第132話 毛深蟹、頂きます
「おや、ファイさん?」
風呂上りのファイが着替えのために自室に戻ろうとしていると、ちょうど正面からこちらに向かってくるニナを見つけた。
「ニナ。お帰り」
「はい! ただいま戻りましたわ……と……?」
そこでニナの視線は、ファイの胸元に向けられる。
「あら……。そちらはムアさん、ですわね?」
「おー、正解。ニナ、すごい」
ファイの抑揚のない賞賛に「確率の話ですわ」と笑うニナ。単純に、ユアよりもムアの方が“外”に居る可能性が高いと考えただけだそうだ。
主にエナリアの表で活動しているムアよりも、ユアが廊下にいる可能性が低いとニナが考えている当たり。どれほどユアが自分の部屋から出てくることが稀なのか伺えた。
「それに恐らくユアさんは、抱っこをさせてくださいませんわ」
「確かにー。ユア、ムアよりも身体、敏感だからー……」
ニナの言葉を補強したのは、ファイに抱かれるムアだ。丁寧なファイの“洗濯”によって、今の彼女はフワフワのモフモフ。洗髪剤の良い匂いもする。さらには人間の姿のムアの方も、きちんとファイは洗ってあげた。おかげでかなりお風呂に時間を費やしたが、
「(フワフワ、ふわふわ)」
ファイも納得する仕上がりとなっていた。
ただ、ニナはそこでようやくムアの様子がおかしいことに気付いたらしい。
「……? ムアさん、どこか体調がよろしくないのでしょうか? いつもよりもお元気がないような……」
「あ、えっと……ね。実は……」
ニナの疑問に、ファイが事情を説明しようとした、その時だった。
「わふ?」
耳をピンと立てたムアが、ファイの腕の中で上体を起こす。この反応から察するに、何かを感じ取ったらしい。どうしたのかとファイがムアに尋ねるよりも早く、調理場の方から良い匂いが漂ってきた。
「この匂い……。毛深蟹だ! リーゼ先輩が料理してるのかも!」
徐々にルゥの麻痺毒も抜けてきたのだろうか。ぴょんとファイの腕を飛び降り、調理場の方へと歩き出すムア。
「リーゼさんがお料理を……。ひとまず、わたくし達も参りましょう、ファイさん。食事をしながら、お話をお聞かせくださいませ」
ニナの言葉に頷いたファイは、先を行く2人の背中を追うのだった。
それから少し。ファイはニナ、リーゼ、ムアと共に食事と相成っていた。
献立は『毛深蟹の寄せ鍋』だ。ファイ達と別れる際に所用を済ませると言っていたリーゼだったが、どうやら料理を作っていたらしい。食べても良いかと尋ねたファイ達を、「もちろん」と言って迎えてくれたのだった。
毛深蟹の6本の足と4本の鋏を、4人で分ける。身体の大きさだけで50㎝もあった毛深蟹だ。足は伸ばせば1m近くになる。その足を食べやすいように5等分したものが、それぞれのお椀の中に取り分けられている。
(太い……)
ファイが見つめる先。摘まみ上げた毛深蟹の足は、ファイが指で輪っかを作ってギリギリ届くかどうかの太さをしている。断面からは繊維質の白い身と、厚さ1㎝近い殻が覗いていた。
ほくほくと湯気をあげる毛深蟹の足。魚や海藻を使ったお出汁と、野菜やキノコのうまみが溶け込んだ出汁をたっぷりと吸っているだろう毛深蟹を見ながら、ファイは疑問を口にした。
「リーゼ。毛深蟹の身体は黒じゃなかった?」
ファイが倒した毛深蟹は、毛に隠れた甲殻は黒っぽかった気がする。だが、いま目の前で美味しそうな匂いを放っている毛深蟹の足は赤色。とても同じ毛深蟹のようには思えないのだ。
興味深く毛深蟹の足を眺めるファイに、ニナのために殻をむいているリーゼが答える。
「ファイ様がそうおっしゃると思いまして、こちらに茹でる前の足もご用意しております」
言って、別皿に取っていたらしい毛深蟹の足をファイに見せるリーゼ。それは確かに、ファイの知る黒い毛深蟹の足だ。リーゼが用意したのは先端の方らしく、ファイが持っている物よりも細い。
「よく見ていてくださいね」
そう言うと、リーゼは煮えたぎる鍋の中に毛深蟹の足を浸す。すると、驚くことに甲羅の色が黒から赤に変化したのだ。
「わっ、色が変わった……?」
「はい。毛深蟹を始め、多くの甲殻類は火を通すと殻の色が鮮やかな赤色に変わるのです。あとはこうして、しゃぶ、しゃぶ……。こうすると……」
リーゼが沸騰する鍋の中で殻からはみ出た毛深蟹の身を躍らせる。すると、繊維質の身がふっくらと。花が咲くようにして膨らんだ。こうして晴れて、ファイの手の中にある“赤い毛深蟹の足”と同じものが出来上がる。
「毛深蟹の濃厚な味を楽しんでいただくために、お出汁で頂いてもよろしいです。が、お好みでこちらのお酢につけても美味しいですよ?」
「分かった。えっと、じゃあ……頂きます」
手を合わせて、一思いに極太の毛深蟹の足を頂くことにする。
まずは素材本来の味を楽しむために、なにも付けない。食べ方は、ファイの隣で黙々と食べている裸前掛け姿のムアが先生だ。彼女が珍妙な格好になっているのは、裸のままでは寒いだろうと、ファイが調理場に置いている自分の前掛けをかけてあげたからだった。
「わふ♪ ずぞぞぞ……っ」
身体に合わせて小さい口で懸命に毛深蟹の太い足を咥えるムア。そのまま口をすぼめて、殻から身を吸い出しているように見える。
(殻を咥えて……思いっきり吸い出す!)
