第5話 私はちゃんと、幸せだった
「――さて、ファイさん。そろそろお話、よろしいでしょうか?」
役目を果たした茶器を脇に置いたニナが、好奇心と理性とを宿した茶色い瞳をファイへと目を向ける。一方のファイはと言えば、砂糖マシマシの紅茶をしっかり堪能した後、お茶菓子として用意されていた焼き菓子も平らげて、人心地ついたところだった。
道具としての無表情を取り戻したファイが頷いたのを確認して、ニナも表情を引き締める。
「まずは謝罪をさせてくださいませ。当エナリアの従業員である巨人族・デデンさんがあなたに乱暴を加え、捕食しようとしました。怖い思い、痛い思いをさせてしまいましたこと、お詫び申し上げますわ」
丸椅子に座ったまま、頭を下げたニナ。
彼女が動くたびに揺れる艶やかな茶髪を眺めながら、ファイは内心で首をかしげる。
ファイにとってエナリアは、戦闘しか能のない自分が唯一、必要とされる場所だ。戦闘に痛みと苦しみがあるのは当然のことであり、ファイにとっては慣れ親しんだものでもある。自分は道具で“心”が無いため、痛みや苦しみを恐怖するなんてことも、当然あるわけがない。そう本気で思っていた。
そんなことよりもファイが気になったのは、ニナが使った「組員(従業員)」という単語だ。限られた知識しかないファイにとってニナのウルン語は「組員」の意味で通じていた。
(組員……? それじゃあまるで、あの巨人族がこのエナリアで働いている人みたい)
それだけではない。糖分を得た頭で考えてみれば、ここがどこなのかを始め、ファイの中に次々と疑問が湧いてくる。
しかし、ファイの中では、許可された時でなければ口を開いてはならないことになっている。それどころか、不必要な動きをすることも禁じられている。
たとえ手枷や足枷がなくとも。あるいは、ここが黒狼の拠点では無かったとしても。ファイにとっては道具であることが掟であり、人生だった。
結局、何もせずに黙り込むことしかできない。そんなファイが生んだ長時間の沈黙を受けて、謝罪のために頭を下げていたニナが「はっ!」と気付きの声を漏らした。
「そ、そうでしたわ!」
顔を跳ね上げたニナが、目を細めてファイに微笑みかける。
「コホン……。ファイさん? これからは、あなたの思っていること、考えていることを可能な限り言葉にしてくださいませ。疑問に思ったことがあった場合も、遠慮なく申してください」
そんなニナの言葉に、わずかに目を見開いたファイ。ニナが言ったその内容は、またしても、ファイの主体性を求めるものだ。
ファイは“自分から何かをすること”に強い抵抗を持っている。
それでも、ファイにとって新しい主人であるニナは、ファイに思っていること・疑問に思っていることを言葉にするよう求めている。であれば、道具である自分は、ニナの需要に応えなければならない。
「……わか、った」
「はいっ! それで、なにかわたくしに聞いてみたいことはありませんか?」
愛嬌のある大きな目を瞬かせて聞いてくるニナの問いかけに、ファイはまず、自分の中で聞いてみたいことを整理する。優先順位をつけることは戦闘においても重要で、ファイにとっても慣れっこだ。
(ここはどこ? なんで傷が治ってるの? あの巨人族はどこに行っちゃった?)
