第261話 しゃかいせい? が、大事
荒野の中にポツンとある、雑木林に囲まれた小さな泉のほとりにて。濡れてしまった服を乾かすために、下着姿になったファイがマテの姿勢のまま見つめるのは――
「わおぉぉーーー……ん」
下着姿で四肢をついて天高く遠吠えをしているムアだ。彼女の声量はすさまじく、とてもあの小さな身体から発されているとは思えない。それでいて「うるさい」と感じないのは、ムアの声が力任せの大きい声ではないからではないだろう。
遠く、のびやかに。お腹にぐっと力を入れたような、よく通る声だった。
そのまま、さらに数度。ムアは吠える。普段の愛らしさとは対照的な荒々しく雄々しい姿に、ファイが目を奪われていると、
「獣人族の咆哮には自身の存在を知らしめるものですわ。それにより自分よりも弱い魔物を委縮させ、動きを鈍らせ、弱体化させる効果もあるのです」
ニナが、獣人族の生態について教えてくれる。
「なのでああしてムアさんが吠えることで、彼女よりも弱い魔獣がわたくしたちに襲い掛かってくることはかなり減ってくれるはずです」
「そう、なんだ……」
ニナの説明を受けて、ファイは改めてムアに目を向ける。
ムア自身は仕事と思っていないようだが、ムアの仕事は第11階層以下の魔獣の調教だ。
ムアが魔獣と“遊ぶ”ことで魔獣は自身の力の程度を知ると同時に、自分たちの群れの長を知る。集団の中での自分の格を知ることで魔獣たちは増長しにくくなり、エナリア内の生態系が守られやすくなるらしい。
そして恐らく、第11~15層に居る多くの魔獣にとって、ムアこそが群れの長なのだろう。いうなれば、第11~15層はムアを頂点とする超巨大な縄張りということだ。
そうしてムアという絶対的な存在のもとに生まれる一定の秩序のもとで、魔獣たちはのびのびと生活をしている。
確かに自身の力を誇示して相手を従わせるムアの行動は「調教」に当たるのだろう。しかし、従わせた魔獣を意のままに使役することを目的としているわけではないらしい。
知能が低いからこそ本能で、自身の立場や位置を分からせたうえで、個々が出しゃばりすぎない秩序を作り出す。
エナリアの魔獣の中で社会的な構造を築くことこそ、ムア・エシュラムに求められている役割に違いないだろう。
もちろんファイが、そこまで具体的な言葉でムアの役割を言い表すことは無い。が、ムアが姿を見せたときから魔獣たちに緊張感のようなものが走っていることは、肌で感じ取れている。
ムアという存在がファイの想像以上に大きく魔獣たちに影響していること。また、秩序――ファイの言葉で言うなら「静かさ」――が生まれていることを体感したのだった。
そうしてファイが、ムアの遠吠えでピリピリと張り詰める第12層の空気を感じ取っていると。
「わぷっ」
「はい、動かないでくださいませ~。ファイさんが風邪をひいてしまわないよう、わたくしがきちんと、手入れさせていただきますわ!」
愉しそうに言うニナが、わしゃわしゃとファイの髪を布で拭いてくる。その瞬間にファイの全身が震えたのは、何も寒さからだけではない。恐らくあえてニナが「手入れ」という、道具に対してつかわれる言葉を使ってくれたからだ。
溺れかけたあの後、ファイは予定どおりムアの身体をきれいに洗った。とはいえ、ただの水浴びだ。お風呂に入った時ほどのさっぱり感はない。が、少なくともムアから“野生の臭い”はしなくなったし、毛並みもファイが妥協できる程度にはなった。
その後、モフモフ力を確かめながらファイがムアの髪や尻尾を拭いてあげていた時のこと。不意にムアが、耳と尻尾をピンと立てたかと思うと、
『ムアもニナとファイのお仕事、手伝う!』
そんなことを言って、ファイの腕からひょいと抜け出したのだ。
『えっ、ムアさんがわたくしたちのお仕事を、ですか……?』
相当な驚きだったのだろう。思わずといった様のニナの言葉に、ムアは「うんっ!」と元気いっぱいに答える。
『ムアさん、お仕事がお嫌いですわよね? なのに、どうして突然……』
『え~? だってね~……やっぱり内緒~♪』
犬歯を見せていたずらっぽく笑うムアの姿に、ファイとニナが目を見合わせたことは言うまでもない。
言い方は悪くなってしまうが、頭が空っぽで気分屋のムアだ。そんな彼女が大嫌いだという仕事を自ら進んで行なおうとしている。嫌な予感を抱いていたのは、ファイだけではないらしい。
いったい何をするつもりなのか。内心ハラハラしながらファイが見守る中、下着姿のままムアが遠吠えを始めて今に至っていた。
「に、ニナ? 私は1人で拭ける、よ?」
主人の手を煩わせるわけにはいかない。髪を拭くニナの手にそっと自分の手を重ね、布を貰おうとするファイ。だが、ニナが引く気配はない。
「ルゥさんのお言葉を借りるようであれば、道具の手入れは主人の務めでもあるはずですわ?」
「そ、れは……っ」
道具であるファイに使い手による手入れを拒否できるだけの理由はない。
「それは、そう……。けど――」
「はーい、ファイさん! じっとしていてくださいませ~♪」
「――わぷっ」
半ば無理やりファイの了承を得たことで水を得た魚のように、容赦なくファイの髪を拭いてくるようになるニナ。
