第23話 知ることは、不幸なこと?
「これが、エシュレ。お汁に、付け合わせに、色んなところで重宝する野菜かな。ついでに、5層のキューピョンのエサにもなります」
「橙色の細長いやつが、エシュレ……。そのままでも食べれるのに、なんで“料理”する、の?」
「食べやすいように、かな~。あと、熱を加えると甘くなるの」
「甘く……。ゴクリ」
甘いと聞いて反射的に出てしまったよだれを飲み干すファイ。彼女が見つめる先で、エシュレと呼ばれた野菜がルゥの手で手際よく切られ、形を変えていく。
そうして一口大になったエシュレは、ファイが初日に口にした一枚焼きの添え物としてお皿に乗っていた、四角くて甘い野菜と同じものになっていた。
(柔らかくて、甘くて、しょっぱいお肉とよく合ってた……)
当時の記憶が蘇り、またしてもファイの口の中がよだれで満たされる。
「一応このままでも食べられるし……。食べてみる? ……じゃ、ダメなんだっけ。えっと、食べて?」
ニナから何かを聞かされているのだろうか。ファイにとってありがたい物言いで、指示を出してくれるルゥ。ファイに差し出された手のひらの上には、切り分けられたエシュレのかけらが乗っていた。
「分かった。……いただきます」
「わっ!? 手から直接!?」
ルゥの手のひらから直接、パクリとエシュレを口にしたファイ。柔らかく、甘いエシュレを想像して咀嚼したファイだったが、待っていたのは驚くほど硬い食感だった。
「か、硬い……。それに、あんまり甘くない?」
「そうかも。だけど、こうやってお鍋でしばらく煮込んだやつは……はい」
今度は“煮込む”という料理をしたエシュレを差し出してきたルゥ。またしてもパクリと食べたファイは、金色の瞳を輝かせる。
「甘くて、柔らかい。お砂糖を入れた、の?」
「ううん。ただ、お水で煮込んだだけ。なのに、これだけ甘くて、食べやすくなる。これが料理の力なんだ~」
自慢げに胸を張って、料理の効果と重要性について教えてくれるルゥ。
先刻、“食べる”の重要性を知ったファイ。そして今、“食べる”を彩る料理の重要性を知る。食材に手を加えることで、もっと美味しく、大切に“食べる”ことができる。“食べる”価値を、もっと高めることができることを理解した。
そして、何よりも、料理が食べる人を思って作られていることを知る。
例えば、今もファイに料理について教えながら“料理”を進めていくルゥ。切り分けられていく食材たちは、かなり小ぶりに切られていた。その理由が食べる人のため――口の小さいニナやミーシャのため――であることは、想像に難くない。
その他、安全に食べられるように食材に手を加えたり、奪った命の価値を上げる――より美味しそうに見せる――ために、盛り付けをしたり。そこには、料理をする人の“心”がある。ファイがそれを理解できたのは、誰よりも自身の心と向き合ってきたからかもしれなかった。
「命を、もっと大切にすること。思いやること。それが、料理……。料理は大事。とっても、大事」
「うん、そうだね。……どう? ミーシャちゃんが何で怒ってたか、ちょっとは分かるようになった?」
ルゥに尋ねられ、静かに頷いたファイ。
先ほど、ミーシャが早口のガルン語で言っていた、
『丹精込めて、愛情込めて、料理や食材を作ってくれてる人たちのこと……先輩たちのこと、馬鹿にしてるのと一緒じゃないですか!』
その言葉の意味を、ファイはまだ理解できていない。おおよそファイの知らない単語の羅列だったからだ。ただ、その言葉の本質のようなものを、ファイはもう理解できるようになった。
「私が料理の大切さを知らなかった。だから、ミーシャは怒った」
ぽつぽつと語るその眉尻は、わずかに下がってしまっている。そんなファイの表情に気付いたのだろうか。優しい笑みを口元に浮かべるルゥはファイの方を見ず、調理を進めながら言う。
「申し訳なく思うことは無いと思うよ。ファイちゃんは、知らなかっただけだから。ミーシャちゃんも、それは分かってると思う」
知らない。ルゥのその言葉は、あの日。ファイがニナに初めて会った日に言われたものと同じだ。
『ファイさん! あなたはきっと、知らないだけなのです……っ!』
そう言って、ニナはファイをこのエナリアに雇った。もっと知ってほしいとそう言って、新しい幸せを見つけようと言ってくれた。
