第176話 泳げる、かな
ファイもそうであるように“不死のエナリア”で働く従業員は、程度の差こそあるものの労働狂いだ。身体を動かし、自身の役目を全うする。彼女たちにとってそれは日常であり、普通のことだ。苦痛に感じている者もおらず、むしろニナへの恩返しも兼ねて進んで働く者が多かった。
『ですが、あえて言わせてもらいますね。皆さんは異常です』
マィニィは第三者視点で、ファイ達がおかしいのだと明言した。そのうえで、臨時のエナリア主の権限を持ってファイ達に完全休養を言い渡したのだった。
こんな時、困る人と困らない人の差は趣味があるかどうかだろう。
例えばニナだ。彼女には家庭菜園という趣味があることをファイは知っている。ファイがこのエナリアに来た初日、彼女は第4層にあるという自身の菜園で自家製の砂糖をご馳走してくれた。また、第20層の表側には庭園があるらしく、花々を育てているとも言っていた。
その他、ルゥには服飾、ユアには魔獣研究という趣味がある。
だが、ファイとリーゼは異なる。2人は働くことそれ自体が趣味だと言っても良い。主人のために尽くす。2人にとってはそれこそが生き甲斐なのだ。働くなと言われた時の絶望は、他の面々とは一線を画すものだろう。
それでも。
「そうですわ、皆さん! これを機にわたくしから1つ、ご提案があるのですが、よろしいでしょうか……?」
いつだって、ファイを絶望から救ってくれるのは、ニナだ。喜色満面でパチンと小さな手を叩いた彼女による提案に、一同の目がきらりと輝いた――。
それから少し後。着替えを済ませたファイの目の前にあったのは、淡く輝く清らかな水だ。ニナの話では、第13~15層を流れる水を引いているとのことだった。
ファイが居るのは“不死のエナリア”第20層。「最後の階層」と呼ばれる場所の、階層主の間だ。未だウルン人ではただ1人、ニナの母しか到達していなかったその場所に、ファイは人類で初めて足を踏み入れていた。
広大な空間にぽつんと立つ、大きなお屋敷。緑豊かで広大な庭園を有するその建物こそ、ニナが生まれ育った場所――ルードナム邸だ。
かつてはリーゼやルゥを始めとする100人近い従者が館内を駆け回り活気に満ちていたという。しかし、ニナの両親が謀殺されたことで半数近くが離反。残った人々も、新たな当主となったニナの方針に賛同できず、離反した。
そうして人気を失って静寂に包まれていたルードナム邸。だが現在、その裏にある遊泳用ため池にはささやかな喧騒があった。
「えい、えいっ!」
「きゃぁ~! 冷たいですわ、ルゥさん!」
噴水も備えた、くるぶしあたりまで水が貼られた円形のため池。そこで黄色い歓声を上げるのはルゥとニナだ。ルゥが水をすくってニナにかけ、負けじとニナがかけ返す。勝負と呼ぶにはささやかな攻防に、ファイは目を細める。
2人が身にまとっているのは、『水着』と呼ばれる衣服らしい。水に濡れることを前提として作られた衣服で、魚人族が使う衣服をそれ以外の種族用にあつらえた物なのだという。
発祥こそ水中での戦闘を想定して作られた水着。だが、お洒落に涼を取ることを目的とした、装飾が多い水着も多いらしい。
もちろん、ニナ達が着ているのは涼をとるための水着だ。
ニナはおへそや脇腹を隠す、布面積の多い薄黄色のものを着ている。普段、お風呂でも湯あみ着を着ているニナだ。肌を晒すことに、抵抗があるのかもしれない。
逆にルゥは、自慢の身体の線を前面に押し出す肌面積の多い水着を選んでいる。胸と下腹部だけを隠す布は紺色。紐でしか止められていないように見える水着は脱げないのだろうか。疑問と共にファイが見つめる先で、
「えい、えいっ! どうだ、どうだ、ニナちゃん!?」
「ぷはっ! やりましわね~……! それならばっ!」
「あっ、待って待って! 足使うのは反則――へぶぅっ!?」
ニナが少しだけ力を込めて蹴り上げた水がれっきとした攻撃となってルゥを襲う。その水圧はすさまじかったらしく、攻撃を受けたルゥの身体が軽々とため池の外にある芝生へはじき出されていた。それでもルゥの水着は脱げていないので、想像以上に丈夫なのかもしれない。
一方、深さが3mほどの、泳いで遊ぶため池に居るのはユアだ。自由な実験ができると喜んでいた彼女だが、ユアの仕事もまた実験だ。「仕事をするな」という取り決めに抵触すると、実験室を追い出されたらしい。
自室に引きこもることができなくなったこと。また、“とある理由”があったことでユアもファイ達に合流。こうして一緒に水遊びをしていた。
髪色よりも少し薄い桃色の水着に身を包むユア。人付き合いが苦手な彼女は他の従業員から距離を取り、浮き輪と呼ばれる円形の遊泳補助器具に腰掛けて浮いている。この空間の天井にある夜光石の光が眩しいのだろう。遮光眼鏡をかけて、ぷかぷかと気持ち良さそうに水面を漂っていた。
そうして思い思いに水と遊んでいる従業員たちから、地上へと目を向けるファイ。