彼女は決して力加減が得意な方ではない。手つき自体は丁寧で優しいのだが、「ガシガシ」という表現が似合う強さで髪を拭く。
丁寧でありながら雑。ある意味では器用なニナの手つきが、実はファイは大好きだったりする。
なにせ、ニナの優しさと、道具としての雑な扱いを同時に楽しめるのだ。
ファイがニナに髪を拭かれることをさりげなく嫌がったのも、主人の手を煩わせたくなかったからだけではない。この至福の時間のせいで表情筋が機能しないよう意識するのがかなりしんどいからだ。ありていに言って、疲れる。
さらに、
「かゆいところはありませんか~?」
ニナに耳元でささやかれてしまっては、ファイの身体もついブルッと震えてしまう。
「う、うん。だいじょう、ぶ……っ」
「ほ、本当でしょうか……? それにしてはお声に無理があるような……。こ、これでどうでしょうか!」
「~~~~~~っ!」
恐らくニナにそのつもりはないのだろうが、手を変え品を変えファイを快楽の渦に飲み込もうとしてくるニナ。その攻撃を、ファイは必死になって防ぎ続ける。
そんなファイの秘かな死闘に終わりを告げてくれたのは、ムアの遠吠えに応えるようにして聞こえてきた魔獣のものと思われる鳴き声だ。しかも声だけで、巨大な魔獣だろうことが想像できる声量だ。
「「「……!」」」
ファイ、ニナ、ムア。3人が一斉に、声のした方を向く。同時にそれぞれがすぐさま臨戦態勢を整えた。
数秒とせず、小さな地響きがファイの足裏に感じられるようになる。それは徐々に、徐々に大きくなる。やはり、かなり大きな魔獣であるようだ。
道具として、そっとニナの前に歩み出るファイ。腰にある剣の柄に手を添え、いつでも剣を抜けるようにしておく。
だが、雑木林の向こう。こちらに向かってくる黒い大きな2本の足が見えたことで、ファイは柄に添えていた手を退けることになった。
「ニナ、ニナ。たぶん大丈夫」
念のために黒い脚から目をそらさないようにしながらも、背後のニナにそう声をかけるファイ。するとニナも「あら? そうなのですか?」と声に困惑を漏らしながらも、臨戦態勢を解除する気配がある。
ファイの言葉を信じて、構えを解いてくれる。ニナからの信頼を感じるファイがひそかに胸に「ぽかぽか」を感じる中。やがて雑木林を割って姿を見せたのは、ファイの友人である巨大な魔獣――黒毛の暴竜だった。
少しの間、ファイとムアの姿を確認していた暴竜。だが、不意に天を仰ぐと、
『ブゥォォォーーー……ン』
大気が震える重低音で鳴いて、ファイを見下ろしてくる。
どうやら挨拶をしてくれたらしい。そう判断したファイもまた、目元を柔らかなものにしながら友人に手を差し伸べた。
「暴竜。久しぶり?」
『ブフー……』
ファイが差し伸べた手に、暴竜は自ら鼻先を触れさせる。そのまま力強く鼻息を吐き出し、ファイの白髪を激しく揺らしてくる。
「黒い、暴竜……。はっ!? もしかして以前、ファイさんに調教していただいた……?」
「そう。今は落ち着いてるみたいだから、襲わない……よね?」
ファイの頭ほどもある大きな目に問いかけてみるが、暴竜は「?」と言った様子で首をかしげるだけだ。だが不意に鋭い牙が並んだ巨大な口を開いたかと思うと、
『(レロォー……)』
ファイの全身を巨大な下で舐めてくる。おかげでファイは一瞬にして暴竜のよだれでべとべとになってしまったわけだが、ファイが構うはずもない。大切なのは、暴竜に敵対の意思がないことだ。
「……ほら、ね?」
「あぁ……。せっかく水浴びできれいになったファイさんのお身体が……。……で、ですが、なぜでしょう。ネトネトのファイさんを拝見しておりますと、わたくしの中に良からぬ感情が……うぅ~……っ!」
なぜか顔を赤くしたニナが、その場にしゃがみ込んでしまう。
どうしたのか。ファイがニナに問いかけようとした瞬間、背後ですさまじい衝撃があった。
「……!?」
まさか暴竜が攻撃をしてきたのか。ファイがわずかに目を見開いて振り返ると、先ほどまですぐ背後に居た暴竜が居なくなっている。
その代わりに居たのはムアだ。彼女が水色の髪を舞わせ、蹴りを終えた姿勢で宙を舞っている。どうやらムアが暴竜を蹴り飛ばしたようだ。
「あはっ♪ さっきの、良い遠吠えだったじゃん! ……けどー、ムアに対抗するのはちょっと生意気すぎ! だからムアがもう1回遊んであげ――」
『ブォア!』
ムアが着地した瞬間、黒毛の暴竜が吐き出した光の玉がムアを飲み込んで、爆ぜた。
すぐさま剣を地面に突き刺し、暴風と衝撃をやり過ごすファイ。それらが止んで顔を上げると、ムアが元居た場所には土煙が立ち上り、巨大な穴が開いてしまっている。
ファイも暴竜の息吹の威力は身をもって知っている。さすがのムアも無傷ではいられないだろう。
「ムア、大丈夫――」
「ニナ! ファイ! ムア、ちょっとあの子と遊んでくるー!」
そう言って笑顔で暴竜の方に駆けだしていったムアは、確かに無傷ではなかった。
身体は煤や土煙で汚れ、下着はほとんどが焼け落ちて役割を失ってしまっている。
それでもムアは止まらない。むしろ瞳をキラキラと輝かせ、「わふー♪」と楽しそうに鳴きながら、自分の数十、数百倍はあるだろう体積を持つ巨大な魔獣に立ち向かっていくのだった。




