第3話 死んだら、どうなる?
次にファイが目を覚ました時、そこは簡素な寝台の上だった。
「……?」
起き上がって周囲を確認してみるファイ。
どうやら彼女がいる場所は寝室らしく、寝台と、寝台の横にある引き出しのついた小さな机、丸椅子しかない簡素な部屋だ。着せられているのは、薄い布1枚で出来た着心地の良い服。少しはだけた前開きの服からは、ファイ自身、身に着けたことのない黒の布――下着が覗いていた。
慣れない下着の感覚に身をよじるファイだが、服も下着も、誰かに与えられたものだ。道具であるファイ自身の意志でどうにかしてはならないだろうと、我慢することにした。
(それより、ここは、どこ? 確か、私……)
気を失う前、巨人族の男に痛めつけられた記憶が、ファイの中に蘇る。同時に彼女は、自身の手首と足首を見てみる。もしここが、ファイにとって馴染みのある場所――犯罪者組織『黒狼』の拠点であれば、ウルンで最高の硬度を持つ黒鉄製の枷があるはずなのだ。
たとえどれだけ怪我をしようとも、病気になろうとも外されることが無かった、硬くて重い金属の塊。しかし、残念ながら、ファイの手首にも足首にも、慣れ親しんだ固い感触がない。それはつまり、ここが黒狼の拠点ではないことを示していた。
(そっか。私……。捨てられたんだ……)
寝台の上。心の中で呟いて、膝を抱えるファイ。
(赤色等級のエナリアは、やっぱりまだ、早かった……?)
金色の瞳で自身のつま先を見つめながら、気を失ってからのことを推測する。
気を失う前。ファイが黒狼の人々と共に挑んでいたのは、“不死のエナリア”と呼ばれる赤色等級のエナリアだった。
エナリアは黒>赤>橙>黄>緑>青>紫>白の順に、広大かつ危険なエナリアとされている。
つまり、ファイ達が挑んでいたのは上から2番目の難易度のエナリアと言うことになる。内部には10層以上――国が1つ入ってしまうような広大な土地があり、村1つであれば簡単に壊滅させられるような、凶暴な魔物たちが巣食う場所だった。
では、なぜファイ達が危険を冒して“不死のエナリア”に挑戦していたのかと言えば、高純度の色結晶を求めてのことだ。
色結晶とは、ウルンにおいてあらゆる設備・道具の動力源となっている物質――エナが結晶化した宝石だ。ウルン人の生活には欠かせないもので、ウルンでは広く流通している鉱石だった。
色結晶もエナリアの階級と共通して黒~白までの8段階に分かれており、黒に近づくほど内包しているエナが多い。特に黒色結晶ともなれば、小国1つの1年分のエナを賄うことができると言われている。当然、高値で取引され、黒結晶を売れば人生を遊んで暮らせる額が手に入るのだった。
(危険なエナリアの方が、高純度の色結晶が手に入る……。実際、“不死のエナリア”は第8階層でも黄色の色結晶があった。……けど)
色結晶の採掘が終わるまで巨人族を足止めしろという命令を、ファイは実行できなかった。それどころか命令を無視して、黒狼の人たちを守ろうとしてしまった。だから、捨てられた。
導き出した結論に対して、ファイがわずかに眉根を寄せる。
(……ごめん、なさい)
力が足りなかった。考えが足りなかった。余裕が足りなかった。だから道具としての使命を果たせなかった。育ててもらった恩を返せなかった。
ファイが黒狼に対して抱いていたのは、どうしようもないほどの申し訳なさだ。
しかし、それ以上の感情は無い。怒りはもちろん、悲しみも、自由になった喜びも、何一つ持ち合わせていない。真っ青な空に1つだけ浮かぶ風船のように、
――捨てられた。
その事実だけが、ファイの中にあるだけだった。
「…………」
そうして、ここが黒狼の拠点ではないことを改めて認識したファイは、膝を抱える“待て”の姿勢をしたまま動かなくなる。現状、自分が何をして良くて、何をしてはいけないのか。ファイの中に行動指針が無いからだ。
(多分、黒狼の人じゃない誰かが、私を拾った。じゃあ、その人の指示を待たないと)
部屋には1つだけ、木製の扉がある。鍵穴は無く、取っ手がただついているだけだ。扉を開けて人を探したり、それこそ黒狼の拠点へと帰ろうとしたりすることもできるだろう。
それでも、ファイは動かない。彼女の知る道具は、自分から動いたりしないからだ。道具である自分は、新しい主人の指示が無い限り、動いてはいけない。そう考えるのが、ファイという少女だ。