それら次々に湧いてくる疑問を整理して、最も気になった事柄を聞くことにする。それは現状に対する問いかけ、ではなくて――。
「――これ、なに?」
そう言ってファイがニナに示して見せたのは、角砂糖だった。
「ふぇ? これ、ですか? ただの自家製お砂糖ですが……」
「お砂糖……。じゃあ、さっきの色のついた飲み物が『紅茶』。紅茶に注いだ白い液体が『牛乳』、で合ってる?」
「は、はい。間違いありませんが……。紅茶はまだしも、お砂糖や牛乳まで……?」
後半、声を潜めて頭をひねったニナ。彼女のその反応の意味を知ろうと、ファイは素直に「どうかしたの?」と尋ねてみる。
主人を知り、思考の方向性を知れば、指示の意味を深く理解できる。自ら考える優秀な道具であろうとする努力を、ファイは欠かすつもりはない。
「あ、えっと、その……」
最初は誤魔化そうとしていたニナだったが、考え込むようなそぶりを見せながら砂糖とファイと見比べるように視線を動かす。やがて、意を決したような顔で口を開いた。
「あのっ、ファイさん! 失礼を承知でお聞きしますが……。まさかお砂糖をご存知ないのでしょうかっ!?」
覚悟を決めたような表情の割には、素朴な質問だった。ファイはなんだそんなことかと拍子抜けしつつも、質問に素直に応じる。
「うん。砂糖の存在は知ってた。甘いっていうのも。けど、それがどんな見た目をしているのかは知らなかった」
ファイがこれまで口にしてきたものは全て、既製品だ。しかも、頑丈で真っ暗な部屋の中で食事をしてきたため、おおよその質感と形しか知らない。これまで自分が最も口にしてきた『麦餅』というものが“どのように作られているのか”どころか、“どんな色をしているのか”も知らない。
ましてや調理の過程で色や形を失う調味料や食材などは、概念としてその存在を知っているだけものだった。
そうした事情をかいつまんで説明したファイ。その説明の過程で、当然、自身の生い立ちについても明かすことになる。
生まれてすぐ誘拐されたらしいこと。黒狼と呼ばれる組織に育てられたこと。自分が戦いしか能のない、道具であること。それでも、必要とされ、戦い続けた日々が、ファイにとって満たされた日々だったこと。
自分がきっと、“幸せ”だったこと。
道具であるがゆえ、嘘も見栄もない、ありのままの真実だけをニナに語り聞かせる。いや、努めて感情を殺して淡々と事実を語るファイの姿は、報告や連絡といった表現の方が近かった。
「――今のが私の、全部」
約5分。短い時間で簡潔に、己の15年間を語れたことに、密かに満足していたファイ。
ニナという新しい使い手に己の有用性を示せただろうか。そう思って目の前の少女に目を向けてみれば、
「あんまりですわぁぁぁ~~~!」
ニナはファイの予想に反して、泣いていた。
「ご、ごめん、なさい……。もうちょっと短くまとめられるように、頑張る――」
「違いますっ!」
ファイの反省の言葉を遮るように、抱き着いてきたニナ。甘い花の香りの奥に牛乳の香りを薄めたような、なんとなく幼さを想起させる匂いがファイの鼻に香ってくる。さらに全身を包み込む、人の温もり。どちらも、ファイの知らないものだ。
「普通の人は……っ。たったこれだけの時間で、思い出を……自分の人生を語ることができるはず、無いのですっ」
「に、な……?」
ニナに抱かれるまま、ファイは戸惑うことしか出来ない。そんなファイの耳元で、悔しそうなニナの声が聞こえてくる。
「ウルンでも白髪が特別であることは知っていましたが、まさか、ここまで……っ」
「……?」
ファイの肩を抱く腕に、ニナが力を込める。並みの人間では簡単に“壊れて”しまうニナの抱擁は、しかし、ファイにとっては少し苦しい程度だ。
「違うのです、ファイさん! あなたはきっと、知らないだけなのです……っ!」
「知ら、ない……? うぅ……」
「はわわっ!? も、申し訳ありません!」
声に若干の苦しみを乗せたファイの言葉に、はっとしたらしいニナが抱擁を解く。
離れていく、心地よい熱と香り。なぜかファイの中に、紅茶をお預けされた時と似たモヤモヤが湧き上がる。が、その正体に気付くよりも先に、
「ただ……ぐすっ。ファイさん! あなたは、知らないだけなのです……っ」
キュッと眉を寄せ、唇を引き結んでこちらをまっすぐに見つめるニナの瞳に光る涙に、意識を持っていかれてしまうのだった。