第175話 それは、そう
場所は執務室から書庫へと移る。
かつて、多くの人々が働いていた頃はこの広い書庫にも人気があったのだろう。しかし今、片側だけで10人以上が横並びで本を読むことができる長机を囲むのは7人だけだ。
ファイ、ニナ、ルゥ、リーゼ。“不死のエナリア”で働く4人と、新入りのフーカ。そこに“希求のエナリア”で働くマィニィとエリュが加わる。
ユアは前回同様ピュレを通じての参加だ。ムアは行方不明、ロゥナは「難しい話は分かんねぇ」と参加を拒否。サラは第16層から動くことができず、基本的に半覚醒状態で意思疎通もままならない。ミーシャは正式には従業員ではないため、上層の魔獣のお世話をしに行っていた。
こうして可能な限りの人員が集まっているのは他でもない、マィニィによる監査の結果を聞くためだ。
監査には主に財務監査と業務監査の2つがあるらしい。今回マィニィが行なったのは業務監査で、エナリアの運営が正常に行なわれるかどうか、時間をかけて見ていったらしい。その結果は――。
「ダメです」
非常に端的な言葉で、マィニィは監査の合否を告げる。
だが、ファイ達には何の驚きもない。むしろ皆一様に、「そりゃそうだ」と頷いている。そして、どうやらマィニィ自身も“不死のエナリア”の状況は知っていたのだろう。普段と変わらない様子で、このエナリアの問題点を挙げていく。
「まずは言うまでもなく人が足りていません。1人1人に業務が集中しています。その最たる例が、そちら……レッセナム家のお嬢さんですね」
ルゥのことを目で――とは言ってもマィニィの目は閉じられているため顔で――示すマィニィ。
「医療業務を1人で行なっている時点でもうおかしいのですが、彼女の場合はそこに階層主としての役目。さらには衣服を始めとする服飾業務まで行なっていると聞きます。明らかに、超過労働です」
「あはは~……。でも心配しないで、ニナちゃん! わたし、もっと働けるから!」
マィニィによる客観的な評価に屈することなく、ルゥはニナに対して握った拳を見せる。ファイも見習うべき、労働意欲だ。
次、というように手元の資料をめくるマィニィ。
「次はブイリームさんですね。営業、広報、エナリア主業務の補佐……。当主としてお家のこともある中、きちんと業務をこなしているのはさすがの一言です」
「恐縮です」
マィニィによる称賛に、白金の髪を揺らして頭を下げるリーゼ。表情こそ変わらないが、裳の中でわずかに揺れている青い尻尾が彼女の内心をよく表している。
「ですが、やはり通常では考えられない業務を抱えていることには違いありません。働き過ぎです」
そんなマィニィの言葉には、沈黙だけを返すリーゼだった。
「そして、ニナさん。あなたもです。あなたが眠りを必要とすることはワタクシも存じております。そのうえでお尋ねしますが、最近眠ったのはいつですか?」
「……す、少し前に、少々」
あらぬ方向を向きながら、それはもう気まずそうに言っているニナ。生態がほぼガルン人に近いために忘れそうになるが、ウルン人の性質も併せ持つニナもまた眠りを必要とする。ファイがこのエナリアに来てすぐにニナが眠気で倒れたのも印象深い。
「主であるあなたが気を抜かないせいで、従業員たちも気を抜けない――」
「違うよ!」「違います」「違う、よ?」
「――わけではないようですね。ですが、過労が常態化してしまっているせいで従業員も自分たちがおかしいと気付けないのです」
途中、ルゥ、リーゼ、ファイによる否定の言葉があったために発言を訂正したマィニィ。それでもエナリア主であるニナの働き過ぎが他の従業員に影響してしまっていると考えているようだ。
「1人の従業員が複数業務を兼任することで“奇跡的に”、このエナリアは成り立っているにすぎません。ですがやはりというべきでしょう。少しずつ、ボロが出てきている。そうですね?」
マィニィが目を向けたのはもちろん、このエナリアの運営を預かっているニナだ。ボロというのは、たとえば上層の宝箱の補充業務が滞っていたり、壊れた設備などを補修できていなかったりすることだろう。
「差し当たり魔王様に人員を派遣してもらって事業改善を、と、ワタクシとしては提案いたしますが」
「それはダメですわ」
ニナがマィニィの提案をすぐに拒否する。少し前にファイと話していたように、従業員同士ですれ違いが発生してしまう恐れが高いからだ。
「はい。それに魔王様からは可能な限り、ニナさんの意向を尊重せよという甘い甘いお達しも頂いています。とはいえ監査に来て、問題があるのにこのまま帰る、というわけにもいかないのです」
マィニィにもマィニィの立場があって、矜持がある。沈みゆく泥船を見て見ぬふりはできないと、彼女は言うのだ。
