第130話 汚いは、良くない
ロゥナたち職人への挨拶。そして密猟者の対処を終えて、無事にエナリアの裏側へと引き返したファイ。
『私はこの魔獣たちを調理して参ります』
そう言って一足先に調理場へと向かったリーゼ。彼女と別れたファイは今、燃えていた。ただ1つの目的地を目指して、廊下を踏みしめる。そんな彼女の腕には、
「ファ~イ~! は~な~し~て~!」
そう言って手足をばたつかせる犬の姿のムアが居た。
「ごめん、ね、ムア。だけど、やっぱり汚いは、良くない」
そうムアに言い聞かせるファイが目指しているのは、お風呂場だ。恐らく数か月近く水浴びだけで済ましているらしいムア。ところどころ毛は絡み、白い毛も茶色く汚れている部分も目立つ。
(リーゼ、言ってた。働いてる人が汚いと、ニナの品位が疑われるって)
あまりお風呂が好きではないと言っていたムアには申し訳なさもあるが、ニナのために。ついでに本来のムアの毛並みを堪能するために。ファイはムアをキレイにする算段を立てていた。
と、ムアを小脇に抱えて廊下を行くファイは、前方から歩いてくる黒髪の人物を見つける。“彼女”はファイを見つけて一瞬笑顔を見せてくれる。しかし、ファイに抱えられている犬――ムア――を見つけて「げっ」と、それはもう嫌そうな声を漏らした。
対するムアは、「きゃはっ♪」と嬉しそうな声を漏らし、立ち止まった“彼女”に向けて意気揚々と挨拶をする。
「こんにちは、ルゥせ・ん・ぱ・い♪」
「あ、あはは~……。どうもどうも、ファイちゃんとムアちゃん。お揃いで。……それじゃ!」
引きつった笑顔でその場を後にしようとするルゥを、ファイは慌てて引き留める。
「待って、ルゥ。良かった。お風呂に入る前にムアを治療してあげて?」
小脇に抱えていたムアをルゥに示して見せながら、治療をお願いするファイ。
「イヤだけど?」
「……え、なんで?」
優しいルゥなら二つ返事で了承してくれると思っていただけに、ファイとしては驚きだ。つい反射的に聞き返してしまったファイに、仕方ないとため息を吐くルゥが足を止めて腕を組む。
「まぁ、それは冗談としても。その子には感謝が足りないもん、感謝が。しかも治してもす~ぐ新しい怪我してくるし。こんだけ治療し甲斐が無い子もいないよ」
ファイに抱かれるムアに指を突きつけながら、じっとりとした目で理由を明かす。他方ムアも、左右で色の違う目でファイを見上げて抗議する。
「そうだよ、ファイ。これくらい、ムアなら全然へーき!」
「……? でも治療できるルゥが居て、怪我してるムアが居る。みんな元気が良い。違う?」
何か間違っているだろうかと首をかしげるファイに「おぉふ……」と後退ったのはルゥだ。
「ま、眩しい……。相変わらずファイちゃんが眩しい! ……まぁでも、それは言う通りなんだよなぁ~」
そう言ったルゥの侍女服の裳が揺れたかと思うと、裾から黒くて艶のある尻尾が出てくる。そして、膨らんだ尻尾の先端に光る尖った針を、ムアに突き刺した。
「良かったね~、ムアちゃん。ファイちゃんが居なかったら、治療してもらえなかったよ?」
「あっはっ♪ 別にムア、頼んでません~。って言うかムアより弱いルゥちゃん先輩が格上のムアを治療するなんて、当然なんですけど♪ 尽くせ♪ 察しろ♪」
「ファイちゃん~、その子押さえてて~? ぶん殴るから。って言うか治療薬じゃなくて毒流し込んだろか、この犬っころ」
「うわ~、ファイ頼みとか~。ルゥちゃん先輩、落ちましたね? ダッサ♪」
みるみるうちに増えていくルゥの青筋に、ファイも気が気ではない。
「ムア。その言い方、良くない……かも?」
「えー、だってムア、当然のこと言ってるだけだしー。……ですよね? ザコザコのルゥ先輩?」
「は? わたしよりムアちゃんが強い? そんなわけないけど? むしろ貢献度で言えば、わたしの方が圧倒的に上。ムアちゃんがこびへつらえし。……はい、治療終わり!」
治療が終わったらしく、ムアの身体から尻尾を引き抜いたルゥ。裳の中に尻尾を戻す彼女の顔には、一転、なぜか笑顔が浮かんでいる。
「こうけんど……? ムア、難しー話よくわかんなーい。けど、ムアより弱いことを認めたことは分かりました! やーい、ざーこざーこ♪」
「はいはい、すごいすごい。ってことでファイちゃん、そのくっさい犬ちゃん、キレイにしてあげてね。……あっ」
用は済んだと身を翻そうとしたルゥだが、思い出したようにファイに向き直る。そして片目をつむると、ファイが三度のご飯よりも好きな言葉を口にした。
「これはわたしからの命令です♪」
「命令……!」
ムアをキレイにする大義名分を得られた感激に、金色の瞳を輝かせるファイ。実はエナリアに来た当初以来、ニナによる優先順位の上書きは行なわれていない。そのため、ファイの中でニナに次ぐ命令権を持つのはリーゼではなくルゥだったりする。
というよりも現状、ファイが命令を聞くようニナに言われている人物は、ルゥしか居なかったりする。たとえリーゼに何かを言われていたとしても、優秀な道具であるはずのファイはルゥからの命令を優先しなければならなかった。
「ムアをキレイにする……。分かった!」
ムアを抱く腕にはこれまで以上に力がこもり、決して逃がさない姿勢を見せる。そんなファイの様子に満足したのだろう。「それじゃ」と上機嫌でどこかに行ってしまったルゥを見送って、ファイはお風呂場を目指す歩みを再開する。
(そう言えばルゥ。なんで上機嫌だった?)
