第244話 これで大人、だね?
間接照明が照らす、ほの暗い部屋。
「……ぅ?」
ファイの目覚めを促したのは、頬を撫でる柔らかな感触だった。この湿った感触に覚えがあるファイはすぐに、いま自分が一緒に眠った相手――ミーシャに顔を舐められているのだと気づく。
「ファイ……ファイ……」
名前を呼んで、何度も顔を舐めてくるミーシャ。
気に入った相手に匂いをこすりつける「パッフ」もそうだが、ミーシャはファイに他人の匂いが付くことをひどく嫌がる傾向がある。もっと言えば、ファイから“他人”の気配がすることを嫌うというべきだろう。
そんな中、ティオが現われた。彼女はファイと同じ部屋で過ごし、ファイの部屋には少しずつ、ティオの匂いも浸透しつつある。
以前、ユアがファイにパッフをしたと勘違いしたときのように、危機感を抱いているだろうか。ミーシャはここ数日、いつになく激しくファイにパッフをしてきていた。
「(ちろちろ……)」
小さな舌で何度もファイの顔を舐めるミーシャ。
このままではくすぐったくて眠れないため、ひとまずファイは抱き着いてきているミーシャを引きはがそうと試みる。と、ここでファイは、自分がミーシャにがっちりと手足を拘束されていることに気づいた。
ファイの腕には腕を、足には足を上からかぶせるように、ミーシャが抱き着いている。しかも、
「……?」
普段なら簡単にほどけるはずのミーシャの拘束を、ファイは全くほどくことができない。それどころか、使用不可期間で身体強度も下がっているファイの全身が、ミーシャの抱き着きに対して軽く悲鳴を上げていた。
これまでも、ミーシャが寝ぼけて抱き着いてきたりパッフをしたりしてくることはよくあった。だが、いくら弱体化しているとはいえミーシャに力負けをするようなことなど、ファイにはなかった。
(ミーシャ。力、強くなってる……)
などとファイが考えている間にも、
「ふぁい、ファイ~……」
甘い声でファイの名前を呼んで、ミーシャが甘えてくる。そして彼女が手足の力を強めるたびに、ファイの肺から空気が風船のように抜けていく。
「ぅ、ぁ……」
かろうじて足を曲げ伸ばしできる以外、身動きすることができないファイ。このままではミーシャに“抱き殺し”されてしまう可能性さえ見えてきたため、ミーシャには申し訳ないが起きてもらうことにする。
甘えている最中にミーシャを起こすと、彼女は羞恥で顔を赤くして少し泣いてしまう。その泣き顔を見ないようにするためにファイが彼女を抱いて、再び眠る。それがいつものやり取りだ。
「み、ミーシャ……。起きて……?」
文字通り絞り出すような声で、ミーシャに起床を促すファイ。同時に身をよじって、どうにかミーシャの拘束から逃れようと試みる。
だが、ミーシャはまだ寝ぼけているらしい。
ファイの顔から顎の下、首筋へと、小さな舌を這わせていく。それに合わせて体勢も少しずつ変え、ファイに身体をこすりつけるようにして下へ下へと布団の中にある身体を移動させていく。
そうしてファイとミーシャ。2人が身じろぎをしたことで、布団の中から2人分の体温と香りが交じり合った空気が漏れ出してきた。瞬間、
「……っ!?」
嗅ぎ覚えのある匂いを見つけたことで、ファイは驚愕に目を見開く。
どこか生臭く、それでいて甘い。いつまでも嗅いでいたくなってしまう、生物としての本能を刺激する匂いだ。
(コレ……。ユアの時と同じ……発情の匂い!)
ミーシャが、発情している。その事実が表すことをファイが考え付くよりも先に、
「――ファイ♡」
目に怪しい光を映すミーシャと、目が合った。
暗闇の中、スゥッと細められた緑色の瞳。その中に疑いようのない「♡」の印が浮かんでいるように見えるのは、ファイの気のせいではないだろう。
「ミーシャ、起きてた、の?」
ファイの問いかけに、ミーシャが答えることは無い。
お気に入りのファイを絶対に手放さないと言うように、ファイの全身をがっちりと固め、顔や耳、首筋を幾度となく舐めてくる。さらにはファイの所有権を主張するように激しく身体をこすりつけるばかりだ。
そうしてミーシャが動くたび、布団からはどんどんと発情の匂いが漏れ出してきて、至近距離に居るファイの鼻から脳へ、瞬時に到達する。
(……もふ、モフ?)
ファイの瞳からも徐々に理性の光が失われ始め、入れ替わるようにして「♡」の光が浮かび始める。
いつしかファイは、ミーシャの可愛らしい三角形の耳と、布団から出たり入ったりするしなやかな尻尾にしか目がいかなくなる。
毛足は短いが手入れされた滑らかな手触り。本人の気質を映すようにツンツンと張りがありながらも、触らせてもらえれば誰もが虜になる極上の感触をしている。
コレが欲しい。ひいては、その持ち主であるミーシャが欲しい。そう考えている自分を客観視できるだけの理性を、ファイはまだどうにか保っていた。
そして、ファイにとって「~が欲しい」とは忌むべき言葉だ。
(私は道具。私は道具。私は、道具……私、は……もふ、もふ? って、違う!)
