第31話 どうして私はここに居る、の?
人手不足の“不死のエナリア”では、基本的に従業員全員がいつもどこかで奔走している。しかも、常に分厚い雲が天頂を覆い日中の感覚が無いガルンに暮らすガルン人たちは、時間というものに非常におおらかだ。それこそ、時間を気にするという概念が無い程度には。
「なので食事の時間が重なることもなく、基本的には個々で作り置きされた食事を食べたり、自分で料理を作って食べたりすることが多いのですわ」
鮮やかな桃色をしたオウフブルのモモ肉を切り分けながら、ガルンにおける時間と食事について教えてくれるニナ。
彼女の説明を聞きながら、だからこれまでは基本的にニナと2人きりの食事が多かったのかとファイは1人納得する。と、そんなファイのすぐ隣。椅子と椅子を引っ付け、肩が触れそうな距離で食事をしていた小さな影――ミーシャが、得意げに口を開いた。
「肉叉とか小刀とか。食器とはいえ凶器になるでしょ? だから気を抜いたら殺されるガルンで一緒に食事をするって、『あなたを信用しています』っていう最大限の姿勢を見せてることになるわけね」
ファイにナイフを向けながら、笑顔を見せるミーシャ。しかし――。
「ミーシャ。口がタレで汚れてる。拭く?」
「にゃ!? だ、大丈夫よ、自分でできるわ。子ども扱いしないで! ってかアンタも口、汚れてるじゃない! ほら、こっち向いて……」
食卓に置かれていた紙きれで自身の口とファイの口を拭いてくれるミーシャ。彼女にお礼の言葉を返したファイは、ミーシャの金色の髪を撫でる。一瞬、「ふにゃん」という変な声を漏らして身をよじったミーシャだったが、その後はファイに撫でられるがままになっていた。
「なるほど。じゃあ最初から私と一緒に“食べる”をしてくれたニナは……」
「ニナちゃんなりの誠意だったってことだよね~」
自分は後で食べると言って紅茶を淹れていたルゥが、ファイの言葉を引き継ぐ。
「あとミーシャちゃん。食器を人に向けちゃメッだよ。相手によっては殺されちゃうから、本気で」
「うっ……。はい……」
耳と尻尾をしおれさせて食事を再開するミーシャ。彼女もファイと同じで食器の扱いに慣れていないのだろう。定期的に変な食器の握り方をしては、ルゥに優しくたしなめられていた。
「ふふっ、ルゥさんにおっしゃっていただいた通りですわ。ファイさんは、このエナリアに迎える初めてのウルン人の方。まずはわたくし達の方から、友好の意を示さねばなりませんでした」
「そっか。……でも私、ウルンのこと、ほとんど知らない」
ファイの記憶が正しければ、ニナはウルンのことを知ろうとしてファイを雇う、といった話をしていたように思う。しかし、非常に限られた世界だけで暮らしてきたファイは、ウルンのことをほとんど知らない。なんなら今のファイは、ガルン語やエナリアについての情報の方が多いとすら思っている。
(また、私の“知らない”が、迷惑をかけてる……)
戦闘以外では、てんで役立たず。しかも得意の戦闘も、自分より強いニナには必要が無いという事実。
「……どうしてニナは、私を雇った、の?」
気づいた時には、ファイの口からウルン語で疑問がこぼれていた。ファイがそれに気付いたのは「ふぇ?」というニナの驚いた声と顔が、自分に向けられた時だった。
すぐに主人を困らせてしまったことを察したファイは、発言の撤回を試みる。
「あ、えっと、今のなし。忘れて――」
「ファイさん」
取り繕おうとしたファイの名前を呼んで、自分に注目させるニナ。ファイの目が彼女に向いたことを確認すると、優しく言い含めるようにしてファイの雇用理由をウルン語で語る。
「申し上げたはずです。ファイさんは、わたくしの夢の第一歩、なのですわ」
「ニナの、夢……。ウルン人とガルン人が一緒に“幸せ”になる?」
尋ねたファイに、ニナは「はいっ」と元気よく頷く。
「よろしいですか、ファイさん。わたくしがあなたに求めているものは、今も昔も……と言いましても、ウルンから見れば数日前のことでしかないのですが」
苦笑しながら付け加えたニナだったが、
「わたくしがファイさんに求めているものは1つだけです。それは、幸せになって頂くこと」
雇用条件が、“幸せになること”。ファイに幸せになってもらうために、ニナはファイを雇ったのだと、この時改めて確認する。
「幸せになる……。幸せを、見つける……?」
「はいっ! ウルン人であるファイさんが、幸せになることができる。それを確認するために、わたくしはファイさんを雇っている面もあるのです。なので……」
そこでコホンと咳払いをしたニナは、改めてファイに指示を出してくる。
「ファイさんはただ、自分の幸せのことだけを考えていてくださいませ!」
そう言って、控えめな胸を張るニナだった。
ただ、ファイとしては本当にそれでいいのかという疑問を拭いきれない。なぜなら――。
(自分のために動く道具なんて、聞いたこと無い……)
それに、ファイは自分自身に目を向けることに、これ以上ない忌避感がある。自分というものを知れば知るほど、何もないことを思い知らされるからだ。その度に、ニナの言う幸せから遠ざかって行ってしまっているような気がする。
(私は本当に、“幸せ”を見つけられる、の……?)
