第177話 そうじゃない、ね?
ゴポゴポと、散湯器を使って髪を洗っている時に聞く水音がファイの耳朶を打つ。目に水が入らないようぎゅっとつむって手足をばたつかせるファイの耳は続いて、
「わふ~! 気持ち~!」
嬉しそうに鳴いて遠のいていくムアの声を拾った。
泳ぎの練習をしようと深さ2~3mあるため池に入ろうとしていたファイ。そんな彼女の背後から飛びかかって来たムアによって、ファイは無理やり入水させられたのだった。
(どう、しよ……!?)
水中でどう振る舞って良いのか分からず、息を止めて目をつむることしかできないファイ。自分は今どうなっているのか。水面に向かっているのか、水底に向かっているのか。それすらも分からないのが現状だ。
実際、どれだけもがいてみても水面に出た感触はない。空気を求めて鼻で呼吸すればツンとした痛みがあり、口を開けば貴重な肺の空気が漏れていく。
この時、ファイは静かに溺れていた。
地上とは違って身体能力は役に立たず、焦りのせいで魔法の“画”も浮かばない。何が起きているのかは理解できるが、何をどうすれば良いのか分からない。
(〈ユリュ〉で溺れてるとき、こんな感じだった……?)
これまで魔物を〈ユリュ〉で作った水球でも溺死させてきたファイ。苦しそうにもがいていた彼らがいまの自分と同じような絶望を抱いていたのだとしたら、なんと酷なことをしていたのだろうかと申し訳なくなる。
今度魔物を殺すときは、別の方法にしよう。そうやって他人のことであれば冷静に考えられる一方で、自分のことについては一切考えることができない状態だった。
ファイの口から大量の泡が溢れる。だが時間と共にその泡の量は目に見えて減っていき、比例するようにファイの意識も遠のいていく。無駄な動きをするべきではないと膝を抱く姿勢を取った時には、もう遅かった。
時間にして、1分も経っていないだろう。だがそのわずかな時間は、ウルンで最強の証である白髪のファイを殺すのに十分すぎる時間だ。
(あっ、コレ……)
肺に溜まった最後の空気が泡と消えた瞬間、死を直感したファイ。ニナから死ぬなと言われている手前、ファイとしても全力で足掻きたいところだ。しかし、やはり人生で初めての水の中での身の振り方がファイに分からない。
肺から空気が抜けて“浮き”が消えたファイの身体がどんどんと水底へと吸い込まれていく。
消えゆく意識。全身から力が抜け、ぎゅっと閉じられていたファイの目が微かに開かれる。
天井にあった巨大な夜光灯の光が、水に揺れている。影になって見えているのは、浮き輪で浮いていたユアの尻尾と、彼女のもとへ泳いでいくムアの姿だ。
そう言えば長かった発情期が終わり、ようやくムアと面と向かって会えるとユアが喜んでいた。ムアがここに来るからユアも水遊びに参加してくれたんだったか、と、出不精のユアがここに居る理由を思い出すファイ。
(良かった、ね。ユア、ムア……)
ファイの意識と比例するように遠のいていく水面。ぼんやりと見える夜光石がファイの中でフォルン――ニナと重なる。その光に手を伸ばしそうになって、
(――ううん。違う、ね?)
ファイは手を引っ込める。ファイはニナのために役立つ“優秀な道具”になりたいのであって、ニナに助けられてばかりのお姫様になりたいわけではないのだ。
泳げるようになりたいのも、道具としてより一層の高みを目指すためだ。どんな窮地も自分の力で切り抜けて、ついでにニナも助けられるような存在になりたいのだ。それこそ、いつも笑顔で窮地を切り抜けてはファイを助けてくれる、ニナのように。
(だから、自分のことは、自分でしないと)
そんなファイの願いが届いたのか。それとも単に、身体が沈み続けた結果なのか。ファイの足がついに、固い水底をとらえた。
瞬間、最後の力を振り絞って全力で地面を蹴ったファイ。
地上では考えられないような水の抵抗を全身に感じながらも瞬く間に水面にたどりついたファイはそのまま、
「ぷはぁっ!」
水面を跳ねる海豚のように跳び上がり、無事にため池の岸へと着地することに成功したのだった。
そのまま芝生の上に大の字で寝転がって、息を整えるファイ。息を吸える喜びが、ファイの全身に満ち満ちている。
(死ぬかと、思った……♪)
久しぶりに感じた死の気配。戦闘で最後に感じたのは、ニナに出会うきっかけともなった巨人族との戦いだろうか。
今でもファイにとって戦闘は生き甲斐だ。そして痛みと死はファイにとって、どれだけ戦闘で役に立てたのかを示す指標でもある。痛ければ痛いほど、死にそうになればなるほど、ファイは自分が役に立てたのだと実感できた。
今回は戦闘で死にかけたわけではないが、ファイの身体は死にかけた事実と役に立った快感が深いところで結びついている。結果、久方ぶりの“生”の快感がファイの全身を駆け巡っていた。
恍惚とした顔で頬を赤らめ、天井にある巨大な夜光石を見上げるファイ。と、不意に人影がファイの視界を遮った。
「ファイさん、大丈夫ですか? すごい水しぶきでしたが……って、なぜにうっとり顔!?」
天井の夜光石を背に覗き込んできたのは、ニナだ。垂れさがる茶色い髪を耳にかけて不思議そうにファイのことを見ていたニナだが、ファイの表情を見て驚きの声を上げる。
表情とは、心の露出だ。自身の顔をムニムニとほぐしたファイは身を起こしながらニナを見上げる。
「ニナは変なことを言う。心が無い私には、表情も無い。うっとり、は、違う」
「あぅ……。ファイさんがそれで良いのなら、わたくしからもう申し上げることは無いのですが……」
言いながら、ニナの視線がファイの顔から下がっていく。
「ぬ、濡れて透けた上衣から見える白い水着……。な、なぜでしょうか。ほんのちょっぴり、煽情的ですわぁ……っ!」
赤らんだ頬を両手で包んで、身をよじっている。
(心が上がる、みたい?)