まさに、無。
虚無。それが、今のファイを示すにふさわしい言葉だった。
寝台の上で膝を抱いたまま、ただ時間だけが過ぎていく。窓も時計石もない、小さな部屋。時間の経過も判然とせず、物音ひとつしない完全な孤独が、ゆっくりと、ファイの精神を攻撃してくる。
「…………。……………………。………………………………」
果たして、どれだけ時間が経っただろうか。ただ一点――つま先だけを見つめていた、ファイの金色の瞳。その鮮やかな金色を際立たせる黒くて長いまつげが、ついに、微かに揺れる。
超人的な身体能力を持つとはいえ、ファイも人間だ。眠りはもちろん、お腹も空くし、喉も乾く。空腹と喉の渇きが限界を迎え、ついに生物としての本能が警鐘を鳴らし始める。
このままでは死んでしまう。
焦燥が、ファイの足腰を動かそうとしてくる。その本能を、ファイは理性と道具としての矜持でねじ伏せる。
自分はまだ何も言われていない。「生きろ」とも「死ね」とも言われていない。それがはっきりとするまで、行動するべきではない。
(私は、道具。自分から何かしたら、ダメ。……道具に心なんて、無いから)
そう言い聞かせる。
しかし、やはりファイは人間だ。さらに時間が過ぎていく中で、鋼の意志で封じ込めてきた“心”が、ファイの中で顔を覗かせ始める。
(これから私、どうなるんだろう……?)
ある時、ファイ本人も気付かないうちに、そう考えるようになってしまっていた。その不安こそ、生きようとする人間の本能だったのかもしれない。
(死んじゃう……? 死んじゃったら、どうなるの?)
空腹と渇きが極限の状態で、ファイは人生で初めて死について考える。
これまで彼女も、多くの魔物を殺し、死に追いやってきた。そうして葬ってきた相手から感じたのは、何だっただろうか。上手く回らない頭を懸命に動かして、答えを探すファイ。
答えは存外に早く、見つかった。
(――何も、ない)
ファイがこれまで見てきた死から導き出したのは、簡単な答えだ。
(死んだら、何もない。動くことも、考えることも、何もできない)
つま先だけを見つめていたファイの金色の瞳が、扉の方を向く。剣士として培ってきた五感が、こちらに近づいてくる存在を察知したのだ。恐らく新しい主人だと思われる。
(死体。それは確かに物……道具。私の思う、理想。……だけど。それだと“私”が、役に立てない)
ファイは、自身が考えることのできる道具であることを誇りとしている。いわば、主人の思うがまま、理想のままに形を変える道具である。行動を鈍らせる心は必要なくとも、主人の指示を聞いて解釈する思考力は必要、というのがファイの考えだ。
道具は、使われてこそ価値がある。何度も、何度も、擦り切れるまで使われて、最終的に壊れてしまっても、死体になってしまっても、再利用される。そこまでされることこそ、ファイの理想だ。
丸まっていた姿勢を解き、重い身体を押して、どうにか寝台から這い出すファイ。その頃にはもう、ファイが感じていた小さな存在が、扉のすぐ向こうにいる。
(道具に、自分の生死を決める権利はない)
どれだけ理屈を重ねても、道具であろうと思い込もうとしても、
(生きたい……。役に立ちたい……っ)
そう思ってしまうあたり、悲しいほどに自分が弱くて、見苦しい、空っぽな人間であることを、ファイは思い知らされる。だからこそ――。
「こんにちは、探索者さん! 今日も栄養剤を――」
「私を使って」
「――なにごとですわ!?」
ファイは、扉の向こうから現れた小さな少女に、自身の身体を早く預けたい。
自分を使ってくれるなら誰でも良い。なんでもいいから、生きている意味が欲しい。道具でありたい。今こうして醜く生き残ろうとしてしまう心を。あるいは、自分がただの空っぽな人間でしかないことを自覚する暇もないほど、自分を使い潰して欲しかった。
(人間としての私に、価値なんてないから……!)
だからこそ、ファイは道具であることに固執する。人間であることを、否定する。
「あのっ、えっと、どうされたのですか、探索者さん? それにいつから目を覚ましていらしたのですか?」
「私を使って。お願い……。私をっ」
「いえっ、だから、説明を……。説明をしてくださいませぇぇぇ~~~っ!」
状況が飲み込めず涙目になる少女の嘆きが、エナリアの中で反響するのだった。