ただ、ファイはその時、ニナの言葉の意味を理解していなかった。なぜなら、それまで、ファイは不便を感じなかったからだ。欲しいもの――指示――がいつでももらえて、ご飯も貰える。満たされた日々は、間違いなく幸せだった。
しかし、こうしてエナリアで働いてみれば、本当に自分が何も知らないことを思い知らされる。
この世には甘い紅茶があること。香ばしい焼き菓子があること。美味しい料理があること。柔らかいもの、可愛いもの、きれいなもの、美しいもの。たくさんの景色やものがあること。人が居ること。心があること。
そうして知識が増えるたびに、ファイは欲張りになっている自分を自覚する。甘いものが食べたい。美味しいものが食べたい。ピュレやミーシャなど、可愛いものを見ていたい・触ってみたい。そんな欲望が――心が、次から次へと湧き上がってくる。たまに、衝動のままに行動してしまうときすらあった。
それが、ファイにとってはひどく、悩ましい。
道具で居たいのに、居させてくれない。満たされていたいのに、満たされない。知識が増えるたびに、まるで湧き水のようにとめどなく溢れてくる“心”。これまでは何も知らなかったからこそ満たされていたのに、ルゥが、ミーシャが、ニナが。たくさんのことを教えてくるせいで、どんどんとファイの中にある欲望が膨らんでいく。
満たされていた幸せな状態から、満たされない――幸せじゃない状態になっていっている。
(ニナ。私は、あなたのせいで不幸になってる、よ?)
心の中で、ニナに言うファイ。ただし、そこに負の感情は乗っていない。なぜなら、甘いもの、可愛いものを知ったことを、ファイ自身が後悔していないからだ。
紅茶を知って、“甘い”を知った。ピュレや猫を知って、“興味深い”や“可愛い”を知った。その度にファイは満たされて、幸せだった。
(けど、事実として、今の私は満たされてない。不幸……。なんで?)
その理由はやはり、色んな事を“知ってしまった”からだ。
ただ、不思議なことに、自分よりもはるかに多くのことを知っているニナは、自身を幸せだと言っていた。
他にも。
「ねぇ、ルゥ。ルゥは今、幸せ?」
「急にどうした!? めっちゃ恥ずかしいこと聞いてくるなぁ……」
唐突なファイからの質問に、困惑した表情を浮かべるルゥ。しかし、ファイの顔を見て何かを察したらしい彼女は調理の手を止めて、ファイに向き直る。そして、恥ずかしそうに頬をかきながらも、
「まぁ、うん。色々あったけど幸せ、だと思う。いつでもニナちゃんに会えるし、一緒にお風呂入れるし、寝る時一緒に居させてくれるし! それに、洗濯ものも舐めさせて……って今の無し! ふぅ、危ない、危ない」
何を言っているのかファイにはよく分からないが、とりあえずルゥも幸せらしい。ともすれば、ニナよりも多くのことを知っていそうな彼女が、だ。
(つまり、一定以上の知識を獲得したら、満たされる……幸せになれる?)
長考の末、幸せになるための道筋を懸命に模索するファイ。というのも、ニナを新たな主人とした日、ニナはファイに言った。
『わたくしと一緒に、新しい幸せを見つけてくださいませ!』
ファイにとってそれは命令であり、つまりファイは、このエナリアの中で幸せを見つけなければならない。
(きっと私が何も知らないから、“足りない”だけ。もっとたくさんのことを知れば、幸せになれる……はず)
そうして様々なことを学んで、知って、心を抑え込む術を手に入れたとき。つまり、より知識をつけたうえで感情を持たない優秀な道具になった時、自分は幸せになれるのだろうと、ファイは推測する。であるならば、自分はもっといろんなことを知らなければならない。
(そうしたらきっと。私が知らないせいで誰かが泣いたり、怒ったりしなくて済むはず。だから――)
身体の横で密かにキュッと拳を握ったファイは、ルゥに向き直る。
「ルゥ。エナリアのこと。ニナのこと。ミーシャのこと。………もっといろんなこと、私に教えて?」
「ん~? もちろんいいけど……。ニナちゃんの体形についてとかは教えてあげないからね」
「あ、うん。教えられる範囲で良い」
「いや、素直か!? まぁでも、うん! 言われなくてもビシビシ教えていくつもりだから、覚悟しててね~!」
片目をつむる先輩従業員に、ファイもコクリと1つ、頷いてみせるのだった。




