第200話 どうして、こうなった?
――どうして、こうなった!?
眼下に広がる光景に、ファイはつい叫びそうになる。
森の各所から聞こえてくる怒号と、戦闘の音。森の中だというのに火や爆発の魔法を使っている探索者も居て、彼らがなりふり構っていられない状況――つまり、かなり追い詰められていることが分かる。
探索者を追い詰めているのは、木々の合間を縫うように移動している黒い影。その正体は、数百、数千を超える森角兎たちだ。
今もなお獲物を求めて森の中を駆け回っている森角兎たちは、獲物を見つけると「キュー!」と鳴いて周囲の仲間を呼び寄せる。そして、数の暴力でもって探索者たちを蹂躙しようとしている。
まさに、阿鼻叫喚と呼ぶべきこの状況を生み出したのは――。
「あはっ♪ 想像以上です! 想像以上の進化です~♪」
ファイの隣で楽しそうにはしゃぐユアと、彼女に撫でられている巨大な白い森角兎。そして他でもない、ファイだった。
さかのぼること、数十分前。
珍しい森角兎を進化させるために、中央の大樹の上にある木の実を取ってきてほしいとユアに懇願されたファイ。
1,000mの上下移動と言えば、いつも裏で行なっている螺旋階段での移動と変わらない。素早くとってこれば、仕事に支障は出ないだろう。そう自分自身に言い訳をして、
「……分か、った」
ファイはユアのお願いを聞き入れた。直後にユアが「ほんとですか!?」と見せてくれた屈託のない笑顔を見れば、ファイも「これくらいなら」と思えてしまうから不思議だ。
「じゃ、じゃあ今すぐお願いします! これくらいの、黄色い果物だと思います。ユアはこの子とここでのんびり待ってますね!」
「うん。……えっと、行ってくる、ね?」
森角兎を確保した時と同様だ。魔法を使いながら素早く移動し、中央の大樹に到着したファイ。実はこの大樹の根元に階層主の間があったりするのだが、今回ファイが目指すのは頂上部分だ。
巨大な壁と見まがう木の根を駆け上がり高度を稼ぐと、続いて。
「〈ヒシュカ・エステマ〉、〈ヴァン・エステマ〉」
氷で作った分厚い足場の下で、大規模な爆発を発生させる。すると、ファイが乗った氷の足場が一気に上空に打ち出された。
螺旋階段で使えば壊れてしまうため普段は自重している、力業での上下移動手段だ。身体への負荷が大きい分、移動時間は大幅に短縮できる方法だった。
そうして瞬く間に頂上までたどり着いたファイは、少し時間をかけて実を捜索。発見後、すぐにユアのもとへと戻る。時間にして30分ほど。まぁこれくらいなら、と、ファイが妥協できる時間に収まった、はずだった。
問題は、そのあとだった。
場所は変わらず、高さ100mほどのキノコ状の岩の上。
「あ、ありがとうございます、ファイちゃん様!」
ユアがぴょんぴょんと飛び跳ねて、満面の笑みを見せてくれる。彼女の心からの感謝と屈託のない笑顔に、ファイが「お手伝い、は、当たり前……」などと耳を赤くしながら謙遜していると、
「それじゃあ早速……こ、これを食べてください、森角兎」
『……? キュッ!』
ユアはファイが取ってきた果物を、何の躊躇もなく、流れるように森角兎に食べさせた。
「……え?」
ファイが気づいた時にはもう、進化は始まっていた。
いや、この段階であればまだ、対処の使用はあったのかもしれない。例えば進化中の無防備な森角兎を剣で切り殺したり、進化を終えて何かがあってもすぐに切りかかることができるように準備をしておいたり。できることはあったのかもしれない。
だが、ファイは人生で初めて目にする“魔獣の進化”という光景に、つい見入ってしまった。
『……ギュッ!?』
苦しそうな声を上げたかと思うと、小さな森角兎の身体から肉がつぶれ、骨が砕けるような音がし始める。
やがて変化は見た目にも及ぶようになる。いったいどういう原理なのか。森角兎の身体が肥大化し始めたのだ。その様は、森角兎の身体の中で何者かが暴れているよう。波打つように体表は激しく跳ね回り、それに伴うようにして身体も大きくなっていく。
森角兎の特徴である額の角も体格に合わせて長く、太くなっていき、とがった前歯はもはや口内に収まらないほどにまで成長している。
やがて完全に変化が収まった時、もともと20㎝ほどだった白い森角兎は、体長150㎝ほどにまで成長していたのだった。
ウルン人の常識では考えられない、ありえない肉体の変化。神秘的でありながらどこか歪で異様な光景に、ファイは思わず目を丸くする。
(これが、魔物の進化……!)
