第172話 監査、大問題!
いつになくモヤモヤした感情に、自身の変調を察したファイ。冷静に自身の五感を確かめてみたとき、花の蜜のようなまったり芳醇な香りがファイの口腔を満たしている。しかも、こうして冷静になってよく見てみれば、ファイ達の周りが桃色の粉で満たされているではないか。
(コレ……! 樹人族の胞子!?)
ようやくファイは、自分がいつの間にか樹人族の能力の影響を受けていたことに気付く。金色の瞳を見開いたファイの様子に、樹人族がたおやかに微笑んだ。
「あら? もう元通り、なんですね。さすが白髪のウルン人さんと言ったところでしょうか」
微笑みと言葉に少し茶目っ気をにじませる樹人族に、キュッと眉根を寄せるファイ。
「……むぅ。攻撃しないって言ったのに」
「うふふ。攻撃はしていませんよ? ただ少しだけ、素直になれるようにしてあげただけです」
目つき鋭くむくれるファイの言葉も、樹人族にはどこ吹く風という様子で受け流されてしまう。
樹人族が言った「素直になる」とはどういう意味なのか。ファイが眉根を寄せていると、撮影を終えたらしいニナが再びファイ達の間に割って入ってきた。そしてファイに背を向けると、マィニィと正対する態勢を取った。
「さて……。わたくしのファイさんに、リリリチアの花を贈る……。それがもはや宣戦布告であること。お分かりですわね、マィニィさん!」
そう言って腕を組むニナ。後ろ姿であるためファイの方から表情は伺えない。しかし、なんだかんだ言っても、ガルンの文化に準拠して育ってきたニナだ。彼女もまた戦うことが好きだということは、ファイも理解している。きっと今も、キリリとした顔で交戦的に笑っているに違いなかった。
そうして戦る気を覗かせているだろうニナに、それでも樹人族――マィニィはたおやかな態度を崩すことは無い。
「まぁ。魔王様から聞いていたように、随分その子にご執心なんですね、ニナ?」
目を閉じたままクスクスと、上品に笑っている。
「ふふんっ、当、然、ですわっ! ファイさんはわたくしだけのファイさん、なのですっ!」
「あらあら、そうなんですね」
適当に相槌を打っているように聞こえなくもないマィニィに、ニナはどんな顔をしているのだろうか。ファイがひょいと後ろから覗き込んでみると、ニナは呆れたような半眼をマィニィに向けていた。
「……マィニィさん? きちんとわたくしの言葉、届いておりますでしょうか?」
「はい、聞こえていますよ。ニナさんはファイさんのことが大好きなのだ、と。また、無謀にも、ワタクシと戦おうとしていることも」
ニナの挑発にマィニィは気付いているらしい。そのうえでなお、マィニィからは戦うような雰囲気は漂ってこない。
「むっ! 無謀ではありませんわ! わたくしだって日々、成長しているのですっ!」
「あらあら、ふふっ。そうなのですね、すごいですね」
暖簾に腕押しという様子の樹人族・マィニィに、ニナも「もう~っ!」と自身の拍を乱されている様子だ。
とにかく、マィニィ自身も言っていたように、彼女に戦う意思はないらしい。ニナの背後でホッと息を吐いたファイはようやく、核心部分に触れることにした。
「ニナ、ニナ。この人は?」
「あっ、ファイさん! ご紹介が遅れてしまいましたわね。この方はマィニィさん。わたくしの数少ない、エナリア主の友人ですわ!」
「マィニィ・アルザナムです。どうぞ、よしなに」
頭ではなく小さく膝を折って挨拶をしてきたマィニィに、ファイも自身の名前と出自を明かして自己紹介をしておく。
「それで、えっと。マィニィは何をしに来た? 一緒に働く?」
「そうですわ! いらっしゃるなら前もってご連絡いただければおもてなしの準備もできましたのに……」
人をもてなすのが大好きなニナだ。友人が来るのなら歓迎を、と、考えていたのだろう。
分かりやすくしょんぼりするニナに、しかし、マィニィは微笑んだまま首を振る。
「事前にお伝えするわけにはいきませんでした。なぜならワタクシ、魔王様の勅命を受けましてこのエナリアの抜き打ち監査に来たのですから」
マィニィがそう口にした瞬間、「え゛」と潰れた蛙のような声を漏らしてニナが固まる。一方で、状況が飲み込めないのはファイだ。
「かんさ……? なに、それ?」
言いながらニナの方を見て見るが、滝のような汗を流したまま固まってしまっている。とても説明できるような状態ではなさそうだ。それなら、と、マィニィへと視線を移すと、彼女はこくんと頷いて概要を説明してくれた。
マィニィはこの“不死のエナリア”の状態を確認しに来たのだという。財政状況はもちろん、運営の方針やエナリア内部の状況、従業員たちの状態などなど。魔王ゲイルベルの指示のもと、100を超える確認事項の点検にやって来たのだという。
そして、自分たちも“希求のエナリア”という巨大エナリアを長年存続させている彼女たちだ。状況を確認したのち問題があれば、必要に応じてエナリア運営の先輩としての知見を持って助言を行なうのだという。
この“問題があれば助言”というあたりで、恐らくニナは固まってしまっているのだろう。
なにせ新入りのファイですら、このエナリアには数えきれない問題があることを知っているのだ。人手不足にお金不足。密猟者たちへの対応の遅れ。上層の宝箱の補充業務の滞り。再設置に手間のかかる罠の放置などなど。