ファイは道具としての矜持だけで、どうにか理性を保ち続ける。
(これ……この匂い、良くない! 嗅がないようにしないと……っ)
布団の中から香ってくる発情の匂いをできるだけ嗅がないよう、上を向いて息を大きく吸ったファイは呼吸を止める。
かつて遠目から一瞬、ユアが散布させてしまったものを嗅いだだけでもファイから正気を奪った獣人族の発情の匂いだ。
この距離で長時間嗅ぐようなことがあれば、ファイは間違いなく、弱い素の自分をさらす自身がある。そして弱い自分は欲望のままにミーシャの全身をモフモフしてしまうだろう。
(ミーシャ、しつこくされるのは嫌、なのに。私は多分、無理やりしちゃう……)
懸命に息を止めて匂いを嗅がないようにしながら、打開策を模索するファイ。
だが、やはりミーシャの力が強く、使用不可期間の今のファイではとても抵抗できそうにない。
どうしてミーシャは突然、力が強くなったのか。その理由を探すうち、ファイはようやくミーシャに訪れたのだろう変化を察する。
(そっか。ミーシャ、進化したんだ、ね)
ミーシャが待ちに待っていた“第1進化”の時が、まさに今、来たのだろう。
そして、ガルン人にとっての“第1進化”とは、身体が出来上がり、子供を産むことができるようになった証でもある。
生まれて初めての発情期も同時に、ミーシャは今まさに体験しているようだった。
一方で、先ほどファイが見たミーシャの目には理性の光がなかった。恐らく初めての発情期に翻弄されているに違いない。
(魔法を使えば無理やりはがせるかも、だけど。私、今は……)
前回の使用不可期間の時、フーカと身の回りの家事についてこなしていた際のことを思い出すファイ。あの時、うっかり魔法を使ってしまった結果、予期せぬ威力と規模になってしまってフーカを怪我させてしまった。
あの時と同じことがこの室内で発生した場合、ミーシャだけでなくファイ自身も死んでしまう可能性があった。
(やっぱり、魔法は使えない。となると……)
どうやってもミーシャの拘束を解けない以上、ファイにはもはや、ミーシャに正気に戻ってしまうしか方法はない。
「ゴロゴロ……ぐるぐる……♪」
低い声で泣いて、激しくパッフをしてくるミーシャ。と、ミーシャの舌が偶然、ファイの耳の穴を舐めた。
生まれて初めて至近距離で聞く唾液の音と、ミーシャの息遣い。何よりも、ゾワゾワと鳥肌が立つ、気持ち良いとも気持ち悪いともとれる奇妙な感触に、
「んぁっ」
ファイの喉から息が漏れた。
当然、肺にためていた息が一気に吐き出され、反射的に息を大きく吸い込んでしまったファイ。彼女の鼻が甘く生臭い香りを捉え、
「あっ」
ファイが「まずい」と思ったときにはもう、手遅れだった。
発情物質を含んだ空気を目いっぱいに吸い込んだファイの瞳から一瞬にして理性の光が消え、ハッキリとした「♡」の光が宿る。
「……ミーシャ」
ミーシャのことを呼ぶファイの声は、普段よりも甘い。ファイの変化を、声と匂いから感じ取ったのだろうか。耳と鼻をヒクヒクと動かしたミーシャがゆっくりと顔を上げ、ファイのことを上目遣いに眺めてくる。
道具としての矜持を失ったファイはもはや、ただ欲望に従うだけのケダモノと変わらない。
「ファイ……♡」
いとおしそうに名前を呼んでくるミーシャの全身をモフモフ――しようとして。手足が動かないことを思い出す。
(もふもふ、できない……?)
手足が動かせず、どうやってもミーシャに触れられない。
いや、1つだけ動かせる場所がある。その動かせる場所と、ファイがかねてからずっと抱いていた欲望が合わさったとき――
――静かな部屋に、湿った音が1つ落ちた。
ファイが頭を引いたことで、再び見えるようになったミーシャの顔。
大きく見開かれた緑色の瞳には、もうすでに理性の光が取り戻されていた。
「な……? な、なにゃ……っ!?」
牙を覗かせ、わなわなと口を動かすミーシャ。彼女の瞳が、ファイの瞳と唇とを行き来する。そのままゆっくりと、時間をかけて自身の身に起きたことを理解すると同時――
「ふにゃぁん……」
力なく鳴いて、目を回してしまった。
おかげでミーシャの全身から力が抜け、ファイはようやく彼女の抱擁から解放される。
ひとまず寝台の上で身を起こし、ぐっと伸びをしたファイ。「ふぅ」と息を吐くと、相変わらず「♡」の浮かんだ瞳で目を回すミーシャを見つめる。
(なるほど。これが、ミーシャの……。ニナとも、ティオとも違う、ね?)
心の中で呟きながら胸を押さえるファイの顔は、満ち足りた笑顔だ。
「……ミーシャ。進化、おめでとう。これで大人の仲間入り……だね?」
優しくミーシャの髪を撫でたファイはそれ以上、彼女に何をすることもない。身体が冷えないようミーシャに布団をかけてあげながら、
「おやすみ」
そう言って“自身の欲望の赴くまま”、ミーシャの温かく小さな身体を抱いて眠るだけだった。
やがて、2人分の寝息が聞こえるようになった頃。
「……いや、ティオも居るんですけど!?」
自分を忘れるなと言わんばかりの、しかしながらファイ達が起きないように気を配ったらしい声量の童女の叫びが、静かな部屋に響いた。