魔獣・ガルン人にかかわらず、魔物であればだれもが進化の可能性を秘めている。実際、このエナリアで働く従業員のうち、ニナとミーシャ以外はこうした進化を経験しているはずなのだ。
つまりルゥ達も、いまファイの目の前で繰り広げられたのと同じような光景を披露していたということになる。
ファイは改めて思う。自分たちウルン人とガルン人は、やはり根本的な部分で違うのだ、と。
不意に感じてしまった心の距離に、静かに打ちひしがれるファイ。一方で、彼女の強い好奇心はこうも思ってしまう。
――ガルン人はどんなふうに進化するんだろう。
例えば、進化を終えた森角兎に駆けよるユアだ。
この先、彼女もどこかの折に3回目の進化を迎えることになるのだろう。その時、彼女の外見はどのように変化するのだろうか。
いや、もっと早くに進化を迎える可能性が高い人物がいる。ミーシャだ。
彼女はこのエナリアに来て以来、十分な食事と睡眠をとることができている。生きてきた期間は定かではないが、身長や体格からしていつ進化してもおかしくないという話をニナやユアがしていた。
そんなミーシャが進化したなら、果たしてどのように外見が変化するのだろうか。
今まさに目にした衝撃的な進化の光景に、否応なくファイの瞳が好奇心で輝く。
ちんまりとした彼女から、リーゼのような大人の女性の見た目に変化するのだろうか。それともユア達のように、可愛さはそのままに身長だけ伸びるのか。
いつだったか、ミーシャが嬉しそうに話していた。
『見てなさいよ、ファイ! アタシ、進化したら立派な大人の女になってやるんだから! そうしたら、ファイと……ごにょごにょ』
果たして彼女の望むような進化は訪れるのか。いや、願わくは、訪れてほしい。
小さな先輩の、可能性に満ちた将来にファイが思いを馳せていると、
「ふぁ、ファイちゃん様! 耳をふさいでくだしゃい!」
自身も頭頂部の耳をぎゅっと手で押さえているユアの、焦ったような声が聞こえた。ここで幸いだったのは、命令口調でユアが言ってくれたことだろう。
「――分かった」
反射的にファイが言われた通りに耳をふさいだ直後、
『キュゥゥゥ~~~……ッ!』
巨大化した森角兎が、高らかに鳴いた。その声量はすさまじく、耳をふさいでいてもなお鼓膜を激しく揺らしてくる。森の魔獣・動物たちも驚いたのだろう。鳥は飛び立ち、動物たちは混乱の鳴き声を漏らす。
しかし、森角兎は鳴くことを止めない。二度、三度。キノコ状の岩の上で、前足を持ち上げて天高く鳴く。
変化は、すぐに訪れた。
『『『キュゥゥゥ~~~……ッ!』』』
第7階層の全域から、森角兎の鳴き声が一斉に聞こえてきたのだ。
それを確認すると、白い森角兎は満足そうに鼻をひくつかせて四肢をつく。
「ゆ、ユア……? 何があった、の?」
一連の事態が飲み込めず、目を白黒させるファイが尋ねる。それに対し、地面にしゃがんだ姿勢で耳をふさいでいたユアが顔を上げる。彼女の顔に浮かんでいたのは、まぎれもない喜びだ。
「よ、喜んでください、ファイちゃん様! これから森にいる森角兎たちが、ユア達のために獲物を持ってきてくれるそうです!」
「えもの……?」
「はいっ! ユア達の敵……ウルン人の、魔素供給器官です!」
「…………。……ぇ」
声にならない音が、ファイの喉で鳴る。理由は、ユアが何を言っているのかさっぱり理解できなかったからだ。
(ウルン人……? 魔素供給器官……?)
どうして今、そんな話になるのか。というより今、ユアは獲物だと言わなかっただろうか。それはウルン語に訳すと「敵」を表す一方、こうも言い換えることができる。
――「エサ」「食べ物」。
ゆっくりと、ファイの脳にユアの発言の意味が染み込んでいく。
つまりユアは今、自身の能力を使ってウルン人を狩ろうとしているのだ。
「ま、待って、ユア? ここはニナのエナリア。ウルン人を狩る、は、ダメ」
「は、はい? ユアは天才なので、そんなの言われなくても分かってます……よ?」
キョトンとした顔で、ファイのことを見上げてくるユア。ただ、おそらく同じような顔をファイもしてしまっていることだろう。ユアが何を言っているのか、やはり分からないからだ。
「えっと……。ユアはウルン人を殺そうとしてるんじゃない、の?」
「えっ……? はい、そうです。この子、進化したおかげで森にいるキューピョンを従えることができるようになったみたいなので……。だからユアがお願いして、ウルン人を殺してきてもらっています……」
“何か”が決定的にすれ違っている。これまでの経験から、何が起きているのかはどうにか理解できたファイ。しかし、すれ違っている“何か”が分からない。
そんなファイの目の前で、ユアが「あっ」と気づきの声を漏らした。
「な、なるほど! おバカなファイちゃん様に、天才で優しいユアが教えてあげますね!」
知恵比べで“上”に立ったことを察したからだろうか。ユアが余裕のある態度で、笑う。これまでと同じく楽しそうに、何も知らないファイに、知識を授けてくれた。
「――ユアは、ウルン人を殺しません。殺すのはあくまで、ユアに協力してくれる魔獣です♪」