自身も足を咥えたファイは、中に詰まっている身を吸い出す。すると、きゅぽんと音がしてプリプリの身がファイの口に飛び込んで来た。
「……!? はふ、はふ……っ」
噛むたびにプリッと弾けて解ける身。同時に身の間に染みていた出汁が染み出してきて、ファイの口の中を満たす。魚と海藻と毛深蟹。これまで海鮮料理はほとんど口にしてこなかったファイにとって、まさに未知の旨味の行列だ。
また、出汁ほのかな塩味が毛深蟹の甘い身を引きたてているようにも感じられるのは気のせいだろうか。
喉を鳴らして身を飲み込めば、鼻に残るのはお出汁の香り。後を追うように、胃の中に落ちていった毛深蟹が甲殻類特有の香りを運んでくる。
唇を舐めて瞳をきらりと輝かせるファイ。と、まるで図ったようにリーゼが次なる部位をファイのお椀に入れてくれる。鍋の中で異様な存在感を放っていた30㎝もある巨大な鋏だ。
「この部位は先端が曲がったこちらの特性の道具を使って、身を取り出して食べてくださいませ」
「こうですわ、ファイさん! ほじ、ほじ……」
ニナが見せてくれるお手本を、見よう見まねするファイ。大きな毛深蟹の手から身をこそぎ取って、頂く。すると、足の身より細やかで繊細な舌触りの身がファイの口の中で踊る。気のせいか、味も濃厚な気がする。
(けど、ちょっと濃すぎる、かも……?)
ファイには少し磯臭く感じられる手の部分の身。ならば、と、ファイはリーゼおすすめの甘めのお酢につけて食べてみると――。
(うん、良い感じ。お酢に酸っぱい果物が使われてる……? から、蟹の“臭さ”が気にならない)
鋏から身をほじってはお酢につけて、ぱくり。足の部分をお椀にいれてもらえた時は、一生懸命に蟹の身を吸い出して、ごくり。時折、葉野菜やキノコも味わって、ぺろり。
お鍋が空っぽになる頃には、ファイの心も身体もぽかぽかだ。
(ふぅ、お腹、いっぱい……)
ファイが“幸せ”を噛みしめていると、
「ちっちっち! まだ、ですわよ、ファイさん! ……リーゼさん、アレをお願いしますわっ!」
不敵に笑ったニナの指示に腰を折ったリーゼが、一度調理場へと消えていく。次に現れたリーゼの手には2つの白い食材があった。
「お米、と、卵?」
ミーシャとルゥから学んだ食材の名前を口にするファイ。彼女の言った通り、リーゼが持ってきたのは炊き立ての白いご飯と4つの卵だ。ファイの隣でよだれを垂らして尻尾を振っているムアの、握りこぶしくらいの大きさだった。
『卵料理は覚えておいた方がいいわよ! 献立が一気に増えるから!』
と鼻息荒く語っていたミーシャの姿を思い出しているうちに、手際よく卵をお椀に割り入れるリーゼ。その隣では、ニナがお米をお鍋の中に入れている。
「ニナ、リーゼ。何をしてる、の?」
「ふふふ……! ファイさん。お鍋には雑炊がつきものなのですわ!」
「ぞうすい? おかゆ、とは違う?」
先日、風邪を引いた時にミーシャにおかゆを作ってもらったファイ。その時に見た「おかゆ」と、目の前で今もなお黄金色の出汁を吸っていっている雑炊の見た目はよく似ている。
一体何がどう違うのか。ファイが鍋の中身を見つめていると、不意に。
「失礼いたします」
リーゼが、溶き卵をお鍋の中へ円を描くように流し込んでいく。同時に行なわれるのは、リーゼによる雑炊の説明だ。
「ファイ様。ここには様々な食材の旨味が凝縮された出汁が残っているのです。そのお出汁を捨ててしまうのは勿体ないと思いませんか?」
「えっと……そう、かも?」
「なのでこうして。お米にお出汁を吸っていただくんです。と申しております間にも、ほら」
くつくつと煮える鍋の中で、ご飯と固まった溶き卵たちが踊っている。だが、それだけではない。煮ている間にほぐれてしまった毛深蟹の細かな身や、小さな野菜の破片まで。その全てが一緒くたになって、1つの鍋の中で美味しそうな湯気をあげている。
あとは頃合いを見てお玉でよそい分け、好みで薬味と海苔をまぶせば『毛深蟹の黄金だし雑炊』の完成だ。
(これが、雑炊……?)
匙ですくって「ふー、ふー……」と冷まし、ぱくり。
「……っ!?」
鍋に入っていたあらゆる食材たちが、ファイの口の中を旨味という武器で攻撃してくる。しかも、お米が出汁を吸って飲み物のようになっている。触感が無いぶん、より味と香りに集中できるのだから不思議だ。
食材たちが放つ最後の命の輝きが、ファイの瞳にきらめきを灯す。
「(ひょい、ぱく。ひょい、ぱく……)」
美味しいということも忘れ、無言のまま食材の命――味――と向き合うファイ。そんな彼女を、ニナとリーゼが口元に優しい笑みをたたえて見守っている。
ムアに至っては匙すらも使わず、お椀に顔を突っ込んで雑炊を堪能し、
「わぉぉぉ~~~ん♪」
ご機嫌な遠吠えを響かせるのだった。
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