ため池のそばには、寝そべってまったりするための長椅子が置かれている。そこにうつぶせで寝転がって青い尻尾を揺らしているのは、リーゼだ。
彼女が着ているのもルゥと同じ、かなり布面積の小さい水着だ。飾り気のない青い水着だが、だからこそ、リーゼの豊満な身体の線が際立っているようにファイには見えた。
普段は先端までピンと立っている青い尻尾だが、今はペタンと股の間に垂れている。リーゼが心の底から気を緩めている証だ。
最後の最後までマィニィの「休め命令」に抵抗していた彼女。しかし、結局はニナに「リーゼさんも休んでいただかないとわたくしの立場が……」と言われてしまっていた。「休むことがお仕事」と割り切って、ああして羽を伸ばしているらしかった。
また、リーゼが気を休めることができている理由は、監視役としてファイ達に付けられているエリュの存在もあるだろう。
「お母さま! 尻尾と羽のお手入れ、手伝います!」
「ふふっ、気が利きますね、エリュ。ですがあなたはあなたのお役目を……」
言いながら振り向いたリーゼの視線の先には、母譲りの青い瞳を輝かせるエリュが居る。その手にはもう既に羽や尻尾を手入れするための道具と思われるものが握られており、リーゼを癒したいという気概が満ち満ちていた。
「……いえ。それではよろしくお願いしますね、エリュ」
「わぁっ!? は、はい、お母さまっ!」
ともすればファイ以上に動かすことのないリーゼの凛とした顔。そこに慈愛の色をにじませながら、エリュの申し出を受け入れていた。
(みんな、楽しそう)
水辺で思い思いに休息している従業員たちの姿を見ているだけで、ファイの胸もポカポカと温かくなる。自然とファイの足もきれいな水が張られたため池へと向いた。
実はファイは泳げない。理由は単純に、これまで泳ぎを必要とする場面が無かったからだ。戦闘中に川に落ちることもなくはなかったが、彼女の場合は泳ぐよりも周囲の水を魔法や腕力で吹き飛ばした方が楽で早い。
そのため、泳ぎの必要性を感じる場面が無かったし、そもそも泳ぐという概念も曖昧な状態だった。
しかし、先日、第15層を尋ねたときはムアが気持ち良さそうに川に潜って鰻を獲ってくれた場面があった。あの時ようやく、ファイは自分が泳げないのだと知った。
それにファイの脳裏に思い浮かぶのは、フィリス近郊に広がっていた大きくて広い海だ。
一部、磯臭くてファイが苦手なものがあるが、漁港もあるフィリスで獲れる魚たちは新鮮で絶品だった。ファイとしては先日の果物に続いて、ぜひともニナ達に味わってほしいと思っている。そして、まだ「買い物をすれば良い」という発想が希薄なファイにとって、魚を捕まえる方法は1つ――泳ぐことしかなかった。
(私も泳げる、かな……?)
ニナはまだファイの欠陥――泳げないこと――を知らない。
ニナに美味しい魚を食べてもらうため。また、密かに自身の欠点を克服するために。ファイは今回の水遊びを全力で活用することにした。
「(……ゴクリ)」
恐る恐る、しゃがみこんで指を水に浸してみるファイ。すると、ひんやりとした水の触感が返って来る。反射的にブルリと身体を震わせるファイだが、ここで躊躇する彼女ではない。そのまま浸す指を2本、3本と増やしていき、手のひら、手首までと水に浸す範囲を広げていく。
「(ちゃぷ、ちゃぷ……)」
ファイが手を動かすたびに水面に広がる、美しい水の波紋。どうしてこんなにもきれいな丸が自然に出来上がるのか。金色の瞳を輝かせるファイ。
心の準備も兼ねてしばらく水とたわむれた彼女だが、今度こそ水に浸かってみることにする。
(ゆっくり、ゆっくり――っ!?)
腰を下ろした姿勢のまま、そろりそろりと長い足を延ばして足先を水に浸す。だが、体勢が悪かったのか、よろめいた瞬間にふくらはぎ辺りまで一気に水に浸かってしまった。
幸いにも水に落ちるようなことは無かったが、好奇心で燃えていたファイの肝が瞬く間に冷えてしまう。
(ため池、深い……)
ため池のすぐそば。冷静になったファイの目が、水深が3m以上ありそうなため池の底に向けられる。だが躊躇する、恐怖している自分自身を、ファイは認めるわけにはいかない。
(大丈夫。怖くない。……私に怖い、は、ない)
胸元でキュッとこぶしを握り、再び足の指先から踵、足首へと水に浸していく。そのまま、まずは足を水につけて、身体を慣らしながら水中へゆっくり入ろう。そう思ったファイがため池の縁に腰掛けようとした時だった。
「ファイ~~~!」
背後から突進してきた水色髪の少女が、ファイに飛びついてくる。もちろんファイも反射的に振り返って彼女――ムアを受け止める。だが、第3進化を経たムアの突進はニナ負けずとも劣らない。
加えてファイが水際に居たことも災いする。踏ん張ろうと足を後ろに踏み出したファイだが、そこに地面は無く、
「あっ」
ファイの悲鳴はそのまま、ムアと一緒に水中へと吸い込まれた。




