第26話 倒しちゃっても、良いよね?
地面が弾けたその音で、異変に気付いたらしいミーシャ。ファイの肩越しに、土が舞ったその場所を確認して、声を上げる。
「大黒熊!?」
耳元で発されたミーシャの叫びを聞きながら、着地したファイ。ミーシャを抱えたまま振り返り、襲撃者の姿を確認する。
そこにいたのは、大きな熊だった。全身が茶色い毛でおおわれ、首回りの部分だけ色合いが薄い。そのため、首巻きをしているようにも見えなくない。
ウルンでは大黒熊と呼ばれるその魔物は、大きいもので体長3m、体重も300㎏を超える中型の魔獣だ。食性は雑食で、エサの豊富な森の奥地に暮らして木の実や小動物を狩って暮らしている。
一方で、縄張りに入ってきた生き物を徹底的に排除しようとする凶暴性も持つ魔獣だった。
(危険度は青色等級。逃げても追いかけてくるから、殺すのが常道)
条件反射的で“戦闘”に意識を切り替えるファイ。身体に沁み付いた動きで腰にある剣を抜こうとして、
「……?」
ファイは、自分が武器を携帯していないことに気付くのだった。
(…………。……どうしよう?)
焦ることこそないものの、困ってしまったファイ。大黒熊は、ファイ達を警戒しながらゆっくりと近づいてくる。
ルゥに言われた通り、ミーシャに指示を仰ごうと腕の中に納まる獣人族の子供を見てみると、
「な、なんで大黒熊がこんなところに……!? いつもはもっと奥地にいるのに……」
ミーシャは、顔を青ざめさせていた。
「ミーシャ?」
「なんで? なんで、なんで……なんで!? これまでもちゃんと、奥に行きすぎないようにって。先輩たちに言われたこと、守ってたのに……っ!」
ファイが試しに呼びかけてみるが、ミーシャの目は大黒熊へと向いたまま離れない。血の気の引いた顔でうわ言を呟いており、ファイの言葉が聞こえていないようだ。
「どうしてアタシなのよ! どうして、アタシばっかり……。いや……。いやだよぉ……」
やがて、現実を見たくないというように目を閉じてしまったミーシャ。股の間を通した尻尾をお腹に引っ付け、頭の耳を手で押さえつけて。ファイの腕の中で全身を丸めてしまった。
ファイの腕に伝わってくる、ミーシャの全身の震え。それを止めてあげたくて、ファイは呼びかけを続ける。
「ミーシャ? ミーシャ、大丈夫?」
「……ファイ?」
多少強引に気を引こうと、ミーシャの身体を揺らしたファイ。そのおかげで、ミーシャの目がようやくファイの方を向いた。
「ど、どうしよう、ファイ! アタシ、死にたく、ない……っ。ま、まだ、アタシを拾ってくれた先輩たちにも、ニナにも……全然お返し、できてない……!」
縋りつくようにファイを見るその目に光は無い。ファイのことを見ているようで、見ていない。恐怖で頭が回っていないらしく、見ている景色や言っていることに思考が追い付いていないようだった。
そうして、怯えながらも必至に生に食らいつこうとしているミーシャの姿を見たとき、ファイの中に不思議な感覚があった。
――この人を守りたい。
そんな思いだ。しかし、黒狼に対してファイが抱いていたその感情は、“指示をくれる人が居て欲しい”、“道具で居たい”という自己保身の裏返しだった。それに対して、今ファイが感じているのは、もっと純粋な、自分の都合など抜きにした「守りたい」だった。
その感情を庇護欲と呼ぶことも、黒狼の人々に抱えていた「守りたい」とは違う性質であることも、ファイは知らない。ましてや、自身が“誰か”や“何か”を守りたいと思ってしまうこと――心があること――を、ファイ自身が否定してしまっている。
それでも、気づけばファイの身体は、動いてしまっている。
(――死にたくない。それが、ミーシャの指示!)