「というわけでエナリア主の先達として、ワタクシの方でいくつか是正案を提案しようと思います。しばらく時間がかかるのですが、その間はワタクシにこのエナリアの運営を任せていただきます」
微笑みを浮かべながら言ったマィニィに対して、手を挙げて発言の許可を求めたのはリーゼだ。
「つまりマィニィ様は、お嬢様のエナリアを乗っ取ると。そうおっしゃるのですか?」
やや目つきを鋭くしながら、マィニィに尋ねる。
「結果的にはそうなりますね。ですが、ワタクシのやり方を押し通すつもりはありません。あくまでもニナさんの方針に従う形で、各所に出ているボロを一度、もとの状態に戻そうと思います」
他にも、最も重要なエナリアの核の在り処についても、マィニィは教えなくて良いという。
つまり、あくまでもマィニィは沈みゆく泥船の穴を一時的に塞いで、時間稼ぎをしようとしてくれている。ファイの認識ではそんな感じだ。
ここで重要なのは、マィニィは新しい船を用意するわけでも、船の船長を務めるわけでも、ましてやエナリアという船を一から作り直すつもりもないということだろう。彼女が行なうのはあくまでも時間稼ぎなのだ。
しかも――。
「恐らくこうして手を貸してあげられるのも、今回限りでしょう。魔王様も苦肉の策として、ワタクシを派遣したのだと思っています。なのでニナさん。……それからレッセナムさん、ブイリームさんも」
ファイと出会って以来はじめて、マィニィが顔から微笑みを消す。ニナに続いてルゥ、リーゼのことも順に見たマィニィは、
「最後の機会、ぜひとも生かしてくださいね」
表情に微笑みを戻しながら、最後通牒を突きつけてきたのだった。
一度このエナリアの運営を預かって最善の状態に“戻し”つつ、今後に向けた改善案を作る。マィニィの提案に対して、誰もが口をつぐむ。ファイを含めた全員の目が一点――エナリア主であるニナに向けられる中、当のニナがゆっくりと顔を上げた。
「分かりましたわ、マィニィさん。ご提案、ありがたくお受けいたします」
感謝の言葉を添えるニナだが、表情にいつもの笑顔はない。エナリアの主として、表情の見えない顔のままマィニィの提案を受け入れている。恐らくだがニナ自身も、自分たちに残されている時間的な猶予が多くないことを察しているのだろう。
ニナ達が緊張感を持つこと自体は、ファイも賛成だ。
かねてからニナには危機感というものが足りていないような気がしていたファイ。数か月前、黒狼に戻る直前にも考えたことだが、ニナ達は沈みゆく泥船でお茶会をしているような状態だった。
ニナが笑顔で自由に生きられる場所。ニナが夢を追うことができる場所。ニナが両親との絆を感じられる場所。そして、他でもない、ファイの居場所。その全てを担っているのが、この“不死のエナリア”と呼ばれる奇妙なエナリアだ。
ニナにとって大切な場所――それはそのままファイにとって大切な場所――を守るためにも、ニナにはぜひとも危機感を持ってほしいファイだった。
ニナの同意と、ファイを含めた全員の沈黙をもって提案が受け入れられたことを確認したらしいマィニィ。
「それではワタクシのエナリアから一時的に人員をこちらに派遣し、整頓させていただきます」
微笑みを浮かべたままそう言葉にして、一時的にエナリアの最高指揮権が移ったことを宣言したのだった。
「えっと、それで、マィニィさん? わたくしたちは何をすればよろしいのでしょうか?」
早速、マィニィに対して自分たちは何をすれば良いのかを聞いているニナ。その問いかけに、マィニィがクスッと笑みをこぼす。
「ニナさん? ワタクシはつい先ほど、このエナリアの大きな問題点についてお話ししました。となると、ニナさんも、皆さんも。これからしなければならないことは、おのずとわかるというものではありませんか」
「大きな問題点……? 課題についてはのちほど伺う予定でしたわよね……。それ以外となると……って、はわぁっ!」
ニナが分かりやすく「分かった」という顔をする。
「ま、まさか……」
「ふふっ、その通りです。これから働き過ぎの皆さんにはのんびり、たっぷりと、休息をとってもらいます」
「「「「そんなっ!?」」」」
新経営者マィニィのあまりにも非道な仕打ちに、書庫に居る“不死のエナリア”の従業員全員が驚きと抗議が込められた悲鳴を上げる。
いや、正確には1人だけ。通話用のピュレで参加していたユアだけは――。
「わふっ!? お休みですか、お休みですね!? やりましたー! ようやくムアに会いに行けます! わっふ、わっふぅ♪」
嬉しそうな声で鳴いていた。
※誤字のご報告、ありがとうございます。ファイ達の物語に集中していただけるよう、なるべく誤字脱字の無いように心がけてまいります。