別れ際、ムアの挑発を受け流す余裕を見せていたルゥ。彼女の分かりやすい変化に、ファイは独り首をかしげる。と、不意にファイの腕の中に収まっていたムアが急に“重くなった”。
変化に驚いてファイがムアを見て見ると、気のせいかぐったりしているように見える。思えばルゥとの別れ際からムアが静かだ。お風呂に行きたくないと暴れることもなくなっている。
「ムア? どうした、の?」
さすがに様子がおかしいことを察したファイは、ムアに聞いてみる。と、力なく顔をあげたムアが、「くぅん」と鳴いた。
「ファイー……。あの陰湿な先輩にやられたみたい……」
「ルゥに? ……もしかして、毒?」
「そうー……」
どうやらルゥは有言実行。ムアの体内に麻痺毒を流し込んだらしい。おかげでムアの身体能力は一時的に著しく低下し、ファイの力には到底かなわないような状態にされてしまったようだ。
だが、ただの意趣返しならムアが苦しむくらいの毒を盛ったことだろう。自分の力をムアに知らしめる――分からせる――という意味でも、死なないギリギリの毒を注入した方が“効率的”だ。
しかし実際は、せいぜい身体から力が抜けてしまう程度。呼吸も苦しそうではなく、ろれつも回っている。つまりルゥはきちんと手加減をして、意図をもって毒を注入したのだ。その理由はきっと、
(私がムアをキレイにしやすいように……?)
恐らくルゥもムアの風呂嫌いは知っているのだろう。だが福利厚生を担う彼女としても、不潔な状態のムアを放置するわけにはいかなかったのではないだろうか。だからこそ、わざわざ毒を盛って、ファイに命令をしてまで、ムアをキレイにさせようとしている。
ムアが本気で嫌がれば、恐らくファイ1人ではお風呂に入れることはできないだろう。ゆえに弱体化させ、抵抗できない状態にした。ムアには悪いが、ムアの健康やニナの体面を守るために。
そう考えると、ファイの知るルゥという人物像に当てはまる、気もする。が、たまに妙に幼稚な一面も見せるルゥのことだ。本当に、ただの意趣返しの可能性もあった。
「ファイー……。ムア、お風呂、やーだなー?」
くぅんと可愛らしく鳴いて、ファイに翻意を促してくる。左が桃色、右が水色のつぶらな瞳には、涙さえも浮かんでいる。
可愛らしい生き物の、可愛らしい“おねだり”。ファイとしてもぜひ、ムアのお願いは聞いてあげたい。実際、もしもルゥと出会う前までならば、さすがのファイもムアの洗濯を諦めただろう。ニナのためとはいえ、ムアの想いをないがしろにするには理由が弱かったからだ。
しかし、残念ながら状況は変わってしまった。
いまファイには、死なない程度に命を賭してでもムアをキレイにしなければならない。ルゥが口にした「命令」という言葉は、ファイにとってそれほどまでに重い言葉なのだ。
「ごめんね、ムア。でも、ルゥの命令だから」
「あぅー……」
可愛く言っても無駄だと、断腸の思いでムアに告げる。同じ頃、ちょうど風呂場に到着したファイ達。ファイが服を脱ぐ間にムアが「いまだっ!」と逃げ出そうとするが、風呂場の入り口はファイが魔法で創り出した分厚い氷で塞がれてしまっていた。
一生懸命にカリカリと氷を爪でかくムアだが、彼女の背後にはもう既に、全裸のファイが居る。
「ムア。覚悟して、ね?」
「きゃ、きゃいん……」
壁際で震えるムアをむんずと抱きかかえたファイはそのまま、湯煙の中へと歩を進めた。




