができない。
逃げ惑うことしかできない魔物たちが死の間際に見せる怯えた顔には、いつも剣筋が鈍りそうになる。こちらを殺そうと目を血走らせて襲い掛かってくる魔物たちには、足がすくみそうになる。殺す寸前に魔物たちが見せる表情――怒りが、悲しみが、苦しみが、絶望が。なまじ記憶力が良いファイの脳裏に焼き付いて、離れない。
だからファイは、心を無くしたい。ファイが知る小さな世界において“心”は、痛みしか生まないものだからだ。
道具になりたい。物言わぬ彼らには、心なんてものは無いから。
そうして心を失って、道具になり切ることができれば――。
(今度こそ。私はここでの日々が満たされてたって。幸せだったって。心の底からそう言い切れる、はずだから)
もう自分を偽ること無く本心から「私は幸せだ」と、彼女に言うことができるはず。
そんな自身の想いにファイが疑問を持てたのは、色んなものを出し切ったからかもしれない。
「ふぅ……。彼女って、だれ……?」
ようやく弱まった吐き気と頭痛から気を逸らす意味も込めて、ファイは自問する。瞬間、ファイの耳の奥で微かに自分を呼ぶ声が聞こえた気がした。
声色は高く幼い印象を受けるものの、まるで樹齢数百年を超える大木のような芯の太さを感じさせる声だ。その天真爛漫さで人々を照らし、時に導く。
しかし、やはり幼く、どこか孤独も感じる。草原にぽつんと1本だけ立っている幼木のようでもあり、ひとたび強風が吹けば倒れそうな。つい守ってしまいたくなるような、そんな声の持ち主だったように思う。
他の声もある。
1つは落ち着きがあるようで無い、騒がしい女性の声だ。彼女はファイに新しい人間関係について教えてくれた気がする。
また別の声は、常に周囲を威嚇するような言動をしていた。かと思えば不意に甘えてきたり、笑顔を見せてくれたり。ファイに新しい温もりと“可愛い”をくれた。
彼女たちの声を思い出すたびに、痛みしか知らないファイの心がじんわりと温かくなる。くすぐったいけど嫌じゃない。不思議と優しい気持ちになることができる。
ただ、ファイの記憶の中にそれらの声色を持つ人物はいない。
ファイの知る人物の9割が黒狼の組員であり、男性だ。残りの1割は女性だが、だからこそ覚えやすく、声の持ち主と思われる人物はいない。
(あなた達は、だれ……? 私は、なにを忘れてる、の……?)
何か大切なことを忘れてしまっている気がするファイ。どうにかして思い出そうとするも、頭がひどく痛む。巨人族に頭を握りつぶされているような気分だ。
(けど、痛いのは、大丈夫。私は、道具だから……!)
道具としての矜持で痛みを我慢し、どうにか記憶のフタをこじ開けようとするファイ。彼女自身、どうしてそこまでするのか理由は分かっていない。それでも、思い出さなければならないという強迫観念のようなものが、ファイの背中を全力で押していた。
そして、ついにファイの中で声の持ち主たちの像が結ばれる、直前で。
「……!」
ふと、ファイの鼻腔を強烈な臭いが貫いた。発生源は、鉄扉の下にある小窓だ。そこにいつの間にか、乾燥した葉っぱの山が詰まれている。
甘さと酸っぱさと香ばしさを共存させたような臭いに、ファイの思考が麻痺する。が、数秒もすればその麻痺は心地よいものとなり、ファイはその香りを心地よいものと捉えるようになる。さらに、先ほどまで感じていた頭痛や気持ち悪さも改善され始めた。
ずっと続いていた苦痛からの解放に、表情を弛緩させるファイ。
(頭も、心も、ふわふわ……。これ、知ってる……。これ、もっと……!)
もうこの時には声の持ち主などどうでもよくなっており、ファイは良い香りがする葉っぱのことしか考えられなくなってしまっていた。