ニナの「煽情的」という言葉を自分なりにかみ砕きつつ、自身の身体に視線を向けるファイ。
今日ファイが着つけてもらったのは、上下が分かれた、下着そっくりの白い水着だ。他の従業員のものと比べても一番簡素な水着で、飾りなども付いていない。
ただし、「それが良いんだよ!」とはルゥの言だ。曰く、ファイの素質を引き立てるためにあえて装飾品を少なくしているのだという。
そのうえで、ファイが不調明けだということに気を遣ってくれたのだろう。白い上衣を着せて身体が冷え過ぎないように配慮してくれたのだった。
そんな上衣が今は水に濡れて透けてしまい、下に着ている白い水着が見えている。
しな垂れるように芝生に座り込むファイ。濡れそぼった白い髪からは水滴が滴り、落ちた雫が胸元へと視線を誘導する。身体に張り付いた上衣が、まだまだ成長の余地を残すファイの身体の線を映し出す。
「……ニナ。私、せんじょう……てき?」
微かに朱の残る顔で、ニナを見上げるファイ。それに対してニナは、ごくりと生唾を飲み込んでうつむく。何かを堪えるように両こぶしを握ってプルプルと震えていたニナだが、結局。
「も~う辛抱たまりませんわぁぁぁ~~~っ!」
「わっ」
目を♡の形にしながら、ファイに向かって飛びつこうとしてきた。ただし、ニナの手がファイに触れるよりも先に、2人の間に割って入る人物がいた。
「は~い、ニナちゃん。待てだよ~」
ファイの眼前で紐のように細長い尻尾を揺らすのはルゥだ。空中にあったニナを捕まえ、小脇に抱えた。
「な、何をするのですかルゥさん! いまそこに! 目の前に! わたくしを誘うファイさんが居るのですわぁっ!」
「うんうん、そうだね~。でもファイちゃんにその気は無いから。それともニナちゃんは無理やりするの?」
「そ、それは……」
ルゥの言葉に、小脇に抱えられて駄々をこねていたニナが動きを止める。
ニナの興奮が落ち着いたことを察したのだろう。ルゥがチラリとファイの方を振り返る。
「ファイちゃんも。わたしが前に言ったこと、忘れてないよね?」
表情こそ笑顔だが、薄っすらと開かれた青い瞳には光が見えない。その虚ろな目を見れば、否が応でもファイも思い出す。
「えっと。ニナを、取らない?」
「うん、そう! 分かってくれてるなら良いけど――」
先端が膨らんで、コチラも♡の形になっている細い尻尾でファイの首筋をツンツンとつついたルゥ。鋭い針の感触に、ファイの頬が思わず鳴る。
「――あんまりわたしを心配させないでね?」
その問いかけにファイが「う、うん」と頷いたことで、ようやくルゥは「ならよし♪」と、普段の人好きのする笑みを浮かべるのだった。
「あ、あの~……ルゥさん。わたくしはルゥさんのものではありませんわ。あと、そろそろ降ろしていただけると……」
「あっ、うん、ごめんね! 別に『ニナちゃんの胸が腕に当たってる♪』とか、『やっぱりちょっと大きくなってるかも?』とか、全然思って無いからね!」
謎の弁明を残しつつ、ルゥはニナを解放する。
「もうっ。身体検査をしていただくのは結構ですが、それならそうとおっしゃってくださいませっ」
ルゥの意図ある行動に、ニナが憤慨していたのも束の間だ。すぐにファイに向き直って笑顔を見せると、先ほどまで自分たちが居た浅いため池を指さした。
「ファイさん! よろしければあちらで一緒に遊びませんか?」
どうやらファイを遊びに誘うために、駆けつけてくれたらしい。
最近のファイは「はい/いいえ」の問いかけであれば答えられるようになった。しかし先ほどルゥに肝を冷やされたせいだろうか。冷静になってしまっているファイは、なかなか頷くことができない。
と、そんなファイの腕を引っ張ったのは他でもない。ファイが冷静になってしまった原因でもあるルゥだ。
「ニナちゃん。ファイちゃんにはこういうのが正解でしょ? ……ファイちゃん、あっちで一緒に遊ぶよ!」
やや強引にファイを立ち上がらせると、「あっちあっち♪」と言いながら背中を押してくれる。これであればファイも、自分の本心を見せずともニナ達と遊ぶことができるのだから助かる。
(さすが、ルゥ)
ちょっと不思議なところもあるが頼りになる友人に背中を押され、浅瀬にたどりついたファイ。そこで彼女は、15年以上ある人生で初めて“友人と一緒に遊ぶ”ことになる――。