そう自分に都合よく解釈をして、腕の中にいるか弱い存在を、守ろうとしてしまっていた。
「ミーシャ」
語りかけるファイの表情は相変わらず鉄仮面なものの、声はひどく優しいものだ。そんなファイの声に乗った感情に気付いたわけではないだろうが、
「な、なに……?」
目端に涙を浮かべるミーシャが、改めてファイの方を見る。間近で見ると色結晶のように美しい緑色の瞳を眺めながら、
「見て?」
そう言って、ファイは目の前にいる大黒熊へと目を向ける。もうこの時には、大黒熊はファイ達の目の前で直立していて、獲物を殺そうと前足を振りかぶっていた。
「ぁ……」
現状に気付いたらしいミーシャが、喉から息を漏らす。が、次の瞬間には、ファイの頭に抱き着いてきた。
一瞬、恐怖のあまりミーシャが抱き着いてきたのかと思ったファイだったが、
「こ、後輩を守るのは、先輩の仕事……なんだから……っ」
震えながらもそう言って、人体の急所であるファイの頭を抱きしめているあたり、違うらしい。
おかげで、ファイはミーシャの身体に視界を遮られてしまうことになったわけだが、同時に、ミーシャを抱いていた両手が自由になった。
別にファイは、ミーシャを怖がらせたくて「見て」と言ったわけではない。あなたが使うファイという道具がどれほどのものなのかを、知って欲しかっただけだ。
(大丈夫だよ、ミーシャ。私は諸刃の剣じゃない。主人の安全を保障できてこそ、“優秀な道具”なはずだから)
心の中で言いながら、そっとミーシャの腰を右手でまさぐったファイは、目的の物を見つける。そして、そこに差してあった小刀を鞘から抜き取ると同時。
「んっ」
大黒熊が居た位置に、振り下ろした。
『ガァ!?』
ファイから見て左上から、右下へ。きれいに振り下ろされた小刀。狙い通り攻撃は命中したらしく、大黒熊の鳴き声が聞こえた。
(外しては、無さそう……。けど……)
小刀を振るったファイの手に、親しみのある“物を斬った感触”がない。念のために今度は右上から左下へ小刀を振り下ろしてみると、今度こそ何の手応えも無かった。
いよいよもって状況を確認する必要が出てきたため、
「だ、大丈夫、大丈夫……! ファイはアタシが守るから……んにゃっ!?」
そう言って必死にファイの頭にしがみつくミーシャを、左手1本で引き剥がす。
(大黒熊は、どこに――)
そうして開けたファイの視界には、肩口から脇腹まで身体を真っ二つに両断されて倒れ伏す、大黒熊の死骸があったのだった。
「…………」
状況から見て、恐らく自分が小刀で斬ったことによる結果であることを察するファイ。ただし、やはりその手応えが無い。
「ちょ、ちょっと、なにするのよファイ。このままじゃアンタまで死んじゃう……ふぇ?」
ファイの左手に首根っこを持ち上げられながら、抗議の声を漏らしているミーシャ。しかし、目の前で倒れている大黒熊を見ると、素っ頓狂な声を漏らした。
「えっ。なんで大黒熊が死んでるのよ……」
宙ぶらりんの状態で目を丸くするミーシャの言葉を、ファイは問いかけと受け取った。
「……私が殺した?」
ひとまずミーシャを地面に下ろし、小刀を返しながら推測される事実を口にしたファイ。
「苦労知らずのお嬢様のアンタが殺したって、そんな冗談……って言うか、なんで疑問形なのよ?」
「手応えが無かった、から」
「手応え? ……あぁ、なるほど。これを使ったからでしょうね。護身用だとか言って、ニナが渡してきた業物らしいから。アンタが使ってきたどんな武器よりも、斬れるでしょうね」
先ほどまでの怯えはどこへ行ったのか。以前と変わらないような態度で、小刀を鞘に納めようとするミーシャ。
しかし、相手を観察することには自信があるファイ。ミーシャの膝が笑っていることも、耳も尻尾も力なく垂れてしまっていることも。手が震えてなかなか鞘に小刀を納められずに戸惑う姿も、きちんとお見通しだった。
「……な、なによ?」
自身を見つめるファイの視線に気づいたのだろう。不機嫌そうな顔で聞いてくるミーシャ。
「ううん、何でもない。それより私、ミーシャの役に立てた? 魔物、倒して良かった?」
死にたくない。そう言ったミーシャの指示の意図は間違っていなかったか。確かめるために聞いたファイに、なぜか顔を赤面させたミーシャ。怒っているというよりは、恥ずかしいという表情に見える。「あ、う……あ」と声にならない声を漏らす小さな少女の真意は、ファイには分からないものの。
「……そ、その……。た、助けてくれて、ありがと」
そっぽを向きながらミーシャが言ったその言葉で、自身の考えがひとまず間違っていなかったことに、ほっと息を吐くのだった。