冷めてしまった料理を見つめながら考え込むファイの手を、ふと、柔らかな感触が包み込んだ。見れば、隣に座っていたミーシャが、ファイの手に自身の手を重ねている。
「ミーシャ……?」
「ウルン語で話してたから、正直内容は分かんないけど。そ、その……。元気出しなさいよ」
ファイの方をチラチラ見ながら行なわれる、励まし。食事の手を止めないのは、ニナを待たせないためか、照れ隠しか、その両方か。分からないが、思い悩んでしまっていたファイの心がフッと軽くなる。
「……ありがとう、ミーシャ。優しい、ね?」
ファイがきゅっと小さな手を握り返してみると、途端にミーシャの顔が赤く染まっていく。
「べ、べべべ、別にっ!? 後輩の面倒を見るのは先輩として当然で……あっ」
目を白黒させながら早口で言ったミーシャの右手から、肉叉が滑り落ちた。それは乾いた音を立てながら皿の上を跳ね、机の下に落ちていく。
また、作法のことでルゥに叱られると思ったのだろうか。慌てた様子で、ミーシャが空中で肉叉を掴もうとする。が、失敗。その反動でむしろ勢いがついてしまった肉叉が、
「……っ」
机の下。ミーシャに握られていたファイの指先をかすめて地面に落ちるのだった。
「あっ、ご、ごめんなさい、ファイ……。指から血が……」
肉叉よりも先に、小さな怪我をしたファイの指先を案じるミーシャ。ファイの指先にしみ出した小さな血の球体を眺めながら、眉根を寄せている。
「大丈夫。これくらい、余裕」
問題ないことを声と顔で伝えたファイの指先を、不意に、ねっとり柔らかな感触が包み込んだ。見れば、ミーシャが怪我をしたファイの指先を甘噛みして、舐めている。
「こうすれば早く治るって、いつも、お母、さんがあ……」
ただ、上目遣いにファイを見ていたミーシャの緑色の瞳から、徐々に光が消えていく。
「ミーシャ?」
ファイが呼びかけてみるも、反応が無い。気を失った――眠ってしまった――のかと思ったが、ファイの指先を舐める小さく柔らかな舌は今も規則的に動いている。むしろ、血を舐める舌遣いは心なしか早まっていて――。
「……もっと」
不意に、ミーシャの口から言葉が漏れた。かと思えば、口をすぼめてファイの指先を勢いよく吸ってくる。まるで、もっと血を吸いだそうとしているかのように。
「ずぞ……っ。ずぞぞ、れろ、ぴちゃ……ぷはぁっ……」
それでも血が吸い出せないと分かったのだろうか。ようやくファイの指先から口を離し、唾液でネトネトになったファイの指先をぽうっと見つめる。その表情は、あの日――。ニナの唾液をすすっていたルゥの表情とよく似た、蕩け切った顔をしていた。
「もっと、血……。もっと、魔素、欲しい……♡」
「み、ミーシャ?」
明らかに様子がおかしいミーシャに、再三の呼びかけを行なうファイ。そんな彼女の声で、ようやくニナとルゥも、ミーシャの様子がおかしいことに気付いたようだ。
「どしたの、ファイちゃん? ミーシャちゃんと見つめ合って」
「ルゥ。ミーシャがおかしい。ルゥみたいになってる」
「おいそれどういう意味だ、って問いただしたいけど……。それどころじゃないっぽい?」
おふざけではないらしいことを察して、ルゥが表情を引き締める。と、ルゥに目線を向けたその隙に、ミーシャがファイの膝の上に乗ってきた。
「魔素、見つけたぁ……♪」
そう言って、ファイの首に腕を回してくるミーシャ。牙を覗かせ舌なめずりをする彼女は、どこか艶っぽい。
「ミーシャ? 大丈夫?」
「ふふっ、大丈夫よぉ、ファイ。アタシは正気ぃ。……正気だからぁ、その唾……いただきまぁす♪」
言った彼女が、ゆっくりとファイに顔を近づけてくる。何が起きているのか、どうすればいいのか、分からずに混乱するファイは、ただ固まることしかできない。
そうしてされるがままになったファイの唇と、ミーシャの唇が触れ合う――寸前で。
「ちょと待ったぁぁぁ、ですわぁぁぁ!」
持ち前の身体能力で駆けつけたニナが、間一髪、ファイとミーシャの口の間に手を入れることに成功する。時を同じくして、
「にゃふん……♪」
ファイの膝に乗っていたミーシャが全身を弛緩させ、崩れ落ちる。危うく地面に頭を叩きつけられるところだったが、そこは優しくニナが抱き止めたのだった。