マィニィたちがどこの何を確認するのかは不明だが、まず間違いなく山積している問題が明るみになるに違いない。
「……ねぇ、ニナ。ひょっとして監査、は、良くない?」
瞬きと共に主人の顔色を窺ってみれば、ニナは真っ青な顔で笑っていた。
「ふっ……ふふふっ! そうですわファイさん、よくお気づきですわね! その通り……大、問、題ですわっ!」
大問題なはずなのになぜ得意げに言うのか。相変わらずこの部分だけは未だに理解できないファイだが、これもニナの魅力であることには変わりない。苦難を前に胸を張る主人を頼もしく思いつつ、ファイは話を続ける。
「どう問題?」
「そうですわね……。色々とありますが、監査が通らなければわたくしがエナリア主の任を解かれる可能性がありますわね」
他にもニナが認めていない従業員が大量にやってくる可能性もあるという。一見すると良いことのようにも思えるが、それはニナの思想を理解せず・共感せずに働く人々が増えるということらしい。
「あくまでも可能性の話ですが、勘違いをした血気盛んなガルン人さんがファイさんやフーカさんを『えいっ』とすることもあるかもしれませんわ」
ユアとの戦いやニナ対アミス・フーカの戦いを経験しているファイは、“すれ違い”の恐ろしさを痛いほど知っているつもりだ。
見ず知らずの従業員が増えるということは、そんなすれ違いの種を大量に抱えるということにもなる。自分は良いが、フーカなど並みのガルン人に「えいっ」されるだけで簡単に大怪我を負ってしまうことだろう。
事ここに至ってようやく、ファイは理解の声を上げる。
「……監査、大問題!」
「はいっ! 大大大大、大問題、ですわっ!」
ファイが思っていた以上に、監査は大事になりかねないものらしかった。
(って、そういえばフーカは?)
先ほどから一切、声が聞こえてこない最弱の同僚。裾が引っ張られている感触があることはずっと確認していたため、ファイは自身の背中にかばっていたフーカへと目を向ける。と、そこには――。
「アミス様ぁ、そこは、ダメですよぉ~!」
目を♡の形にしながら相好を崩しているフーカの姿がある。気弱で頼りなさそうに見えて、実はとても優秀な彼女。ファイにとっては頼れる存在なのだが、今のフニャフニャに蕩けたフーカの顔には威厳も何もあったものではない。
虚空を見つめて「アミス様ぁ」と、うわごとをこぼす姿は、どう見ても普通ではなかった。
彼女がこうなっている原因は、先ほどマィニィが放出した謎の胞子だろうことはファイでも予想できる。
(素直になる胞子……)
先ほどマィニィはそんなことを言っていた。言葉通りに受け取るのであれば、自分の本心が外に――顔や言葉に出やすくなるということだろう。
だとすると、花飾りを取ろうとしたのに気が進まなかった自分の行動の裏にはどんな本心があったのか。考えてみるが、ファイの中で答えが見つかることは無い。
(――というより私は道具。本心は、ない。当然)
結局いつものように思考を切り上げて、弱い自分を覆い隠そうと本心から目をそらしてしまうファイ。そんな彼女を責めるように、
「ぁ……」
ファイの視界が揺れた。続いて身体が嘘みたいに重くなり、激しい頭痛に襲われる。直後に訪れた腹痛と下腹部の違和感によって、ファイは全てを察した。
「ファイさん? お顔の色がよろしくありませんわ?」
コチラを心配そうに見てくるニナ。誤魔化そうか、誤魔化すまいか。ファイが悩んだのは一瞬だ。
「……ごめん、ニナ。私、ダメになった」
嘘をつけない性格というのもあるが、役に立てない時に「役に立てる」と言ってニナに迷惑をかける方が、ファイとしては辛かった。
「ダメになる……? ……はっ!」
一瞬、ファイの言葉が分からずに両眉で作る山を険しくしたニナだが、すぐに茶色い瞳を丸くする。
「――すみません、マィニィさん。詳しいお話はお部屋の方で伺いますわ。なので少しだけ、お時間をくださいませ」
「あら。不利な資料を隠す……わけではなさそうですね」
ニナの表情と突然のファイの変化に、何かがあったのだろうことを察してくれたらしい。マィニィは快く、ニナの提案を受け入れている。
「それではワタクシはエリュさんから、事情をお聞きしておくことにします。なぜ『用事がある』と言って現地で合流する予定だったこの子が、今ここに居たのか。この穴の理由など、ですね」
そう言ったマィニィが閉じられた目線で示して見せたのは足元――先ほど、ファイとエリュの“挨拶”の際に生まれた穴だ。
「お気遣い、感謝いたしますわ。エリュさんがこちらにいらしていた理由については、わたくしの方からも説明させていただきますわね。それではファイさん、それからフーカさんも。ついて来てくださいませ」
途中でウルン語に切り替えたニナが、執務室の方へ歩き始める。
光輪が来た時に続いて、大事な時に使用不可期間に入ってしまった。申し訳なさと不甲斐なさでグッと奥歯を噛みしめるファイは、
「フーカ。行こう」
「ふぇ~? ファイさんも混ざりたいんですかぁ~? いいですよぉ、ファイさんのこともフーカがお世話してあげますぅ!」
未だに夢うつつの状態のフーカの手を引いて、ニナの小さな背中を追った。




